暁の山羊

春野 サクラ

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 翌年二月。雪の降る夜に、葉奈は母親になった。
 「二千九百七十グラムの男の子です。おめでとうございます!」
 元気な産声を上げて葉奈と陽生の子どもがこの世に生まれた。
 「がんばったね! 葉奈ァ! よくがんばったよ!」
 「うん。……へへ。疲れちゃった」
  分娩台で涙を流しながら葉奈は笑顔で答えた。
 「お父さん、抱っこしてください。怖がらないでくださいねェ」
 看護師がタオルに包まれた生まれたての長男を陽生に差し出した。陽生は慎重な手つきで我が子を胸の中に抱いた。
 〈生きている。ほんとに小さな命。君が葉奈の分身であり、俺の分身なんだね。……これから、よろしく〉
 陽生は、葉奈と同じような愛おしい眼差しで我が子を見つめた。

 数日後。明日夏と両親は、葉奈が入院している病院に見舞いに訪れた。
 「お父さん、見て。ほら、こんなに鼻が高いわ」
 「いやー、かわいいなぁ! 赤ん坊ってのは本当にかわいいよ。葉奈の子どもだと思うと特別可愛く見えるぞ。うん」
 鐡哉は、目尻をダランと下げて赤子を抱っこする。
 「ねえねえ、葉奈ちゃん。名前とか考えてるの?」
 丸椅子に座っている明日夏が、興味深げな顔で葉奈に尋ねてきた。
 「えーっ。男の子だったら、ひろきが考えるって決めてたから。……ねっ、ひろき」
 ベッドに座っている葉奈がそう言いながら陽生の方を見る。
 「あ、まぁ。……そうだね。名前は決まってるよ」
 病室の隅の柱に寄りかかりながら陽生が答えた。
 「ニーさん。……聞いちゃって、いいの?」
 「うん。この子の名前はしゅうと。収めるに友で”収友”。ちょっと当て字になっちゃったけどね」
 「……えっ」
 明日夏が戸惑った顔を見せた。
 「明日夏。収は死なない。俺の親友はずっと俺とお前と、一緒に生きていくんだ。……絶対に忘れさせやしない」
 明日夏はそっぽを向くと、涙を堪えるかのように顔を上げた。
 「……すてきな名前ね。ニーさん」
 「明日夏。いっぱい面倒見てくれよな」
 「ふふん。そんなこと頼んだら、私が取っちゃうかもしれないよ」
 「そうだ、明日夏。ウチに持ってこい! 何人でも面倒見てやるぞ。はっははは」
 鐡哉は赤子を抱きながら豪気な声で言い放った。
 病室に笑い声が溢れる。葉奈も、陽生も、明日夏も、両親も、収友を囲んで一時の団欒に酔いしれた。



 葉奈と陽生が結婚してから丸三年が経った、ある日の午前時。すっかり葉桜となった桜堤を、鮮やかな緑色したカエルの帽子を被った収友が小さな靴を履いてじょうずに歩いていく。収友の両手には葉奈と陽生の手が握られている。そして陽生のもう片方の手にはベビーカーが押されていた。その中には、去年生まれた長女の”結愛”がスヤスヤと眠っている。堤の法面には、所々に黄色いタンポポやハルジオンが群生している。
 「ママ! ママ! チョウ!」
 「あー、蝶々だぁ。飛んでるねー」
 収友は握られた手を離すと、蝶を追いかけてたどたどしく歩き出した。二人はその姿を愛おしく見守る。
 「大学、どう?」
 「うん。まあ、なんとかね。同年代の子もそれなりにいるのがせめてもの救いだわ」
 葉奈は、入学後すぐに休学していたJ医科大学に今年度から復学していた。
 「すごいね。三年のブランクも関係なしかぁ」
 「それより家事とか大変でしょ。大丈夫?」
 陽生は笑って答えた。
 「平気だよ。講義以外はもうほとんど仕事入れてないから。葉奈にはしっかり勉強してもらって、お義父さんの跡取ってもらわないとね」
 「またぁ、変にプレッシャーかけないでよォ」
 葉奈は頬を膨らませた。
 「ああっ!」
 収友の転ぶ姿を見て、二人が声を出した。収友は起き上がると、泣きもせず二人の方に歩み寄ってきた。
 「あらぁ、泣かなかったねー。偉かったよー」
 葉奈は腰を落として収友の手のひらと膝をウェットティッシュできれいにふき取ると、立ち上がって再び愛息子の手を握った。収友は片方の手で陽生の手を掴むと、また黙々と歩き出した。
 「んふふ。……家族って、いいね。にっかどさん!」
 葉奈は歩きながら満面の笑顔を陽生に見せた。
 「ん。……そ、そうだね」
 陽生は収友の手を握りながら視線を下に落とす。
 「……なーにィ。私と結婚したこと、後悔してるの?」
 葉奈は陽生の方を向くと、目を細めて唇をへの字に結んだ。
 「そ、そんなことないよッ! そんな。やっとの思いで君と結ばれたのに。ただ……あの、その呼び名を聞くとさ、どうしてもあの小屋での君との青っ臭いやり取りを思い出しちゃってさ。……は、恥ずかしくなっちゃうんだよ」
 二賀斗は恥ずかしそうに照れ笑いしながら、そう答えた。
 「あははっ。……じゃあ、たまに言おうかな。大好きなその顔が見れるからさ」
 葉奈は意地わるそうな顔つきで陽生を茶化した。

 青い空は続く、どこまでも続いてゆく。桜堤の道は続く、どこまでも続いてゆく。二人はその道をどこまでも、どこまでも歩いてゆく。そして空と道と二人の軌道が一つに収斂されてゆく。ふたりの想いが二度と離れ離れにならないように。ふたりの魂が二度と分かつことの無いように。葉奈と陽生の幸せは、永遠に続く。……永遠に。(完)
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