暁の山羊

春野 サクラ

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 弥生三月、早春。急に暖かい日が現れるようになった。そして、その呼びかけに応えるかのように木々のつぼみが膨らみ始めた。近所の雪柳の枝には白く小さな花が、まるで雪が降ったかのようにびっしりと咲き誇っていた。
 春めいてきた三月中旬の週末、二賀斗は葉奈と出会った時に流行っていた歌を聞きながらあの小屋に向かって車を走らせていた。
 ルーティンのように毎週末、小屋に向かう。朝早くにアパートを出て、正午前に小屋に着く。いつものように山桜のそばに車を停めると、その幹に触れて葉奈に挨拶をする。そして夕方まで小屋から見える風景をぼんやりと眺める。何をするわけでもないが、二賀斗はいつの間にか゚そんな週末を心待ちするようになっていた。
 そして今日もいつものように山桜の木のそばに車を停めると、二賀斗は運転席のドアを開け、ゆっくりと車から降りた。
 「ううッ。ここはまだまだ寒いなぁ」
 二賀斗は身を縮めながらつぶやいた。そしていつものように桜の幹に手のひらを押し当てると目を瞑り、胸の中でつぶやいた。
 〈葉奈。……いつかきっと、また会えるよな〉
 しばらくして目を開くと、顔を上げた。
 「……ん?」
 山桜に花のつぼみが全然ないことに気が付いた。
 「全然つぼみが無いや。……山桜って咲くの遅いのかなぁ」
 二賀斗は頭上の枝を見ながら桜の木の周りを歩き出した。
 「……んん?」
 半周回った時、足に何かが触れた。二賀斗はふと足元を見た。
 「おわああッ! な、なに? 赤ん坊! エーッ!」
 二賀斗の足元には、生まれたばかりのような赤ん坊が裸で仰向けになって、手足をばたつかせていた。
 「アブブ……ブブ」
 その赤ん坊は、特に泣き叫ぶでもなく二賀斗を見つめている。
 「ななな、なんなんだよーッ!」
 二賀斗は急いで車に戻るとトランクを開け、中にしまっておいたフリースのタオルケットを無造作に握りしめると、大急ぎで赤ん坊の所に駆け寄った。
 「えええーっと、どうやって持つんだっけ、赤ん坊って。……持っちゃって大丈夫かあー?」
 オロオロしながらも膝を地面に落とし、ゆっくりと静かに赤ん坊を抱きかかえた。まるで爆弾でも処理するかのように。
 抱いた赤ん坊をゆっくりとタオルケットに乗せると、震える手で丁寧に赤ん坊を包んだ。
 「……はぁ、はぁ。それからどうすんだ? えーっと、えーっと……」
 二賀斗は意味もなく頭を左右に振りながら気を動転させていたが、ふと明日夏の顔が頭を過ぎった。
 「あ、明日夏。……明日夏だ!」
 ズボンのポケットからスマホを取り出しと、震える手で明日夏に連絡をした。
 「おいおいおい、明日夏ァー。早く出てくれェ――」
 呼び出し音が続く。二賀斗は胸の高鳴りに飲み込まれそうな気持ちでいっぱいだった。
 「……もしもーし、ニーさんですか。また落ち込んでるの? いい加減気持ち切り替えて……」
 明日夏の声が聞こえた。
 「あああ明日夏ッ! 違う違う、今日は違う! どうしよう! 赤ん坊がいるよォ!」
 二賀斗は立ち上がると、上擦った声で叫んだ。
 「えっ? 何? 早口でよく聞こえないわよ」
 「あああの、いま小屋に来てるんだけどさっ! あ、赤ん坊が捨てられてんだよッ! どうしよう! どうすりゃいいの!」
 「ええー? ……なんで捨てられてるのよ! ええー? ちょっと……いま私、山に植林に来てるからすぐにはそっちに行けないわよッ! えーっと。……じゃあ、わたし今から戻るからとりあえず私のうちに来て!」
 「あああ、わかった! 今から赤ん坊連れて行くよ、すまない!」
 そう言うと、二賀斗は通話を切った。そして再び腰を屈め、慌ただしくもゆっくり優しく赤ん坊を抱いた。
 「ああー、こわっ!」
 持ち上げながら二賀斗は、ふと赤ん坊の顔を見た。
 「……ダァ」
 何だか、赤ん坊が笑ったように見えた。その顔を見て二賀斗は少し落ち着きを取り戻すことができた。
 後部座席を開けて、赤ん坊を静かに寝かせると、急いで運転席に乗り込み、ゆっくり車を発進させた。
 「こりゃ、高速使えねえぞ」
 ハンドルを握り締めながら二賀斗はつぶやいた。
 山道を下りながら二賀斗の車は上下に揺れる。それでも後ろで横になっている赤ん坊は泣きもせず静かにしていた。
 ようやく麓の林道にたどり着くと、そのまま一般道を使ってひたすら明日夏の自宅に向かって車を走らせた。

