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貴哉
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翌朝、俺が目覚める前に家を出た紗羅だったけれど、そのまま会わずに終わるなんてことは不可能だった。
お互いの家にはそれぞれの私物も置いてあるし、2人で貯めていた結婚資金だって処理する必要がある。どちらが有責かだなんて言えない俺たちはそのお金を折半することでケジメをつけることを決め、その日を最後に関係を解消した。
虚しかった。
自分の意思ではどうにも出来ないことがあるのだと、そんな事は知っていたけれど、改めて突きつけられた事実は俺を無力にする。この先、恋愛をすることがあっても人並みの幸せを望むことはできない。
人並みの幸せなんて人それぞれなのだけど、それでも一般的に見て【普通】と言われる家庭を望むことができないことが俺を恋愛から遠ざける。
淋しかった。
最後に身体を重ねた時に万が一がないかと淡い期待を抱いたものの、紗羅からは地元に戻ったという連絡と見合い相手との結婚を決めたと連絡が来ただけ。あれだけ精を放ったのに実ることはなかったのだと、自分はやっぱり【男性不妊】なのだと再確認しただけだった。
結婚を前提の付き合いをしている相手がいることは社内でも公言していたせいか話の流れで今後の予定を聞かれることもあったけれど、「あ、別れたから」と短く答えれば相手は気不味そうに口を噤む。そんなことを繰り返すうちに今度はアプローチを受けることが増え、歳が歳だけに結婚を前提にするのならやめた方がいいと断り続ければ俺の事情はなんとなく周知されてしまう。
結婚を前提としない中継ぎを求められる関係は俺にとっても都合が良かった。
淋しい時間を紛らわし、欲だけを満たすための関係。相手がどんな娘でも将来的なことを考えると一歩踏み留まることを覚えたせいで関係が深まることもなく、ただ通り過ぎるだけの関係。
周りに事情を知られていることが煩わしくて転職を考えたこともあったけれど、新しい職場で1から人間関係を築くことを考えるとそれも億劫で大きな変化もなく続いていく毎日。
そんな時に再会した紗凪に声をかけたのは紗羅の近況が知りたかったせいもある。
季節の挨拶を送り合う紗羅との関係は、【元婚約者】というより【大学の同期】と言った方がしっくり来るようなもので、連絡先を削除することも、メッセージを返さないという選択肢もあるけれど、それをする事に躊躇いを感じてしまう関係。
共通の友人は式に呼ぶと言っていた手前紗羅との関係解消は伝えてあったけれど、友人たちにしてみればどちらにつくことも躊躇われるのだろう。季節の挨拶くらいは交わしていると伝えれば変に気を遣われることもなくなったから、この関係はきっと正解なのだろう。
未練を残したままの紗羅への想いは紗凪の存在で蘇り、その想いを満たすために紗凪を身代わりにしようと思ったわけではないけれど、それでも紗羅の存在を感じたくて紗凪のことを必要以上に気にかけてしまう。
はじめは戸惑いを見せ、自分と接することが嫌ではないかと困った顔を見せる紗凪に「本当は義弟になる予定だったんだし」と言い余計に困惑させてしまう。
「紗凪君は俺の勤め先、知らなかったんだよね」
「…知ってたら替えてもらってました」
これは本音だろう。
派遣先をそんなふうに自由に替えられるのかどうかは俺にはわからないけれど、「これはもう、縁だよ」と良くわからない言葉で煙に巻き、自分のペースに持ち込めば少しずつ近づいていく紗凪との距離。
時には俺と紗凪の関係を詮索されることもあったけれど、「紗凪君のお姉さんと知り合いなんだ」と答えれば「そうなんだ」の一言でやり過ごすことができる。
中には紗羅のことを知っていて「そうなの?」と微妙な顔をされることもあったけれど、俺の生活に直接関わってくるわけでもない相手の言葉なんて気にもならなかった。
