嘘つきは秘めごとのはじまり

茜色

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微熱のとき

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 毎年新入社員が配属された後は、飛ぶような早さで日々が過ぎていく。
 右も左も分からずにいた1年生が日を追うごとに引き締まった表情に変わっていったり、逆に精気が抜けて迷いが顏に表れるようになったり。そんな様子を横目に見ながら、私たち先輩社員も季節の変化に追い立てられるように日常の業務をこなしていく。

 5月末、陸は住宅課に配属された新人の中で一番最初に契約を取った。
 新人なので、込み入った商談は当然上司に同席してもらっている。けれども陸はその顧客にマメに連絡を入れて売り込みに余念がなかったし、相手方の都合に合わせて夜間にプランと見積りを持参して家を訪ねたり、休日出勤も面倒くさがらずに積極的にこなしていた。その熱意が顧客に伝わり、見事初めての成約となったのだ。

 根が真面目なのは以前から知っていた。けれども高校生の頃の陸は時間に縛られたり他人とペースを合わせるのが苦手そうだったので、社会人になってからの姿には正直驚かされた。一度残業時間中に給湯室で顔を合わせた時、私がそれを指摘すると陸はちょっと照れくさそうな顔になった。
「俺みたいな怠け癖のある人間は、意識して自分を動かさないとどんどん甘えちゃうから」
 夜食のカップ焼きそばにポットのお湯を注ぎながら、陸は自分に言い聞かせるように呟いた。
「自分でそうやって気づいてるんだから、立派だよ」
 私がそう言って微笑むと、「これでも必死なんだよ。雛子さんにがっかりされたくないから」と、どこまで本気か分からない口調でニヤッと笑った。

「あのさ、雛子さん。・・・今度、ゆっくり話す時間作ってくれる?俺の仕事のドタバタがもう少し落ち着いたら」
 カップ焼きそばを手に給湯室を出る間際、さりげなさを装って陸が私に尋ねてきた。眼に少しだけ弱気が見え隠れし、私の胸に母性にも似た優しい気持ちが揺らめいた。
「うん・・・。そうだね、一度ちゃんと話そう。陸くんの契約のお祝いもしなくちゃね」
 そう言って頷くと、陸は心底嬉しそうな顔で微笑みながらフロアに戻って行った。


 中山主任は懲りずに私をデートに誘い、定期的にメールを寄越し、仕事中も何かと声を掛けてきた。
 デートには一度も応じなかった。私は言葉に気をつけつつ、おつきあいできないことを何度も伝えた。主任はそれでもへこたれず、「まあ、そのうちきみの気持ちも変わるだろうから」と理解しがたいポジティブさを見せるだけだった。
 最初の頃は、一度OKした自分が悪いのだから主任には申し訳ないという気持ちの方が大きかった。けれどもあまりにもこちらの気持ちを無視して好意を押し付けてくるやり方にだんだんストレスが溜まっていき、私は本気で悩むようになっていた。
 最近では仕事で会話を交わすことも苦痛に感じるようになり、そんな私の様子を見て絵梨が「もういっそ、竹ノ原とつきあってるとでも言った方が主任も諦めるんじゃないの?」とけしかけてきたりした。
 そんなことをしたら、今度は陸にとばっちりが及ぶかもしれない。中山主任は今でも私と陸の関係を注視している。家庭教師と元教え子という間柄ゆえに仲がいいと納得してはいるようだけれど、もし私が陸にそれ以上の感情を抱いていると見抜かれたら、諦めるどころか主任は陸に辛く当たるような気がして心配だった。

 告白される前は、仕事熱心で人当たりも良い中山主任がとても好人物に見えていた。粘り強く顧客を口説き落とすやり方にはみんなが一目置いていたし、私も「デキる人なんだな」と素直に尊敬していた。それが、一度恋愛の絡んだ感情をぶつけられて以来、主任の粘着質な性分に気づいて不安を感じるようになってしまった。
 私はいつしか中山主任のその折れない強さを、「怖い」と思うようになっていた。


 6月の初旬に、分譲課の飲み会があった。先月の契約数が目標を達成したのでその打ち上げと、別の支店に異動になる社員が一人いたため送別会を兼ねた集まりだった。
 会社でよく使う居酒屋での、ありきたりな飲み会。広めの個室を借り切って、みんなが思い思いに席を移動しては休日前の夜の解放感に浸っていた。

 私は少し離れた席から、陸がビールを美味しそうに飲む姿をこっそり見つめた。
 そう言えば陸は、未成年だった高3の時点でかなりお酒が強いと自慢していたっけ。実際にアルコールを飲む姿を見るのは初めてだけれど、たしかにたいした飲みっぷりだった。顔色もほとんど変わらないし、嫌な酔い方もしていない。グラスを持つ仕草はあまりに自然で、お酒の弱い私よりよほど肝が据わった大人に見えた。

 陸の隣には、同じく新入社員の女子がぴったりと張り付いていた。
 相川さんと言って、陸とは別の分譲地の販売センターで営業見習いをしている子だ。小柄で眼がクリクリしていて、飲み会ではいつも男性社員の輪の中に入ってはしゃいでいるタイプだった。
 一見可愛らしく無邪気に見えるけれど、抜け目なさそうな眼つきが印象的な今時の女子。人間観察が趣味の絵梨が、「相川は要注意」と4月の時点でチェックを入れていたのをふと思い出した。

