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後編
多くは望まないよう 3
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リスが去ってから、5日ほどが経ち、サマンサの気持ちも落ち着き始めている。
まだ連絡がないので、悪い状況にはなっていないのだろう。
レジーとケニーの2人が保証した家なのだ。
影で虐められているなどということはないと判断できる。
そっと見に行きたいとの思いはあれど、我慢していた。
リスが元気にしているのなら、それでいい。
同時に、リスに心配されるような自分であってはならない、とも思っている。
「今夜の夕食は、なににするの?」
「昨日、漬けこんでおいた鹿肉があるから、ローストだな。それに豆のスープ」
「あら、それだけ? 野菜が少ないのじゃない?」
「ローストの付け合わせで、ジャガイモとニンジン、芽キャベツを使う」
「それなら、私は、ジャガイモの皮剥きをしようかしら」
ナイフの使いかたにも、だいぶ慣れてきた。
料理自体は、レジーに任せているが、下ごしらえの手伝いくらいはできる。
と、思っているのだけれども。
「俺が、治癒の魔術を使えねぇって知ってるくせにな」
レジーが、ジャガイモを片手で放り投げながら、笑っていた。
それを、すかさず空中で、サマンサは掴み取る。
つんっと、そっぽを向き、ナイフを手に取った。
「それほど酷くはないわ。針で、ちょんと突いた……程度……」
実際、ナイフで手を切ったといっても、大怪我にはなっていない。
ちょっぴり血は出たが、すぐに止まっていた。
針で指先を刺すのと、たいして変わらないような傷だ。
『少……とも、き……体を……に傷つ……けれ……』
『……だけの……たら……癒して……のよね?』
頭痛ともにやってくる、遠くからの声。
これまでにも、たびたびあった。
サマンサは、あえて顔をしかめないように気をつける。
レジーに心配させたくなかったのだ。
けれど。
『当然だよ、きみ』
サマンサは、どきりとした。
甘さと厳しさを含んだような声には、聞き覚えがある。
心臓が波打ち、どくどくと全身に血が巡っていた。
声の主は、あの「ローエルハイド公爵」だ。
以前の自分は、確かに彼の婚約者だったに違いない。
知らされていても、ずっと実感はなかった。
なにか自分には関わりのないことのように感じていたのだ。
だが、じわりとサマンサの中に、彼の声が浸透していく。
自分たちは、けして「無関係」ではない。
「サ~ム? どしたあ?」
声に、サマンサは幻想から引き戻された。
レジーの穏やかな視線に、微笑んでみせる。
それから、ナイフを左右に軽く振った。
「私のナイフ捌きを見せて、あなたを感心させなくちゃね」
「それは、魚を捌けるようになってからだ」
「なによ、ずいぶんと査定が厳しいじゃないの」
「上には上があるってとこを、教えておかなきゃならないんでね」
パッと、レジーがジャガイモをサマンサから奪い返す。
笑いながら、別のジャガイモを、サマンサは取り出した。
「鹿肉はいいの? あなたに、ローストされたがっているのに、待ちぼうけ?」
「サム、ローストってのは煮込みとは違うんだぜ?」
「知っているわよ? 焼くのよね? それにしては窯に火が入っていないようだから訊いたの」
レジーが、声をあげて笑う。
どうして笑われているのか、サマンサは、きょとんとなる。
彼女の中に残されている知識上、ローストとは「焼く」ことを意味していた。
多くは、窯で蒸し焼きにした料理が「ロースト」と呼ばれていると。
「間違っちゃいねぇけどなぁ。今夜の“ロースト”は炙り焼きにする」
「炙り焼き?」
「表面を焼いて火は通すが、焼き過ぎないようにする。だから、そんなに、時間はかからねぇってわけだ」
ちらっと、頭に料理が浮かぶ。
たぶん、食べたことはあるのだろう。
ただ、今のサマンサは、細かな料理の名前までは覚えていなかった。
土地や貴族の名前なども同じだ。
生活には困らない。
民服だの平民だのと「一般的」な知識は残っている。
だが、自分に関わりのある「なにか」は、思い出せないのだ。
ふっと口をついて出てきた、乳母だとか民言葉だとかを、どこでどういうふうに知ったのか、などは、まるきり不明のままだった。
(でも、それもいいのかもしれないわね。頭痛には悩まされるけれど、一瞬のことだもの。知らないほうがいいことだから、思い出せないのかもしれないし)
サマンサは、ここにいる間は、そのように割り切ることにしている。
今の自分は「新しい自分」なのだ。
