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前編
節度と程度 1
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伯爵に「遅くなったので」と言われ、今夜はこの屋敷に泊まることになった。
屋敷に泊まるなんて恐れ多いと思ったのだが、「お礼」でもあると言われると、断りきれなくなったのだ。
夫人とディエゴも泊まるらしく、カーリーに案内されて出ていき、今はいない。
伯爵とファニー、ナタリーは、前にも来た客室にいる。
テーブルには、ナタリーが用意した、お茶とケーキが置かれていた。
「そんな大層なことはしてないのに、ありがとうございます」
「いや、夫人も相手が“女性”だったから話し易かったのだと思いますよ」
やけに伯爵が「女性」というところを強調したような気がするが、なるほど確かに公爵夫人にとって「女性」であるのは間違いない。
たとえ伯爵にとっては、ただの牧童に過ぎなくても。
「どうぞ召し上がってください。お礼というにはささやかですが」
「そんなことないです。ケーキなんて普段は食べられないので」
甘いものは、とかく金がかかる贅沢品なのだ。
ポールに殺されずとも、羊や牛は病気で死ぬこともある。
減った数だけ買い戻せるだけの資金を蓄えておかなければならない。
ケーキを口にし、顔をほころばせつつ、向かいに座る伯爵をチラチラと見た。
いろいろと訊きたいことはあるのだが、訊いていいのか迷っている。
公爵夫人のことも気になるし、ディエゴについても訊きたかった。
「あなたに隠し事はしません。それでも言えないことは、話せないと言いますので、なんでも訊いてください」
伯爵は、人の心を読むのが上手い。
戦場にいると、そういうことにも長けていなければならないのだろうかと、ふと思った。
ファニーも伯爵の心を知りたいが、心を読むなんて真似はできないので、素直に言葉で訊いてみる。
「公爵夫人は婚姻解消できますか? 貴族は体面を気にすると聞きました。借金を返済しても、ワイズン公爵側が同意しないこともあるんじゃないかと思うんですけど」
「あの時は、あえて黙っていましたが、実際のところ、ワイズン公爵の同意など必要ないのですよ。彼には“落ち度”がありますから」
ワイズン公爵に「落ち度」があるならば、借金の返済を持ち出さなくても、夫人側から申し立てることはできる。
婚姻解消が成立して困るのは、契約不履行の上、借金が残るワイズン公爵だけだ。
「夫人は、そのことを公にする気がなく、両者同意の元という前提を作りたかったようです」
「私の印象では……公爵夫人は体面を気にされるかたには思えないです」
「同感ですね」
「じゃあ、ワイズン公爵を庇ってるってことですか?」
「そうとは限りません。騒ぎになれば公爵家は面目を失い、意地を張って同意をしないことも有り得ます」
話を長引かせるよりは、公爵家の体面を保って、すみやかに婚姻解消を成立させる。
公爵夫人は、それを優先しているのかもしれない。
「あの……私が訊いていいのかわかりませんけど、落ち度って……」
「ありていに言えば、不貞です。彼が、デヴィーナ・ゴドヴィという公爵令嬢と親しい関係にあると、貴族の間ではもっぱらの噂。知らない者はいないほどですよ」
「でも……貴族は愛人を持つことが許されてるんじゃ……」
「許されているのではなく、古い風習の名残です。私が幼かった頃は、力のある男が複数の妻を持つことは普通でした。一族の力を強め、維持するために。もっとも、ある程度の規模になると、親子や兄弟間での諍いが起きていましたがね」
ファニーは、ちょっと悩む。
愛人を持つことが、ただの風習に過ぎないとしても、帝国法で明確に禁じられているのは、貴族が側室を持つことだけだ。
おそらく伯爵が言ったような事態を避けるためだろう。
とはいえ、逆に、帝国法には、愛人を持ってはいけない、とも書かれていない。
個人的な感情を差し引くと「落ち度」とするには弱い気がする。
とかく男性の不貞は許され、女性の不貞は厳しく咎められがちだった。
これは平民にも言えることで、当主や家長が男性であることが多いからだ。
とくに貴族は、血の繋がらない子を認知してしまいかねないのを恐れている。
当主が女性の場合は、立場が逆転するが、さほど多くはない。
当主ではない公爵夫人が、ワイズン公爵の不貞を「落ち度」とできるだろうか。
「ファニーの心配はわかります。貴族の男が愛人を侍らせているのは、めずらしい話でもありませんし。ですが、ファニー、今回の場合、実際に不貞があったかは関係ないのですよ」
首をかしげたファニーに、伯爵が小さく笑う。
いつもの優しい雰囲気とは異なり、どこか「意地悪」気があった。
だが、不快には感じない。