紗羅の存在を匂わされて戸惑いを見せる紗凪に彼女のことはとっくに吹っ切れていると告げ、それでもせっかく再会した紗凪とはこの先も良い関係でいたいと手を差し伸べる。派遣社員という立場で友人の家に同居させてもらっている不安定な生活で、自分を気にする年長者が現れれば頼りにするのは当然のことだろう。
不規則なペースで転々とする職場と間借りしたままの部屋で生活する紗凪にうちの会社で欠員が出た時に採用試験を受けないかと声をかけてみたけれど、今の職場はやり甲斐があるし、俺が想像しているのとは事情がだいぶ違うと言い訳じみたことを言った時には「分かったから」とその話を遮ってしまった。
自分の能力の無さを多くの言葉で繕う事に苛立ちを感じたのは仕方のない事で、紗凪のことを自分より下に見て優位に立った俺は、弟としてではなく庇護する対象として彼のことを見るようになっていく。
紗凪から連絡が来ることはほとんどないけれど、その動向が気になってしまい派遣先が変わってからも折に触れ連絡を取り合う関係。紗羅に連絡を取ることに躊躇いはあるけれど、紗凪に対してそんな遠慮はいらないせいで少しずつ縮まっていく距離。
⌘⌘⌘
その日、待ち合わせ場所に先に着いた紗凪は難しい顔でスマホの画面を見つめていた。先に着いている時にスマホで小説を読んでいることは多くあったためいつものことだと思い、前の席に座り声をかける。
「今日は何読んでるの?」
俺の声で顔を上げた紗凪は「貴哉さん」と笑顔を見せると「今日は小説じゃないですよ」とその画面を見せてくれる。
「何、部屋?」
予想してなかった画面に驚きそう聞き直すと「引っ越ししないといけなくなって」と部屋を探す理由を話し出す。
一緒に暮らしている友人にパートナーができたこと。
将来を見据えて同居をしようと思っていること。
すぐにとは言わないけれど、部屋を探して欲しいと言われたこと。
そんなことを言いながら「自分で部屋探したことないからどうしたらいいのか分からなくて」と苦笑いを見せ、相談に乗ってほしいといくつか選んでみたという部屋を見せられる。
「部屋、大丈夫なの?」
「大丈夫って?」
「家賃とか、結構かかるよ」
そんなふうに心配する俺に困ったような笑顔を見せ、「ボクだって貯金くらいあるし、家賃だってちゃんと払えますよ」と言うけれど、世の中をわかっていないのではないかと心配になってしまう。
「部屋、余ってるから決まるまでウチに住む?」
そう言ったのは単純に心配だったから。世の中を知らない紗凪が1人でやっていけるのかと不安に思ってしまったから。
「何でですか?」
「何でって、部屋、余ってるから?」
咄嗟に言った言葉に真顔で返されてしまい疑問形で同じ言葉を繰り返してしまう。よくよく考えれば紗羅との時間を過ごした部屋に紗凪を誘うのはどうかとも思ってのだけれど、そんなことはわざわざ言わなければ分からないことだろう。
「部屋探すって言っても今の時期、難しいと思うよ?」
「時期?」
「そう。
今の時期って引っ越す人が多いから良い部屋すぐ埋まるし。
どうせ部屋探すなら4月以降の方がいいと思うよ」
紗凪が部屋を探すと言ったこの時は2月で、引っ越し業界のハイシーズンに当たることを説明し、その時期は避けるべきだと言い聞かせる。
「友達の家、早く出たいならオフシーズンになるまで部屋使っていいから」
「でも…」
「そうすれば焦って部屋探す必要も無いし、友達に遠慮しなくていいし」
派遣先が変わったばかりだと言った紗凪を「大丈夫だから」と押し切り、変わったばかりの職場に慣れるまでは自分の部屋を使うべきだと言い含める。
「じゃあ、部屋見つけるまで甘えても良いかな?」
そう言った言葉の後に何か続けたそうにしていたけれど、それに気づかないふりをして話を進めてしまった。
引っ越しは簡単だった。
チープな家具しか持たない紗凪の荷物は思った以上に少なくて、大きくない俺の車で数回の往復しただけで引越しは完了してしまった。
言い訳のように何かを告げようとする紗凪を「大丈夫だから」と諌め、なるべく早く部屋を探すという彼に「もう少し安定した仕事を見付けてからでいいよ」と告げる。
「大丈夫だから」
