選ばれることのない僕は愛される事を夢見る

海 mirror side

1

「ごめん、好きな人ができたんだ」
　真剣な顔の彼にそう言われ、僕は安堵のため息をつく。

「そうみたいだね」
　持つ事を、使う事を強要された合鍵で玄関を開け、荷物を持ち直して部屋に入ると僕と付き合ってるはずの彼がキスをしていた。

　軽く唇を合わせるだけのものではなくて、音がしそうなほど濃厚なそれ。
　キスと言うよりも…接吻？
　僕がこの時間に来るのを見越して、僕が部屋に入ったタイミングでの行為なのだろう。

　僕がキスを許さなかった事を当て擦るかのように唇を重ね、視線だけで僕を見てニヤリと笑う彼は僕に何を求めているのだろう？
　面倒になって帰ろうとした僕を呼び止めた彼と、その隣で綺麗な笑みを浮かべて勝ち誇ったような、嘲るような笑みを見せる愚かな弟。

　今度の彼は弟のことを選んでくれるだろうか？

　明るい髪にカラコンで色を明るく見せている瞳。
　よく見れば僕と似ていることに気付く人もいるけれど彼は気づけなかったようだ。

「僕の物は捨てていいから」
　この先の展開を期待して体の向きを変えながらそう告げる。
　半同棲を強要されたせいで多少の私物も置いてあるけれど、大切なものはひとつも無い。

「ごめんね、お兄ちゃん」
　彼とのキスシーンを見せつけた男、弟の空が嬉しそうに笑う。
　口では謝っているけれど反省なんて全くしていないのが丸わかりだ。

「お兄ちゃん？」
　彼の声に弟が無邪気な笑顔を向ける。
「そう、海から話聞いたことない？
　弟の空の話」
「空の事なんて、わざわざ話さないよ」
　このやりとりは何回目だろう？
　いい加減、僕から奪った男とそのまま付き合ってくれないだろうか？そんな風に思うものの、その気持ちを悟られないために玄関に向かう。
「そっか、じゃあ名前言っても反応が無かったのはそのせいか」
　何度も繰り返されるやり取り。
「海、待って」
　これも同じ。
　今更僕のことを呼び止めて何を言うつもりなんだろう？

「お幸せに」
　靴を履きながらそう告げるけれど、合鍵を持ったままなことに気づき急いでキーケースから外す。
「空に渡せば？」
　言いながら鍵を放り、彼の意識がそちらを向いた隙に玄関を出る。
　付き合い始めて半年。
　2ヶ月ほど前から彼に請われて週末はこの部屋で過ごすようにしていたけれど、それも今日で終わりだ。

　やっとだ。
　今回、空は何をやっていたのか、なかなか彼に手を出さないためヤキモキさせられた。
　もしかして僕の知らない間にパートナーができていたのかと思い、余計な手間をかけてしまったのかと舌打ちしたくもなった。
　空にパートナーができたのならば無理して〈誰か〉と付き合う必要なんてない。空が僕以外の相手に夢中になっている間に僕はあの人の所に行くことができるのだから。

　空、僕の年子の弟。
「お兄ちゃんでしょ？」
　物心ついた時には何かにつけてそう言われていた。
　遊んでいても玩具は空が優先。
　おやつもご飯も空が欲しいと言えば全てが空のものになる。

　幼稚園でも小学校でも、友達ができてもいつの間にか僕の友達ではなくて空の友達になっていた。
　習い事をしても空の方が出来が良く、僕はおまけ扱い。
　小学校の中学年が過ぎると年子だった僕は空に身長を抜かれ、兄弟が逆転したと嗤われるようになった。
　僕の出来が悪かったわけではない。
　空が出来すぎたせいで僕は何をしても霞んでしまった。
　それなのに、全てに恵まれているのに空は僕のものばかり欲しがった。

　両親共に末っ子だった父母は、何をするにも空優先。自分達が兄姉から常に優先されていたせいで、年長者は下の弟妹の要求は全て叶えて当たり前だと本気で思っている人達。
　彼らの兄姉は1番上はひと回り、1番下でも5つほど離れているので前提からして違うのに、子供でもわかりそうなことなのに、それを理解してくれることは無かった。

　でも、それらは全て僕には都合のいいことばかり。
　僕が、〈海〉が嫌われているのならばもっと捻くれていたかもしれない。
〈空〉だけしか必要無いと言われたのなら空の事をもっと憎んで、もっと疎ましく思ったかもしれない。
　だけど、両親の関心は〈海〉と〈空〉ではなくて〈長子〉と〈末子〉だったから諦めるしかなかった。
〈海〉が悪いのならばその悪いところを直せば愛されたかもしれない。
〈空〉だから愛されるのだとしたら空を真似れば愛されたかもしれない。
　だけど〈長子〉と〈末子〉は入れ替わることはできないのだから感受するしか無いのだ。