「サム、それは食うところがあるのか?」
「え? まあ、嫌だわ! こんなに小さくなってしまうなんて!」
レジーは大笑い。
サマンサもつられて笑った。
手を切らないようにと注意したせいで、皮を厚く剥き過ぎたのだ。
そのせいで、丸かったジャガイモが、ほっそりしている。
ほっそり。
丸かったものが、ほっそり。
サマンサは、じっと、そのジャガイモを見つめた。
が、手から、それが取り上げられる。
「付け合わせには十分だ」
ササっと、レジーが、器用にジャガイモを切り分けた。
それを、油の入った小さ目の鍋に放り込む。
ジュッと音を立て、ジャガイモに焦げ色が付き始めた。
ショワショワという音。
レジーとの毎日は、とても穏やかだ。
これといって、特別なことは起きていない。
サマンサと2人になっても、レジーはレジーだった。
彼女に部屋に押し入ってくるでもなし、ベッドに誘うでもなし。
(私は、そういう意味では、レジーの好みではなさそうね)
そのことに、サマンサは、落胆はしていない。
レジーとの距離感に満足している。
人には、それぞれ好みもあるのだ。
一緒にいるからといって、心を惹かれるとは限らない。
「私は覚えていないから、よくわからないのだけれど、レジーは、女性の好みにはうるさいの? 28になるのに、婚姻していないなんて」
「兄上だって、俺と同じ歳だが、婚姻はしていない。この歳で、婚姻していない男なんて履いて捨てるほどいるんだぞ」
「本当に、男性は気楽よね。歳を気にする必要がないのだもの」
不意に、レジーが、ジャガイモを鍋から取り出す作業を止める。
サマンサのほうに向き直り、顔をしかめた。
それから、髪を、くしゃくしゃとかき回す。
「実は……サムに頼みがある」
「私にできることなら、かまわないわよ? 鹿肉を焼くのは無理だと思うけれど」
「それは、わかってる。鹿肉は、俺が焼くとして……」
レジーは、いつになく言いにくそうにしていた。
そんなに難しい頼みなのだろうかと、サマンサは首をかしげる。
やがて、レジーが、ふう…と溜め息をついた。
「夜会のパートナーになってくれないか?」
「夜会?」
「サムが、まだ王都に戻りたくないってのはわかってる。けど、1日でいい。その日だけ、俺のパートナーとして夜会で出てくれると……助かる」
サマンサは、頭の中を探ってみる。
挨拶やダンスは、できそうな感覚があった。
一般的な「礼儀」に過ぎず、直接的に、サマンサ自身には関係ないからだろう。
それなら、夜会に出席して、レジーに恥をかかせる心配はなさそうだ。
「別に、いいわよ? 深刻ぶって言うから、何事かと思ったわ」
「いや、それが……」
「なに?」
「公爵様も出席なさるらしい」
どきりと、心臓が音を立てる。
漆黒の髪と瞳が、目の前をよぎった。
サマンサは、曲がりなりにも、彼の「婚約者」なのだ。
別の男性のパートナーとなれば、恥をかかせることになる。
「……あの……私はともかく、レジーの立場が悪くなるのではないの?」
「そうはならねぇさ」
「どうして?」
レジーは、いつも率直だ。
なのに、どうも歯切れが悪い。
サマンサの顔色を窺っているような節がある。
「ああ、そういうことね。彼は魔術師で、ここにも、いつだって来られる。なのに、ここには来ていない。つまり、彼は、私を夜会に同伴する気はないってこと。そうでしょう?」
「公爵様は、1人で来るつもりなんじゃねぇかな」
「未だに“お声がかり”がないということは、そうかもしれないわね」
レジーの気遣いはわかるが、サマンサは気にしない。
声がかかっていないのだから、彼を尊重する必要はないのだ。
夜会に出席するのであれば、一応は「婚約者」に打診するのは当然なのだから。
「いいじゃない。なにかあれば、向こうが対処するわよ」
サマンサは、そっけなく言う。
彼には、大きな力があるらしい。
婚約者が別のパートナーと現れたくらい、どうにでもするだろう。
「それで? どういう夜会なの?」
「兄上が、護衛騎士隊長に任じられてね。その祝いの夜会だ」
「まあ、それってすごいことなのじゃない? 隊長というくらいだものね」
「そのせいで、俺にまで、とばっちりだ。夜会なんて、俺の趣味じゃない」
「リスよりも聞き分けが悪い子供のようなことを言わないで」
サマンサは、くすくすと笑った。
レジーが、本当にうんざりした様子だったからだ。
貴族服を身につけるのも嫌だという気配を漂わせている。
「ちょうどケニー様や騎士のかたがたに、お礼を言っておきたいと思っていたのよ」
「サムが同伴してくれるんなら、俺も我慢してボウタイを結ぶとするか」
