15 / 32
15
しおりを挟む
二人が寺に着いた頃には既に日も暮れ、辺りは深い闇に覆われていた。尼は童子を本堂の床に寝せると、その手前の庭に小枝を集めて火を熾し始めた。しばらくするとメラメラと朱色の火が立ち上がり、柱だけの本堂を明るく照らし出した。尼は本堂の軒下に潜ると、唯一手元に置いておいた打ち鍬を引っ張り出した。そして燃えさかる焚き木のそばに座ると、突然自らの左足を鍬で切り落とした。
「……?」
横たわっていた童子が、一瞬聞こえたその悲鳴に顔を少しだけ動かす。そのうち何か肉の焼けるような匂いが漂い始めた。
「どれ……。召され……よ」
尼は力ない声で童子の口元に焼き付いた自らの細い左足を近づけた。童子はその小さな口を懸命に開くと、一口、また一口萎びた肉を口に含んだ。
尼は脂汗を滴らせながらも優しい顔で童子の顔を見つめる。
「次もいくかぇ」
童子に向かってそう言うと、童子は食べるのを止めてその手で尼の手や腕を触り始めた。そしてその手が尼の顔にたどり着くと、その頬を何度も何度も愛おしそうに撫で回した。尼も童子の気持ちに答えようと、その手で優しく童子の手の甲を擦ると、童子は子どもらしい屈託のない笑顔を見せて、静かに息絶えた。
「うっ……うう。口惜しゃ……口惜し」
童子の垢にまみれた手を握りながらそう言うと、尼は涙に濡れる自身の左目の中に指を突っ込み、無理矢理に目玉を抜き出した。
「ぬおおおぉ……。これ、持ってぇ行きんしゃい。あの世でものが見えるようにぃぃ……」
そしてそのまま血だらけの眼球を童子の手に握らせた。
焚き木を覆っていた火はとうの昔に消え果てていた。墨色に染まった黒い夜の空には不気味なくらい赤く大きな満月が浮かんでいる。
尼僧は童子の傍らで静かに座していた。傷口からは容赦なく赤い体液が滴り落ちてゆく。もはや程なく来るであろう涅槃への迎えを黙って待つのみ。
深緋を纏いし巨大な月が紺色の雲海にその身を隠したその時、生臭くぬるい風があたりに漂い始めた。
「……ックク」
淀んだ低音の声が尼の腹に響く。
「……誰ぞ。……お困り……かえ」
最後の力を振り絞り、尼は声の主に話しかけた。
「ッハア―――ッ、ハッハッハア――ッ。程なく息絶ゆ尼がァ、未だかような言を云うかッ。今の己に何ができるッ」
尼はふら付きながら小さな声で答える。
「……お困りならぁ、何でも」
漆黒の夜空に漂う雲海が通り過ぎると、血色に塗られた満月が再び姿を現す。その月明かりが低音の主の姿を余すことなく露出した。人の形をしてはいるが、人でないことは瞭然だった。体長は優に十尺(約三m)を越え、全身が深い藍色の毛に覆われている。豪然とした体格、口には鋭い犬歯を何十本と携え、その上には目玉らしきものが三つ白く光っていた。尾のようなものを軽く振り回しながら主は尼に向かって問いかけた。
「身を呈して人間を救する僧が居るとの話を巷で耳にし、どれほどの者かと興に誘われ来てみたが……よもや我が身を与する程とは。……己がそこまで人間に与する由は何ぞ!」
血の気を失い、床に倒れ落ちた尼は朦朧とする中でも言葉を出した。
「捨児であった我れが先代のお坊にされたことを、我れも唯するのみ。たとえ其方のような物の怪であろうと、お困りなれば……」
「グァハハハ――ッ。そこまで抜かすとはッ! なればやがて訪るであろう己の常しえに寝ぬる悦びを我は所望しよう!」
物の怪の、猛禽類のくちばしの様な鋭く尖った鉤爪を携えた五本の指が枯れ枝の様な尼僧の身体を掴むと、もう片方の手がその上から枯れ枝を覆った。
「ゆゆしい持て成しなり! これは己への禄じゃ。これより先、己は永劫に亘り巡らう。……クッククク。己の心肝が飽き満つるまで、人間というものに仕えてみるがよい!」
そう唸ると、物の怪は両手を強く握り合わせた。尼僧の身体は断末魔を発する暇もなく小枝が砕けるような音とともに押しつぶされたが、物の怪はなおも強く両手を握り締め続ける。
