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その日を境に、渚は小野寺の下で働きながら妙にソワソワ落ち着かない日々を送る羽目になった。
官能的な体験に翻弄された後、土日は何をしていても小野寺とのキスを想い出してしまい、お腹の奥がムズムズして仕方なかった。
薄暗い室内で間近に見た小野寺の黒い瞳や、肌に感じた熱い吐息、舌を絡めたときの感触や唇の柔らかさの記憶に溜息をついてばかりいた。自分はこんなにドキドキしているけれど、きっと小野寺は何事もなかったように週末を楽しんでいるのだろうと想像してむなしくなったりもした。
そう言えば、小野寺が休みの日にどんなふうに過ごしているのかを渚はほとんど知らない。
今現在特定の恋人がいるという噂は聞かないが、表面的には恐ろしいほどモテることも知っている。実際にあのだらしない横暴な性格を知れば呆れて離れて行く女性が大半だと思うけれど、そうは言っても一応会社経営者でありルックスも良いとくれば、やはり小野寺を狙う女性は少なくないだろう。
以前飲み会の席で、社員の誰かが小野寺に訊いていたことがある。「社長はどうして結婚しないんですか?」と。
そのとき小野寺はたしかこう答えていた。焼酎のグラスを手に、とても面倒くさそうに。
「だって四六時中同じ相手と一緒にいるなんて、鬱陶しいだろう?この先ずっとだぞ?自分のペース乱されることを考えるだけでゾッとするよ」
女に不自由してない人はこれだからなぁ……!そんなふうに同僚たちがワイワイ騒いでいたのを思い出す。そうだ、あのとき渚は小野寺の言葉に失望し、呆れ、こういう男にだけは心を許してはいけないと誓ったのだ。
それなのに。絶対プライベートでは近づいてはいけない相手なのに、やすやすとキスを許してしまうなんて。
だいたい、「俺が大人のいい女にしてやる」だなんて、どれだけ自信過剰で偉そうなのか。
冗談じゃない。余計なお世話、私は自分を安売りする気なんてありません!ピシャリとそう言ってやれば良かったのに。
なのに実際は、キスひとつだけで心も身体もぐにゃぐにゃと力を失ってしまった。そしてあれ以来、小野寺の一挙手一投足を眼で追い、言葉に過敏になり、仕事中も妙に意識してしまう日々が続いている。
困った。アシスタントがこんなふうに上司を意識したら、仕事になんてならない。
渚は自分に喝を入れ、とにかく今は目前に迫った商業施設の五周年イベントの準備に集中しようと気持ちを引き締めた。
当日、ショッピングモールの記念イベントは、大きな混乱もなく無事に終了となった。天気に恵まれたせいか予想以上に人も集まり、事業主も充分満足してくれたようだった。
週末にこの手のイベントがある場合、当然担当スタッフは休日出勤扱いとなる。今回は小野寺と渚、渚の先輩社員の遠藤が土日とも立ち会う形となった。
夕方6時過ぎにすべての撤収を終え、打ち上げを兼ねて会社近くの馴染みの居酒屋に繰り出した。
狭い半個室の丸テーブルを三人で囲むようにして座り、それぞれが食べたいものを好き勝手にオーダーしていった。小野寺と遠藤はビールとチューハイ片手に焼き鳥を散々食べ散らかし、渚はアルコール度数の低いカクテルを飲みながら、お気に入りメニューの白身魚の梅シソ巻きや和風パスタでお腹を満たした。
飲んでいる途中から、左隣に座っている遠藤が微妙に身体を寄せてきているのに気づき、渚は少々戸惑いを感じていた。
二つ年上の遠藤は、数か月前から渚と一緒に仕事をすることが増えており微妙に個人的な距離感を縮めてきている。他の社員はまだ知らないらしいのだが、渚は少し前に遠藤から「実は会社を辞めて地元に帰ろうかと思っている」と打ち明けられていた。親が年を取って病気がちのため戻ってきてほしいと言われているそうで、なぜか渚に「うちの田舎、いいところだよ。暮らしやすいと思う。朝岡さんみたいな子なら、上手く馴染めそうな気がするなぁ」などと粉を掛けてきたのでとても驚いた。
最初は自分が自意識過剰なのかと思ったが、どうやら遠藤が渚を口説いているのは間違いないようだった。特にこの一、二週間は、態度がよりあからさまになってきて正直困っていた。
