暁の山羊

春野 サクラ

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 学習発表会の次の週。明日夏と二賀斗は、葉奈と過ごしたあの山小屋に来ていた。天気は生憎の曇り空。もうすぐ一年が終わる季節に吹く風は、否が応にも身を引き締めてくれる。
 「じゃ、木の実集めてくるね。虫が食べてないのを見ながらだから、ちょっと時間かかっちゃうかもしれないけど……」
 明日夏は、申し訳なさそうに二賀斗に話す。
 「ん、いや。全然平気だよ。よく吟味して来な」
 二賀斗は笑顔で応えた。
 「うん。じゃあね」
 明日夏はリュックサックを右肩に掛けると、意気揚々と裏山に向かっていく。ライムグリーンのウインドブレーカーを着た明日夏の姿が見えなくなるのを確かめると、二賀斗は葉奈を埋めた場所に足を進めた。
 「たぶん、この辺り……だったよな」
 今では草が生い茂り、正確な位置もわからなくなってしまった。
 二賀斗は無言のまま、しばらく地面を見つめる。
 冷たい風が山から吹き降りる。カサカサと寿命が尽きた樹葉の擦れる音が聞こえてくる。
 二賀斗は見下ろしていた地面から視線を外すと顔を上げた。そして一呼吸つくと、今度は山桜の樹に目をやった。
 〈もう、枯れちゃったんかなァ。四月に見に来たときにも花咲いてなかったし……。こうやって、何もかもが変わっていくんだな〉
 二賀斗は苦い顔をすると首を数回、横に振った。
 〈歳々年年人不同……か〉
 下を向いたまま南側の斜面に向かう。そして拓けた場所から雲で覆われた空を眺める。見渡す限り、空は白一色に輝いている。その白色の海を数羽の鳥が悠々と泳ぐ様を二賀斗は、ぼんやりと目に映す。
 〈穏やかだ。……って言うよりも、何か風化していくような静けさだ。何もかもが無くなっていくような……。存在も、思い出も〉
 ふと、二賀斗は振り返って左手にある小屋に目をやった。……古ぼけた灰色の小屋。
 〈古くなったな。……あんなに古くなっちまったのか。葉奈と過ごしていたあの頃はあんなにも温ったかく感じられたのに〉
 「ふぅ……」
 二賀斗はズボンの前ポケットに手を突っ込むと、大きなため息をついた。
 風が吹く。その度に木々の葉の擦れた音が耳に絡みついてくる。それが余計に二賀斗の気持ちを感傷的にさせた。
 「おまたせー」
 リュックを担いだ明日夏が、息を切らしながら裏山から降りてきた。
 「お、おお。……早かったね。いいの採れたかい?」
 二賀斗は、振り返るなり明日夏にぎこちない笑顔を見せた。
 「ええ。……どうしたの? その顔」
 明日夏は訝し気な顔をする。
 「あ、ああ。……け、結構、風が強くってさぁ、これなら一緒にドングリ集めに行ったほうが寒くなかったなあ、なんて思っちゃってたよ」
 二賀斗は、取ってつけたような返答をした。
 「……そうね。そうすれば、そんな風に感傷的な気持ちにならずに済んだかもしれないしね」
 明日夏は、優しく微笑んでくれた。
 「ええ? いや、そんなんじゃなくて……」
 二賀斗は思わずポケットから手を抜き出すと、強く否定するかのように手を左右に振った。
 「……じゃあ、帰ろ。家でかわいい葉奈ちゃんがニーさんの帰りを待ってるから」
 明日夏は車の助手席を開けた。
 「あ、……うん。そうだね」
 二賀斗は、明日夏の言葉に頷くと、運転席のドアを開け、車に乗り込んだ。
 〈また来るよ、葉奈〉
 小屋に向かって二賀斗は、目で語りかけた。
 二人を乗せた車は、ゆっくりと山を下って行った。



 そして新しい年が幕を開け、いつしか菜の花が咲く頃を迎え、葉奈も三月の誕生日が来て四歳となった。口から出てくる言葉の数も多くなり、上手に自転車や縄跳びができるようになってきた。
 春が過ぎ、夏を迎え、秋が終わり、冬が来て、また新しい年を迎える。道端にタンポポが咲き乱れる頃、葉奈も五歳になり、たまにおませな言葉を話すようになっていた。