しばらくすると、握り合わせた両手をゆっくりと開けた。手のひらには一粒の黒い種が置かれており、物の怪はその種を境内に生えている桜の木の根元に落とすと、種は自然に土の中に潜り込んでいった。
赤々しい月が再び雲海の波に呑まれると、その物の怪も静かに姿を消していった。
―――私は眠る。温かい土の中で、その日が来るまで静かに眠る。地脈を吸いながら……。
種が土中に身を沈めてから六年が過ぎた或る日の夜。空には月白色に輝く青い満月が夜の大地を照らしていた。
かつてあの尼僧が使えていた寺は今、何もかもが荒び、荒れ果てていた。微かに虫の鳴く声だけが聞こえてくるのみ。
その境内に座している一本の桜の木。その根元近くの土が何の前触れもなく突如盛り上がると、そこから人の手が這い出してきた。そしてもう片方の手も這い出ると、地面は大きく盛り上がりその中から女性が姿を現した。
生まれたままの姿の彼女。濡羽色した艶のある長い黒髪に卯の花のような白色の肌。長いまつ毛に端正な顔立ち。否も応もなく世の人々の目を奪うその姿。……尼僧は物の怪の異念により飽き満つるまで人に仕える身体に生まれ変わった。
彼女は地表に立つと、白魚の様な指で身体に付いた土をおもむろに取り払った。そしてしばらく辺りを見回していたが麓に目を移すと、プログラムが起動するかのようにそのまま静かに山を下りていった……。
―――菩提寺はソファから立ち上がるとカップを二つ用意した。インスタントのコーヒー粒をその中に直接降り注ぐと、机の上に置いてある電気ポットのお湯を上から流し込んだ。
「お茶も出さずに申し訳なかったですね。……どうぞ」
菩提寺はカップを陽生に差し出すと、ふと客人の顔を伺った。目を泳がせ、息をするのを忘れているかのようだった。合わせた両手を膝の上に置いたまま、口を開いて微動だにしない。
菩提寺は再びソファに腰を落とすと、陽生に話しかけた。
「その後、彼女がどんな活躍……というか行動をしたのかはこの書物には書かれていませんでした。ただ、彼女は女児を一人産み落としたと言っています」
陽生の肩が呼吸に合わせてゆっくりと上下に振れる。
「二賀斗さん。書物に書かれているからといってそれが全部事実とは限りませんよ。時の権力者によって事実が塗り替えられるなんてェのは世の常なんですからね。それに記録書自体、作り話ってことも多々ある。実際に我々がその場で事実を見ていないんですから真偽の程は何とも……ってとこですかねェ」
陽生は上目遣いで菩提寺をジッと見つめる。
「先生。……これって、嘘っぱちだと思いますか」
菩提寺は軽く首を傾けて冷静な声で答える。
「……さあて、どうですかねェ。……二賀斗さん、あなたはどう思います? 今までの私の話を聞いて」
陽生はうつむいたまま、何も答えなかった。
「二賀斗さん。二賀斗さんの話だと奥さんは一度亡くなって、その後生まれ変わったってェことでしたよね?」
「……え、ええ」
「それで、奥さんはそのチカラが無くなった、と」
「ええ」
「”山城禍異記”という書物がありましてね。山城の国、今の京都で起きた災害を記したものです。当時の京都は毎年と言ってもいいくらい頻繁に川が氾濫していたんですよ。その度に人の住処は流され、疫病が流行った。……そして或る年、川に再び氾濫の危機が迫った。大雨の降る中、人々は天を仰ぎ必死に祈った。何十人、何百人が天を仰いで祈り続けた。すると突然、一人の女が堤に立つ姿を人々は見る。白鳥のような輝く白い身体をもつうら若き女。そして次の瞬間、その女は波立つ川に自ら身を投じると、そのまま川の中に沈んでいった」
陽生は深い息をしながら上目遣いで菩提寺を見る。
「……すると、川の水が見る見るうちに減っていき、氾濫することなく収まっていった。……雨がやみ、人々は皆、歓喜の声を上げてあの白い女を奉った。そして堤のほとりに小さな石地蔵を建てたとのことです」