つきあってもいないのにいきなり地元に呼ぼうとする感覚が理解できなかったし、遠藤のスマートではない誘い方は返って渚の気持ちを委縮させた。なので、やんわりと誘いから逃げる日々が続いているのだが、今夜はどういうわけかその遠藤と小野寺と三人で飲む羽目になり、最初から渚はやや居心地の悪さを感じていたのだ。
一時間ほど飲んで食べて落ち着いた頃、遠藤は改まった様子で小野寺に向き直り、近々退職して実家に帰りたい旨を切り出した。
遠藤は田舎に戻ったら、家業のスーパーを継ぐつもりだと言う。小野寺は神妙な顔で話を聞き、「貴重な戦力を失うのは痛手だが、そういう事情なら仕方ない」と言って、遠藤の退職の意思を受け入れた。
今まで大いに会社のために尽くしてくれた遠藤に対し、小野寺は「退職金は弾んでやるぞ」と気前のいい笑顔を見せた。社長のおおらかな態度に気が大きくなったのか、それとも酔いが回ったせいなのか、遠藤は調子に乗ってとんでもないことを言いだした。
「社長、この流れでオレのプロポーズもフォローしてもらえませんか?」
「……プロポーズ?なんだ、おまえ彼女がいたのか」
小野寺が面白そうな顔になってネクタイを緩め、その横で渚は嫌な予感を抱き始めた。
「いや、実はまだつきあってないんすよぉ。でも田舎に帰ると決めたからには、この気持ちに決着つけたいなって思って。その子に一緒にうちの田舎に来てもらって、いずれはスーパーも夫婦経営できたらなーなんてね、勝手に思い描いてるんですけどね」
「なんだ、随分ひとりで先走ってるんだな。そんなにいい子なのか」
「へへ。実はずっと前から眼をつけてて」
「ふーん。で、上手くいく見込みはありそうなのか?相手はどんな子だ?なあ、朝岡も気になるよな」
何も気づいていない小野寺は、口数の少なくなった渚の頭をポンポンと軽く叩いた。こんなときでも小野寺の大きな手で触れられると、勝手に心臓が騒ぐのが忌々しい。
「社長、私ちょっとお化粧室に……」
「あ、待って、朝岡さん。大事な話があるんだから!」
立ち上がろうとした渚の手首を、遠藤が横からグイッと掴んだ。
遠藤の手は少し湿っていて、なぜかザワザワと背中に違和感が走る。そして反対側に座っている小野寺の表情が、遠藤に手を掴まれた渚を見て一瞬強張ったように感じられた。
「ね、朝岡さん、座って座って」
手を引っ張られ、渚は畳の上に渋々座り直した。右からの小野寺の視線が痛い。誤解されたくないという思いが込み上げてきて、渚は思わず遠藤の手を押し戻した。
「あ、ごめん。痛かった?」
「いえ、そうじゃなくて、あの……」
「朝岡さん、せっかくだから社長の前で思い切ってオレ言っちゃうよ。社長も立会人になってください、お願いします!」
「え、あ、ああ……」
ようやく事態を呑み込んだらしい小野寺の瞳に、珍しく微かにうろたえたような色が見えた。渚は焦って小野寺に小さく首を振る。誤解しないで、違うんです、と声に出したくてたまらない。
「朝岡さん、もう時間が限られてるから勇気だして言うよ。あのさ、良かったらオレについて来てくれないかな。その、結婚を前提に、うちの田舎に……」
「……行きません」
咄嗟に声を上げていた。あまりの即答に遠藤はきょとんと眼を見開き、右隣の小野寺は渚の顔に強い視線を注いでいる。
訳もなく頬が熱くなった。気まずい空気になるのは申し訳ないけれど、渚はこの話題自体を今すぐにでも打ち切りたかった。
「あの、ごめんなさい。お気持ちはとっても嬉しいんですけど、遠藤さんには本当にお世話になって感謝してるんですけど、でも私、一緒に行けません」
「……えっと、試しにちょっと遊びに来てみるとかでもいいんだけど……。それからゆっくり考えるとか……」
「ごめんなさい、それもできません」
悪いと思いつつ頑なな言い方になってしまい、遠藤の空気が微妙に張りつめるのを肌で感じとった。
「……朝岡さん、彼氏いないって言ってたよね?」
「いませんけど……、でも」
「だったらこういう機会をお試ししてみるのも悪くないんじゃない?ねえ、社長?そう思いますよね?朝岡さんだってそろそろアラサーでしょ?だんだんこういう口説きも減ってくると思うし、悪い話じゃないと思うんだけどなぁ」
「でも、そんないい加減な気持ちでお受けしたら、返って遠藤さんに失礼だと思いますし」