「やだ、うそぉー!竹ノ原くん、すごーい!」
 何がすごいのか知らないけれど、さっきから相川さんは黄色い声を上げながら陸にしきりに話しかけている。さりげなくボディタッチも忘れない。陸もまた、他の同期と混ざって楽しそうに相川さんと会話している。その様子を遠くから眺め、今さら陸との年齢差をしみじみ感じてしまった。
 たかが4歳。されど4歳。白地に淡いストライプの入ったワイシャツ姿の陸が眩しくて、何故か私はいたたまれない気持ちになった。
 夏の日に、「暑い暑い」と連発しながら、Tシャツの裾をまくっていた陸の姿が不意に懐かしく思い出された。

 途中で私の隣に中山主任が割り込んで来た。この後の二次会に行こうと誘いながら、私の二の腕に軽く触れてくる。
「そうですねー、絵梨たちと相談してみます」
 そう言って笑顔で会話を終わらせ、まだ話しかけてくる主任を置いて私はトイレに逃げた。
 ブラウス越しでも、触れられた箇所に違和感が残っていた。鏡を見ると、やけに疲れた顔の女が映っている。
 私は化粧を軽く直し、気合いを入れるように頬っぺたをパンパンと両手で叩いた。そろそろ一次会はお開きの時間だ。今日はもう帰ろう。家に帰って、買い置きしてある大好きなアイスクリームを食べてゆっくりくつろごう。

 私が出るのと入れ替えに、相川さんが同期の事務の女の子と一緒にトイレに入ってきた。
「あ、お疲れ様でーす。・・・でさ、竹ノ原くんたらさ・・・」 
 ろくすっぽ私の顔も見ずに、楽しそうに鏡の前に陣取る新入社員。舐められたものだなぁと苦笑いを浮かべながら、またしても4つの年齢差に軽い溜息をついた。


 一次会がお開きになり、絵梨がトイレに寄ってから帰りたいと言うので私ももう一度つきあった。おかげで中山主任に掴まらずに済んだので、内心かなりホッとしていた。
 毎度のことだけれど、女子社員たちはほぼ全員が一次会だけで我先に帰っていく。残っていてもオジサンたちの下手なカラオケとセクハラにつきあわされるのがお決まりのパターンなので、女子は飲み会がある度にいかにして二軒目をパスするか知恵を巡らしていた。

 執拗な誘いから上手いこと逃れ、私と絵梨は速足で駅へと向かった。去り際にチラリと振り返った時、店先で新入社員の面々が課長たちに腕を引っ張られて掴まっているのが見えた。陸の隣には相川さんが寄り添っていて、さりげなく陸のスーツの袖をつまんでいるのが見えた。
 ・・・もしかしたら、陸と相川さんはつきあっているのかもしれない。
 その可能性を想像した途端、自分でもびっくりするほど胸がズキリと痛んだ。

 家の方向が違う絵梨と途中で別れ、私は自分が乗る路線の改札を抜けて階段を上った。
 月曜日の9時半。駅のホームはそれなりに混んでいて、私は人と人の間を縫うようにしてホームの端っこを目指した。
 やっと人の少ないスポットを見つけて小さく息をついた時、背後から「雛子さん!」と耳に馴染んだ声に呼び止められて驚いた。

「陸くん・・・!え、どうして・・・?」
「良かった、追いついて。雛子さん、結構歩くの速いから」
 走ってきたのか、陸は少し息を弾ませながら私のすぐ隣に立った。驚いて思わず陸の顔をまじまじと見上げてしまう。陸たち1年生は、二軒目に行くはずではなかったのか。

「雛子さんと一緒に帰りたくて、腹が痛いってみんなに嘘ついてきちゃったよ」
 陸は悪びれもせず、楽しそうに笑っている。
「え・・・、行かなくて大丈夫なの?課長たちに誘われてたでしょ?」
「うん。でもさ、どうせひどいカラオケ聞かされて、酌させられるだけだよ?先月までにさんざんつきあったから、そろそろ逃げてもいいかと思って。腹が痛いからトイレ行くって言って、そのままバックレてきた」
 あっけらかんと話す陸に、呆れるやら可笑しいやらで吹き出してしまう。

「後で叱られるんじゃないの?」
「平気。課長には『体調不良』ってメールしておくし。それに俺以外の新人たちも、上手いこと逃げてダーツバーに行くらしいから」
「相川さんは・・・」
「・・・ん?相川がどうかした?」
「陸くんがいないと、淋しがるんじゃない?」
 つい気になって聞いてしまい、ヤキモチみたいに聞こえるだろうかと後悔した。
「あー、アイツはキンキンうるさいから近藤に押し付けてきた。近藤が相川のこと好きらしいからちょうどいいよ」
 陸は、「あー疲れた」と肩の筋肉をゴリゴリ回しながら、秘密を共有するような眼で私に笑いかけた。

 アナウンスの後に、下り電車がホームに滑り込んでくる。ドアが開くと、陸は私の肩をそっと包むような手つきで車内へと促した。
 触れるか触れないかの大きな手。さっき少しだけお酒を飲んだせいか、私の頬はやけに熱く火照っていた。


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