嘘つきは秘めごとのはじまり

茜色

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愛、のち波乱

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 8時半を過ぎフロアに残っている人がまばらになった頃、私もようやく残業を終えて帰り支度を始めた。
 中山主任はリフォーム課に打ち合わせに行ったまま戻ってきていなかった。陸はと言えば、会議室で課長に経過報告をしつつ、面談をしているようだった。

 私は更衣室で身支度を整えて分譲課のフロアを出ると、エレベーターホールに向かった。エレベーターを待っている時に、ホールの奥に設置された自動販売機が眼に入った。
 小銭を出してアイスコーヒーのボトルをひとつ買う。それからまた分譲課のフロアに引き返した。人気ひとけのないのを確認してから、陸の席に足を向ける。

 書類が積み重なって雑然としている陸の机の前に立ち、端っこに投げ出してあったメモパッドを手に取った。
 一枚破り取り、ボールペンで何かメッセージを書こうと思ったけれど、気の利いた言葉がどうしても浮かんでこない。少し考えた後、私は猫がガッツポーズしている子供じみたイラストを描いた。
 家庭教師をしていた頃、陸のために作った問題用紙の余白に悪戯心でよく描いた絵。社会人の陸にこんな子供騙しは失礼な気もしたけれど、あえて私は猫のイラストに『ファイト!』と書き添えた。

 陸の机のパソコン脇のスペースに、折り畳んだメモ用紙を置いてその上にアイスコーヒーのボトルを置く。
 どうか陸が今回の仕事をやり遂げて、無事に乗り切れますように。そう願ってから、今度こそ帰ろうと私はフロアを後にした。


 中山主任への怒りにも似た複雑な気持ちを抱えながら、なかなか上がってこないエレベーターを待っていた。今日一日を思い返し、大きな溜息をつく。
 主任が陸にあれほどキツイ当たり方をしたのは、たぶん私のことがあるからだ。私のせいで理不尽な怒られ方をしたのかと思うと、陸に対して本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
 もっと早い段階で、私が上手に主任と決着をつけておくべきだったと思う。ここまでこじれてしまう前に。
 落ち着いたら、中山主任と改めてきちんと話をしよう。不満があるなら直接私にぶつけてくれたらいい。仕事を絡めて陸に辛く当たるのは、大人の男性がするようなことじゃない。

 ようやく到着したエレベーターに乗り込もうとした時、不意に背後から呼び止められた。
「雛子さん・・・!」
 振り向くと、疲れた顔の陸が小走りに寄ってきたところだった。その表情から、私が置いたアイスコーヒーに気づいたのだと分かった。

「陸くん・・・。今日は本当にお疲れ様。大変だったね。こんなことに巻き込まれて、ほんと・・・」
 私の言葉を最後まで聞かず、陸は黙ったまま私の手首を掴んだ。そのままグイグイとホールの奥の休憩スペースまで引っ張って行く。
「陸くん、どうしたの・・・?」
 陸は私をパーテーションの陰まで連れて行き、大きく息を吸ってからおそらく今日初めての笑顔を見せた。

「コーヒー、ありがと。・・・『ひなねこ』、すっげー懐かしかった」
 言ってから、高校生の時と変わらない眩しそうな笑い方をする。
 陸が覚えていてくれたのが嬉しかった。「子供っぽくて呆れたでしょ」と照れ笑いした私の表情を見て、陸の眼差しがせつなそうに揺れた。

「もうちょっと、デキる男になれるまで我慢しようと思ってたんだけど・・・。ごめん、もう無理っぽい」
「・・・何が・・・?」
 問いかけた私を陸が勢いよく抱き寄せた。汗の混じった男の匂い。
「キスしてもいい・・・?」
 答えるより早く、私は陸に唇を塞がれていた。 