「いやいや。ろくに考えもせずにバッサリ切る方が失礼だと思わない?ねえ、オレ結構いい旦那になると思うよぉ?」
酔っているせいなのか、社長の眼の前で恥をかかされたと思っているのか、遠藤はいつになくしつこい口調で渚に絡んできた。
実は今までも遠藤のこういう一面が苦手だった。一見気が良さそうなのだけれど、緩い雰囲気で相手にすり寄りながらなんだかんだで自分の望む方向に話を持っていってしまう。その強引さは小野寺のそれとはかなり異質で、渚は小野寺の身勝手さは許せてしまうのに、遠藤には困惑する理由がなぜなのか自分でもよく分かっていなかった。
「あの、そもそもおつきあいもしてない間柄で、いきなり一緒に田舎に帰るとか、急すぎて考えられなくて……」
口調がしどろもどろになるのが自分でも情けない。いつもはヘラヘラ笑って気のいい遠藤が、だんだんムキになる気配を感じる。
「ねえ、朝岡さんさ。口説かれてるうちが花だと自覚した方がいいよ。ね?悪いようにはしないからさぁ。ねえ、社長も説得してくださいよぉ。あ、うちの実家ね、結構資産あるし悪くないと思うよ、マジで!」
ね?と微笑みかけながら、遠藤が渚の肩をグイッと抱き寄せてきた。胸に倒れ込みそうになり、遠藤の酒臭い息が鼻腔をかすめて渚は咄嗟に顔をしかめた。
遠藤の体臭に本能的な嫌悪感を感じる。小野寺にキスされたときは、わずかに小野寺の汗の匂いを感じても不思議と嫌だと思わなかったのに。
「おい、そこまでにしておけ。もう諦めろ」
小野寺のきっぱりとした声にハッとして顔を上げると、渚の身体が反対側に引っ張られた。小野寺が遠藤の手を渚の肩から剥がし、二の腕に手を添えてきちんと座り直させてくれたことに気づく。
「ちょっ、社長……!なんで味方してくれないんすかー!」
「フラれた相手ににしつこく絡んで困らせるな。みっともない」
「えーっ!ちょっと待ってくださいよぉ。オレちゃんと口説き落としてみせますって」
「無駄だ。朝岡には、心に決めた好きな男がいるんだよ。おまえの出る幕じゃない」
ぴしゃっと跳ねつけるように言い放たれ、遠藤がショックを受けたように口を噤んだ。その横で、渚は小野寺の言葉になぜだか涙ぐみそうになっていた。
官能的な体験に翻弄された後、土日は何をしていても小野寺とのキスを想い出してしまい、お腹の奥がムズムズして仕方なかった。
薄暗い室内で間近に見た小野寺の黒い瞳や、肌に感じた熱い吐息、舌を絡めたときの感触や唇の柔らかさの記憶に溜息をついてばかりいた。自分はこんなにドキドキしているけれど、きっと小野寺は何事もなかったように週末を楽しんでいるのだろうと想像してむなしくなったりもした。
そう言えば、小野寺が休みの日にどんなふうに過ごしているのかを渚はほとんど知らない。
今現在特定の恋人がいるという噂は聞かないが、表面的には恐ろしいほどモテることも知っている。実際にあのだらしない横暴な性格を知れば呆れて離れて行く女性が大半だと思うけれど、そうは言っても一応会社経営者でありルックスも良いとくれば、やはり小野寺を狙う女性は少なくないだろう。
以前飲み会の席で、社員の誰かが小野寺に訊いていたことがある。「社長はどうして結婚しないんですか?」と。
そのとき小野寺はたしかこう答えていた。焼酎のグラスを手に、とても面倒くさそうに。
「だって四六時中同じ相手と一緒にいるなんて、鬱陶しいだろう?この先ずっとだぞ?自分のペース乱されることを考えるだけでゾッとするよ」
女に不自由してない人はこれだからなぁ……!そんなふうに同僚たちがワイワイ騒いでいたのを思い出す。そうだ、あのとき渚は小野寺の言葉に失望し、呆れ、こういう男にだけは心を許してはいけないと誓ったのだ。
それなのに。絶対プライベートでは近づいてはいけない相手なのに、やすやすとキスを許してしまうなんて。
だいたい、「俺が大人のいい女にしてやる」だなんて、どれだけ自信過剰で偉そうなのか。
冗談じゃない。余計なお世話、私は自分を安売りする気なんてありません!ピシャリとそう言ってやれば良かったのに。
なのに実際は、キスひとつだけで心も身体もぐにゃぐにゃと力を失ってしまった。そしてあれ以来、小野寺の一挙手一投足を眼で追い、言葉に過敏になり、仕事中も妙に意識してしまう日々が続いている。
