暁の山羊

春野 サクラ

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 十一月も下旬になり、森を形作る木々の葉も黄色やオレンジ色に色彩を変え、その一生を終えようとしていた。そして、もうすぐ裸木がこの森一帯を埋め尽くす。
 「ハァ、ハァ。……あー、疲れた」
 明日夏が、紙袋を抱えながら疲れた顔をして裏山から下りてきた。
 薄水色の空には白い雲が細く棚引いている。風もなく穏やかな昼過ぎの空。
 明日夏は、歩きながら辺りを見回す。
 「ニーさんはまだ下りて……。あー、もぅ」
 明日夏の視線の先には、山桜の木の根元に座り込んでいる二賀斗の姿があった。明日夏は半分ほど埋まった大きな紙袋の底を持って二賀斗の方に向かって歩いて行く。
 「ちょっとォ、ニーさん。木の実集めてくれたの?」
 桜の幹にもたれてうつむいていた二賀斗はその声に反応して顔を上げたが、案の定、ぼんやりとしていた。
 「あ、ああ。……ごめん、あんまり集められなかった」
 二賀斗の足元には、数個のドングリが転がっていた。
 「はぁ……。まあいいわ、私が集めたから」
 明日夏は溜め息をつくと、あきれ顔で二賀斗を見つめた。
 あの騒ぎが静まったのを見計らって、二賀斗と明日夏は木の実を集めに且つて葉奈と過ごしたあの小屋に足を運んでいた。
 「時期的にやっぱり痛んじゃってるのが多いわね、木の実。……この場所よくわかんなかったし、ニーさんに連れて来てもらったからあんまり文句言いたくないんだけど、手伝ってくれるんならもうちょっと集めてくれるとうれしいな」
 そう言って、明日夏は山桜の側に停めてある二賀斗の車のトランクを開ける。そして中に用意しておいた段ボールのふたを開けると、胸に抱えていた紙袋に入った木の実をその中に移し替えた。
 「あ、悪い。手伝うよ」
 二賀斗は急いで立ち上がると、車のそばに置いてあった明日夏が集めたもう一つの紙袋を勢いよく持ち上げた。……が、その瞬間、辺り一面に木の実がばらまかれた。集めた木の実が湿っていたせいか、紙袋の底がふやけて底が抜けてしまったのだ。
 「うゎあッ!」
 二賀斗がびっくりしておもわず声を上げる。明日夏はその声を聞くと、急いで叫び声の方に視線を向けた。
 「あっ! ……あーあ」
 明日夏は眉を下げて落胆の声を出した。
 「大変だぁ。……ニーさん、拾うの手伝って」
 「あ、ああ。うん」
 二人は散らばった木の実を手で一つ一つ拾い始める。右手で木の実を拾い、それを左手の手の中にしまう。二賀斗は気落ちした顔でゆっくりと手を動かしている。
 明日夏は木の実を拾いながら、ふと二賀斗の方に目を向けた。
 「ボーっとしちゃって。……ニーさん、ニーさんって今まで恋愛とかしたことなかったの?」
 明日夏は出し抜けに話しかけた。
 「はあ?」
 余りにも直球な質問に、二賀斗は思わず気の抜けた声を出した。
 「大学んときだって全然女の人に興味なさそうだったし。……恋愛とか、したことなかったんかなー、なんて思っちゃった」
 明日夏は二賀斗を見ながら微笑んだ。
 「……な、何だよ、お前。バカにしてんのかよ」
 二賀斗は木の実を拾う手を止めると、たどたどしい声を出した。明日夏も木の実を拾う手を止めると、改めて二賀斗の姿を見つめた。
 「……このお兄さん、純粋だなー、って思ったのよ。……そんなんなるほど大好きだったんだね、葉奈ちゃんのことが」
 二賀斗は恥ずかしそうにうつむくと、黙って木の実を拾い直した。

 落ちた木の実をすべて拾い集め、段ボールの中に入れると、二賀斗はトランクを閉めた。