菩提寺は見下ろすように陽生を睨みつけた。
「……ところがね、別の書物に書いてあるんですよ。ちょうどその白い女が川に身を投じた年から数えて十年後のことが」
「……十年後?」
「とんでもなく不思議な力でもってすべてを破壊する鬼の様な女の話。何十人もの武士がその鬼子を退治しようとするが、すべて返り討ちに遭ってしまう。不気味なくらいに白い肌をもつ女児。……龍の児の話」
「……龍」
「記録されてある文献全体を読んでみて分かったことなんですがね、どうやらあの尼僧を起点に記録は点々としながらも白い女は生き続けているんですよ。そして何らかの形でもって人々の希望を叶えている。……その不思議なチカラで」
菩提寺は目を細めてニヤついた。
「但しね、どういう訳か時代を下るごとにその使命感に陰りが出てきてるんですよ。記録上では……」
「……陰り、っていうのは」
不安げな顔で尋ねる陽生を見ながら、菩提寺は髪をかき上げて話を続ける。
「そんな自分の宿命に嫌気が差した、とでも言うんでしょうかねェ。江戸時代の中期に一人、働き者の小町が突然、火の見櫓から飛び降り自殺してるんですよ。……で、その小町って言うのが透けるような白い肌を持っていて、とにかく世話焼きだったらしかった」
陽生は下を向くと、弱々しい手で自分の頭を抱え込んだ。
「……でも、再び現れたんですよ。小町の自殺から七年後に。……白い女児が」
頭を抱きかかえたままの客人の態度など気にせず菩提寺は話し続ける。
「この女児も相当酷かったらしい。ケンカッ早くて、その上剛腕で、最後は街を火の海にして忽然と消えていった。……龍のような咆哮と縦横無尽に駆け回る炎を操って」
菩提寺は話を終えると腕を組み、口を真一文字に結ぶ。
陽生は頭を抱えたままゆっくりと顔を上げて菩提寺を見た。
「し、白い女は人を救うんじゃあ……」
菩提寺は左手で右の肩を揉み解しながら、ため息交じりに言葉を出す。
「……事例が二件だけなんで何とも言えませんがぁ、記録上、どうもこの白い女が命を落とすと次に現れる白い女は凶暴なチカラを振るうっぽいんですよ。……まぁ、こっから先はあくまでも私の憶測になってしまうんですがね。二賀斗さんの手紙の内容と古い書物に書かれたこと、それらを合わせて想像するにィ、たぶん白い女には二つの種類があるんじゃないのかな、と。一人は人々の願いを実現するチカラを持つ女。彼女は自分の意志でチカラは出せない、あくまでも他人から受ける強烈な願望を受信することでそのチカラを発動させる。そしてもう一人は、……自分の意思で自由にチカラを発動できる。自由意思でチカラを操れる女は先天的な凶暴性を持ち合わせている。……人々を救うという自らの業に反し、死を選んだ白き女に対し輪廻が罰を与えるかのごとく龍の児を呼び出し人々を苦悩の世界に落とす。そして白き女はより重い救済の業を背負う」
陽生の手がずり落ちるように頭から離れる。勢いよくテーブルに当たると、その衝撃でカップの中のコーヒーが波打った。
「は、葉奈は……一度、死んでる。……でも、生まれ変わったアイツは俺に『もうチカラはない』って言ってたんだ……」
「でも、あなたにはお子さんがいる。お子さんはどうです。そんな兆候はなさそうですか? 龍のチカラは生まれ変わった奥さんにではなく、もしかしたら隔世してお子さんに引き継がれてるかも。……どうです?」
「……ハッ!」
思わず陽生は手で口を塞いだ。
〈アイツらが生まれたことまでは手紙に書いたが、アイツらのあのチカラについてまでは書かなかった!〉
「と、特に。変わったところは……な、ないです。小さい頃はわがままで、よくおもちゃ売り場で駄々こねてましたけど、我慢させてましたし。それに……兄妹の仲だってとってもいいし、二人ともおとなしいし……」
