水の底のポートレイト

茜色

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Lesson 1

お守り

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 その後、早瀬桃とは特に目立った交流はなかった。ただ、挨拶がてらなんとなく一言二言交わす機会が増えてはいた。
「数学、一年のときと評価は変わってないけど、がんばってるのは分かってるから諦めるなよ」
 1学期の終わりに通知表を渡しながらそう言ったら、桃の表情がパッと明るくなった。はにかむような笑顔に、思わずこっちまで笑みが漏れた。

 夏休みに突入すると、部活や補習以外で生徒と顔を合わすことはほとんどなくなる。だが教師はいつもと変わらず普通に出勤しなければならない。
 授業がなくても片付けるべき雑務がいくらでもあったし、俺自身はサッカー部の練習にも適度に顔を出していたので、夏休みと言えどまったく暇ではなかった。

 大学4年からつきあっている二つ年上の『彼女』とは完全に倦怠期になっていて、夏の旅行に誘われてもなんだかんだと理由をつけてははぐらかしていた。暗黙のうちに、将来彼女と結婚するのが既定事項になっているようなのも憂鬱の種だった。
 惰性でつきあっているのはお互い分かっていた。愛情が残っているかどうかも怪しいのに結婚もないもんだ。そう思ってはいても揉め事になるのが鬱陶しくて、俺は彼女の誘いからずるく逃げ回っていた。
 
 
7月の終わりにサッカー部の合宿があった。
 汗だくになって練習試合をした後、俺はコンビニで大量に仕入れたアイスを部員たちに差し入れしてやった。日陰に腰を下ろしてアイスを食べながら雑談をしていたとき、生徒たちの間で「女子の誰々が可愛い」などというよくありがちなテーマが話題に上った。
 何人かの女子生徒の名前が上がり、賛同する声、ブーイングの声が飛び交った後、誰かが勿体ぶった声でボソッと言った。
「アレ、いいよな。早瀬桃。可愛くね?」
「あー、いいねー。でもアイツ、口説きにくいよな」
「だな。なんかこう、近寄りにくいオーラ出てるよな。でもそれがイイ」

 俺はアイスキャンデーの棒を咥えたまま、桃の佇まいをぼんやりと頭に浮かべた。
 たしかに美少女の部類に入るとは思っていたが、こうして実際に男どもの口から名前が出ると、なるほどやはり早瀬桃は「可愛い」のだな、と妙に納得する。
 あの日のプールでの一コマを想い出した。優雅なフォームで水を掻いていた姿が脳裏に焼き付いている。それでいて俺の想像の中の桃は、何故だか水の底へ底へと泳いでいき、人魚のように漂いながらいつまでも浮上して来ようとしなかった。

「でも早瀬ってさ、アレだろ?親父がなんかヤバいらしいよな」
「・・・そうなのか?」
 俺は思わずその生徒の顔を凝視した。ニキビ面のそいつは一瞬不思議そうな顔をしてから、淡々とした口調で続けた。
「あー、先生たちには案外知られてないんか。オレ、アイツと中学一緒だったから、その頃の噂だけどさ。なんか、親父さんがエリートだったのにリストラされて酒に溺れたとかで、家がちょっとゴタゴタしてたって。あ、でも中3のときの話だから、今は違うかもよ」
 マジ?ヘビーじゃん?などとひとしきり噂しあった後、飽きっぽい高校生たちはすぐに別の女子生徒の話題へと移っていった。
 俺の思考だけがそこに留まった。無邪気な笑顔で手を振っていた、水着姿の桃の幻影が頭から離れなくなった。

 家に帰ったら、桃から暑中見舞いが届いていた。
 今どき教師に年賀状を寄越す生徒も滅多にいないのに、暑中見舞いを送ってくるなど絶滅種に近い。ハガキに書かれた桃の住所が、俺の住むワンルームマンションと意外に近いことにも驚いた。生徒の住所録など、今までろくすっぽ見ていなかったことに気付かされる。
 少し丸みを帯びて丁寧に書かれた文字。細密なヒマワリのイラストがプリントされた絵ハガキを、俺はなんとなく部屋の本棚に飾っておいた。



 夏休みが終わっても、早瀬桃に別段変わった様子はなかった。
 俺に対しては、1学期より更に距離を縮めてくるようになった。と言っても、たいしたことがあるわけではない。ホームルームや授業中に眼が合う回数が増え、廊下などで姿を見かけると嬉しそうにニコッと笑いかけてくるとか、その程度だ。

「陣野って、最初はまあまあイケてる感じに見えるけどさー。優しくないし、女の扱い方は雑だし、マジがっかりだよねー」
 通常、女子生徒の俺に対する評価はだいたいこんなものだ(実際、この通りのセリフをうっかりこの耳で聞いた)。そんな中で、俺の実態を知った後でも桃のように自然に近付いてくる女子は非常に珍しかった。そして俺自身、そのことに悪い気がしていないのがなんともカッコ悪かった。

 桃はいつも、少し遠慮がちな声で「先生」と呼び掛けてくる。振り返ると、必ず少し嬉しそうな顔ではにかむ。相変らず家の事情がどうなっているのかは分からないままだったが、とりあえず俺の前では明るく笑っているのでなんとなくホッとしながら日々を過ごしていた。