 信号が赤になり、二賀斗はそっとブレーキを踏んだ。緩やかに車が停止する。そっと後ろを振り返り、赤ん坊の様子を見た。
 赤ん坊は静かに眠っていた。
 「寝てるよ。……起こさないように行けるかなぁ」
 緊張した面持ちで二賀斗は前を向き直した。
 「……しっかし、どこの誰だよ。あんな山ん中に赤ん坊捨ててくなんて。まったく、ホントにどんな奴なんだ」
 信号が青になり、二賀斗はゆっくりと車を発進させた。
 柔らかい日差しが車内に入ってくる。幹線道路の風景が流れてゆく。
 ハンドルを握りながら二賀斗は、ふと考えた。
 〈……でもあの赤ん坊、生まれたてって感じじゃなかったなぁ。少なくとも生まれて何日か経ってるような感じだった。……最近になってあったかい日も出てきたけど、まだ三月だ。昼間だってまだまだ寒い日が続いてるし、夜なんかまともに冬の寒さだ。山の上ならなおさら凍える。……大人の俺だって裸であんなところにいたらとても朝までもたないよ。まして赤ん坊なんて。……そうすると朝方に捨てたか?〉
 二賀斗は眉をひそめながら、口を真一文字に結んだ。
 〈……でも、朝の早い時間にあの山を上って、あの小屋に着くまでに誰にも出くわさなかった。……てか、今までにあそこで他のヤツに出くわしたことって一度もなかったぞ。そもそも葉奈といた時だってあんなところに来るヤツ、誰ひとりいなかった〉
 二賀斗は、ハンドルを握りながら一層眉をひそめた。
 “また……会おうね”
 不意に葉奈の言葉が脳裏をかすめた。
 〈まさか、葉奈の生まれ変わり? ……ははは。まさか、いくら何でも。……でもあの赤ん坊、葉奈を埋めた桜の木の根元に居た。……まさか〉
 二賀斗は、軽く首を数回振ると、自身の安直な考えを打ち消した。
 〈……でも〉
 急に二賀斗は左手で自身の頭を掻きむしった。
 「ああーッ。一度そんなこと考えちまったから、もう頭から離れなくなっちまったじゃねえかよ」
 そう叫んだ自分の声の大きさにびっくりして、二賀斗は咄嗟に口を閉じた。
 後ろの赤ん坊は眠ったままだった。
 〈ふぅ。……でも、そんなことってあるのかよ。人が生まれ変わるなんて、そんなこと現実にあるのかよ。……ん、まぁ、実際に信じられないようなことは起こり得るけど。……でも、だからってこの子が葉奈の生まれ変わりだなんて、ちょっと考えが飛躍し過ぎだよな。……で、でも、やっぱり捨てられたってゆう状況じゃないよ! だって、なんでわざわざ裸の子ども担いで何十分もあんな山を登って捨てに来なきゃならないんだ。もっと楽に捨てられるところなんてその辺にいくらでもあるぞ。……そもそも何処から来たんだ、あの子は。あの子は捨て子なのか? 違うのか? 一体、なんなんだ……〉
 二賀斗は厳しい顔つきになっていた。

 極力、安全運転で車を走らせたので、だいぶ時間がかかってしまった。もうすぐ明日夏の自宅にたどり着く距離になったころ、二賀斗は車を一時停止させ、明日夏に電話を入れた。
 「もしもし、ニーさん! ずいぶん遅いわね!」
 「あ、ああ。なるべく安全運転で走ってたから。それより、あと五分くらいでそっちに着くから」
 「うん! 私、外で待ってるから!」
 「ああ。ありがと」
 二賀斗は電話を切ると、再び静かに車を走らせた。

 しばらくして二賀斗の車がゆっくりと明日夏の自宅に到着する。明日夏はすでに外で待っていた。門扉の前で車を停めると、忙しく二賀斗が車から出てきた。
 「明日夏、ホントに悪い! どうしたらいいんかわかんなくって電話しちまった!」
 「うん。赤ちゃんは?」
 「あ、ああ。後ろだ」
 そう言うと、二賀斗は急いで後部ドアを開けた。
 明日夏は、開いたドアから中を覗き込む。
 「あらァー、ほんとだ! かわいいー。ほんとに赤ちゃんだァ。ねえ、男の子? 女の子?」
 明日夏は、ささやくように声を出したが、それでも興奮した様子だった。
 「……女の子だった」
 二賀斗は厳しい表情で答える。
 明日夏は二賀斗の顔を見ると、眠っている赤ん坊をそっと抱き上げ、車外に連れ出した。そして真剣な顔つきで二賀斗を見つめた。
 「ねえ、ニーさん。こんなこと言うのもなんだけど、……あんな山の中に捨て子って、変よね」
 「ん、んん。まあ、……変、だよな」
 二賀斗は、渋い顔をした。
 「……どこにいたの? 赤ちゃん」
 「……桜の根元にいた。……裸で」
 「葉奈ちゃんって、……桜のそばに眠ってるのよね」
 「な、何が言いたいんだよ」
 二賀斗は、自分の心が明日夏に見透かされてるような、そんな感じを受けた。
 明日夏は、硬い表情で口を開いた。
 「……女の子かぁ。……あのね、ニーさんの気持ちを揺さぶっちゃったらホントにごめんね。もしかしてこの子、……葉奈ちゃん、なのかな」
 二賀斗は思わず下を向いた。そして唇を噛みしめた。
 「ニーさんごめんなさい! ちょっと、状況が状況だったんでそう思っちゃった。デリカシーなさすぎだよね、ごめんなさい」
 「…………」
 二賀斗が胸の内を言葉にしようと重い口を開きかけたその時、明日夏が声をかけた。
 「とりあえず中入ろ。赤ちゃんには寒いわ」
 明日夏は赤ん坊を抱いたまま玄関に向かった。
 「……」
 二賀斗は開きかけた口を閉じると、明日夏の後について歩き出した。

 
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