 五月の連休を過ぎた新樹の季節、葉奈と明日夏と二賀斗の三人は、自宅から少し離れた総合市民公園に遊びに来ていた。
 「ニーちゃん、いくよー」
 葉奈は、ボールを掴んだ両手を大きく振り上げると、二賀斗めがけてボールを投げた。ボールは芝生を二回バウンドして二賀斗の手元に届いた。
 「じょーずだ。葉奈ちゃん」
 青空の下、芝生広場では多くの親子や子供たちが走り回ったり、ボール遊びをしている。葉奈と二賀斗も広場の隅でボール遊びをしていた。明日夏は、そのそばでレジャーシートに腰を落として二人を見ていた。
 「ニィちゃん、いくよー」
 葉奈は声を上げると、自分の頭ほどもあるビニールのボールを放り投げた。ボールはコロコロと転がり二賀斗の足元に転がり込む。
 「じょうずだァー。……いくよー。葉奈ちゃん」
 二賀斗は、下からゆっくりと葉奈に向かってボールを投げ返した。ボールは葉奈の頭を乗り越えて、その後ろの雑木林の中に入って行った。
 「ありゃ。ゴメンゴメン、葉奈ちゃん」
 二賀斗がそう言ってボールを取りに歩き出すと、葉奈は雑木林の方に向かって駆け出した。
 「あっ、葉奈ちゃん! 取りに行くから待ってていいよォ」
 二賀斗は、葉奈の後を追って走り出した。
 「おーい、葉奈ちゃん」
 見通しのよい雑木林の中で葉奈はうずくまって何かを見ていた。
 「ボールあった? 葉奈ちゃん」
 二賀斗は葉奈に呼びかけた。葉奈が何かをいじくっているように見えた。
 「ぇえ―――ん!」
 突然、葉奈が大声で泣き出した。
 「葉奈ァ!」
 明日夏はその声を聞くなり反射的に立ち上がって、雑木林目掛けて走り出した。
 「ええ――ん! いだ――い!」
 葉奈は、何かを追い払うかのように強く右手を振り回して泣き叫んだ。
 「どこが痛い! 葉奈ちゃん!」
 二賀斗は膝を落としたまま対処の仕様もなく、困惑していた。
 「葉奈ア! どしたのッ!」
 明日夏が駆け寄ってきた。
 「いだあ――っ! ああーん! ああーん!」
 葉奈は明日夏の足にしがみつくと狂ったように泣きたてた。
 「ニー! どうしたの!」
 「あ、いや、ボールのそばでうずくまってたら急に泣き出して……」
 明日夏は泣き狂う葉奈を抱えてゴムボールの周りを見回した。
 「……ん?」
 明日夏は目を凝らす。それは、細長い身体をくねらせてボールの底に身を隠している。
 「ムカデ? ムカデに刺されたの?」
 「なにィィ! ムカデかッ!」
 二賀斗は激昂した表情でボールに近寄ると、その下に隠れているムカデを足で思いきり踏み殺そうとした。
 「やめて! ニー!」
 明日夏はとっさに両手でボールを押さえた。二賀斗の足は明日夏の右手を強く踏みつけた。
 「痛ッ!」
 明日夏が声を出す。二賀斗はとっさに足をひっこめた。
 「明日夏! 何なんだよ、お前! 葉奈がコイツに刺されたんだぞッ!」
 「何でも簡単に殺さないでッ!」
 明日夏はボールを握ったまま、下を向いて叫んだ。
 「いたい、いたい、いたいぃ――!」
 葉奈は、涙を流して訴えている。
 「病院ン! 葉奈担いでッ! 運転私がするからッ!」
 明日夏が叫ぶと、ゴムボールを置いたまま、葉奈を抱えた二賀斗と明日夏は公園の駐車場に向かって駆け出した。
 そして二人は刑事ドラマに出てくる刑事の様に勢いよく車に乗り込んだ。
 「いいッ? 出るわよ!」
 ハンドルを握ると、明日夏は勢いよく車を発進させた。
 「近くの救急病院!」
 明日夏はスマホに向かって叫んだ。
 「……案内シマス」
 スマホはカーナビを表示すると、目的地までの道順をナビゲートし始めた。
 「いたいぃ! いたぁいー!」
 葉奈が後部座席で足をバタつかせている。
 「葉奈! もうすぐ病院に着くからね、待ってて!」
 二賀斗は抱きかかえながら葉奈にそう言い聞かせていたが、それは同時に逸る自分に対するものでもあった。
 それから二十分後、市内の救急病院に到着すると、二人は車から飛び出し、受付に駆け込んだ。