少し気が晴れたようなレジーに、サマンサは、安心した。
これで、少しは恩が返せるかもしれないと思ったのだ。
まだ連絡がないので、悪い状況にはなっていないのだろう。
レジーとケニーの2人が保証した家なのだ。
影で虐められているなどということはないと判断できる。
そっと見に行きたいとの思いはあれど、我慢していた。
リスが元気にしているのなら、それでいい。
同時に、リスに心配されるような自分であってはならない、とも思っている。
「今夜の夕食は、なににするの?」
「昨日、漬けこんでおいた鹿肉があるから、ローストだな。それに豆のスープ」
「あら、それだけ? 野菜が少ないのじゃない?」
「ローストの付け合わせで、ジャガイモとニンジン、芽キャベツを使う」
「それなら、私は、ジャガイモの皮剥きをしようかしら」
ナイフの使いかたにも、だいぶ慣れてきた。
料理自体は、レジーに任せているが、下ごしらえの手伝いくらいはできる。
と、思っているのだけれども。
「俺が、治癒の魔術を使えねぇって知ってるくせにな」
レジーが、ジャガイモを片手で放り投げながら、笑っていた。
それを、すかさず空中で、サマンサは掴み取る。
つんっと、そっぽを向き、ナイフを手に取った。
「それほど酷くはないわ。針で、ちょんと突いた……程度……」
実際、ナイフで手を切ったといっても、大怪我にはなっていない。
ちょっぴり血は出たが、すぐに止まっていた。
針で指先を刺すのと、たいして変わらないような傷だ。
『少……とも、き……体を……に傷つ……けれ……』
『……だけの……たら……癒して……のよね?』
頭痛ともにやってくる、遠くからの声。
これまでにも、たびたびあった。
サマンサは、あえて顔をしかめないように気をつける。
レジーに心配させたくなかったのだ。
けれど。
『当然だよ、きみ』
サマンサは、どきりとした。
甘さと厳しさを含んだような声には、聞き覚えがある。
心臓が波打ち、どくどくと全身に血が巡っていた。
声の主は、あの「ローエルハイド公爵」だ。
以前の自分は、確かに彼の婚約者だったに違いない。
知らされていても、ずっと実感はなかった。
なにか自分には関わりのないことのように感じていたのだ。
だが、じわりとサマンサの中に、彼の声が浸透していく。
自分たちは、けして「無関係」ではない。
「サ~ム? どしたあ?」
声に、サマンサは幻想から引き戻された。
レジーの穏やかな視線に、微笑んでみせる。
それから、ナイフを左右に軽く振った。
「私のナイフ捌きを見せて、あなたを感心させなくちゃね」
「それは、魚を捌けるようになってからだ」
「なによ、ずいぶんと査定が厳しいじゃないの」
「上には上があるってとこを、教えておかなきゃならないんでね」
パッと、レジーがジャガイモをサマンサから奪い返す。
笑いながら、別のジャガイモを、サマンサは取り出した。
「鹿肉はいいの? あなたに、ローストされたがっているのに、待ちぼうけ?」
「サム、ローストってのは煮込みとは違うんだぜ?」
「知っているわよ? 焼くのよね? それにしては窯に火が入っていないようだから訊いたの」
レジーが、声をあげて笑う。
どうして笑われているのか、サマンサは、きょとんとなる。
彼女の中に残されている知識上、ローストとは「焼く」ことを意味していた。
多くは、窯で蒸し焼きにした料理が「ロースト」と呼ばれていると。
「間違っちゃいねぇけどなぁ。今夜の“ロースト”は炙り焼きにする」
「炙り焼き?」
「表面を焼いて火は通すが、焼き過ぎないようにする。だから、そんなに、時間はかからねぇってわけだ」
ちらっと、頭に料理が浮かぶ。
たぶん、食べたことはあるのだろう。
ただ、今のサマンサは、細かな料理の名前までは覚えていなかった。
土地や貴族の名前なども同じだ。
生活には困らない。
民服だの平民だのと「一般的」な知識は残っている。
だが、自分に関わりのある「なにか」は、思い出せないのだ。
ふっと口をついて出てきた、乳母だとか民言葉だとかを、どこでどういうふうに知ったのか、などは、まるきり不明のままだった。
(でも、それもいいのかもしれないわね。頭痛には悩まされるけれど、一瞬のことだもの。知らないほうがいいことだから、思い出せないのかもしれないし)
サマンサは、ここにいる間は、そのように割り切ることにしている。
今の自分は「新しい自分」なのだ。
「サム、それは食うところがあるのか?」
「え? まあ、嫌だわ! こんなに小さくなってしまうなんて!」
レジーは大笑い。
サマンサもつられて笑った。
手を切らないようにと注意したせいで、皮を厚く剥き過ぎたのだ。
