伯爵様のひつじ。

たつみ

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後編

海辺に理性に 1

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 リセリアの貴族たちは、伯爵から「法の番人」の座を取り上げようとした。
 が、カーズデン男爵家が消滅し、ガルチェナ男爵家となった時点で、その策は失敗したと言える。
 
 ディエゴに爵位と領地を与えたのは、伯爵だ。
 法改正の1票を、ガルチェナ男爵から得ることはできない。
 結果、貴族全員の同意は得られなくなり、法改正は叶わなくなる。
 
「そうなれば、泣きつく先は皇家」
 
 そんなことは、はなからわかっていた。
 ゼビロスに面している南西部の貴族たちの判断にも揺らぎがあったはずだ。
 伯爵が「法の番人」でなくなった途端、闇の防壁というゼビロスへの防衛拠点が崩れ、自領地が略奪の標的になるのではないかという不安を消さなければ確固たる賛同は得られない。
 
「ゼビロスが、とうの昔に、伯爵様の麾下きかにあると知らぬ者どもにございます」
「ゼビロスとの不干渉が成立しさえすれば、南西部を説得できると考えるのは当然だろうな」
 
 伯爵は着替えをカーリーに任せ、状況を整理している。
 とはいえ、実のところ、上の空だ。
 わかっていることを、ただ口にしているに過ぎない。
 
「しかし、リセリアの貴族を主導しているのは誰だ? やけに頭の悪い奴のようだが」
「ジルベス・ゴドヴィという者にございます。公爵家の当主ではございますが、まだ若く、知見が狭いのでございましょう」
「ゴドヴィか。年月というのは恐ろしいものだな。ずいぶんと質が落ちている」
 
 かつてのゴドヴィ家は、スラノの右腕とされていた。
 口先だけでスラノに取り入っていたワイズンとは異なり、やり方はともあれ、勝利をもたらせる頭脳を持っていたのだ。
 
「2百年もの間、平穏の中で暮らしていれば、我が身に害が及ぶのを先んじて防ぐとの考えもなくなりましょう」
「私は奴のやり方を認めてはいなかったし、大嫌いだった。だが、確実な勝利を得られたのは、スラノの資質を上手く使ったゴドヴィの能力あってのことだ」
 
 それは認めている。
 スラノは臆病であるがゆえに、負けを恐れる。
 そのため勝ちに固執する。
 スラノのそうした資質を、ゴドヴィは「国家統一の象徴」としたのだ。
 
 どれほど残酷なことをしようとも勝利を優先する。
 国家統一という目的を果たすため、理想を現実にするために必要なのは勝利のみ。
 
 そう言って兵達を煽り、感情を削ぎ落とし、命を奪うことに躊躇ためらいをなくさせた。
 むごい行いも是とし、略奪までをも、国家統一の名のもとに許容していたのだ。
 スラノの率いる軍は確かに強く、多くの勝利をものにしている。
 
 だが、彼らの通った道に遺されたのは、血と屍。
 我が身を守るすべさえない民たちをも、容赦なく斬り捨てたからだ。
 
 伯爵は、たびたび苦言を呈したものの、スラノに聞く耳はなかった。
 ワイズンとゴドヴィのせいもあっただろうが、スラノは決定的に臆病だったのだ。
 民を生かすことで、後の災いになるのを恐れた。
 
 伯爵とて、血の1滴も流さなかったとは言わない。
 自分が善だとも思っていない。
 今のゼビロスを見れば、もっとほかのやりようがあったのではとの後悔もある。
 だとしても、スラノたちのやり方は間違っていた、と今でも思っていた。
 
───だからこそ、私は法の番人で有り続けたかったのだ。
 
 彼らを止めることができず、無辜むこの民を死なせてしまった慙愧ざんきの念。
 スラノが自分と語った理想に立ち戻ることを期待しながらも、法という鎖で縛らなければ、リセリア帝国が、掲げた理想とかけ離れた国になると考えていた。
 
「リセリアの皇女を、ゼビロスに受け入れる手配は整ってございます」
「皇女のことは、エティカに一任する」
「エティカに、でございましょうか?」
「そうだ。エティカに、だ」
 
 カーリーは、当然、ファウストに面倒を見させるつもりだったはずだ。
 少し戸惑っているのが伝わってくる。
 
「あれは聡い。だがな、それはずる賢いとも言える。一概に悪いとは言えないが、多少の矯正は必要だ」
「皇女と関係を築くことで矯正できると?」
「ファウスト抜きで、対等な相手と関わりを持てば、なにかしら得るものはある。ゆえに、私やお前、枝、それに臣下であっては意味がない」
「であれば、皇女が適任となりましょう」
 
 皇帝ともなれば、ずる賢いくらいが丁度いい。
 とはいえ、エティカは、かなり危なかしく感じられる。
 ファウストが近くにいることもあり、人を脅威と見做みなしていないのだ。
 ずる賢さも適切に制御しなければ、足元をすくわれることになりかねない。
 
「エティカはディエゴとは違う。あれでは、長期間ファウストが離れた途端、殺されてもおかしくはない」
「仰る通りにございます」
「私は、あれに死んでほしくないのだ。まぁ、感謝の意味もこめて」
 
 伯爵は、さっきの出来事を思い出して、少し笑う。
 エティカのおかげというべきか、ようやくファニーにふれることができた。
 それに、彼女の気持ちも確認できたのだ。
 これは進展と言ってもいいのではなかろうか。
 
「ファニー様が、存外、丈夫でいらっしゃることがわかりましたので、伯爵様も心置きなく……」
「いや、カーリー。それは、まだだ。物理的な距離よりも、心の距離を縮めることが大事なのだぞ。私が年長者であることに変わりはないのだからな」
 
 今はっきりしているのは、好意を持たれていることだけだ。
 ファニーの「大好き」が、自分の「愛おしい」と同じ感情なのかは、未だ曖昧なままだった。
 
 幼心での「大好き」は、大人の恋心とは異なる。
 下手に誤解をして「物理的な」距離を縮め過ぎれば、ファニーを傷つけることになるだろう。
 
 そして、確実に嫌われる。
 
 水着に着替えたからというわけでもないが、ぶるっと体が震えた。
 ファニーに嫌われることなど考えたくもない。
 思っている伯爵に、カーリーが無表情で淡々と告げる。
 
「しかしながら、ファニー様は泳げないかと存じます。伯爵様が抱きかかえるなどなさらなければ、海に入るのは危険なのでは?」
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