小野寺社長のお気に入り

茜色

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アクシデント

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 姉の電話の要件は、母に関することだった。
 姉夫婦が旅行に出る少し前から母は風邪をひいていたらしい。熱が続いていたため姉は旅行を取りやめて母のそばにいようと考えたのだが、母は「大丈夫だから行っておいで」と半ば強引に姉たちを送り出したのだと言う。
 北海道に着いてからも毎日実家に電話を入れていたが、今日は朝から何度電話しても母が応答しないのだそうだ。

「昨日電話したとき、かなり咳き込んでて辛そうだったのよ。聞いても『大丈夫』って言い張るだけだし、あんたも忙しいだろうから黙ってたんだけど……、さすがに今日は全然連絡取れないから心配になっちゃって。ねえ、こんな時間に悪いんだけど、できたらお母さんの様子見てきてもらえない……?」
 いつも強気の姉が、珍しく心細げな声を出している。それだけで渚まで不安に駆られ、とにかく今から実家に帰ってみると答えて電話を切った。

「どうした?家で何かあったのか?」
 小野寺がいつになく真面目な口調で尋ねてくる。
「実家の母が風邪で体調が悪かったみたいなんですけど、近所に住んでる姉夫婦が旅行に行ってる間に連絡が取れなくなったらしくて……。家で倒れてるんじゃないかって姉が心配してて」
 説明しながら、不本意にも声が震えてきた。
 母はもともとあまり身体が丈夫ではなく、今までにも何度か入院している。もう決して若くはないし、ただの風邪だと甘く見ていたら大変なことになるかもしれない。
 念の為に渚も実家の電話を鳴らしてみたが出る気配がない。母の携帯電話にもかけたけれど、すぐに留守番電話になってしまった。

「おまえの実家、Y市のどこだっけ?」
「あ……、K区です。社長、すみません。ここから一番近い駅で下ろしてもらえませんか?」
「あの辺なら電車で行くよりこのまま高速に乗った方が速い。送ってくよ。住所は?」
 一瞬遠慮すべきかと迷ったが、こういうときは素直に厚意に甘える方が良いような気がした。渚が実家の住所を口にすると、小野寺がさっそくカーナビに打ちこんでいく。その横顔がやけに頼もしく見え、今このとき小野寺がそばにいてくれることに心から感謝の気持ちを抱いた。

「すみません、社長。こんな迷惑ばっかり……」
「こういうのは迷惑でもなんでもない。大丈夫だよ。すぐ着くから、心配するな」
 そう言って小野寺は渚の頭をぽんぽんと軽く叩き、勇気づけるように頷いてから車を発進させた。


 四十分後、車は渚の実家に到着した。
 築二十年以上の戸建は、こうして暗い夜更けに見上げると随分と古めかしく侘しい佇まいに感じられた。
 渚がこの家を出て四年半になる。新卒で入社した最初の会社があまりに残業が多く、通勤時間を短縮したくて二年目に実家を出たのだ。金銭的にはぎりぎりだけれど、都内での自由な一人暮らしは渚の性に合っていた。その上、ずっと母と暮らしていた姉が結婚後も実家近くのマンションに新居を構えたことで、渚はすっかり安心しきっていた。

 慌ただしく助手席を降り、バッグからいつも持ち歩いている実家の鍵を取り出す。門扉の灯りが点いていないのを見て、ますます不安な気持ちに駆られていく。
 鍵穴に鍵を差すとき、指先が震えて手間取った。車から降りてきた小野寺が「貸してみろ」と言って代わりに解錠してくれる。ドアを開け、渚はもどかしく靴を脱ぎ捨てた。「俺も上がらせてもらう」と言って、小野寺が後からついてくる。
 台所にだけ電気が点いていて、居間は雨戸も閉めずガラス戸のままになっていた。

「お母さん?!」
 奥の和室へと急ぐ。緊張しながら引き戸を開けると、部屋の照明を一番小さく絞った中で母が蒲団にくるまって眠っていた。
「お母さん、大丈夫……?」
 屈み込んで話しかけるが、母は何も答えない。小野寺が照明を明るくし、渚の隣にしゃがんで母の顔を覗き込んだ。

 母は今まで見たことがないほど真っ赤な顔をしていた。ゼイゼイと苦しげな呼吸を繰り返していて、何度呼んでも肩をゆすってもまともな反応が返ってこない。額に手を当てると驚くほど熱く、パジャマの襟が汗でじっとり湿っていた。

「この様子だと、40度いってるかもな」
 小野寺が冷静な声を出したので、渚は思わずゾクッとした。40度なんて熱、渚自身一度も経験したことがない。
 ただの風邪ではないのだろうか。ここまでこじらせる前に連絡を寄越してくれれば良かったのに、母はいつも娘たちに遠慮して平気なふりをするクセがある。