そのせいで、丸かったジャガイモが、ほっそりしている。
ほっそり。
丸かったものが、ほっそり。
サマンサは、じっと、そのジャガイモを見つめた。
が、手から、それが取り上げられる。
「付け合わせには十分だ」
ササっと、レジーが、器用にジャガイモを切り分けた。
それを、油の入った小さ目の鍋に放り込む。
ジュッと音を立て、ジャガイモに焦げ色が付き始めた。
ショワショワという音。
レジーとの毎日は、とても穏やかだ。
これといって、特別なことは起きていない。
サマンサと2人になっても、レジーはレジーだった。
彼女に部屋に押し入ってくるでもなし、ベッドに誘うでもなし。
(私は、そういう意味では、レジーの好みではなさそうね)
そのことに、サマンサは、落胆はしていない。
レジーとの距離感に満足している。
人には、それぞれ好みもあるのだ。
一緒にいるからといって、心を惹かれるとは限らない。
「私は覚えていないから、よくわからないのだけれど、レジーは、女性の好みにはうるさいの? 28になるのに、婚姻していないなんて」
「兄上だって、俺と同じ歳だが、婚姻はしていない。この歳で、婚姻していない男なんて履いて捨てるほどいるんだぞ」
「本当に、男性は気楽よね。歳を気にする必要がないのだもの」
不意に、レジーが、ジャガイモを鍋から取り出す作業を止める。
サマンサのほうに向き直り、顔をしかめた。
それから、髪を、くしゃくしゃとかき回す。
「実は……サムに頼みがある」
「私にできることなら、かまわないわよ? 鹿肉を焼くのは無理だと思うけれど」
「それは、わかってる。鹿肉は、俺が焼くとして……」
レジーは、いつになく言いにくそうにしていた。
そんなに難しい頼みなのだろうかと、サマンサは首をかしげる。
やがて、レジーが、ふう…と溜め息をついた。
「夜会のパートナーになってくれないか?」
「夜会?」
「サムが、まだ王都に戻りたくないってのはわかってる。けど、1日でいい。その日だけ、俺のパートナーとして夜会で出てくれると……助かる」
サマンサは、頭の中を探ってみる。
挨拶やダンスは、できそうな感覚があった。
一般的な「礼儀」に過ぎず、直接的に、サマンサ自身には関係ないからだろう。
それなら、夜会に出席して、レジーに恥をかかせる心配はなさそうだ。
「別に、いいわよ? 深刻ぶって言うから、何事かと思ったわ」
「いや、それが……」
「なに?」
「公爵様も出席なさるらしい」
どきりと、心臓が音を立てる。
漆黒の髪と瞳が、目の前をよぎった。
サマンサは、曲がりなりにも、彼の「婚約者」なのだ。
別の男性のパートナーとなれば、恥をかかせることになる。
「……あの……私はともかく、レジーの立場が悪くなるのではないの?」
「そうはならねぇさ」
「どうして?」
レジーは、いつも率直だ。
なのに、どうも歯切れが悪い。
サマンサの顔色を窺っているような節がある。
「ああ、そういうことね。彼は魔術師で、ここにも、いつだって来られる。なのに、ここには来ていない。つまり、彼は、私を夜会に同伴する気はないってこと。そうでしょう?」
「公爵様は、1人で来るつもりなんじゃねぇかな」
「未だに“お声がかり”がないということは、そうかもしれないわね」
レジーの気遣いはわかるが、サマンサは気にしない。
声がかかっていないのだから、彼を尊重する必要はないのだ。
夜会に出席するのであれば、一応は「婚約者」に打診するのは当然なのだから。
「いいじゃない。なにかあれば、向こうが対処するわよ」
サマンサは、そっけなく言う。
彼には、大きな力があるらしい。
婚約者が別のパートナーと現れたくらい、どうにでもするだろう。
「それで? どういう夜会なの?」
「兄上が、護衛騎士隊長に任じられてね。その祝いの夜会だ」
「まあ、それってすごいことなのじゃない? 隊長というくらいだものね」
「そのせいで、俺にまで、とばっちりだ。夜会なんて、俺の趣味じゃない」
「リスよりも聞き分けが悪い子供のようなことを言わないで」
サマンサは、くすくすと笑った。
レジーが、本当にうんざりした様子だったからだ。
貴族服を身につけるのも嫌だという気配を漂わせている。
「ちょうどケニー様や騎士のかたがたに、お礼を言っておきたいと思っていたのよ」
「サムが同伴してくれるんなら、俺も我慢してボウタイを結ぶとするか」
少し気が晴れたようなレジーに、サマンサは、安心した。
これで、少しは恩が返せるかもしれないと思ったのだ。
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