 10月に修学旅行があり、九州地方に4泊5日で出掛けた。
 この年頃の青少年は、観光名所や歴史的建造物にはほとんど興味を示さない。宿では連日夜更かしが続き、誰もが移動のバスでは寝てばかりだった。
 だが俺のすぐ後ろの席に座っていた桃だけは、眠らずに車窓からの景色を熱心に眺めていた。途中、山間やまあいに雨あがりの虹が見えたときなど、後ろの席から手を伸ばしてきて俺の肩を叩き、「先生、虹!虹!」と楽しそうに知らせてきたりした。
 
 3日目の自由行動の時間。俺たち教師は場所を分担し、立ち寄り必須となっている観光スポットにそれぞれ待機して生徒たちを見守る役を担った。
 俺は有名な神社の広い境内をぶらつきながら、生徒達の写真を撮ってやったり集合時間に遅れないよう声かけしたりしていた。あと30分ほどでバスが出発するという頃になって、桃が友人たち数人とお参りしている姿を見かけた。

 桃は賽銭箱の前で、やけに熱心に手を合わせていた。
 同行していた女子生徒たちは既におみくじを引いたり縁結びのお守りを買ったりして騒いでいるのに、桃だけが神妙な顔でいつまでも拝んでいる。やがて痺れを切らした仲間から「桃、行くよー」と声をかけられ、慌ててその場を離れ友人たちの輪に加わろうとした。
 ところがやはり社務所の前で立ち止まり、「ごめん、私もう少しここ見てくから、先に行ってて」と仲間の背中に声をかけている。仲間たちは通りの土産物屋を覗きたかったようで、「じゃあ、行ってるねー」とあっさりと桃を置いていった。
 一人になった桃は、すぐにお守り選びに没頭し始めた。少し離れた場所から眺めていると、白いお守りとピンクのお守り、どちらを選ぶかで悩んでいるようだった。

「おまえはピンクの方が似合うんじゃないの?」
 そう言いながら近付くと桃がびっくりして顔を上げ、俺の顔を見て少し頬を赤らめた。白い肌が薄赤く染まっていく様を見て、俺の内側に妙な疼きのような感覚が芽生えて正直戸惑った。
「あ、自分にじゃないんです。お母さ・・・母に、おみやげと思って」
「ああ、そうなのか。お母さんなら白い方かな」
「やっぱり白ですよね。ピンクも可愛いんだけど・・・」
 白とピンクそれぞれのお守りを両手でかざしながら、桃はまだ少し迷っている様子を見せた。

「・・・先生。いろんな、不幸とか災難とか、そういうのから身を守るなら、どのお守りがいいのかな。厄除けとかの方がいいの?」
 やはり家庭に何か問題があるのだろうかとふと気になる。
「何か、心配事でもあるのか?」
「・・・ううん、そうじゃないけど。母が、穏やかに暮らせるといいなって」
 桃はいつもと変わらぬ透明な笑顔を見せた。
「そうだなぁ・・・。この白いの、開運って書いてあるから、これでいいんじゃないか?全方面に効きそうだし。ただ厄を除けるより、こっちの方がいいことありそうじゃないか」
 俺は適当なことを言いながら、桃が左手に持っている白いお守りを指さした。
「そっか。うん、そうかも!じゃあ、これにしよう。これ、買ってきます」
 桃は少々名残惜しそうにピンクのお守りを売り場に戻し、白い方を巫女姿の女性のところに持って行った。

 きっとピンクの方は自分の好みなのだろう。母親用とは別に自分の分も買えばいいのに。そう思ってからハッとした。以前、体育の市川先生が言っていた、桃が水泳部を辞めた理由を思い出したからだ。推測でしかないが、経済的な事情のせいではないかと指摘していた。
 チラリと見ると、桃はお土産をほとんど買っていないようだった。他の生徒たちがあれやこれやと名産品やワケの分からないグッズを大量に買い込んでいるのに比べ、桃の手荷物は極端なほどに少なかった。余計な出費はしないと決めているのかもしれない。

「先生、ありがとう。母も喜びます。あ、もうそろそろバスに戻った方がいいかな?」
 お守りを買った桃が駆け寄ってきて、ごく自然に俺と並んで歩き出す。肩に付くか付かないかのセミロングの髪が、サラッと風に揺れた。
「・・・早瀬。ちょっとここで待ってろ」
 結ばれたおみくじが雪のように見える木の下に桃を待たせ、俺は社務所に引き返した。さっきのピンクのお守りを一つ買い、桃のところに戻ってこっそり手渡した。

「先生、これ・・・!」
「やるよ。俺からの土産。誰にも言うなよ、贔屓ひいきしたってバレたらヤバいから」
 冗談めかして言うと、桃の眼がうっすらと濡れて膜を張ったので俺はひどく慌てた。泣かせるようなことをした覚えはないので、いったい何がまずかったのかと混乱した。

「先生・・・、ありがとう。すごく嬉しい。私、誰にも言いません。絶対」
 嬉しくて涙ぐんでいるのだと分かって、驚いた。同時に、俺の方まで嬉しいような息苦しいような妙な気持ちになった。
 微妙な距離を開けたまま桃と一緒に参道を歩き、途中で他の生徒たちも合流すると一気に騒がしくなった。観光バスが待機している駐車場までゾロゾロと向かう途中、桃は俺にしか聞こえない声で「先生、ありがとう」ともう一度呟いた。



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