上 下
154 / 164
後編

幸せの手前には 2

しおりを挟む
 
 ころん。
 
 フレデリックは、顔をしかめる。
 少し上の空になっていたらしく、手から羽ペンが滑り落ちていた。
 羽ペンは、書き物机の上に、転がっている。
 フレデリックは、地下にある自分の私室にいた。
 めずらしく書き物机の前に座っている。
 
 たいていのことは、頭に入れておくのが、フレデリックのやりようだ。
 書類にするのは証拠を残すことになるため、文字に起こさない。
 そのため、書き物机は、ほとんど用無し。
 
「まったく、トリスタンのところにいた後遺症かもな」
 
 溜め息交じりに、羽ペンを握り直す。
 毎日、こき使われていたので、あの暮らしに馴染みかけていた。
 そのせいなのか、屋敷に戻ってから、時間を持て余している。
 マクシミリアンもマチルダも死んでしまったし。
 
 当面、急ぎの仕事もない。
 相変わらず、情報収集のため、サロンへの出入りはしていた。
 だが、これといって有益な情報もなく、空振りが続いている。
 
 もちろん、なにが「有益」になるかはわからないので、頭には入れていた。
 細切れの情報も、きっかけひとつで繋がることがあるからだ。
 それは「嘘つき」の材料になるものでもあった。
 完全に無駄と言い切れるもの以外は、ひとまず記憶に残している。
 
「あと半月か。それまで暇だ」
 
 ハインリヒのおりも終わった。
 カウフマンとのこともケリがついている。
 ラペルを継ぐのは、まだ先のことだ。
 あと半月は、のらくらと過ごすしかない。
 
 ひと月後、公爵とサマンサの婚姻の式がある。
 王宮の広間を貸しきっての式となるようだ。
 ティンザーからの招待状も届いている。
 
 ラペル公爵家は、公にはローエルハイドとは懇意ではない。
 ローエルハイドに怯えて、重臣たちの片隅で縮こまっている。
 それが、ラペルの表向きの姿なのだ。
 父も「それなり」に、うまくやっているらしかった。
 ローエルハイドとの裏での繋がりは、周りに露見していない。
 
 そのため、ローエルハイドからの招待とはならないのは、当然と言える。
 対して、ティンザーは、ラペルと同じ公爵家だった。
 格の違いはあっても、爵位の上では、横並びとされる。
 当主の1人娘の婚姻ともなれば、すべての公爵家を招くのも不思議ではない。
 
 分家や下位貴族だけを呼ぶといった、身内だけの式をすることもあるが、貴族の間で、それは体裁が悪いことなのだ。
 ティンザーが、そこまで体裁を気にするとは思えない。
 おそらく、公爵が、ティンザーに花を持たせようとしているのだろう。
 
 ほかの公爵家も、相手が格下だろうが、ある種の礼儀として列席はする。
 とくに、今回は、誰も「欠席」などしない。
 招待状をもらった家は血相を変え、準備に追われているはずだ。
 サマンサの婚姻相手は、ジェレミア・ローエルハイド公爵なのだから。
 
 ころん。
 
 握り直した羽ペンが、また手の中から落ちる。
 招待状の返事は、あらかた書けていた。
 急ぐ必要もない。
 集中力も落ちていることだし、後にしようと、フレデリックは、紅茶を用意してから、ソファに移動する。
 
「公爵様の仰っていた新しい仕事って、なんだろう? 楽しみだな」
 
 サマンサとの婚姻したあと、新たな仕事を任せてもらえることになっている。
 どういう仕事であれ、楽しみでたまらなかった。
 近くで働くことはできなくても、役に立てるなら、それでいいのだ。
 何年かに1度くらいは、顔を合わせられるだろうし。
 
 フレデリックは、5歳で初めて公爵に会って以来、11年も公爵とは会っていなかった。
 基本的には、当主である父が、対応しているからだ。
 とはいえ、あと十年もすれば、フレデリックが当主になる。
 
「そうなれば、今より、お会いできる回数が増えるもの。新しい仕事も任せてもらえるのだから、これまで以上に、頑張らないと」
 
 公爵に頭を撫でてもらうことが、フレデリックの喜びだった。
 トリスタンに「犬コロ」と呼ばれるのも、屈辱には感じていない。
 実際、そうなのだから、否定する気にもならなかったほどだ。
 客観的にどうかはともかく。
 