「お子さん、二人いるんですよね。長男さんと長女さん。……でも男児って言うのがどうも引っかかるなぁ。……白い女の物語からは、”女児を引き連れて”って言うくだりはいくつかあるんだけど、ただの一度も”男児を連れて”って言う言葉は無いんですよねぇ」
菩提寺は右手の親指を下唇に押し当てて言い始めた。
「余談ですが、歴史的にも巨大な権力やずば抜けた能力を持った兄弟って言うのは、間違いなく反発し合う。特に双子や歳の近い兄弟であればその可能性は非常に高い。……まぁ、そんな能力があればの話ですけどね」
「……た、例えば、どんなことが……起こるんですか」
陽生は恐る恐る菩提寺に尋ねた。
「……まぁ、大抵は殺し合うんですよ。持っているものが巨大なだけにね」
菩提寺はさらりと答えた。
陽生は荒い息をしながら菩提寺の顔を睨みつるように見つめた。
「は、葉奈は。……じ、自分の妻は、この白い女の末裔なんですかッ」
菩提寺は唇に押し当てた親指で軽く下唇を弾いた。
「……う――ん。二賀斗さんのお手紙の内容からすると、そう感じる方が自然ですよね。ただ、お子さんにそんな兆候がない。……どうでしょうかねェ。何とも言えませんが、私的には信じてみたい物語ですよ。話の筋が通ってるし、何よりその記録が存在している」
陽生は哀願するような表情で菩提寺に話しかけた。
「せ、先生。……この話のこと。どうか、先生の胸の中だけに……閉まっておいていただけないでしょうか」
菩提寺は組んだ腕を解き放ち、自らの膝の上に乗せると静かに笑みを浮かべた。
「……その辺のわきまえってものは当然持ち合わせてますよ、二賀斗さん。実際、あなたの手紙を読ませてもらい、何ヶ月もかけて私なりの調査をした中で、改めて自分の考えってやつに自信を持つことができました。すべてあなたのおかげです。……ご存知とは思いますが、私の研究課題は世間でいうところの”昔ばなし”ってやつです。竹取物語とか浦島太郎とか桃太郎なんかのね。あの話を読んでみて、こう思ったことってありませんか? あの話って本当に創作されたものなんだろうか。何らかの事実に基づいているんじゃないのか、って。二賀斗さん。あなたの手紙は挫けそうな私の心に勇気を与えてくれました。暗闇の中を彷徨う私に明かりを灯してくれました。私も絶対にトロイの木馬をこの手で見つけてみせますよ! だからこの話はこれでおしまいです。白い女のことについても二度と口にすることは無いでしょうし、あなたに会うことも無いでしょう。二賀斗さん、どうかお元気で」
菩提寺は立ち上がると、右手を差し出した。その手を見ると陽生も立ち上がり、差し出された菩提寺の手を強く握りしめた。
「先生。本当に……ありがとうございました」
老師に一礼をすると、陽生は研究室を後にした。
日が陰った帰り道。学園通りは森のような大学の木々の影で遥か先まで暗く覆われていた。陽生の身体を冷たい風が通り過ぎてゆく。一歩、また一歩、おぼつかない足取りで薄暗い通りを歩く。……眉間に深い皺を寄せて。
〈アイツらが、龍だと? 俺と……俺と葉奈の大切な結晶が! そ、そんなことが……〉
陽生は思いつめたような表情をすると、その場に立ち止まり、抱き抱えるように自分の肩を強く握りしめた。
「……?」
横たわっていた童子が、一瞬聞こえたその悲鳴に顔を少しだけ動かす。そのうち何か肉の焼けるような匂いが漂い始めた。
「どれ……。召され……よ」
尼は力ない声で童子の口元に焼き付いた自らの細い左足を近づけた。童子はその小さな口を懸命に開くと、一口、また一口萎びた肉を口に含んだ。
尼は脂汗を滴らせながらも優しい顔で童子の顔を見つめる。
「次もいくかぇ」
童子に向かってそう言うと、童子は食べるのを止めてその手で尼の手や腕を触り始めた。そしてその手が尼の顔にたどり着くと、その頬を何度も何度も愛おしそうに撫で回した。尼も童子の気持ちに答えようと、その手で優しく童子の手の甲を擦ると、童子は子どもらしい屈託のない笑顔を見せて、静かに息絶えた。
「うっ……うう。口惜しゃ……口惜し」