「夫人は、彼と夜をともにしたことがない、と言ったでしょう? 夫人側も承知の上でなら話は別ですが、夫人は夫婦関係を拒絶してはいませんでした。にもかかわらず、彼は夫人と夫婦関係を築こうとしていません」
「それは、借金のため……あ……」
「そうです。金のために夫人を騙して婚姻したも同然。婚姻とは、ただ式を挙げれば良いというものではありません。3年という猶予があり、なおかつ他に女がいるという噂まであるのですから、落ち度とされても言い訳はできないでしょう」
伯爵が、夫婦関係について公爵夫人に訊いた時には焦ったが、そういうことだったのかと納得する。
確実に公爵夫人の望みを叶えるために、必要な問いだったのだ。
「伯爵様は優しいですね」
言うと、伯爵が、きょとんという顔をした。
それから、ハッハッと明るい声を上げて笑い出す。
ひどく楽しげな表情に、今度はファニーが、きょとんとなった。
「いや、失礼。私が夫人の手助けをする気になったのは、優しさからではないのです。あなたが怒っていたので、私もワイズン公爵が憎々しく感じられましてね」
伯爵は、まだ小さく笑っている。
くすくすと笑われて、ファニーの頬が熱くなった。
「そんなに分かり易いですか、私」
「あなたの感情は、とても豊かです。その感情に、素直で正直であることは、なにも恥ずかしいことではありません。むしろ、私には好ましく感じられます」
悪印象はなかったらしいが、それでも恥ずかしい。
伯爵に憧れていることまで見透かされていると思ったからだ。
(とりあえず、失礼な奴だとは思われなかったみたいだし……身の程知らずでも、心で想うくらいは、いいよね)
自分に言い聞かせて、なんとか心を落ち着かせる。
とはいえ、本人を前に、伯爵が自分の婚約者だと夢想するのだけはやめておくことにした。
伯爵は優しいので疎ましいと思っていても、疎ましがったりはしないだろうから。
(迷惑かけないように、気をつけないと)
最近は、ナタリーが髪を梳いてくれるので、いくらかマシになってきた。
だが、そばかすは、今さら、どうにもならない。
もう少し見栄えが良ければ自信を持てるかもしれないと思っていたが、公爵夫人を見て、その考えは消えている。
伯爵の隣には、公爵夫人のような貴族が立つべきなのだ。
貴族と平民では、持っている雰囲気が違う。
どんなに着飾っても自分では釣り合わないと思い知った。
肖像画を見て、ただ夢を見ていられた頃が懐かしいほどだ。
ちょっぴり寂しく感じるのを振りはらうために、ファニーは話題を変える。
「そう言えば、ディエゴさんは気さくなかたでしたね」
屋敷に泊まるなんて恐れ多いと思ったのだが、「お礼」でもあると言われると、断りきれなくなったのだ。
夫人とディエゴも泊まるらしく、カーリーに案内されて出ていき、今はいない。
伯爵とファニー、ナタリーは、前にも来た客室にいる。
テーブルには、ナタリーが用意した、お茶とケーキが置かれていた。
「そんな大層なことはしてないのに、ありがとうございます」
「いや、夫人も相手が“女性”だったから話し易かったのだと思いますよ」
やけに伯爵が「女性」というところを強調したような気がするが、なるほど確かに公爵夫人にとって「女性」であるのは間違いない。
たとえ伯爵にとっては、ただの牧童に過ぎなくても。
「どうぞ召し上がってください。お礼というにはささやかですが」
「そんなことないです。ケーキなんて普段は食べられないので」
甘いものは、とかく金がかかる贅沢品なのだ。
ポールに殺されずとも、羊や牛は病気で死ぬこともある。
減った数だけ買い戻せるだけの資金を蓄えておかなければならない。
ケーキを口にし、顔をほころばせつつ、向かいに座る伯爵をチラチラと見た。
いろいろと訊きたいことはあるのだが、訊いていいのか迷っている。
公爵夫人のことも気になるし、ディエゴについても訊きたかった。
「あなたに隠し事はしません。それでも言えないことは、話せないと言いますので、なんでも訊いてください」
伯爵は、人の心を読むのが上手い。
戦場にいると、そういうことにも長けていなければならないのだろうかと、ふと思った。
ファニーも伯爵の心を知りたいが、心を読むなんて真似はできないので、素直に言葉で訊いてみる。
「公爵夫人は婚姻解消できますか? 貴族は体面を気にすると聞きました。借金を返済しても、ワイズン公爵側が同意しないこともあるんじゃないかと思うんですけど」
「あの時は、あえて黙っていましたが、実際のところ、ワイズン公爵の同意など必要ないのですよ。彼には“落ち度”がありますから」
ワイズン公爵に「落ち度」があるならば、借金の返済を持ち出さなくても、夫人側から申し立てることはできる。
婚姻解消が成立して困るのは、契約不履行の上、借金が残るワイズン公爵だけだ。
「夫人は、そのことを公にする気がなく、両者同意の元という前提を作りたかったようです」