 前途洋々。
 
 フレデリックにとって、未来は明るく感じられる。
 公爵に従うことこそ、生きる意味そのもの。
 ほかの生きかたを、フレデリックは知らない。
 する気もなかった。
 
 ぱしゃ。
 
 うっかり紅茶を、膝にこぼしてしまう。
 暇過ぎて、よほどぼんやりしているようだ。
 ここまで気が抜けるのは、初めてと言える。
 
「まぁ、今回は、色々あったからなぁ。その分、暇ってなると……反動だな」
 
 やれやれと、腰を上げかけた。
 フレデリックは、この部屋にメイドすら入れないようにしている。
 すべて自分のことは自分でしているのだ。
 ともあれ、こぼした紅茶の始末も、自分でしなければならない。
 
 そのフレデリックの動きが、ぴたりと止まる。
 違う、と感じた。
 
 これは、自分ではない。
 
 これほどに、ぼんやりするなんて有り得ないのだ。
 物心ついてから20年以上、こんなことは1度もなかった。
 フレデリックは、呼吸をするかのごとく嘘をつく。
 無意識に、自分も含め、周りを観察していた。
 それこそ、意識しなくても、勝手に「嘘をつく」準備をしているのだ。
 
(やぁっと気づいたのかよー)
 
 バッと、フレデリックは立ち上がる。
 だが、室内には、フレデリックしかいない。
 
「姿を見せろよ」
(そりゃあムリだな。オレ、隠れてるわけじゃねーもん)
「魔術を使っているんだろ?」
(オレは、お前みたいに嘘が上手くねーの。魔術なんか使ってねーよ)
 
 心臓が、ばくばくしてくる。
 本能的に、悟っていた。
 
 ジェシーは、嘘をついていない。
 
 魔術を使って隠れているわけではないのだ。
 だとすれば、どこにいるのか。
 
 フレデリックは、グッと手を握り締める。
 答えは、ひとつしかない。
 
 すぐに公爵のところに行かなければ、と思った。
 それを察したように、ジェシーが言う。
 
(こーしゃくサマのところに行くのは、やめたほうがいいぜ?)
「お前に指図されたくないね」
(でも、こーしゃくサマでも、お前を助けらんねーのに行ってどーすんの?)
 
 フレデリックは「助けてもらおう」などとは考えていない。
 それも、察したように、ジェシーが笑った。
 ような気がする。
 
(それも、やめたほうがいいと思うぞ)
「公爵様なら、僕ごと、お前を殺してくださるさ」
(だろーな。こーしゃくサマは、お前を殺したって、なんとも思わねーもん。ま、ちょっと残念ってくらいなもんだよ)
「わかってるじゃないか。僕だって、公爵様に殺されるなら本望だね」
 
 ジェシーを、体の中に飼ったまま生きるより、公爵に殺されることを選ぶ。
 思っているフレデリックに、ジェシーは呆れたように言った。
 
(ティンザーの娘はどう? 平気かな? ただでさえ、大勢、殺したあとだろ? 仲良しのお前を、こーしゃくサマが殺したってなったら、平気じゃいらんないぜ?)
 
 部屋を出かけていたフレデリックの足が止まる。
 ジェシーの言うことに納得するのは、本意ではなかった。
 だが、その言葉は正しい。
 
 サマンサの心は折れてしまう。
 
 そうなったら、公爵はどうなるか。
 実際、目の前で見ていたのだから、知っている。
 あの様子では、躊躇なく後を追ってしまうに違いない。
 
(あ、それと、自死ってのもムリだぞ? オレは、生きてたいもん。お前が死のうとしたって、体が拒否する。もう、わかってんだろ?)
 
 わかっていた。
 
 羽ペンも紅茶も、ジェシーの仕業なのだ。
 ジェシーがしたくないと思うことは、フレデリックに影響をおよぼす。
 どうすればいいのか判断しかねていた。
 そのフレデリックの「中」で、ジェシーは、あっけらかんとしている。
 
(そんな心配しなくてもいいんじゃねーの? オレ、なんもできねーからサ)
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

式前日に浮気現場を目撃してしまったので花嫁を交代したいと思います

おこめ
恋愛
式前日に一目だけでも婚約者に会いたいとやってきた邸で、婚約者のオリオンが浮気している現場を目撃してしまったキャス。 しかも浮気相手は従姉妹で幼馴染のミリーだった。 あんな男と結婚なんて嫌! よし花嫁を替えてやろう!というお話です。 オリオンはただのクズキモ男です。 ハッピーエンド。

