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第1章 暗い闇と蒼い薔薇

心の傷痕 2

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 レティシア・ローエルハイドが、そこにいる。
 夢などでよくある、自分の姿を自分でているという感じの光景。
 けれど、結奈はもうこれが夢だとは思っていなかった。
 自分が「乗っ取った」彼女の姿を見ているのだと感じる。
 
(やっぱり私は消えるってことかぁ。まぁ、そりゃそうだよね。しかたない)
 
 さっきまでの激しい頭痛はおさまっていた。
 鼓動も速くない、というより、わからない。
 息もしているのかどうか判然としなくなっている。
 きっと自分が消えかけている証拠だと思った。
 
「なんでこんな時に……っ!! 冗談じゃないわよ!!」
 
 彼女はひどく焦っているようだ。
 そして、怒っている。
 屋敷のみんなから聞いていた話によると、レティシアはひどい癇癪持ちだったとのこと。
 今も癇癪を起こしているのだろう。
 
(あんな感じなんだ……おっかない……)
 
 体の感覚もなかったが、肩をすくめてみる。
 やはり、できているのかどうかわからなかった。
 
「なんでっ?! なんでなのよッ?! 冗談じゃない! 冗談じゃないッ!」
 
 繰り返し同じ言葉を吐き捨て、彼女は部屋をうろつき回っている。
 その光景に、あれ?と思った。
 
(おっかしーなぁ。なんで前の部屋に戻ってんの? あんなに片付けたのに)
 
 部屋は、結奈が初めてこの世界に来た時のものに戻っていた。
 あれから片づけて、こざっぱりしたはずなのに、見えているのはごちゃごちゃで「趣味の悪い」室内だ。
 一瞬、戸惑ったものの、すぐに納得する。
 こういう場合、次元の捻じれとかいったものが正されると、いろんなものが元の状態に戻されるものだ。
 自分が消えることにより、正しい状態に戻されているのだろう。
 
(てことは……みんなの記憶からも消えちゃうのかな。そうなるんだよね)
 
 結奈は、いなかったことになる。
 ここで過ごした日々も、みんなとの関係も、すべてがなかったことになるのだと思うと、寂しかった。
 それが、世界の正しい在り方だとしても。
 
(お祖父さまも……私のこと、忘れちゃうんだ……)
 
 とてつもなく寂しくなる。
 他のみんなに忘れられるのも寂しいけれど、祖父の記憶に自分がひと欠片も残らないことが、なにより寂しい。

 カッコ良くて、優しくて、懐の広い、結奈の理想の男性。

 そして、無償の愛を注いでくれる肉親でもあった。
 短い間ではあったが、とても大事にしてもらっている。
 祖父がどれだけ自分を可愛がってくれているかを、いつも感じていた。
 両親を失ってから飢えていた無償の愛を、誰よりも先んじて与えてくれたのが祖父なのだ。
 
(それでいいんだよ。だって、元々、私がもらうものじゃないんだし……お祖父さまが大事に想ってるのは、彼女だもん……)
 
 視界の中で、彼女は怒鳴り散らしている。
 誰に怒鳴っているのかは知らないが、1人で怒っていた。
 あれが祖父の大事な孫娘かと思うと、ため息が出る。
 サリーやグレイも、これからまた大変な毎日をおくることになると、簡単に予想できた。
 結奈を歓迎してくれた理由も、わかる気がする。
 
 自画自賛するわけではないが、それでも「あれ」よりはマシ。
 そう思えた。

 ぴらぴらフリフリのドレスに身を包み、眉を吊り上げて怒っている彼女。
 あの優しい両親の元で、どうしたらあんな娘に育つのか。
 よく親の教育、躾が悪いという言葉を聞くが、どうしてもそうとは思えない。
 幼い頃にしいたげられていたとは思えないし、絶対に愛されていたはずだ。
 
(甘やかされ過ぎたってこと? それにしても、あれはないわー)
 
 グレイに向かって「ナシだね」と言いたくなる。
 きっと眼鏡を押し上げながら「ナシですね」と言ってくれるに違いない。
 
 想像して、胸がぎゅっと痛くなった。
 彼らはすでに結奈の生活に欠かせない存在となっている。
 失いたくないあまり、ずっとこれは「自分の夢」だと言い聞かせてきた。
 この世界が「リアル」だとの可能性を、考えないようにしてきた。
 