「私の印象では……公爵夫人は体面を気にされるかたには思えないです」
「同感ですね」
「じゃあ、ワイズン公爵を庇ってるってことですか?」
「そうとは限りません。騒ぎになれば公爵家は面目を失い、意地を張って同意をしないことも有り得ます」
話を長引かせるよりは、公爵家の体面を保って、すみやかに婚姻解消を成立させる。
公爵夫人は、それを優先しているのかもしれない。
「あの……私が訊いていいのかわかりませんけど、落ち度って……」
「ありていに言えば、不貞です。彼が、デヴィーナ・ゴドヴィという公爵令嬢と親しい関係にあると、貴族の間ではもっぱらの噂。知らない者はいないほどですよ」
「でも……貴族は愛人を持つことが許されてるんじゃ……」
「許されているのではなく、古い風習の名残です。私が幼かった頃は、力のある男が複数の妻を持つことは普通でした。一族の力を強め、維持するために。もっとも、ある程度の規模になると、親子や兄弟間での諍いが起きていましたがね」
ファニーは、ちょっと悩む。
愛人を持つことが、ただの風習に過ぎないとしても、帝国法で明確に禁じられているのは、貴族が側室を持つことだけだ。
おそらく伯爵が言ったような事態を避けるためだろう。
とはいえ、逆に、帝国法には、愛人を持ってはいけない、とも書かれていない。
個人的な感情を差し引くと「落ち度」とするには弱い気がする。
とかく男性の不貞は許され、女性の不貞は厳しく咎められがちだった。
これは平民にも言えることで、当主や家長が男性であることが多いからだ。
とくに貴族は、血の繋がらない子を認知してしまいかねないのを恐れている。
当主が女性の場合は、立場が逆転するが、さほど多くはない。
当主ではない公爵夫人が、ワイズン公爵の不貞を「落ち度」とできるだろうか。
「ファニーの心配はわかります。貴族の男が愛人を侍らせているのは、めずらしい話でもありませんし。ですが、ファニー、今回の場合、実際に不貞があったかは関係ないのですよ」
首をかしげたファニーに、伯爵が小さく笑う。
いつもの優しい雰囲気とは異なり、どこか「意地悪」気があった。
だが、不快には感じない。
「夫人は、彼と夜をともにしたことがない、と言ったでしょう? 夫人側も承知の上でなら話は別ですが、夫人は夫婦関係を拒絶してはいませんでした。にもかかわらず、彼は夫人と夫婦関係を築こうとしていません」
「それは、借金のため……あ……」
「そうです。金のために夫人を騙して婚姻したも同然。婚姻とは、ただ式を挙げれば良いというものではありません。3年という猶予があり、なおかつ他に女がいるという噂まであるのですから、落ち度とされても言い訳はできないでしょう」
伯爵が、夫婦関係について公爵夫人に訊いた時には焦ったが、そういうことだったのかと納得する。
確実に公爵夫人の望みを叶えるために、必要な問いだったのだ。
「伯爵様は優しいですね」
言うと、伯爵が、きょとんという顔をした。
それから、ハッハッと明るい声を上げて笑い出す。
ひどく楽しげな表情に、今度はファニーが、きょとんとなった。
「いや、失礼。私が夫人の手助けをする気になったのは、優しさからではないのです。あなたが怒っていたので、私もワイズン公爵が憎々しく感じられましてね」
伯爵は、まだ小さく笑っている。
くすくすと笑われて、ファニーの頬が熱くなった。
「そんなに分かり易いですか、私」
「あなたの感情は、とても豊かです。その感情に、素直で正直であることは、なにも恥ずかしいことではありません。むしろ、私には好ましく感じられます」
悪印象はなかったらしいが、それでも恥ずかしい。
伯爵に憧れていることまで見透かされていると思ったからだ。
(とりあえず、失礼な奴だとは思われなかったみたいだし……身の程知らずでも、心で想うくらいは、いいよね)
自分に言い聞かせて、なんとか心を落ち着かせる。
とはいえ、本人を前に、伯爵が自分の婚約者だと夢想するのだけはやめておくことにした。
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(迷惑かけないように、気をつけないと)
最近は、ナタリーが髪を梳いてくれるので、いくらかマシになってきた。
だが、そばかすは、今さら、どうにもならない。
もう少し見栄えが良ければ自信を持てるかもしれないと思っていたが、公爵夫人を見て、その考えは消えている。
伯爵の隣には、公爵夫人のような貴族が立つべきなのだ。
貴族と平民では、持っている雰囲気が違う。
どんなに着飾っても自分では釣り合わないと思い知った。
肖像画を見て、ただ夢を見ていられた頃が懐かしいほどだ。
ちょっぴり寂しく感じるのを振りはらうために、ファニーは話題を変える。
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