 「段ボール一箱分も無かったな」
 「うん。まぁ、時期が時期だし、仕方ないわよ。それにこの実は元々、森のみんなが食べるためのものなんだから。少しだけ分けてもらえればそれでいいの。きっとすごい実がなるわよ。これが日本中で育てば絶対みんな幸せになれる!」
 興奮した明日夏をよそに、二賀斗は仄暗い気持ちから未だ抜け出せずにいた。
 「ニーさん、今日はありがとね」
 明日夏は笑顔で二賀斗にお礼を言った。
 「あ、ああ。……じゃあ行くか」
 二人はドアを開けて車に乗り込む。
 車は甲高いエンジン音を上げると、そのまま二人を乗せて山を下って行った。



 新しい年が始まり、すでに数週間が過ぎた或る日の昼前時。
 「はい、すみませんでした。以後気をつけますので。……はい、大変申し訳ありませんでした」
 二賀斗は、通話しながら深々とおじぎをする。
 「はい、失礼します」
 スマホの画面をタップして通話を切る。
 「はぁー。……またやっちまった。凡ミスだ」
 提出書類に記載誤りがあったため、再提出するよう、休日にも関わらず役所の担当者から二賀斗に連絡があった。
 「急いで作らないと期限に間に合わねえぞ」
 スマホを作業机の端に置き、パソコンを立ち上げると、早速、書類の作り直しに取り掛かる。
 葉奈がいなくなってからの二賀斗の情緒は、すこぶる不安定だった。……一言でいえば喪失感。先ほどまで忙しくキーを叩いていた指が、もう止まっている。
 「…………」
 気が付くと、ぼんやり画面を見つめている自分に気がつく。わかっていてもどうすることもできないでいる。……解決策を見つけたいと思っていても、探し出せない。
 ふいに二賀斗は椅子から身を起こすと、そのまま隣に置いてあるベッドに寝ころんだ。そして机に置いてあったスマホに手を伸ばすと、保存されていた一枚の画像を呼び出した。
 葉奈と一緒に撮った唯一の自撮り画像。葉奈が生きていた頃、戯れに一枚だけ撮った画像。
 “ねえ、写真撮ろうよ。一枚だけ。……記念だよ、記念”
 そう言って葉奈が二賀斗のスマホを奪って撮った。そこには笑顔でピースサインをする葉奈と、照れながらもすました顔をした二賀斗が仲良くツーショットで収まっていた。
 〈なんであいつはあんなに写真撮るのをせがんだんだろう。……自分がいなくなるのを予期していたってことなのか? ……どうなんだよ、葉奈〉
 突如、手に持っていたスマホから着信音が鳴り出した。
 「おおっ!」
 二賀斗は思わず身を起こした。画面を見ると、明日夏からの電話だった。ベッドにあぐらをかいて二賀斗は電話に出る。
 「は、はい」
 「もしもし、ニーさん?」
 「おお。……どした」
 頭を掻きながら覇気のない声で二賀斗は答える。
 「うん、ちょっとね。どぉしてるかなーって思って。……少し表に出ない?」
 「……う、うん。今、仕事中なんだ」
 そう言うと、二賀斗は放り出されたままになっているパソコンの画面を見つめた。
 「ふふっ……どうせしてないんでしょ。下で待ってるからさ、下りてきてよ」
 「へ?」
 明日夏のその言葉を聞くと、二賀斗は急いで掃き出し窓を開けてベランダに出た。南側の駐車場から笑顔で大きく手を振る明日夏の姿が見える。
 「待ってるわよ」
 そう言って、通話は切れた。

 数分後、二賀斗は両手で髪を押さえながら外階段を下りると、伸びた無精ひげを隠すように恥ずかしげに明日夏の元に歩いて来た。
 「何だよ、来るなら来るって言ってくれよ。……あれ? 髪、伸ばしたんだ」
 二賀斗は目を見開いて明日夏をじっと見つめた。明日夏の髪は、ブラウンに染まったナチュラルなボブになっていた。