困った。アシスタントがこんなふうに上司を意識したら、仕事になんてならない。
渚は自分に喝を入れ、とにかく今は目前に迫った商業施設の五周年イベントの準備に集中しようと気持ちを引き締めた。
当日、ショッピングモールの記念イベントは、大きな混乱もなく無事に終了となった。天気に恵まれたせいか予想以上に人も集まり、事業主も充分満足してくれたようだった。
週末にこの手のイベントがある場合、当然担当スタッフは休日出勤扱いとなる。今回は小野寺と渚、渚の先輩社員の遠藤が土日とも立ち会う形となった。
夕方6時過ぎにすべての撤収を終え、打ち上げを兼ねて会社近くの馴染みの居酒屋に繰り出した。
狭い半個室の丸テーブルを三人で囲むようにして座り、それぞれが食べたいものを好き勝手にオーダーしていった。小野寺と遠藤はビールとチューハイ片手に焼き鳥を散々食べ散らかし、渚はアルコール度数の低いカクテルを飲みながら、お気に入りメニューの白身魚の梅シソ巻きや和風パスタでお腹を満たした。
飲んでいる途中から、左隣に座っている遠藤が微妙に身体を寄せてきているのに気づき、渚は少々戸惑いを感じていた。
二つ年上の遠藤は、数か月前から渚と一緒に仕事をすることが増えており微妙に個人的な距離感を縮めてきている。他の社員はまだ知らないらしいのだが、渚は少し前に遠藤から「実は会社を辞めて地元に帰ろうかと思っている」と打ち明けられていた。親が年を取って病気がちのため戻ってきてほしいと言われているそうで、なぜか渚に「うちの田舎、いいところだよ。暮らしやすいと思う。朝岡さんみたいな子なら、上手く馴染めそうな気がするなぁ」などと粉を掛けてきたのでとても驚いた。
最初は自分が自意識過剰なのかと思ったが、どうやら遠藤が渚を口説いているのは間違いないようだった。特にこの一、二週間は、態度がよりあからさまになってきて正直困っていた。
つきあってもいないのにいきなり地元に呼ぼうとする感覚が理解できなかったし、遠藤のスマートではない誘い方は返って渚の気持ちを委縮させた。なので、やんわりと誘いから逃げる日々が続いているのだが、今夜はどういうわけかその遠藤と小野寺と三人で飲む羽目になり、最初から渚はやや居心地の悪さを感じていたのだ。
一時間ほど飲んで食べて落ち着いた頃、遠藤は改まった様子で小野寺に向き直り、近々退職して実家に帰りたい旨を切り出した。
遠藤は田舎に戻ったら、家業のスーパーを継ぐつもりだと言う。小野寺は神妙な顔で話を聞き、「貴重な戦力を失うのは痛手だが、そういう事情なら仕方ない」と言って、遠藤の退職の意思を受け入れた。
今まで大いに会社のために尽くしてくれた遠藤に対し、小野寺は「退職金は弾んでやるぞ」と気前のいい笑顔を見せた。社長のおおらかな態度に気が大きくなったのか、それとも酔いが回ったせいなのか、遠藤は調子に乗ってとんでもないことを言いだした。
「社長、この流れでオレのプロポーズもフォローしてもらえませんか?」
「……プロポーズ?なんだ、おまえ彼女がいたのか」
小野寺が面白そうな顔になってネクタイを緩め、その横で渚は嫌な予感を抱き始めた。
「いや、実はまだつきあってないんすよぉ。でも田舎に帰ると決めたからには、この気持ちに決着つけたいなって思って。その子に一緒にうちの田舎に来てもらって、いずれはスーパーも夫婦経営できたらなーなんてね、勝手に思い描いてるんですけどね」
「なんだ、随分ひとりで先走ってるんだな。そんなにいい子なのか」
「へへ。実はずっと前から眼をつけてて」
「ふーん。で、上手くいく見込みはありそうなのか?相手はどんな子だ?なあ、朝岡も気になるよな」
何も気づいていない小野寺は、口数の少なくなった渚の頭をポンポンと軽く叩いた。こんなときでも小野寺の大きな手で触れられると、勝手に心臓が騒ぐのが忌々しい。
「社長、私ちょっとお化粧室に……」
「あ、待って、朝岡さん。大事な話があるんだから!」
立ち上がろうとした渚の手首を、遠藤が横からグイッと掴んだ。
遠藤の手は少し湿っていて、なぜかザワザワと背中に違和感が走る。そして反対側に座っている小野寺の表情が、遠藤に手を掴まれた渚を見て一瞬強張ったように感じられた。
「ね、朝岡さん、座って座って」