童子の垢にまみれた手を握りながらそう言うと、尼は涙に濡れる自身の左目の中に指を突っ込み、無理矢理に目玉を抜き出した。
「ぬおおおぉ……。これ、持ってぇ行きんしゃい。あの世でものが見えるようにぃぃ……」
そしてそのまま血だらけの眼球を童子の手に握らせた。
焚き木を覆っていた火はとうの昔に消え果てていた。墨色に染まった黒い夜の空には不気味なくらい赤く大きな満月が浮かんでいる。
尼僧は童子の傍らで静かに座していた。傷口からは容赦なく赤い体液が滴り落ちてゆく。もはや程なく来るであろう涅槃への迎えを黙って待つのみ。
深緋を纏いし巨大な月が紺色の雲海にその身を隠したその時、生臭くぬるい風があたりに漂い始めた。
「……ックク」
淀んだ低音の声が尼の腹に響く。
「……誰ぞ。……お困り……かえ」
最後の力を振り絞り、尼は声の主に話しかけた。
「ッハア―――ッ、ハッハッハア――ッ。程なく息絶ゆ尼がァ、未だかような言を云うかッ。今の己に何ができるッ」
尼はふら付きながら小さな声で答える。
「……お困りならぁ、何でも」
漆黒の夜空に漂う雲海が通り過ぎると、血色に塗られた満月が再び姿を現す。その月明かりが低音の主の姿を余すことなく露出した。人の形をしてはいるが、人でないことは瞭然だった。体長は優に十尺(約三m)を越え、全身が深い藍色の毛に覆われている。豪然とした体格、口には鋭い犬歯を何十本と携え、その上には目玉らしきものが三つ白く光っていた。尾のようなものを軽く振り回しながら主は尼に向かって問いかけた。
「身を呈して人間を救する僧が居るとの話を巷で耳にし、どれほどの者かと興に誘われ来てみたが……よもや我が身を与する程とは。……己がそこまで人間に与する由は何ぞ!」
血の気を失い、床に倒れ落ちた尼は朦朧とする中でも言葉を出した。
「捨児であった我れが先代のお坊にされたことを、我れも唯するのみ。たとえ其方のような物の怪であろうと、お困りなれば……」
「グァハハハ――ッ。そこまで抜かすとはッ! なればやがて訪るであろう己の常しえに寝ぬる悦びを我は所望しよう!」
物の怪の、猛禽類のくちばしの様な鋭く尖った鉤爪を携えた五本の指が枯れ枝の様な尼僧の身体を掴むと、もう片方の手がその上から枯れ枝を覆った。
「ゆゆしい持て成しなり! これは己への禄じゃ。これより先、己は永劫に亘り巡らう。……クッククク。己の心肝が飽き満つるまで、人間というものに仕えてみるがよい!」
そう唸ると、物の怪は両手を強く握り合わせた。尼僧の身体は断末魔を発する暇もなく小枝が砕けるような音とともに押しつぶされたが、物の怪はなおも強く両手を握り締め続ける。
しばらくすると、握り合わせた両手をゆっくりと開けた。手のひらには一粒の黒い種が置かれており、物の怪はその種を境内に生えている桜の木の根元に落とすと、種は自然に土の中に潜り込んでいった。
赤々しい月が再び雲海の波に呑まれると、その物の怪も静かに姿を消していった。
―――私は眠る。温かい土の中で、その日が来るまで静かに眠る。地脈を吸いながら……。
種が土中に身を沈めてから六年が過ぎた或る日の夜。空には月白色に輝く青い満月が夜の大地を照らしていた。
かつてあの尼僧が使えていた寺は今、何もかもが荒び、荒れ果てていた。微かに虫の鳴く声だけが聞こえてくるのみ。
その境内に座している一本の桜の木。その根元近くの土が何の前触れもなく突如盛り上がると、そこから人の手が這い出してきた。そしてもう片方の手も這い出ると、地面は大きく盛り上がりその中から女性が姿を現した。
生まれたままの姿の彼女。濡羽色した艶のある長い黒髪に卯の花のような白色の肌。長いまつ毛に端正な顔立ち。否も応もなく世の人々の目を奪うその姿。……尼僧は物の怪の異念により飽き満つるまで人に仕える身体に生まれ変わった。
