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海 mirror side

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 名前を呼ばれた理由を考えて、先輩のことを信じて欲しいと言われた言葉を思い出す。本当は引き止めたいけれど、先輩に依存していることを空に知られたくない僕はどちらにも気持ちを向けることをやめた。
「僕はもう少しやっておきたいから」
「じゃあ、海は頑張って」
 僕の言葉に被せるように返事をして洵先輩を促す。今までこんな風に空に言われて断った相手を見たことなんて無いのだから仕方がない事だと自分に言い聞かせる。
「海は?」
 もう一度先輩に声をかけられるけど、僕にどうしろと言うのだろう?
「僕はまだ今日やりたいところまで終わってないので」
 もしかしたら残ってくれるかもしれない、そんな淡い期待を抱いてしまった僕は先輩の言葉に現実を見せつけられることになる。
「じゃあ、また明日」
 そそくさと席を立つ先輩を、得意そうな顔で僕を見る空を、ただただ見送ることしかできなかった。

「はぁ…」
 2人の姿が見えなくなると思わず大きなため息を吐いてしまった。
 僕の大好きだった、僕の大切だった時間はもう戻ってこないのだろう。

 翌日から僕は図書室に行くのをやめた。〈また明日〉と言った先輩は翌日からも図書室に行っていたのは空からのメッセージで知っていた。
 だから〈また明日〉と言われた言葉を無視して帰宅してそのまま部屋に籠る。
「あれ?
 海、今日は早かったね」
 階段を登ってくる音で空の帰宅には気付いたけれどノックもせずに部屋を覗かれて、思わず眉間に皺を寄せてしまう。何も言えない、何も言いたく無い僕はそんな風にしか拒絶を示す術が無いのだ。
「今日は先輩とお勉強は?
 せっかく2人で図書室で待ってたのに」
 それなのに、僕の拒絶に気づいているはずなのに空は言葉を続ける。本当は昨日どんな話をしたのか、空は先輩と付き合うつもりなのか。去年の動向を思えば恋愛対象は異性のはずなのに、それなのに何故僕の邪魔をするのか。
 聞きたい事も知りたい事もあったけれど、先輩が僕よりも空を選んだのだとはっきりと告げられるのが怖くて会話を断ち切ることしかできない。
「ごめん、宿題してるから」
「先輩も海が来ないって心配してたよ。
 こんなことなら連絡先交換しておけば良かったって。連絡先、教えようか?」
「ごめん、宿題してるから」
 何を言われてもその言葉以外に返事を返す気は無い。
「昨日の話とか、気にならないの?
 海の話、してたんだけど聞きたい?」
「ごめん、宿題してるから」
 早く出ていけばいいのに、そんな風に思い顔を見る事もせず同じ言葉を繰り返す。

「はい、これ」
 先に音を上げたのは空だった。
 顔を上げない僕に対してため息を吐き、机にメモを置く。
 空にしてみれば善意の行動なのだろうけれど、僕からしてみれば余計なお世話だ。欲しいと願いながらも空を警戒して受け取ることのできなかった連絡先だったけれど、こんな風になってしまった今は僕には不必要なものになってしまったせいで見ることもなく丸めて捨ててしまった。
 先輩から連絡が来ても困るからと弥生さんの連絡先もブロックしておく。
 別に淋しくなんかない。
 以前の状態に戻っただけだから。

 そんな風に思い図書室にも屋上の扉の前にも行くことのなくなった僕は、身の置き場のないまま自習室で時間を潰したり近くの公園で読書をして過ごすようになった。
 空からはメッセージが来ていたけれどそれに応える気は無い。
 〈図書室で待ってる〉
 〈何で来ないの?〉
 〈先輩、もう来てるよ〉

 〈何処にいるの?〉
 〈早く来て〉
 〈先輩も探してるのに〉

 〈教室まで行くから待ってて〉
 〈先輩も一緒だから〉
 そのメッセージに僕が答えないといけない理由はない。だけど、そんな風にメッセージを送ってくる空のおかげで2人の動向がわかるため鉢合わせしてしまうことは回避できた。
 2人揃って僕の学年の階まで来ることは流石に無いため朝と放課後に気を付けさえすれば学校生活は静かに送ることができる。家で空に会えば親の手前反応をすることはあるものの、「もう高校生なんだから」と言えば多少の反応の鈍さは許された。

 そんな毎日を繰り返し「待っていて」と言う言葉を信じず弥生さんとの連絡手段を絶った僕に腹を立てたのか、先輩が僕の家に入り込むようになったのは彼の想定内だったのか…。
「ねぇ、ちょっと不味くない?」
 メッセージをブロックしたことは弥生さんは怒ってはいなかった。空と洵先輩が2人で行動する姿を見て僕よりも不愉快そうな顔をしてくれたのも彼女だ。
 僕が弥生さんからのメッセージをブロックしたのは先輩からの連絡をリアルタイムで受け取らないため。
「ちゃんと伝えるから海君のこと、追い詰めないでください」とワンクッション置く事を提案してくれたのは弥生さんで、先輩からの言葉は伝えるけれど先輩に協力するわけではない。海のために間に入るだけで、どこまで行っても海の味方であるとの意思表示。

〈海が悪いんだからね〉
 きっと空の隙を見て差し入れられたのであろうノートの切れ端。
 帰宅した時の違和感はこのせいだったのかとため息をつく。僕が2人を避けていること業を煮やし、それならばと確実に帰ってくるだろう家にまで入り込んできた洵先輩は何かしたいのだろう?
 自分が何をしても我慢しろと言った先輩だったけれど、結局は空を選んだのではないのかと、何が我慢だと思う僕は何か間違っているのだろうか?
 先輩が空と過ごす様を見て、我慢して祝福すれば良いのだろうか?
 弥生さんからは「海君がどんな様子かって言われても元気はないとしか言えないんだけど?」と呆れられるし、「勉強で困ったことはないか聞いておけって言われたけど、海君が困ってるって言ったら空君と仲良く3人で勉強するって言うつもりなの?」と憤ってくれる。

