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前編
要件と用件と 3
しおりを挟む「カーリー、なぜ彼女は、ああも愛らしいのか」
「仰る通りにございます」
「私が、どれほど彼女にふれたかったか、お前にもわかったはずだ」
「御心お察しいたします」
「あのように言われ、葛藤しない者などいない」
「仰る通りにございます」
私室の肘掛けイスに座り、伯爵は目を伏せている。
外は陽が沈みかかっているだろうが、室内には明かりが灯されていた。
伯爵の私室には窓がないからだ。
室内には、伯爵とカーリーの2人だけ。
カーリーは伯爵の右斜め前に立ち、両手を後ろにしている。
姿が見えている時は、あえて声で会話をするようにしていた。
そのほうが「人間らしい」からだ。
最初の邂逅から早5日。
ファニーといると、時間の流れを感じられる。
闇の中で眠りについていた頃にはなかった感覚だ。
目覚めた時ですら、長く眠っていたのだろうという程度にしか思わなかったのに。
朝、身軽な格好で出かけ、ファニーと一緒に軽食を取る。
それから、牧場に行き、簡単なことであればファニーの仕事を手伝っていた。
牛の餌となる牧草を運んだり、といったようなことだ。
牛舎の掃除は、ファニーがなんとしても手伝わせてくれないので。
「ともに過ごす時間を増やしたいところだが、これ以上は彼女の邪魔になる」
葛藤と逡巡。
ファニーを相手にすると、心が行ったり来たりを繰り返す。
いっそ彼女の家に住み込みたいくらいだ。
一緒にいられる口実のあるナタリーを羨ましく思う。
実際、ナタリーは日に日にファニーと打ち解け、嬉しそうにしていた。
「僭越ながら申し上げます。もとよりファニー様を屋敷にお連れになるご予定だったのですから、すぐにでもそうなさればよろしいかと存じます。いつでもファニー様をお迎えする準備は整ってございます」
「彼女は牧童の仕事が好きなのだ。住み慣れた家を離れることにも不安を感じるだろう。強引なことをするのは気が進まない」
「しかしながら、ファニー様は伯爵様の奥様となられる御方にございます。後々、ファニー様が苦労されるのは、伯爵様も望まれないことかと」
カーリーの言うことは間違っていない。
伯爵は伯爵であり、身分制度の中では「貴族」に分類されている。
婚姻すれば、ファニーも貴族となるのだ。
ほかのことはすべて枝葉に任せることができても、社交だけはどうにもならない。
「昔は、貴族と民の間に、今ほどの格差はなかった。貴族は民を守り、取りまとめ、揉め事をおさめる役に過ぎなかったのだ。それが、いつから特権階級だと、くだらん勘違いをするようになったのか」
「世襲が続き、能力のない者が己を支配者だと錯覚するようになったのでございましょう。今や、奴らは己の権力を手放そうとはいたしません」
「私は爵位を返上したいくらいだがな」
カーリーに向かって、ニッと笑ってみせる。
もちろんカーリーは無表情だ。
だが、自分の感情と意思が伝わっているのは、わかっている。
「では、それも踏まえて葉を行かせましょう」
「私が彼女を手伝うという口実がなくなりはしないか?」
「……その分、ファニー様も動き易くなりますから、まずはこちらにお招きするところから始めてみてはいかがにございましょう?」
「さすが私より長生きをしているだけはある」
「お褒めにあずかり恐縮にございます」
自分が眠っていた間も、カーリーを始め、枝葉は生きてきた。
葉は入れ替わるものだが、カーリーと「枝」には知識と経験の蓄積がある。
「私の41年は、最早、過去だ。役には立たない。なにもかも」
あらゆることが変わってしまった。
戦場を駆けまわる騎士の時代は終わったのだ。
枝葉からもたらされた知識は情報に過ぎず、経験には成り得ない。
「カーリー……思えば、私は、ファニーに相応しくのないかもしれん」
急に枝葉がざわつきはじめた。
自分の不安を感じ取ったからだろう。
とはいえ、感情というものは抑制が効かないこともある。
常に冷静沈着でいられたのは、戦場でだけだ。
「20も年上の男に嫁ぐなど……」
「では、歳の近い男であればよろしいので?」
「それだけでは駄目だ。彼女を理解し、尊重し、大事にする者でなければな。ほんの少しでも、彼女を傷つけるような真似をすれば、私が許しはしない」
「では、歳が近く、ファニー様を傷つけず大切にする男であればよろしいので?」
「いや、駄目だ。彼女が好いている相手でなければ、絶対に駄目だ。暮らし向きも良くなければならないし、どんな相手からも守れる力もなければ」
「……歳が近いという要件以外は、伯爵様にあてはまっております。むしろ、ほかの要件を満たす者は少ないかと存じます」
伯爵は、ふう…と息をつく。
ひとまず、自分を「第1候補」とすることで、心に折り合いをつけた。
すべての要件を満たす男が現れたら、潔く身を引けばいいのだ。
諦めがつくかどうかはともかく。
「落ち着かれたようで、なによりにございます」
カーリーに、2杯目のコーヒーを渡された時だった。
枝葉が、いつもとは違うざわつきかたをする。
伝わってくる感覚は、危険でもなく、不快でもない。
強いて言葉にするなら「好奇心」に近いものだ。
直接のやりとりは、すでにカーリーがしていた。
何か起きているとしても、時間差なく報告が訊ける。
「ワイズン公爵夫人が首都を離れました」
「ワイズンか」
遠い記憶にもある名だ。
当初の激しい戦闘には加わらず、伯爵たちの勢力が大きくなったのを見計らい「加勢」しに来た。
───スラノの飼っていた道化。公爵位を授けるとは、さぞ気に入りだったらしい。
帝国統一まで、あと1歩。
ワイズンは自称「参謀」として陣にこもっていた。
まともな戦略を立てた試しはなく、提言はいつも戯言だった。
だが、己の言葉の役立てかたを知っていた男。
人は、耳に痛いことを聞きたがらない。
逆に、不安を取り除きたいがために、幻想であれ耳障りのいい言葉に傾倒する。
ワイズンは、相手の望むことを察する能力に長けていたのだ。
「ワイズン公爵夫人……そうか。ヴァルガーの家系の娘だな」
「さようにございます、伯爵様」
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「どうやら、こちらに向かっているようにございます。何事もなければ、2日後にはご到着されるでしょう」
伯爵は、しばし考えた。
どういう話になるにせよ、屋敷に女性を入れることになる。
無視しても良かったのだが、ともに戦ったヴァルガーの姿が思い出され、すげなくすることに微かな抵抗感を覚えた。
「ファニーにも同席してもらえるか、私から頼んでみよう。あらぬ疑いをまねきたくはないからな。ほどほどに丁重に迎える用意をしておけ。道中の警護もだ」
「すでにムスタファが、何人かの葉を張りつけてございます」
カーリーにうなずいてみせてから、伯爵は、ファニーに思いを馳せる。
どう話せば誤解されずにすむかを、真剣に考えていた。
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