私が死んだあとの世界で

もちもち太郎
恋愛
婚約破棄をされ断罪された公爵令嬢のマリーが死んだ。 初めはみんな喜んでいたが、時が経つにつれマリーの重要さに気づいて後悔する。 だが、もう遅い。なんてったって、私を断罪したのはあなた達なのですから。

婚約解消して次期辺境伯に嫁いでみた

cyaru
恋愛
一目惚れで婚約を申し込まれたキュレット伯爵家のソシャリー。 お相手はボラツク侯爵家の次期当主ケイン。眉目秀麗でこれまで数多くの縁談が女性側から持ち込まれてきたがケインは女性には興味がないようで18歳になっても婚約者は今までいなかった。 婚約をした時は良かったのだが、問題は1か月に起きた。 過去にボラツク侯爵家から放逐された侯爵の妹が亡くなった。放っておけばいいのに侯爵は簡素な葬儀も行ったのだが、亡くなった妹の娘が牧師と共にやってきた。若い頃の妹にそっくりな娘はロザリア。 ボラツク侯爵家はロザリアを引き取り面倒を見ることを決定した。 婚約の時にはなかったがロザリアが独り立ちできる状態までが期間。 明らかにソシャリーが嫁げば、ロザリアがもれなくついてくる。 「マジか…」ソシャリーは心から遠慮したいと願う。 そして婚約者同士の距離を縮め、お互いの考えを語り合う場が月に数回設けられるようになったが、全てにもれなくロザリアがついてくる。 茶会に観劇、誕生日の贈り物もロザリアに買ったものを譲ってあげると謎の善意を押し売り。夜会もケインがエスコートしダンスを踊るのはロザリア。 幾度となく抗議を受け、ケインは考えを改めると誓ってくれたが本当に考えを改めたのか。改めていれば婚約は継続、そうでなければ解消だがソシャリーも年齢的に次を決めておかないと家のお荷物になってしまう。 「こちらは嫁いでくれるならそれに越したことはない」と父が用意をしてくれたのは「自分の責任なので面倒を見ている子の数は35」という次期辺境伯だった?! ★↑例の如く恐ろしく省略してます。 ★9月14日投稿開始、完結は9月16日です。 ★コメントの返信は遅いです。 ★タグが勝手すぎる!と思う方。ごめんなさい。検索してもヒットしないよう工夫してます。 ♡注意事項~この話を読む前に~♡ ※異世界を舞台にした創作話です。時代設定なし、史実に基づいた話ではありません。【妄想史であり世界史ではない】事をご理解ください。登場人物、場所全て架空です。 ※外道な作者の妄想で作られたガチなフィクションの上、ご都合主義なのでリアルな世界の常識と混同されないようお願いします。 ※心拍数や血圧の上昇、高血糖、アドレナリンの過剰分泌に責任はおえません。 ※価値観や言葉使いなど現実世界とは異なります(似てるモノ、同じものもあります) ※誤字脱字結構多い作者です(ごめんなさい)コメント欄より教えて頂けると非常に助かります。 ※話の基幹、伏線に関わる文言についてのご指摘は申し訳ないですが受けられません

10万円分の食料を購入しましたが、冷蔵庫はそれらの食料でいっぱいになりましたが、食費を悔い連ねて、ビールなどの酒類の方が腹を制するために、い

すずりはさくらの本棚
現代文学
10万円分の食料を購入しましたが、冷蔵庫はそれらの食料でいっぱいになりましたが、食費を悔い連ねて、ビールなどの酒類の方が腹を制するために、いっこうに食料は減らない。 10万円分の食料を購入されたのですね。冷蔵庫がいっぱいになるほどの量、大変だったことと思います。しかし、食費を悔やみながらも、酒類の方に手が伸びてしまい、食料が減らない状況とのこと、お気持ちお察しいたします。 この状況について、いくつか考えられる原因と、改善策を提案させてください。 **考えられる原因** * **ストレスや感情的な要因:** ストレスを感じている時や、何か感情的な出来事があった時、人はつい食べ過ぎたり、お酒を飲んだりしがちです。 * **習慣:** 以前から、食事よりもお酒を優先する習慣がついている可能性があります。 * **食料の選び方:** 長期保存できる加工食品ばかりを選んでしまい、飽きてしまいやすくなっている可能性があります。 * **環境:** 冷蔵庫の中身が全て見える状態になっていると、ついつい手が伸びてしまうかもしれません。 **改善策** * **食生活を見直す:** * **バランスの取れた食事:** 三食バランスの取れた食事を心がけ、必要な栄養素を摂取するようにしましょう。 * **間食の管理:** 間食は、ヘルシーなものを選び、食べる量を意識しましょう。 * **水分補給:** お酒の代わりに、水をこまめに飲むようにしましょう。 * **環境を変える:** * **冷蔵庫の整理:** 冷蔵庫の中身を整理し、見やすい状態にすることで、無駄な買い物を防ぎ、必要なものだけを取り出すようにしましょう。 * **見える場所に果物:** 冷蔵庫の見える場所に、リンゴやバナナなどの果物を置いておくと、自然と手が伸びやすくなります。 * **心の状態に目を向ける:** * **ストレス解消:** ヨガや瞑想など、自分に合ったストレス解消法を見つけてみましょう。 * **相談:** どうしても一人で抱えきれない場合は、信頼できる人に相談したり、専門家のサポートを受けることも検討しましょう。 **その他** * **食品ロス:** 食料が無駄にならないよう、消費期限を守り、計画的に消費するようにしましょう。 * **食費の管理:** 食費の予算を決めて、その範囲内で買い物をするようにしましょう。 **まとめ** 食生活の改善は、一朝一夕にできるものではありません。まずは、ご自身の状況を客観的に見て、何が問題なのかを把握することが大切です。そして、小さなことから少しずつ改善していくことで、より良い食生活を送ることができるでしょう。

いらないと言ったのはあなたの方なのに

水谷繭
恋愛
精霊師の名門に生まれたにも関わらず、精霊を操ることが出来ずに冷遇されていたセラフィーナ。 セラフィーナは、生家から救い出して王宮に連れてきてくれた婚約者のエリオット王子に深く感謝していた。 エリオットに尽くすセラフィーナだが、関係は歪つなままで、セラよりも能力の高いアメリアが現れると完全に捨て置かれるようになる。 ある日、エリオットにお前がいるせいでアメリアと婚約できないと言われたセラは、二人のために自分は死んだことにして隣国へ逃げようと思いつく。 しかし、セラがいなくなればいいと言っていたはずのエリオットは、実際にセラが消えると血相を変えて探しに来て……。 ◆表紙画像はGirly drop様からお借りしました🍬 ◇いいね、エールありがとうございます!

今さら、私に構わないでください

ましゅぺちーの
恋愛
愛する夫が恋をした。 彼を愛していたから、彼女を側妃に迎えるように進言した。 愛し合う二人の前では私は悪役。 幸せそうに微笑み合う二人を見て、私は彼への愛を捨てた。 しかし、夫からの愛を完全に諦めるようになると、彼の態度が少しずつ変化していって……? タイトル変更しました。

前世で処刑された聖女、今は黒薬師と呼ばれています

矢野りと
恋愛
旧題:前世で処刑された聖女はひっそりと生きていくと決めました〜今世では黒き薬師と呼ばれています〜 ――『偽聖女を処刑しろっ!』 民衆がそう叫ぶなか、私の目の前で大切な人達の命が奪われていく。必死で神に祈ったけれど奇跡は起きなかった。……聖女ではない私は無力だった。 何がいけなかったのだろうか。ただ困っている人達を救いたい一心だっただけなのに……。 人々の歓声に包まれながら私は処刑された。 そして、私は前世の記憶を持ったまま、親の顔も知らない孤児として生まれ変わった。周囲から見れば恵まれているとは言い難いその境遇に私はほっとした。大切なものを持つことがなによりも怖かったから。 ――持たなければ、失うこともない。 だから森の奥深くでひっそりと暮らしていたのに、ある日二人の騎士が訪ねてきて……。 『黒き薬師と呼ばれている薬師はあなたでしょうか?』 基本はほのぼのですが、シリアスと切なさありのお話です。 ※この作品の設定は架空のものです。 ※一話目だけ残酷な描写がありますので苦手な方はご自衛くださいませ。 ※感想欄のネタバレ配慮はありません(._.)

婚約破棄されましたが、私はあなたの婚約者じゃありませんよ?

柴野
恋愛
「シャルロット・アンディース公爵令嬢!!! 今ここでお前との婚約を破棄するッ!」  ある日のこと、学園の新入生歓迎パーティーで婚約破棄を突きつけられた公爵令嬢シャルロット。でも……。 「私はあなたの婚約者じゃありませんよ? どなたかとお間違いなのでは? ――そこにいる女性があなたの婚約者だと思うのですが」 「え!?」 ※ざまぁ100%です。 ※小説家になろう、カクヨムに重複投稿しています。

処理中です...