　人付き合いが苦手で、親や弟ですら関わって欲しくない僕には悪く無い環境ではあった。
　うちの両親の偏った考え方では長男よりも末子が大切で、僕が生まれた時から末子を望み、第一子の僕には本当に興味を持たない人達だった。
　一応、自分の子だと言う自覚はあるため最低限の世話はしてくれていたようだけど、僕が生まれた瞬間から次の子どもを望むような人達だから僕の待遇は可もなく不可もなく。
　だから僕が何も求めない子に成長していくのは必然。

　年子だった僕たちは幼い頃は僕の方が少しだけ大きかったけれど、気付けば海に背を抜かれ、兄が与えるはずのお下がりは弟から与えられるものになっていた。
　そのことに対しても不満は無かった。
　僕は僕のペースで生活できてさえいればそれで良かったんだ。
　家でも、学校でも、自分のペースで自分のやりたいように過ごすことさえできれば。
　
　だけど、中学生になる頃に少しだけ不満が出て空の気持ちを利用することになったのは仕方がないだろう。
　気付いたのは本当に偶然だった。
　それなりに満足な毎日を送っていた時に聞いてしまった両親の話。
「海はいつ家を出るのかしら？」
　中学に入学してすぐだったけれど、目指す高校があるのならば今から目標を定めてそれに向けて勉強をする必要があると説明を受けた日の夜だった。
　僕の存在なんて気にせずに進む話。
「どうだろうな。
　まぁ、残るのは空だから海は好きにすればいいんじゃない？」
　家に残るつもりはないけれど、中学生になったばかりの息子に聞かせる話でもないだろう。そんな風に思いながら聞き耳を立てる。
「高校も下宿してくれてもいいのにね」
　疎まれるようなことをした覚えはないけれど、両親の大切なものの中に自分は入っていないことを改めて自覚させられる。それならばと思い寮のある高校を調べてみると〈良い〉高校はあるものの、家事等の自分への負担が多くなることがわかっているため気は進まない。
〈良い〉高校に入れば終わりじゃない。自分の将来を考えればそこで満足することなく上を目指す必要がある。となると今の環境を甘んじて受け入れ、自由になる時間を学力を上げるために使うほうが効率的だ。
　だったら親の意に沿う振りをして大学卒業まで憂うことなく過ごせる環境を自分で作り出してしまおう。就職して、安定してから家を出ても遅く無いはずだ。
　普段から何も言わない、何も求めない僕のせめてもの我儘に空を利用することに何の罪悪感もなかった。

　あえて選んだ高校は、家から通うことのできない〈良い〉高校で、本気だと思わせるために今まで以上に自由な時間は勉強のために使った。とにかく学力を上げたいと思う僕は、友達と遊ぶ時間すら無駄に思えたため敢えて友人を作ることもない。
　どうせ話しかけてくるのは僕と空の事を知っているからだと卑屈にならないでもないけれど、今までの経験上仕方のないことだろう。

「ちょっといい？」
　その日、何度目かの進路指導があった日に両親に声を掛ける。
　僕に対して無関心だけど、だからと言って無視されているわけではないから声をかければ話を聞いてもらえる。
「今日進路の話があったんだけど」
　そして続ける僕の言葉。

　家から離れて遠くの高校に行きたいと。
　寮生活になるためその後の進路次第ではそのままこの家を離れることになるかもしれないと。
　早いうちから家を離れることになるけれど、それでも学びたいことがあると。
　
　このまま家を離れることになるかもしれないと言う言葉が効いたのか、両親は快諾してくれる。自分から出ていくと言っている長子を引き留める必要はない。
　それではと具体的に進路のことを調べ始め、確実に合格できるようにと勉強方法の見直しにも協力してくれる。
　そんな風に両親が僕を気にかけたため、僕の進路を空が知ることになったのはすぐだった。
　空と両親との間にどんなやりとりがあったかは知らないし、知りたいとも思わない。だけど突然母から言われた言葉。

「空が海と離れたくないって言うから自宅から通える高校にしてね」
　そう言われた時に僕はちゃんとショックを受けた顔をできていただろうか？
　嬉しそうに、頬が緩みそうになっていなかっただろうか？
　すぐにそれを受け入れてしまうと怪しまれるのでは無いかと思い、それでも遠方の高校に行きたいと訴え、学びたいことがあるのだと、その為に頑張っているのだと言葉を尽くす。
　良識のある親ならば空を説得し、僕の希望を叶えようとしただろう。だけど〈空至上主義〉の両親は空の願いを叶えるために僕を説得し、おまけのように大学も近場にするよう言い含めた。