手を引っ張られ、渚は畳の上に渋々座り直した。右からの小野寺の視線が痛い。誤解されたくないという思いが込み上げてきて、渚は思わず遠藤の手を押し戻した。
「あ、ごめん。痛かった?」
「いえ、そうじゃなくて、あの……」
「朝岡さん、せっかくだから社長の前で思い切ってオレ言っちゃうよ。社長も立会人になってください、お願いします!」
「え、あ、ああ……」
ようやく事態を呑み込んだらしい小野寺の瞳に、珍しく微かにうろたえたような色が見えた。渚は焦って小野寺に小さく首を振る。誤解しないで、違うんです、と声に出したくてたまらない。
「朝岡さん、もう時間が限られてるから勇気だして言うよ。あのさ、良かったらオレについて来てくれないかな。その、結婚を前提に、うちの田舎に……」
「……行きません」
咄嗟に声を上げていた。あまりの即答に遠藤はきょとんと眼を見開き、右隣の小野寺は渚の顔に強い視線を注いでいる。
訳もなく頬が熱くなった。気まずい空気になるのは申し訳ないけれど、渚はこの話題自体を今すぐにでも打ち切りたかった。
「あの、ごめんなさい。お気持ちはとっても嬉しいんですけど、遠藤さんには本当にお世話になって感謝してるんですけど、でも私、一緒に行けません」
「……えっと、試しにちょっと遊びに来てみるとかでもいいんだけど……。それからゆっくり考えるとか……」
「ごめんなさい、それもできません」
悪いと思いつつ頑なな言い方になってしまい、遠藤の空気が微妙に張りつめるのを肌で感じとった。
「……朝岡さん、彼氏いないって言ってたよね?」
「いませんけど……、でも」
「だったらこういう機会をお試ししてみるのも悪くないんじゃない?ねえ、社長?そう思いますよね?朝岡さんだってそろそろアラサーでしょ?だんだんこういう口説きも減ってくると思うし、悪い話じゃないと思うんだけどなぁ」
「でも、そんないい加減な気持ちでお受けしたら、返って遠藤さんに失礼だと思いますし」
「いやいや。ろくに考えもせずにバッサリ切る方が失礼だと思わない?ねえ、オレ結構いい旦那になると思うよぉ?」
酔っているせいなのか、社長の眼の前で恥をかかされたと思っているのか、遠藤はいつになくしつこい口調で渚に絡んできた。
実は今までも遠藤のこういう一面が苦手だった。一見気が良さそうなのだけれど、緩い雰囲気で相手にすり寄りながらなんだかんだで自分の望む方向に話を持っていってしまう。その強引さは小野寺のそれとはかなり異質で、渚は小野寺の身勝手さは許せてしまうのに、遠藤には困惑する理由がなぜなのか自分でもよく分かっていなかった。
「あの、そもそもおつきあいもしてない間柄で、いきなり一緒に田舎に帰るとか、急すぎて考えられなくて……」
口調がしどろもどろになるのが自分でも情けない。いつもはヘラヘラ笑って気のいい遠藤が、だんだんムキになる気配を感じる。
「ねえ、朝岡さんさ。口説かれてるうちが花だと自覚した方がいいよ。ね?悪いようにはしないからさぁ。ねえ、社長も説得してくださいよぉ。あ、うちの実家ね、結構資産あるし悪くないと思うよ、マジで!」
ね?と微笑みかけながら、遠藤が渚の肩をグイッと抱き寄せてきた。胸に倒れ込みそうになり、遠藤の酒臭い息が鼻腔をかすめて渚は咄嗟に顔をしかめた。
遠藤の体臭に本能的な嫌悪感を感じる。小野寺にキスされたときは、わずかに小野寺の汗の匂いを感じても不思議と嫌だと思わなかったのに。
「おい、そこまでにしておけ。もう諦めろ」
小野寺のきっぱりとした声にハッとして顔を上げると、渚の身体が反対側に引っ張られた。小野寺が遠藤の手を渚の肩から剥がし、二の腕に手を添えてきちんと座り直させてくれたことに気づく。
「ちょっ、社長……!なんで味方してくれないんすかー!」
「フラれた相手ににしつこく絡んで困らせるな。みっともない」
「えーっ!ちょっと待ってくださいよぉ。オレちゃんと口説き落としてみせますって」
「無駄だ。朝岡には、心に決めた好きな男がいるんだよ。おまえの出る幕じゃない」
ぴしゃっと跳ねつけるように言い放たれ、遠藤がショックを受けたように口を噤んだ。その横で、渚は小野寺の言葉になぜだか涙ぐみそうになっていた。
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