俺が庇護するから。
続けたい言葉は飲み込んだけれど、この時にはもう紗凪のことを意識し始めていたのかもしれない。
お互いの家にはそれぞれの私物も置いてあるし、2人で貯めていた結婚資金だって処理する必要がある。どちらが有責かだなんて言えない俺たちはそのお金を折半することでケジメをつけることを決め、その日を最後に関係を解消した。
虚しかった。
自分の意思ではどうにも出来ないことがあるのだと、そんな事は知っていたけれど、改めて突きつけられた事実は俺を無力にする。この先、恋愛をすることがあっても人並みの幸せを望むことはできない。
人並みの幸せなんて人それぞれなのだけど、それでも一般的に見て【普通】と言われる家庭を望むことができないことが俺を恋愛から遠ざける。
淋しかった。
最後に身体を重ねた時に万が一がないかと淡い期待を抱いたものの、紗羅からは地元に戻ったという連絡と見合い相手との結婚を決めたと連絡が来ただけ。あれだけ精を放ったのに実ることはなかったのだと、自分はやっぱり【男性不妊】なのだと再確認しただけだった。
結婚を前提の付き合いをしている相手がいることは社内でも公言していたせいか話の流れで今後の予定を聞かれることもあったけれど、「あ、別れたから」と短く答えれば相手は気不味そうに口を噤む。そんなことを繰り返すうちに今度はアプローチを受けることが増え、歳が歳だけに結婚を前提にするのならやめた方がいいと断り続ければ俺の事情はなんとなく周知されてしまう。
結婚を前提としない中継ぎを求められる関係は俺にとっても都合が良かった。
淋しい時間を紛らわし、欲だけを満たすための関係。相手がどんな娘でも将来的なことを考えると一歩踏み留まることを覚えたせいで関係が深まることもなく、ただ通り過ぎるだけの関係。
周りに事情を知られていることが煩わしくて転職を考えたこともあったけれど、新しい職場で1から人間関係を築くことを考えるとそれも億劫で大きな変化もなく続いていく毎日。
そんな時に再会した紗凪に声をかけたのは紗羅の近況が知りたかったせいもある。
季節の挨拶を送り合う紗羅との関係は、【元婚約者】というより【大学の同期】と言った方がしっくり来るようなもので、連絡先を削除することも、メッセージを返さないという選択肢もあるけれど、それをする事に躊躇いを感じてしまう関係。
共通の友人は式に呼ぶと言っていた手前紗羅との関係解消は伝えてあったけれど、友人たちにしてみればどちらにつくことも躊躇われるのだろう。季節の挨拶くらいは交わしていると伝えれば変に気を遣われることもなくなったから、この関係はきっと正解なのだろう。
未練を残したままの紗羅への想いは紗凪の存在で蘇り、その想いを満たすために紗凪を身代わりにしようと思ったわけではないけれど、それでも紗羅の存在を感じたくて紗凪のことを必要以上に気にかけてしまう。
はじめは戸惑いを見せ、自分と接することが嫌ではないかと困った顔を見せる紗凪に「本当は義弟になる予定だったんだし」と言い余計に困惑させてしまう。
「紗凪君は俺の勤め先、知らなかったんだよね」
「…知ってたら替えてもらってました」
これは本音だろう。
派遣先をそんなふうに自由に替えられるのかどうかは俺にはわからないけれど、「これはもう、縁だよ」と良くわからない言葉で煙に巻き、自分のペースに持ち込めば少しずつ近づいていく紗凪との距離。
時には俺と紗凪の関係を詮索されることもあったけれど、「紗凪君のお姉さんと知り合いなんだ」と答えれば「そうなんだ」の一言でやり過ごすことができる。
中には紗羅のことを知っていて「そうなの?」と微妙な顔をされることもあったけれど、俺の生活に直接関わってくるわけでもない相手の言葉なんて気にもならなかった。
紗羅の存在を匂わされて戸惑いを見せる紗凪に彼女のことはとっくに吹っ切れていると告げ、それでもせっかく再会した紗凪とはこの先も良い関係でいたいと手を差し伸べる。派遣社員という立場で友人の家に同居させてもらっている不安定な生活で、自分を気にする年長者が現れれば頼りにするのは当然のことだろう。