(でも、もう終わり……彼女に体を返して……私、どこに帰るんだろう)
 
 あの1人ぼっちの部屋だろうか。
 夢ではないのだから、目覚めることもないのかもしれない。
 なんだか、そのほうがいいような気になる。
 自分が消えても、悲しむ人は誰もいないのだから。
 
「なんでっ?! なんで、なんで、なんでッ?!」
 
 たまらなく寂しい気持ちでいる結奈の前で、レティシアは髪を振り乱して叫んでいた。
 それから頭を両腕でかかえ、しゃがみこむ。
 
「私は……王太子の正妃になって……王妃になって……誰よりも、高い地位に……つくはずで……」
 
 彼女が「正妃選びの儀」に行くと強硬に言い張ったのは、誰よりも高い地位につくためだったらしい。
 そんなことを望んでいたのか、と思った。
 結奈は、まったく共感できずにいる。
 高い地位につくことよりも、みんなと一緒にいられて、笑っていられることのほうが、ずっとずっと幸せなことだと思えるからだ。
 
「こんな血でも私の役に立つと思って、たのに……っ……」
 
 彼女が苦しげにうめく。
 頭から手を離して、今度は胸のあたりをかきむしっていた。
 
「……明日……明日なのに……っ……そのために、私は……」
 
 なにが明日なのかはわからない。
 彼女はいったいどうしてしまったのだろう。
 自分の魂が入りこんだせいで、体に不調をきたしているのかもしれなかった。
 結奈の視界が曇ってきている。
 もうこれで本当に終わりなのだと感じる。
 
「ああ……抑えられない……抑えられない……なんでこんな……消える……私が消えて……しまう……わたしは……」
 
 声が小さくなっていった。
 最後のほうは聞き取れないまま、周りが静かになる。
 視界は闇に覆われていて、彼女の姿も見えなかった。
 
(消える……? どういうこと? 彼女はどこ……?)
 
 結奈に感覚はないので、目をらそうにも、うまくできない。
 彼女の姿どころか部屋も見えなくなっている。
 すべてが真っ暗だ。
 
(なにこれ……? ここに私だけ取り残されるってことは……ないよね?)
 
 それは、ある種、消えるよりも恐ろしいことだった。
 時間感覚もなく、永遠に暗闇に閉じ込められるなんて考えたくもない。
 車で海に飛び込んだ時も、冷蔵庫に閉じ込められた時も、飛び起きることができたのは、夢だったからだ。

 ここは夢の世界とは違う。
 起きることはできないとわかっていた。

 だから、よけいに怖くなる。
 暗闇で、結奈は1人だった。
 出口もなく、行き先も見えない。
 動きたくても、感覚がない。
 
(こんなのヤだよ! こんなとこにずっといなきゃいけないなら、消えたほうがマシだよ! 嫌だ、嫌だよ……っ……)
 
 自分が叫んでいるのかも、わからなかった。
 恐怖に心が支配されている。
 彼女に体を返すつもりではいた。
 けれど、返したあと、自分がどうなるのかは考えていなかった。
 
(助けて……助けてよ、お父さん、お母さん……っ……助けて……っ……)
 
 なんの感覚もないのに、感情だけは残っている。
 必死で両親にすがりついた。
 けれど、その姿は見えない。
 どうして、と思う。
 置いていかないで、と思う。
 
 1人はもう嫌だ。
 
 働き詰めの毎日でも、1人の時間は必ずやってきた。
 朝になれば寂しさを遠ざけていられたけれど。
 この暗闇と同じで、夜もまた必ずやってくるのだ。
 絶望感に打ちのめされている結奈の視界に、ぼんやりとなにかが現れる。
 必死で、それを視ようとした。
 
(…………お祖父さま……)
 
 祖父が、暗闇の中に立っていた。
 ぼうっと薄く光っている。
 声が聞こえた。
 
 『レティ……レティ……駄目だよ。逝かないでおくれ。頼むから……私の可愛い孫娘……私は、お前を失いたくない』
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