 5年ぶりの陸とのキスに、一瞬膝が抜けそうになった。持っていたバッグが床に落ち、私の身体はすっぽりと陸の腕に閉じ込められた。
 唇を強く押し当てられ、少し乱暴に吸われ、陸の胸の中でめまいを起こしそうになる。
 揺らいだ私の背中を陸がもっと力を込めて抱きすくめた。唇の温度と柔らかさに恍惚となり、いつしか私は陸にすがりついて熱っぽいキスを受け入れていた。

 何度、この唇を想い返したことだろう。夢に見て、目覚めてから泣きそうになったことも数えきれない。
 本物の陸のキスは、あの夏に初めてくちづけあった時より何倍も情熱的だった。私の心をこんなに乱して、しかも信じられないくらい優しく包み込んでいく。
 唇の隙間から、少しだけ舌と舌が重なりあった。濡れた感触にお腹の奥がじわっと疼き、恥ずかしさに胸が震える。
 陸はまだ激しさを抑えながら、舌先だけを甘く絡めて私をせつなく追い込んでいった。

「雛子さん・・・。好きだよ、本当に。雛子さんだけは、俺の味方でいて・・・?」
 唇を離した陸が、私の髪に顔を押し当ててくぐもった声で囁いた。私は何度も頷きながら、陸の背中を強く抱きしめ返す。
「当たり前でしょ・・・?私、絶対どんな時も陸くんの味方だよ」
 私も好き、と素直に言葉にしたかった。けれどもそれは、中山主任ときっぱり決着をつけてから言うべき言葉のような気がして思い留まった。


「俺、今日大失敗して雛子さんにみっともないとこ見せちゃったね。恥ずかしいよ」
 ようやく身体を離した陸は、私の両手を握りながら少し気落ちした声を出した。
「みっともなくなんてないよ。陸くんが理不尽な目に遭ってるのは、みんな分かってる。本当は反論したくても、我慢して黙ってがんばってるの、課のみんなが気づいてるよ」
 私は本気で陸にそう言った。陸は私の真剣な顔を見て、少しホッとしたように笑った。
「ありがとう。・・・正直、すっげー腹は立ってる。でも、俺もたしかに反省しなくちゃいけないから。お客さんには迷惑かけちゃったけど今回のことでいい勉強になったし、自分がやるべきことも分かったから」
 状況を前向きに捉えようとする陸がとても頼もしく見えた。23歳の陸は、転んでもただでは起きない強さを身につけようとしている。

「そうやってちゃんと気づけてるんだから、陸くんは主任より大人だよ。しんどいと思うけど、なんとかがんばって。応援してるし、私にできることがあったら何でもするから言って」
「何でもいいの・・・?」
「うん。手伝えること、ある?」
「・・・じゃあ、全部片付いたら、デートして。丸一日、雛子さんと一緒にいたい」

 陸が甘えるような顔で私を見下ろしている。私はあくまで仕事上で「何でもする」と言ったのに。
 思わず赤面しそうになったけれど、でも私も嬉しかったので「うん」とだけ頷いた。そうしたら陸はとびきり嬉しそうな顔になって、もう一度私をギュッと抱きしめた。

「はー・・・。このままずっと抱きしめていたいけど、仕事に戻らなきゃ」
 陸は名残惜しそうに身体を離すと、私を見つめて安らいだ笑顔を見せた。その顔を見て私も心から安堵する。
「引き止めてごめんね。雛子さんも残業お疲れ様。遅いから、帰り気をつけて。マジで」
 陸は私の背中に手を添えて、パーテーションの陰から出た。エレベーターの方へと歩き出した時、私たちの姿を凝視している中山主任に出くわした。


「主任・・・」
 私が声を出すとほぼ同時に、中山主任がつかつかと歩み寄って来て陸のワイシャツの襟に掴みかかった。
「おまえ・・・!いい度胸だな。呆れ果てた奴だ。おまえみたいな新人、虫唾が走るよ」
 鬼のような赤い顔をして、主任は陸の身体を廊下の壁に力任せに押し当てた。咄嗟に「やめて!」と叫んで間に入ろうとした私を、陸が慌てて右手で制する。