不規則なペースで転々とする職場と間借りしたままの部屋で生活する紗凪にうちの会社で欠員が出た時に採用試験を受けないかと声をかけてみたけれど、今の職場はやり甲斐があるし、俺が想像しているのとは事情がだいぶ違うと言い訳じみたことを言った時には「分かったから」とその話を遮ってしまった。
自分の能力の無さを多くの言葉で繕う事に苛立ちを感じたのは仕方のない事で、紗凪のことを自分より下に見て優位に立った俺は、弟としてではなく庇護する対象として彼のことを見るようになっていく。
紗凪から連絡が来ることはほとんどないけれど、その動向が気になってしまい派遣先が変わってからも折に触れ連絡を取り合う関係。紗羅に連絡を取ることに躊躇いはあるけれど、紗凪に対してそんな遠慮はいらないせいで少しずつ縮まっていく距離。
⌘⌘⌘
その日、待ち合わせ場所に先に着いた紗凪は難しい顔でスマホの画面を見つめていた。先に着いている時にスマホで小説を読んでいることは多くあったためいつものことだと思い、前の席に座り声をかける。
「今日は何読んでるの?」
俺の声で顔を上げた紗凪は「貴哉さん」と笑顔を見せると「今日は小説じゃないですよ」とその画面を見せてくれる。
「何、部屋?」
予想してなかった画面に驚きそう聞き直すと「引っ越ししないといけなくなって」と部屋を探す理由を話し出す。
一緒に暮らしている友人にパートナーができたこと。
将来を見据えて同居をしようと思っていること。
すぐにとは言わないけれど、部屋を探して欲しいと言われたこと。
そんなことを言いながら「自分で部屋探したことないからどうしたらいいのか分からなくて」と苦笑いを見せ、相談に乗ってほしいといくつか選んでみたという部屋を見せられる。
「部屋、大丈夫なの?」
「大丈夫って?」
「家賃とか、結構かかるよ」
そんなふうに心配する俺に困ったような笑顔を見せ、「ボクだって貯金くらいあるし、家賃だってちゃんと払えますよ」と言うけれど、世の中をわかっていないのではないかと心配になってしまう。
「部屋、余ってるから決まるまでウチに住む?」
そう言ったのは単純に心配だったから。世の中を知らない紗凪が1人でやっていけるのかと不安に思ってしまったから。
「何でですか?」
「何でって、部屋、余ってるから?」
咄嗟に言った言葉に真顔で返されてしまい疑問形で同じ言葉を繰り返してしまう。よくよく考えれば紗羅との時間を過ごした部屋に紗凪を誘うのはどうかとも思ってのだけれど、そんなことはわざわざ言わなければ分からないことだろう。
「部屋探すって言っても今の時期、難しいと思うよ?」
「時期?」
「そう。
今の時期って引っ越す人が多いから良い部屋すぐ埋まるし。
どうせ部屋探すなら4月以降の方がいいと思うよ」
紗凪が部屋を探すと言ったこの時は2月で、引っ越し業界のハイシーズンに当たることを説明し、その時期は避けるべきだと言い聞かせる。
「友達の家、早く出たいならオフシーズンになるまで部屋使っていいから」
「でも…」
「そうすれば焦って部屋探す必要も無いし、友達に遠慮しなくていいし」
派遣先が変わったばかりだと言った紗凪を「大丈夫だから」と押し切り、変わったばかりの職場に慣れるまでは自分の部屋を使うべきだと言い含める。
「じゃあ、部屋見つけるまで甘えても良いかな?」
そう言った言葉の後に何か続けたそうにしていたけれど、それに気づかないふりをして話を進めてしまった。
引っ越しは簡単だった。
チープな家具しか持たない紗凪の荷物は思った以上に少なくて、大きくない俺の車で数回の往復しただけで引越しは完了してしまった。
言い訳のように何かを告げようとする紗凪を「大丈夫だから」と諌め、なるべく早く部屋を探すという彼に「もう少し安定した仕事を見付けてからでいいよ」と告げる。
「大丈夫だから」
俺が庇護するから。
続けたい言葉は飲み込んだけれど、この時にはもう紗凪のことを意識し始めていたのかもしれない。
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