 「……うん。変かな」
 明日夏は少し照れながらも微笑んでみせた。
 「いや、……似合ってるよ。なんか、……別人みたいだ」
 二賀斗は、雰囲気が変わった明日夏の姿に少し戸惑っていた。
 「ふふっ、ありがと」
 明日夏はうつむいて恥ずかしそうにお礼を言った。
 「……ニーさんは引きこもり中って感じ、ね」
 「はは、明日夏の隣にいるのが恥ずかしくなってくるよ」
 二賀斗は苦笑しながら無精ひげを撫でた。
 「ねえ、ちょっと歩こうよ」
 明日夏は二賀斗の袖を掴むと、おもむろに歩き始めた。

 ライトブルーのデニムパンツにグレーのパーカーという、ごく簡単な出で立ちの二賀斗は、少し恥ずかしそうにしながらも、綺麗に着飾った明日夏の隣を並んで歩いていく。
 二賀斗の住んでいるアパートは、街の中心市街地からほんの少しだけ離れた場所にある。歩いて十分もすれば市街地の商店街に出るし、二十分も歩けば最寄りの駅にも着く。
 二人は、ゆっくりと散策しながら商店街に出てきた。日曜日ということもあって、大通りもそれなりに混雑していた。
 「二つください」
 「はい、ありがとうございまーす」
 明日夏は、通りにある喫茶店の店先で販売していたホットコーヒーを二人分買うと、一つを二賀斗に差し出す。
 「あ、ああ、ありがと。えーと、いくらだった?」
 二賀斗は左手で尻のポケットをまさぐり、財布を出そうとする。
 「ニーさん、おごるわよ」
 律儀すぎる二賀斗の言葉に、明日夏は笑顔で応えた。
 商店街の通りを一本、奥に進むと比較的広い公園が見えてきた。その公園にはすべり台や砂場、ブランコといった遊具の他に、芝生の広場や小さい池があった。何人かの家族連れや子供たちがそこで自由に駆けずり回って遊んでいる。
 明日夏は公園を一望すると、少し離れた所にあるベンチに目をやった。
 「あそこに座ろ」
 うららかな空。雲一つない真っ青な空が頭上に広がっている。
 二人はベンチに並んで座る。
 「いくよー」
 「まってー」
 小学生低学年の子どもたちが二人の前を走りながら通り過ぎる。
 「……どお? 調子」
 明日夏は両手でカップを押さえながら二賀斗に話しかける。
 「うん。……なんだろねェ。全くもって何にも手につかないよ。……やっても失敗ばっかしてるしさ。……まずいよね」
 うつむきながら自傷気味に、でも真剣な眼差しで二賀斗は答えた。
 「俺と違って、明日夏は生き生きとしてるよな。……見ててまぶしいよ。何でこんなにも違うんだろうなぁ」
 明日夏は思いがけず心情を吐露する二賀斗をその場で静かに見つめると、笑みを浮かべて話しかけた。
 「私はね、この世界に未練なんかないの。……ほんとはね、今すぐにでも死んでしまいたい。でもね、それじゃ向こうの世界に行ったときに収に褒めてもらえないからさ。私は向こうに行ったときに収から“よくがんばった”って言ってもらいたいの。だからね、この世界でとにかく懸命に生きることにしたの。やり残しとか、後悔の無いようにとか、そんなんじゃない。ただがむしゃらに生きていくの。……そしてこっちでできなかった分あっちに行ったらいっぱい収に甘えるんだ!」
 二賀斗は明日夏の澄みきった顔を横目で眺めると、再び視線を落とした。
 「……そうか。……俺も早く、そうなりたいよ」
 二賀斗は小さな声でつぶやく。
 「……きつい?」
 明日夏はうつむいたままの二賀斗に向かって尋ねる。
 「……何て言えばいいんだろね。なんか、空っぽになったような気分だ。……何にも入ってない容器のようだ」
 二賀斗は背を丸めた。
