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第十三章

泉のごとく湧き出てくるもの

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 今なお、かつて魔竜であったものが放つ異臭は、周囲に漂いつづけていた。まるで臓腑の腐ったようなどぎつい臭いである。普通の状況であらば兵たちは、大騒ぎしていたかもしれない。
 だが。
 衝撃的な事態に、誰も身動きひとつしない。
 しわぶきひとつも聞こえなかった。
 沈黙のなかで口を開いたのは、凱魔将ラートドナだった。

「――い、いったい何事が生じたのだ!?」

 かれの困惑は無理からぬことであった。
 かれをとりまく異世界勇者たちも、まったく同感だったからである。
 この倒れ伏しているドワーフが何かをやった。
 それだけは事実だろう。
 しかし、彼らが目にした光景は、あまりに現実離れしていた。目前にいたドワーフ、ダー・ヤーケンウッフの短躯がたちまち膨張するように大きくなり、ついには見上げるがごとき蒼き巨龍と変化したのである。
 これが珍事でなければ、なにが珍事か。

「幻術のたぐいですかね?」

 小首をひねりながらミキモトが口を開いた。

「だけどよ、目の前にいた魔竜が破裂したのは事実だぜ」

「前々から思っていたけど、このドワーフは、ちょっと異常よねェ」

 ゴウリキとケイコMAXも、呆れた顔で会話をかわしている。ここが10万の敵軍に囲まれた死地であることをまるきり意識していないのは、流石に豪胆ともいえた。
 
「――かくなる上は、是非もない!」

 そう大声をあげたのはラートドナである。切り札である魔竜を一撃で粉砕され、心理的に押されているのを彼自身は理解していただろうか。

「魔王軍10万の中央に突進してきた蛮勇を、その身で贖ってもらうぞ。全軍、この3勇者を押し包んで討ち取れ! 褒美は思いのままだぞ!」

「あら、ついにこのひと、短慮を発しちゃったのね」

「その10万を思うさま蹴散らしてここまで来たのに、何をいってるのですかね」

 フン、とミキモトは軽率な笑みを浮かべた。
 それがラートドナの逆鱗に触れた。彼は天空へ掌を向けると、さっと下へ向ける。しばらく鈍重にその動きを眺めていた魔王軍の諸将も、その意味を理解し、ただちに行動を開始した。
 全軍突撃の合図である。
 
「3人もいれば、小一時間ほどで片付くだろうぜ」

「いや、誰が一番多く敵を倒すか、ひとつ競争といきましょうかね」

 と、この事態に対しても、3勇者は余裕の構えを崩さない。 
 しかし彼らはひとつ失念していたことがあった。

「貴様ら、このラートドナのことを忘れておるのではないか?」

 言われて遅ればせながら、一同はハッとなった。
 これまで彼と正面きって対戦し、まともに勝った者は勇者のなかでひとりもいないのである。無論、それは3勇者が互いに足を引っ張りあい、協力することを固く拒んでいたという背景もある。だが、この総大将をあずかるラートドナの実力は本物であった。
 
「この男の相手は、ワタクシが引き受けるわ」

 胸を張ってラートドナと対峙したのはケイコMAXである。この発言には、微妙なニュアンスが込められている。時間を稼ぐ。暗にそれを告げているのだ。

「おい、ミキモト、それじゃ2人で10万片付けるぜ」

「あまり現実的な計算ではありませんね」

 3人なら1人頭3万ちょいと言うところである。これまた現実離れした数字だが、異世界勇者の武器ならば可能のように思われる。だが、1人で5万というのは、さすがに厳しいように思われる。それにケイコMAXがどれぐらい、あの強敵のラートドナ相手に時間を稼げるのか未知数でもある。
 ケイコMAXとラートドナは、早くも互いに間を詰めている。
 すでにラートドナの巨大な剣の間合いである。
 あちらが負ければ、一気に算段が狂う。
 
 魔王軍10万は、全軍が痴呆の群れというわけではない。
 鋼魔将の任を与えられた者のうち、特に勇猛で知られたンバラバ、ントロードの2将は、すでに先程の衝撃から醒めている。ふたりはほぼ同時に剣を掲げ、呆然としたままの将兵を叱咤した。