彼女は地表に立つと、白魚の様な指で身体に付いた土をおもむろに取り払った。そしてしばらく辺りを見回していたが麓に目を移すと、プログラムが起動するかのようにそのまま静かに山を下りていった……。
―――菩提寺はソファから立ち上がるとカップを二つ用意した。インスタントのコーヒー粒をその中に直接降り注ぐと、机の上に置いてある電気ポットのお湯を上から流し込んだ。
「お茶も出さずに申し訳なかったですね。……どうぞ」
菩提寺はカップを陽生に差し出すと、ふと客人の顔を伺った。目を泳がせ、息をするのを忘れているかのようだった。合わせた両手を膝の上に置いたまま、口を開いて微動だにしない。
菩提寺は再びソファに腰を落とすと、陽生に話しかけた。
「その後、彼女がどんな活躍……というか行動をしたのかはこの書物には書かれていませんでした。ただ、彼女は女児を一人産み落としたと言っています」
陽生の肩が呼吸に合わせてゆっくりと上下に振れる。
「二賀斗さん。書物に書かれているからといってそれが全部事実とは限りませんよ。時の権力者によって事実が塗り替えられるなんてェのは世の常なんですからね。それに記録書自体、作り話ってことも多々ある。実際に我々がその場で事実を見ていないんですから真偽の程は何とも……ってとこですかねェ」
陽生は上目遣いで菩提寺をジッと見つめる。
「先生。……これって、嘘っぱちだと思いますか」
菩提寺は軽く首を傾けて冷静な声で答える。
「……さあて、どうですかねェ。……二賀斗さん、あなたはどう思います? 今までの私の話を聞いて」
陽生はうつむいたまま、何も答えなかった。
「二賀斗さん。二賀斗さんの話だと奥さんは一度亡くなって、その後生まれ変わったってェことでしたよね?」
「……え、ええ」
「それで、奥さんはそのチカラが無くなった、と」
「ええ」
「”山城禍異記”という書物がありましてね。山城の国、今の京都で起きた災害を記したものです。当時の京都は毎年と言ってもいいくらい頻繁に川が氾濫していたんですよ。その度に人の住処は流され、疫病が流行った。……そして或る年、川に再び氾濫の危機が迫った。大雨の降る中、人々は天を仰ぎ必死に祈った。何十人、何百人が天を仰いで祈り続けた。すると突然、一人の女が堤に立つ姿を人々は見る。白鳥のような輝く白い身体をもつうら若き女。そして次の瞬間、その女は波立つ川に自ら身を投じると、そのまま川の中に沈んでいった」
陽生は深い息をしながら上目遣いで菩提寺を見る。
「……すると、川の水が見る見るうちに減っていき、氾濫することなく収まっていった。……雨がやみ、人々は皆、歓喜の声を上げてあの白い女を奉った。そして堤のほとりに小さな石地蔵を建てたとのことです」
菩提寺は見下ろすように陽生を睨みつけた。
「……ところがね、別の書物に書いてあるんですよ。ちょうどその白い女が川に身を投じた年から数えて十年後のことが」
「……十年後?」
「とんでもなく不思議な力でもってすべてを破壊する鬼の様な女の話。何十人もの武士がその鬼子を退治しようとするが、すべて返り討ちに遭ってしまう。不気味なくらいに白い肌をもつ女児。……龍の児の話」
「……龍」
「記録されてある文献全体を読んでみて分かったことなんですがね、どうやらあの尼僧を起点に記録は点々としながらも白い女は生き続けているんですよ。そして何らかの形でもって人々の希望を叶えている。……その不思議なチカラで」
菩提寺は目を細めてニヤついた。
「但しね、どういう訳か時代を下るごとにその使命感に陰りが出てきてるんですよ。記録上では……」
「……陰り、っていうのは」
不安げな顔で尋ねる陽生を見ながら、菩提寺は髪をかき上げて話を続ける。
「そんな自分の宿命に嫌気が差した、とでも言うんでしょうかねェ。江戸時代の中期に一人、働き者の小町が突然、火の見櫓から飛び降り自殺してるんですよ。……で、その小町って言うのが透けるような白い肌を持っていて、とにかく世話焼きだったらしかった」