 「……それで、そのまま殻に閉じこもって、葉奈ちゃんも忘れちゃう?」
 明日夏のその言葉を聞くと、二賀斗は反射的に丸めた背を起こし、眉を吊り上げた。
 「忘れるなんて! そんなッ!」
 感情を込めた二賀斗の大きな声が、周りで遊んでいた子ども達の動きを一瞬、止まらせた。
 驚いた子ども達は、一目散でその場から走って逃げていく。
 「だったら何かしなきゃ。……わかるわよ、つらい気持ち。今のニーさんは、ほんの少し前の私なんだもの。でもだからって無気力になったらダメよ、葉奈ちゃん見つけるんでしょ。ボーっとしてたって葉奈ちゃん見つからないよ。……もしかしたら、今頃どこかでニーさんのこと待ってるかもしれないよ?」
 明日夏は真剣なまなざしで二賀斗を見つめた。
 二賀斗は、親に叱られた子供のように小さくなって下を向いている。
 「……でも、でもさ、どうやって探す? どこにいる? 日本中を旅するのか? 現れるって決まってもいないのに……一体どこを探すんだよ!」
 明日夏は持っていたコーヒーカップを脇に置き、下を向いている二賀斗の顔を覗き込んだ。
 「ニーさん、あっちこっちを探すのだけが能じゃないわ。一か所にジッと留まって獲物を捕らえる動物だっているのよ。会えそうな予感がする一か所で待ってみるっていうのも、案外手かもよ。例えば、……あの小屋とか。そう言えばニーさん、あの小屋に残るんじゃなかったの?」
 二賀斗は下を向いたまま答える。
 「……あそこに居ると気持ちが落ち着くよ。葉奈がそばにいるみたいでさ。……でも、あそこ私有地だろ? 葉奈が居たときだったら何か言われたって“借地人の相続人だ”って堂々と権利を主張することができたけど、葉奈がいなくなっちまったんじゃ、堂々とあそこには居れないよ。不法占拠になっちまう」
 明日夏は顔を上げてベンチの背もたれに寄りかかった。
 「……ニーさんらしいってゆうか、らしくないってゆうか。……結構、行動派だと思ってたんだけど、実は裏付けがないと動けないタイプだったの? 私から見ればそうゆう小難しいこと盾にして逃げてるようにしか見えないんだけどなぁ」
 二賀斗は下を向いたまま眉をしかめた。
 「職業柄なのかな? 何かニーさんって、世間体とかそういうの気にしすぎなんじゃないの? 私だったら毎日だってそこに通って様子見に行くかも。だって、会えるかもしれないんだよ。……まぁ、会えない可能性の方が大きいんだろうけど。でも何もしないより何かしてるほうが絶対葉奈ちゃんとの距離を縮めているってゆう気持ちになる、って思うんだけどね。……私は」
 そう言うと明日夏は、脇に置いておいたカップを手に取り、中のコーヒーを飲み干した。
 「冷たい言い方はニーさんの専売特許だけどさ、私たちは毎日毎日少しずつ年を取っていくのよ。ニーさんは三十一歳、私も四捨五入すればもう三十。この前、高校の卒業アルバム見たらびっくりしちゃった、若くって。……人生は長くても、想いで動ける時間は短いわ。何もしないより、少しでも実のある人生を送りましょ。……ね、ひろきさん」
 明日夏は優しく微笑むと、自分の肩を軽く二賀斗の腕に押し当てた。
 二賀斗は下を向いたまま、口角を上げる。
 「……ありがと。ほんとにありがとな、明日夏。ほかの誰に言われるよりもずっと胸に沁みたよ。収によく言っておかなきゃなぁ。明日夏には助けられてばっかりだって」
 二賀斗は顔を上げるとコップに入っているコーヒーを一気に飲み干した。
 〈よしッ!〉
 心の中で気合を入れると、二賀斗は青い空を見上げた。
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