「あ、どうしよう……。呼んでも起きないって、意識がないってことですか……?」
 こういうとき咄嗟にどうしたらいいのか分からなくなり、渚は何もできない子供に戻ったようにオロオロした。
「救急車、呼ぼう」
「えっ?!救急……?」
「このままでいいわけないだろう。すぐ病院に連れてった方がいい」
「あっ、そ、そうですね……。えっと、救急車……」
 どうして自分の身内だと、こんなにも動揺してしまうのだろう。渚は情けなさのあまり、自分の頬を叩きたくなった。

「俺が電話するよ。携帯より家電の方がいいな。あっちか?」
「あっ、居間のドアの右横です」
「了解。おまえは一緒に救急車乗れるように準備しとけ。そのまま入院になるかもしれないから、お母さんの着替えとかタオルとか、多少用意しておいた方がいいぞ」
「は、はい……っ。分かりました……!」 
 小野寺が電話をかけに居間に向かう。渚も慌てて立ち上がり、箪笥の引き出しを開けて母の下着やタオル、保険証などを揃え始めた。


 母は救急車で近くの総合病院に運ばれ、肺炎と診断されてそのまま入院となった。
 小野寺は後から車で病院まで追いかけてきてくれた。渚が医師から説明を聞くときも入院手続きをするときも、小野寺が横についてフォローしてくれたのでとても心強かった。
 そうして今夜必要な手続きをすべて終えると、小野寺は車で渚のアパートまで送ってくれた。

「明日は一日休んでいいから、お母さんについててやれ。落ち着かなそうなら明後日も休んでいい。何かあればすぐ連絡しろよ。遠慮しないで、様子だけでも知らせてくれ」
 アパート前に車を停めると、とても優しい声で小野寺が言った。もう日付がとっくに変わっていて、細い三日月が冷たい夜空にぽつんと浮かんでいる。

「社長、今日は本当にありがとうございました。何から何まで助けてもらって……、すみませんでした」
「そんなことは気にしなくていいって。疲れただろうから今日はとにかく休め」
「社長も疲れてますよね。明日も仕事なのに、ごめんなさい」
「俺は平気だよ、頑丈だからな。……いいか、風呂入ってよく温まって、しっかり睡眠取れよ。おまえが元気じゃないとお母さんの看病もできないぞ」
「……そうですね。そうします。本当にありがとうございました」
 渚は感謝を込めて小野寺に微笑み返した。
 一瞬視線が絡みあい、このまま車を降りたくないような衝動に駆られる。けれども今はそれどころではないと自分を叱り、渚はシートベルトを手早く外した。

「渚」
 助手席のドアに手を掛けたとき、小野寺に呼び止められた。
 振り向くと、すぐ近くに小野寺の顔があったので少しびっくりした。でも嬉しかった。本当は、車を降りる前に小野寺にキスしてほしいと望んでいたから。

 重なった小野寺の唇は、泣きたくなるほど優しかった。この感触と息遣いを、渚は何日も恋い焦がれ求めていたのだ。
 エスカレートしないよう自制が感じられるキスだったけれど、逆に小野寺の想いが伝わってきてせつなくなる。慈しむように唇を吸われ、渚の眼尻に少しだけ涙が滲んだ。

「社長……」
 唇を離したとき、渚の息はかすかに乱れていた。小野寺は渚の髪をゆっくり撫で、それからおでこにそっとくちづけた。
 抱きしめられても、渚はこの前のように身を硬くしたりはしなかった。小野寺の腕に包まれて、身体がとろけそうな安心感にしばし身を委ねていた。

「おやすみ。部屋に入るまで見張っててやるから」
「……はい。明日、また連絡します」
 社長も帰り道、気をつけてくださいね。そう言って笑顔を見せてから渚は車を降りた。

 アパートの階段を昇り、一番手前の住戸のドアに鍵を差し込む。
 部屋に入る間際にまだ停まっている小野寺の車を見下ろした。渚が小さく手を振ると、小野寺も背をかがめて車窓越しに手を振り返してきた。
 胸に小さな火が灯るような気持ちを抱きながら、渚は自分の部屋の明かりを点けた。


 それから木、金の二日間、渚は会社を休ませてもらった。
 そのまま週末に突入したので、結局丸々4日も休むことになってしまった。小野寺がそうしろと命じてきたので、ここは図々しく甘えさせてもらうことにしたのだ。
 
 母の容体は思ったより早く落ち着き、三日目には起き上がって談笑できるようになった。
 先々週に町内会の仲間と温泉に出掛けて風邪をひき、それからずっと体調が悪かったのだと母は申し訳なさそうに白状した。ハネムーン代わりの旅行を控えた姉夫婦を心配させたくなくて、熱があっても平気なふりをしていたらしい。

 渚は具合が悪いのに連絡せずに我慢していた母に小言を言い、もう二度と無理はしないと約束させた。姉夫婦には「肺炎で入院したが、落ち着いたので心配ない」と連絡し、予定通り月曜に帰ってきてくれて構わないと伝えてある。今回のことで姉はひどく落ち込んでいたが、実家の母にマメに連絡を入れていなかった渚もまた責任を感じていたので、お互い様だと慰めあった。


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