陽生は下を向くと、弱々しい手で自分の頭を抱え込んだ。
「……でも、再び現れたんですよ。小町の自殺から七年後に。……白い女児が」
頭を抱きかかえたままの客人の態度など気にせず菩提寺は話し続ける。
「この女児も相当酷かったらしい。ケンカッ早くて、その上剛腕で、最後は街を火の海にして忽然と消えていった。……龍のような咆哮と縦横無尽に駆け回る炎を操って」
菩提寺は話を終えると腕を組み、口を真一文字に結ぶ。
陽生は頭を抱えたままゆっくりと顔を上げて菩提寺を見た。
「し、白い女は人を救うんじゃあ……」
菩提寺は左手で右の肩を揉み解しながら、ため息交じりに言葉を出す。
「……事例が二件だけなんで何とも言えませんがぁ、記録上、どうもこの白い女が命を落とすと次に現れる白い女は凶暴なチカラを振るうっぽいんですよ。……まぁ、こっから先はあくまでも私の憶測になってしまうんですがね。二賀斗さんの手紙の内容と古い書物に書かれたこと、それらを合わせて想像するにィ、たぶん白い女には二つの種類があるんじゃないのかな、と。一人は人々の願いを実現するチカラを持つ女。彼女は自分の意志でチカラは出せない、あくまでも他人から受ける強烈な願望を受信することでそのチカラを発動させる。そしてもう一人は、……自分の意思で自由にチカラを発動できる。自由意思でチカラを操れる女は先天的な凶暴性を持ち合わせている。……人々を救うという自らの業に反し、死を選んだ白き女に対し輪廻が罰を与えるかのごとく龍の児を呼び出し人々を苦悩の世界に落とす。そして白き女はより重い救済の業を背負う」
陽生の手がずり落ちるように頭から離れる。勢いよくテーブルに当たると、その衝撃でカップの中のコーヒーが波打った。
「は、葉奈は……一度、死んでる。……でも、生まれ変わったアイツは俺に『もうチカラはない』って言ってたんだ……」
「でも、あなたにはお子さんがいる。お子さんはどうです。そんな兆候はなさそうですか? 龍のチカラは生まれ変わった奥さんにではなく、もしかしたら隔世してお子さんに引き継がれてるかも。……どうです?」
「……ハッ!」
思わず陽生は手で口を塞いだ。
〈アイツらが生まれたことまでは手紙に書いたが、アイツらのあのチカラについてまでは書かなかった!〉
「と、特に。変わったところは……な、ないです。小さい頃はわがままで、よくおもちゃ売り場で駄々こねてましたけど、我慢させてましたし。それに……兄妹の仲だってとってもいいし、二人ともおとなしいし……」
「お子さん、二人いるんですよね。長男さんと長女さん。……でも男児って言うのがどうも引っかかるなぁ。……白い女の物語からは、”女児を引き連れて”って言うくだりはいくつかあるんだけど、ただの一度も”男児を連れて”って言う言葉は無いんですよねぇ」
菩提寺は右手の親指を下唇に押し当てて言い始めた。
「余談ですが、歴史的にも巨大な権力やずば抜けた能力を持った兄弟って言うのは、間違いなく反発し合う。特に双子や歳の近い兄弟であればその可能性は非常に高い。……まぁ、そんな能力があればの話ですけどね」
「……た、例えば、どんなことが……起こるんですか」
陽生は恐る恐る菩提寺に尋ねた。
「……まぁ、大抵は殺し合うんですよ。持っているものが巨大なだけにね」
菩提寺はさらりと答えた。
陽生は荒い息をしながら菩提寺の顔を睨みつるように見つめた。
「は、葉奈は。……じ、自分の妻は、この白い女の末裔なんですかッ」
菩提寺は唇に押し当てた親指で軽く下唇を弾いた。
「……う――ん。二賀斗さんのお手紙の内容からすると、そう感じる方が自然ですよね。ただ、お子さんにそんな兆候がない。……どうでしょうかねェ。何とも言えませんが、私的には信じてみたい物語ですよ。話の筋が通ってるし、何よりその記録が存在している」
陽生は哀願するような表情で菩提寺に話しかけた。