 「お父さん、よく押さえてて!」
 白髪交じりの髪を七三に分けた初老の医師が二賀斗に指示する。
 「葉奈ァ、ちょっと我慢ねェ」
 二賀斗は嫌がる葉奈の指を力づくで押さえた。
 「いだぁあああ――っ」
 医師は落ち着いた様子で右手にルーペを持ち、葉奈の指を丹念に確認する。
 「……トゲは無いわ。じゃあ、軟膏塗っときますね。……それと、頭がボーっとなったり、呼吸が荒くなったりはしてないですねぇ?」
 「はい」
 明日夏は、葉奈を見つめながら答える。
 「もし、呼吸が荒くなったり、嘔吐したりしたら過敏症かもしれないので、すぐ来てくださいね。痛みはしばらくすると引くと思いますから」
 「ありがとうございました」
 葉奈を抱えて、二人は診察室を後にした。
 「葉奈ぁ、大丈夫? もう少しで痛みは無くなるから待っててね」
 明日夏は、葉奈を膝に乗せてロビーの長ソファに座って会計を待つ。二賀斗も柱に寄りかかりジッと待っている。
 「よしよし……」
 葉奈の頭を明日夏は優しく撫でる。
 「如月葉奈さん」
 会計の職員が声をかけた。咄嗟に二賀斗が会計に足を運ぶ。
 「お薬代含めて……円です」
 「じゃあ、これで」
 二賀斗は代金を支払うと、薬と領収書を手にした。
 「あの、……行こうか」
 しおらしい表情を浮かべて二賀斗は、明日夏に声をかける。
 「……」
 葉奈を抱いたまま、無言で明日夏は立ち上がると、そのまま正面玄関から外に出た。二賀斗は控えめにその後をついて行く。
 明日夏は車の後部席のドアを開き、置かれたチャイルドシートに葉奈を乗せると、静かにドアを閉めた。そして、そのすぐ後ろには、ぶたれた犬のような、怖じ怖じとした顔をした二賀斗が居心地悪そうに立っている。
 明日夏は、平然とした顔で二賀斗を見つめる。
 「あ、あーちゃん。あの、ごめん! ほんとに……ごめん」
 二賀斗は、その場で深く頭を下げた。
 「あーちゃんが何で怒ってるのか分かってるよ。葉奈が刺されちゃったんで、つい……」
 明日夏は表情を緩めると、二賀斗の下がった頭に向かって話しかけた。
 「私、ニーさんのこと好きだし、尊敬もしてるわ。……だからね、もしニーさんも私や収のことを大切だと思ってくれるなら、私たちが感じてることを理解してほしい」
 二賀斗は頭をゆっくりと上げた。
 「……感じてること?」
 「うん。私たちのことを“偏屈な人間”だって思わないでほしいの。図らずもこの世界に生まれてきてしまった生き物に、……ムカデだって、ヘビだって、好きでその姿に生まれてきた訳じゃないでしょ? それでも人間みたいに愚痴も言わず懸命にこの世界で生きているのよ。私はそういうみんなに対して純粋に敬意を払いたいの。……わかってくれる? ニーさん」
 明日夏は柔和な表情で二賀斗に話しかける。二賀斗は、明日夏の目をしっかりと見つめて一言、言葉を出す。
 「……うん。そうだね。ほんとにごめん」
 明日夏は口元を緩めた。
 「ふふっ。……なんかニーさん、尻に敷かれた旦那さんみたいね。どうしちゃったの?」
 「え? 別に、いつもと変わんないだろ?」
 「変わったわよ。……なんか、ちょっと気味悪いわよ? すぐ謝るし。昔っから絶対謝んない人だったのに」
 明日夏は、勘繰るような顔で二賀斗を見た。
 「お、おい! それより葉奈待たせるなよ」
 二賀斗は話を遮るように後部席のドアを開けると、そそくさと車内に入った。明日夏もそれにつられて急ぎ運転席に入った。
 「じゃあ、行くわよ」
 車は、ゆっくりと動き出し、病院を後にする。
 明日夏はハンドルを握り、真っ直ぐ前を向いて道を走る。無言の室内にいつしか寝息が響く。
 「寝ちゃったよ、葉奈」
 「あれだけ騒いでたものね。泣き疲れちゃったのかな」
 二賀斗は葉奈を見ながら呟く。
 「葉奈、ごめんね。俺がよく見てなかったから、ケガさせちゃって。……ハア。親ってものは大変なんだなァ」
 「あははっ! ニーさん、芽生えちゃった? 自覚が」
 明日夏が明るい声で二賀斗を茶化した。
 「ええっ? いや、そう言うんじゃなくって。……その、色々あるんだなァって。今までこんな大騒ぎなんかなかったからさ」
 二賀斗は、明日夏の方を向いてしみじみと話した。
 「だから、なんでもあるわよ。私なんかスズメバチに四回も刺されたんだから」
 「ええっ? 平気だったのかよ」
 「何とかね。これも経験よ。そうやって危険なことを学んでいかなきゃ。大切にしたい気持ちはわかるけど、箱入り娘は親のエゴよ」
 「……まぁ、そうだろうけど」
 二賀斗はシートに寄りかかって窓の外を眺める。
 明日夏は、ルームミラー越しに横を向く二賀斗をチラリとみると軽く笑みを浮かべた。
 皐月の鮮やかな青い空を二人は窓越しに見る。時刻はまだお昼前だったが、二賀斗も明日夏も気持ち的には一日を終えたような、そんな気持ちだった。
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