「何を呆然としておるか! ラートドナ様の命が聞こえぬか?」

「異世界勇者の首を獲った者は、褒美は思いのままぞ!」

 目が覚めたように、魔王軍は動きはじめた。
 ミキモトが舌打ちとともに、すぐさまレイピアで虚空を切りさいた。
 数名の魔族が目に見えぬ衝撃に打ちのめされ、宙を舞った。
 ゴウリキの空烈破斬がゴブリンの一群を消滅させた。
 それでも魔王軍は動きを止めぬ。全軍が目を血走らせ、3人の勇者を血祭りにせんと猪突してくる。そのつど、数人の兵どもが空を舞い、大地を朱色の塗料が汚した。

「おい、こいつら、急にやる気になったようだぜ」

「さすがにこれだけの数の兵が全力でかかってくると、面倒ですね」

 敵中深くに突入したのが、逆に災いしたようだ。いってみれば、彼らは10万という必殺の包囲網の中にいる。退路はない。

 一方、倒れ伏したままのダーには、敵に対抗する手段がない。
 彼のパーティーメンバーが、ぐったりと倒れたダーの周囲をフォローするようにとりかこみ、敵の刃から身を護っている。しかしこの大軍相手では、嵐のなかに漂う小船のように、大波に飲み込まれるしかないであろう。
 そのなかで、ひときわ大柄な女戦士が、目ざましい活躍を見せている。
 漆黒の戦女神、クロノトールだ。切りさき、薙ぎ、打ち払う。多種多様な剣技を駆使し、敵を次々と大地に這わせていく。反撃に転じようとすれば、巨体に似合わぬ俊敏なフットワークで回避し、手痛いカウンターを与える。彼女の背後を守るのは赤い装備で身を固めた片目の女傑、スカーテミスだ。
 赤と黒。
 ふたりの女剣士は一対の旋風となって修羅のごとき活躍を見せる。
 だが、それも時間の問題だ。倒しても倒しても湧いてくる圧倒的な数の敵兵に対し、ふたりの動きは徐々に精彩を欠きはじめる。さすがに体力は無尽蔵ではない。
 
 スカーテミスの肌に、紅いの裂傷が目立ちはじめる。
 疲労により、回避が遅れがちになっているのだ。
 いち早く、彼女の疲労に気付いたのは、当然ながら共に闘っているクロノトールである。彼女はテミスの身を守りつつ、さらには身動きひとつせぬダーを守りつつ、ひたすらに剣を振るいつづける。全身から滝のような汗が流れ、呼吸も荒い。
 もはや体力の限界はすぎているはずである。しかし、彼女の動きは鈍らない。
 それどころか、ますますその動きは加速していく。

「なんだあの女戦士は? 本当に人間なのか?」

 脅威の声を発したのは、鋼魔将ントロードだ。
 いったいあの女ひとりを始末するのに、どれだけの将兵が犠牲になったのか。あまりの被害の甚大さに、ントロードは自らの剣で直接倒さねばならないと決意した。

「われの名は、鋼魔将ントロードと申す! そちらの名は!!」

「……ダーの弟子、クロノトール……」

 クロノは荒い呼吸の隙間から、吐き出すように応じた。
 
「よし。勇敢なる戦士クロノトールよ、いざ、尋常に勝負!!」

 これは無理な勝負というものであった。もはや、彼女の肉体は疲労困憊の極にあり、まともに闘える状態ではなかった。だが、クロノには逃げるという選択肢はなかった。
 
 ダーを護るためなら、ここで朽ちても悔いは無い。

 ただ、そう思ったのだ。
 彼女の心には、それしかなかったといっていい。
 すると、奇跡というべき出来事が生じた。
 突然だった。クロノトールは、身体の奥底から、泉のように体力が湧き出るのを感じていた。疲労が嘘のように引いていき、鉛のように重かった手足が羽毛のように軽く感じる。
 熱い闘志が、心の深部から熾のごとく燃えさかってくる。
 何が原因か、彼女にはわからなかった。
 だが、ダーからもらった石――イエカイの涙――それを彼女はネックレスにして、いつも肌身離さず身につけている。その部分から、炎のような熱さを感じる。
 しかし、今の彼女にはそれを気にかける余裕はない。
 
 敵の剣が振ってくる。
 まるで動きがスローモーションのように遅く感じる。 
 それを旋回しつつ回避し、真横から剣を薙いだ。
 クロノトールの黒いバスタード・ソードは、ントロードと名乗った男の兜の真横に炸裂し、まるで赤い果実のように中身ごと粉砕した。

 彼女の周囲を、波のごとく、驚愕の声が包んでいた。それも無理はない。
 魔王軍でも屈指の剣の使い手、鋼魔将ントロードが一瞬で屠られたのだ。

「……敵将……討ち取った……!」

 クロノの雄叫びがとどろいた。
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