「せ、先生。……この話のこと。どうか、先生の胸の中だけに……閉まっておいていただけないでしょうか」
菩提寺は組んだ腕を解き放ち、自らの膝の上に乗せると静かに笑みを浮かべた。
「……その辺のわきまえってものは当然持ち合わせてますよ、二賀斗さん。実際、あなたの手紙を読ませてもらい、何ヶ月もかけて私なりの調査をした中で、改めて自分の考えってやつに自信を持つことができました。すべてあなたのおかげです。……ご存知とは思いますが、私の研究課題は世間でいうところの”昔ばなし”ってやつです。竹取物語とか浦島太郎とか桃太郎なんかのね。あの話を読んでみて、こう思ったことってありませんか? あの話って本当に創作されたものなんだろうか。何らかの事実に基づいているんじゃないのか、って。二賀斗さん。あなたの手紙は挫けそうな私の心に勇気を与えてくれました。暗闇の中を彷徨う私に明かりを灯してくれました。私も絶対にトロイの木馬をこの手で見つけてみせますよ! だからこの話はこれでおしまいです。白い女のことについても二度と口にすることは無いでしょうし、あなたに会うことも無いでしょう。二賀斗さん、どうかお元気で」
菩提寺は立ち上がると、右手を差し出した。その手を見ると陽生も立ち上がり、差し出された菩提寺の手を強く握りしめた。
「先生。本当に……ありがとうございました」
老師に一礼をすると、陽生は研究室を後にした。
日が陰った帰り道。学園通りは森のような大学の木々の影で遥か先まで暗く覆われていた。陽生の身体を冷たい風が通り過ぎてゆく。一歩、また一歩、おぼつかない足取りで薄暗い通りを歩く。……眉間に深い皺を寄せて。
〈アイツらが、龍だと? 俺と……俺と葉奈の大切な結晶が! そ、そんなことが……〉
陽生は思いつめたような表情をすると、その場に立ち止まり、抱き抱えるように自分の肩を強く握りしめた。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
絶対に間違えないから
mahiro
恋愛
あれは事故だった。
けれど、その場には彼女と仲の悪かった私がおり、日頃の行いの悪さのせいで彼女を階段から突き落とした犯人は私だと誰もが思ったーーー私の初恋であった貴方さえも。
だから、貴方は彼女を失うことになった私を許さず、私を死へ追いやった………はずだった。
何故か私はあのときの記憶を持ったまま6歳の頃の私に戻ってきたのだ。
どうして戻ってこれたのか分からないが、このチャンスを逃すわけにはいかない。
私はもう彼らとは出会わず、日頃の行いの悪さを見直し、平穏な生活を目指す!そう決めたはずなのに...……。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
骸骨と呼ばれ、生贄になった王妃のカタの付け方
ウサギテイマーTK
恋愛
骸骨娘と揶揄され、家で酷い扱いを受けていたマリーヌは、国王の正妃として嫁いだ。だが結婚後、国王に愛されることなく、ここでも幽閉に近い扱いを受ける。側妃はマリーヌの義姉で、公式行事も側妃が請け負っている。マリーヌに与えられた最後の役割は、海の神への生贄だった。
注意:地震や津波の描写があります。ご注意を。やや残酷な描写もあります。
王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る
家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。
しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。
仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。
そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる