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後編
理不尽と不条理 2
しおりを挟む「まったく、あなたったら! あんまりだとは思わないのっ?」
「思わないね」
「ひどく痛むのよっ?」
「だろうね」
「あなたには自重という概念はないみたいね!」
「そうとも」
サマンサは、ぷんぷんしている。
朝食を口にしながらも、ずっと眉間に皺を寄せていた。
彼も、彼のせいだとわかっている。
だが、悪いとは思っていない。
「悪いことをしたと思っていないって顔をしているわよ?」
「これっぱかしも思っちゃいないから、しかたないさ」
「あなたが、人でなしだってことを思い出させてくれて、ありがとう!」
「そうだな。きみから言われると、褒め言葉に聞こえるようになってきたよ」
キッとにらんでくるサマンサに、彼は肩をすくめてみせた。
サマンサは、まだベッドにいる。
朝食は彼が用意した。
魔術を使い、トレイをサマンサの食べ易い位置に固定している。
彼はベッドの縁に腰かけていた。
こうしていると、サマンサがここで暮らし始めた頃のことを思い出す。
いつも彼女は怒っていた。
今も、だけれど、それはともかく。
「ねえ……」
サマンサが眉を下げ、彼を見上げてくる。
少し下手に出る気になったらしい。
「治癒をしてもらえないかしら? これでは熱いものが食べられないわ」
「かまわないよ」
サマンサの瞳が、パッときらめく。
それを見てから、言った。
「その際は、手も治癒するがね」
「なんですって!」
「それはそうさ。唇だけ治癒するなんて器用な真似はできないな。私は使えない魔術師なのでね」
「なによ、この人でなし! 冷血漢! 恥知らずっ!」
「ああ、きみ。碌でなしを忘れているよ?」
サマンサは、今にも枕を投げてきそうな勢いで怒っている。
薄緑色の瞳が、きらきらと輝いていた。
彼女を愛しているけれども、この癖は直せそうにもない。
怒っているサマンサは、本当に魅力的なのだ。
昨夜、彼は彼女に「レジーとの約束」を白状させている。
手荒れを癒す軟膏だかを買って来ると、レジーが言っていたらしい。
サマンサが頼んだことでもあるのだそうだ。
だから、治癒で治したとなると、せっかくの気遣いを無駄にさせてしまう。
それが申し訳ないのだと、サマンサは言っている。
それが気に食わないと、彼は思っている。
約束を守りたいとの、彼女の気持ちはわからなくはない。
だが、彼にも彼なりの想いがあった。
サマンサとレジー、リスの3人が家族のように見えたのが忘れられずにいる。
あの森小屋で、サマンサは2人のために洗濯をしていた。
そのために手が荒れたのだ。
なんだかサマンサの居場所は、あの森だと言われているような気がする。
元通りの手になるまで、意識し続けるに違いない。
心が狭いのは自覚済みだ。
今朝は、むしろ、開き直っている。
結果、サマンサの唇が腫れることになった。
彼の「気がすむまで」口づけを繰り返したからだ。
サマンサの唇は、少しぷくっとして、赤くなっている。
熱いものを口にすれば、沁みるだろう。
「いいわよ、もう頼まないわ!」
つんっとして、サマンサは、スプーンですくったスープを吹いていた。
今朝も、同じ。
いくら彼が懐柔しようとしても、頑として譲らなかったのだ。
そのせいで、彼も譲る気にならなかった。
(完全に治すほどではなくてもいいと言ったのに、それすら許してくれなかったのだから、私も手加減をする必要はないはずだ)
サマンサは意思が固い。
記憶がなかろうと、資質的な部分は変わらず持ち続けている。
譲歩も妥協もしないのだ。
実に、彼女は憎たらしい。
なのに、愛おしいからこそ、些細なことにさえ嫉妬する。
サマンサがレジーを優先しているのが、やはり気に食わなかった。
痛そうに食事をしている彼女を、ちょっぴり可哀想に感じるのだけれども。
「きみが、ほんの少し私の提案を受け入れてくれればいいだけじゃないか」
「約束は約束でしょう? あなたは、私に約束を破れと言っているのよ?」
「なにも、きれいさっぱり治癒するとは言っていない」
「私は、この手荒れに関しては、レジーに軟膏を頼んだの。あなたに治癒を頼んだのは、この唇だけよ。これは、あなたのせい……ばかりではないけれど、あなたが主に悪いってことは確かよね」
彼は、じいっと、サマンサの赤く膨れた唇を見つめる。