「・・・仕事はちゃんとやります。僕のミスも、全力で挽回します。でもプライベートまで中山主任に遠慮するつもりはありません」
 首を押さえつけられている陸が、ひるまずに主任を睨み返した。
 陸は主任の激高ぶりに驚いてはいなかった。きっととっくに、私が悩んでいる相手が主任だと気づいていたのだろう。

「・・・やっぱりデキてたのか。なあ、おまえ、彼女とデキてるんだろう・・・?」
「主任には関係ありません。僕と香坂さんの問題です」
「中山主任、乱暴なことしないでください。お願い、やめて。ちゃんと説明しますから・・・!」
 
 あっと思った瞬間、陸から離れた主任が今度は私の手首をきつく掴んでいた。
 そのまますごい勢いで廊下の端まで引っ張って行かれ、思わず転びそうになる。ねじり上げるように力を加えられた手首が痛み、我慢出来ずに悲鳴を上げてしまった。

「ちょっ・・・、何やってるんだよ・・・っ。離せ・・・っ!」
 陸が急いで駆け寄ってくる。陸はもう相手が上司だろうと関係ない口調になっていて、私の方は主任の剣幕に驚いて言葉が出なくなってしまった。廊下の隅に追い込まれ、掴まれた手首が壁にきつく押し当てられる。
「きみは嘘をつかないと思ってたのに。誠実で、裏切らない女だと思ってたのに。なのに俺に嘘をついた。俺よりこんなガキを選ぶなんて、きみはそこまで頭の悪い女だったのか・・・?!」

 こんな中山主任は見たことがなかった。プライドをズタズタにされ、憎くてたまらないという屈折した眼で私を睨み付けている。
「離せって言ってるだろう・・・!」
 陸が私の手首から主任の手を引き剥がそうとした。その瞬間、カッとなった主任が陸の顎を拳で殴った。
 
 動転した私はまた悲鳴を上げ、よろめいた陸に駆け寄った。
「陸くん・・・っ!」
 唇の端が少し切れていて、それを見た私の方が青くなってしまう。陸本人は意外なほど落ち着いた様子で、「大丈夫」と言いながら殴られた場所を指で何度かさすった。

 殴ってしまった主任は、急に我に返ってうろたえ始めた。陸の方は殴られたことで逆に冷静になったようで、どこか憐れみを含んだ眼を主任に向けている。
 唇から滲む血をハンカチで押さえてあげると、陸はこんなときでも「ありがとう」と私を安心させるような眼で微笑んだ。
「大丈夫だから、泣かないで」
 そう言って頭を撫でられホッとしたが、中山主任をまた刺激してしまうのではと不安になって振り返った。
 主任はもう私たちのことは見ていなかった。暴力をふるってしまった自分に動揺しているのか、別人のようにオロオロしながら「どうしよう。マズい、マズい」と独り言を繰り返している。こんな異様な主任の姿を見たことがなかったので、私はむしろそのことにショックを受けた。


 結局、騒ぎに気づいた課長たちが駆けつけ、暴力を振るった中山主任は問答無用でフロアに引っ張って行かれた。
「おまえも来い!」
 うんざり顔の久保田課長に呼ばれ、陸は「すぐ行きます!」と答えてから私の方へ向き直った。 
「俺が適当に説明しておくから。もう遅いし、雛子さんは帰って」
「え、でも・・・!私が原因なんだから私が説明する。一緒に行くわ」
「いいから、ここは俺に任せて。大丈夫だから、雛子さんは家に帰って。ね?・・・夜道、気をつけるんだよ」
 そう言って、陸は誰も見ていないことを確かめてから私のこめかみに素早くキスした。

「雛子さん、大丈夫だよ。本当に心配しないで」
 そう微笑んで私をエレベーターに押し込むと、陸はドアが完全に閉まるまでずっと私を見送っていた。


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