「そもそも何がどうなってあの2人が一緒にいるの?」
 そんな風に言われ、空が図書室に来た日のことを説明する。
 2年になって同じクラスになったせいで以前に比べ弥生さんと話をすることは簡単だ。弥生さんの彼が部活を引退してしまったら放課後の教室でこんな風に話す時間も取れないだろうけど、部活推薦で先の進路を決めた彼はギリギリまで部活に顔を出すことになるらしい。僕にとってはありがたい。
「空が誘ってきたら話に乗るから僕は我慢しろって…」
「何それ?
 ヤキモチ妬かせたかったとか?」
 弥生さんにも理解できない言葉は僕にだってまだ理解できていない。首を傾げることしかできない僕に痛ましげな目を向けられ居た堪れない。
「で、あの2人はどうなってるの?」
「…最近は家に来てるみたい」
 僕の言葉に弥生さんがため息を吐く。
「会う?」
「会わない。
 親が帰ってくる前には帰るみたいだからそれまでは帰らないようにしてるし。
 でもそろそろ限界かな…。
 気にして外で時間潰すのも疲れた」
 弥生さん相手だとついつい本音がこぼれる。そう、僕はもう疲れたのだ。

 弥生さんに本音をこぼした僕は、意図して家に帰る時間を調整することはやめた。時折、猛烈に2人の姿を見たくなくて屋上の扉の前で過ごすことはあるけれど、ここは思い出が沢山ありすぎる。
 繋いだ手の温もりと重ねた唇。
 膝の上に座り、先輩の欲望を教えられた場所。
 1年かけて甘やかされた僕は、空が入学してたったひと月の間に庇護する事を放棄され、放り出されてしまった。
 元の自分に戻っただけだと思い込もうとしても身体に染みついた先輩からの想いがなくなるわけではないし、僕の先輩への想いが無くなるわけもない。

 その日は帰宅するなり先輩の靴を目にし、咄嗟に自分の靴を手にしてしまった。先輩がいるかもしれないと音も立てずに鍵を開ける癖がついてしまったせいで僕の帰宅に2人は気づいてはいないだろう。
 靴を手に持ち、音を立てずに自分の部屋に入る。電気をつけなくても明るいため部屋着に着替えた後は何もする気になれずベッドに横になる。
 寝てしまえば音を立てることもない。
 目を瞑り、体を丸める。
 隣の部屋から聞こえるのは空の嬌声と先輩の息遣い。
 何を言っているのかを聞き取ることのできない先輩の声は、空の名前を繰り返し呼んでいるのだろう。あの時、僕の名前を何度も呼んだように。

 聴き取れない声を想像してあの時の気持ちを思い出してしまい、それを消し去りたくてイヤホンを付けて音楽を流す。何も考えないように、何も感じないように、そんな風に思うものの先輩の想いを教え込まれた身体は耳に入ってしまった先輩の囁きのせいで僅かに反応してしまう。

 嫌だ、嫌だ、嫌だ。
 浅ましい自分が恥ずかしくて、反応しようとする身体を認めたくなくて息を潜めて時間が過ぎるのを待つことしかできない。
 きっと、時間が過ぎれば先輩の帰る音がしているのだろう。だけど、何も感じたくない僕はそれをやり過ごすために眠ってしまうため、そんな日は自然と空と顔を合わせなくなる。食欲が無いためおかしな時間に目を覚ましてシャワーを浴び、前日にできなかった課題を終わらせる。
 家族が起きる頃には身支度を終え、その辺にあるものを適当に食べて家を出る。
 事後の雰囲気を漂わせた空を見てしまったら、僕は冷静でいることができないだろう。
 空にしか興味のない両親は僕と顔を合わせない日のことをどう思っているのだろうと考える時もあるものの、きっと空が上手いこと言っているはずだ。

「海君、また痩せたんじゃない?」
 昼食代は貰っているためコンビニで適当に買ったパンを齧る僕に弥生さんが呆れた顔をする。
「ご飯、ちゃんと食べてる?」
「食べてるよ」
 この言葉は嘘じゃない。
 母はちゃんと僕の分の夕飯を残してくれているし、出かける前に適当に食べてはいる。ただ、食べる量が少ないだけだ。先輩が来ない日にはちゃんと家族で食卓を囲んだりもする。
 何か言いたそうな空を無視して無言で食卓を囲み、異変を気付かれたくなくて無理に食事を詰め込む。

「海」
 話しかけた空の声に顔を上げるけれど、僕の顔を見て言葉を飲み込む。
「何?」
 呼んでおいて何も話さない空に苛立つけれど、両親の前だからそれを我慢する。
「テスト勉強、してる?」
「してる」
 何を心配しているのか、誰かに何か言われたのか、気にはなるけど何も聞かないし、何も知りたくない。
「今日、一緒に…」
「僕が教えることなんてないだろ?
 ごめん、自分の勉強でいっぱいいっぱいだから」
 無視をすることはないけれど、要求を通す気はない。当たり障りなく断り空と距離を取る。
 一瞬傷ついた顔を見せる空だったけれど、傷ついているのは僕の方だ。
「海」
 僕を呼ぶ声に「ごめん、急ぐから」と答えて席を立つ。

「テスト勉強、か…」
 思い出して辛くなるのを止めたくても事あるごとに思い出してしまう甘い日々。
「忘れられたらいいのに…」
 流れる涙と共に甘い記憶も流れてしまえばいいのに。そんな風に僕は追い詰められていくしかなかった。
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