視線に気づいてか、彼女が頬を赤く染めた。
「絶対に許さないから」
「なにをだい?」
「もう気はすんだでしょう?ってこと」
「どうかな」
言った瞬間、サマンサがスプーンを放り出した。
両手で唇を覆う。
「あっ! い、いた……っ……」
強く唇に手でふれたことで、痛みが走ったらしい。
サマンサは、慌てて唇から手を離している。
その姿に、ついに根負け。
彼は、すいっと、サマンサに顔を近づけた。
ぎょっとした顔をする彼女の唇へと、わずかに唇をふれさせる。
同時に、治癒を施した。
これで、唇から痛みはなくなったはずだ。
喜ぶかと思いきや、サマンサは、ハッとした顔で手を見ている。
「きみときたら……感謝の心というものを、どこかに置き忘れてきたようだな」
「あなたは駄々をこねている子供みたいよ」
「子供なら最後まで駄々をこね通しているさ」
不意に、彼女が、くすくすと笑い出した。
なぜ笑われているのか、彼にはわからない。
「いいことだわ」
「なにがだい?」
「私にも、あなたを怒らせる才能が発揮できるとわかったことよ」
彼はサマンサの言葉に狼狽える。
怒ったつもりはなかったのだが、怒っているように受け取られたようだ。
サマンサに対し、不愉快になったことは幾度かある。
だが、怒ったことはないと思っていた。
彼が怒るのは、サマンサを傷つける相手に対してだったから。
「それだけ私に気心を許しているのじゃない?」
「……よく、わからないな……私はきみに怒ったのかい? 本当に?」
「不愉快というより、もう少し感情的だったわね」
「感情的か……」
ずっと感情を表には出さないようにしてきた。
それが、彼の「普通」だったのだ。
嘘はつかないが、本心も明かさない。
軽口を叩いたり、皮肉ったりすることはあっても、感情的になることなど、ほぼなかったと言える。
「いいと思うわよ? 少なくとも、私の前では」
「私が感情的になっても、きみは平気なのかね?」
「平気よ。どちらかというと、そのほうが面白いわね。あなたは、いつも澄ました顔をしているから」
やれやれと、彼は髪をかきあげた。
サマンサには勝てた試しがなかったのを思い出す。
いつだって、彼が折れるのだ。
「そう言えば、昨日、あなたは本当に礼儀正しく眠ったのね」
「……どういう意味だい?」
「あなた、昨夜はベッドをともにしないようなことを言っていたけれど、私たち、そういう関係があったのでしょう? だから、なにかあっても不自然じゃないって思っていたの。その時のことは覚えていないとしても、嫌ではなかったと思うわ」
彼は口元を押さえ、反射的に、サマンサから顔をそむける。
誤解を正すべきか否か。
正すとしても、どう説明すべきか。
「ああ、いや……そのことについてだが……」
彼の頭で、サマンサが言った「嫌ではない」との言葉が、ぐるぐるしていた。
そのせいで、まともな説明が浮かんで来ない。
どう答えようかと「感情的」になっている心に、スと冷たいものが入ってくる。
(連絡がまいりました、我が君)
ジョバンニからの即言葉だ。
頭が、みるみる冴え冴えとしてくる。
彼は、サマンサに心残りを感じながらも、気持ちを切り替えた。
(それでは、こちらも始める)
トリスタンはカウフマンを捕らえたのだ。
であれば、彼の出番が回ってきた、ということになる。
「サミー」
呼びかけに、サマンサが表情を変えた。
トリスタンから連絡が入ったのを察したようだ。
「これから?」
「ああ。すぐに始める」
「……ここにいても、できることなの?」
「いや、外に出なければならないね」
「私も連れて行ってちょうだい」
「サミー、それは……」
「私も行くわ」
彼はトレイを片づけ、サマンサの手を取る。
ラナの手を煩わせるまでもなく、彼が魔術でサマンサを着替えさせた。
それから肩を抱き、点門を開く。
宮殿の尖塔のひとつ、最上階にある見張り部屋だ。
今は使われていないが、アドラントを見渡せる。
「私は、あなたと一緒にいるから」
サマンサが彼に寄り添ってきた。
小さくうなずいてから、彼は目を伏せる。
膨大な量の情報を一気に引き出した。
すべての「彼ら」の位置を把握する。
そして。
アドラントと、ロズウェルドの一部に、細く白い線が走った。
その日その一瞬で、4千人もの人間が、一斉に姿を消したのだ。
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