　その後の進路は当然だけど家から通える距離の高校で、狙うことのできるランクの高校の中でも1番レベルの高い高校をわざと外した。家から通える大学しか選択肢がないのなら少しだけレベルを下げた高校に入り、適度の努力で上位にいた方が自分が楽だろうと思っての事だ。
　空の学力を考えた時に僕のランクを下げておく事で、もしかしたら空は上の高校に行くのではという淡い期待ももちろん有った。

　それにしても、空の僕に対する執着は何なのだろう？
　家での扱いのせいか、僕は同じ年頃の子に比べて達観した子だった自覚はある。玩具やおやつを譲るように言われても、友達と遊ぶことを邪魔されても空を邪魔したと叱られることを思えば我慢することの方がはるかに楽だった。
　特に人間関係は空が来ることによって「空君、可愛い」と空を構うことから始まった友人の行動が「空と遊ぶ方が楽しい」となった時に一緒に遊ぶことを放棄した。
〈空と遊ぶ方が〉と僕を初めに拒否したのは向こうだ。だったら僕に関わることなく空と遊べば良い。
「海」と僕のことを呼ばず「空君のお兄ちゃん」と個を見ない相手と関わるくらいなら自分の好きなことをしていた方がよほど建設的だ。

　そんな風に過ごした義務教育時代だったけれど、高校に入り出会ってしまったのだ。

　洵先輩。
　僕の最愛。

　僕が空を利用してまで遠くに行くのを拒んだのはこの人に出会うためだったのだと思うようになるのは直ぐだった。

　きっかけは家に帰るのが嫌で図書館で放課後を過ごすようになった事。
　帰ったところで用があるわけでもなく、だけど海に見張られているような息苦しさが面倒で日々帰宅が遅くなっていく。今まではそんな風に時間を潰そうとしても何故か海が迎えに来るため外での自由がなかったせいで、図書室で過ごす時間は僕にとって快適なものだった。

　宿題を終わらせ、予習復習をして、余裕のある時は気になった本を読む。
　図書室の他に自習室も有り、そちらの方は多少の会話を許されるため、席に余裕のある図書室は時間を潰すのに最適だった。
　そんな時に図書室に向かう僕に声をかけてきたのは同じ1年の、数少ない同じ中学だった女の子。
　うちの高校はちょっとだけ中途半端でより良いところに進学をするのならばもう少しレベルの高い高校がすぐ近くにあるし、そこまで頑張らずに高校生活を楽しみたいのならばもっとふさわしい高校もたくさんある。
　中途半端に賢くて、中途半端に厳しい校風が不人気の理由だから空は嫌うかもしれないとあえて選んだ高校なのだけど、この娘は何でこの高校を選んだのだろう？
「ねぇ、空君も来年ここに来るの？」
　そう言われた時に面倒だと思い、それが顔に出てしまったのかクスリと笑われる。
「海君って空君のこと言われるの嫌いだよね。
　眉間の皺、凄いよ？」
　言いながら自分の眉間を指差す。
　今まで上手く隠し通してきたつもりだったけれど、空と物理的に離れているせいで油断していたのかもしれない。
「そんな事はないよ。
　弟だから嫌いじゃないけど…苦手？かな」
　嘘をつくときは少しだけ本音を混ぜた方が相手が信じてくれる。
　嫌いじゃないのは本当。
　ただ好きでもない。
　だから好きでもないという言葉は苦手と言い換える。
「空君ってさ、何であんなに海君のお兄ちゃんぶるの？」
「賢いかもしれないけど馬鹿だよね」と続く言葉に驚いてしまう。
　空は優秀だ、空の方がお兄ちゃんみたいだと言われ慣れた僕には初めて聞かされるような空を嘲る言葉。
「能ある鷹は爪を隠すって、海君みたいな人のことだよね」
　僕が返事をしていないのに続けられる言葉は心地良くて、図書室なのに言葉を止めることを忘れてしまう。
「何で空君が出来るようになってくると力抜くの？
　叩き潰しちゃえば良いのに」
　そして不穏なことを言い出す。
「大体さ、チヤホヤされて好きな風に振る舞って。せっまい世界で王子様気取りで、いつか痛い目に遭うんじゃない？」
　空に恨みでもあるのか、辛辣な言葉に思わず笑ってしまった。
「空に恨みでもあるの？」
「そんな事はないけど、いけ好かない奴だとは思ってた、ずっと」
　そう言って僕と目を合わせる。
「皆んなが皆んな、空くんの味方じゃないよ？」
　その言葉は僕自身にかけられた初めての心地の良い言葉だった。