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後編

境界と臨界 2

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 昼食後、リスは昼寝の時間だ。
 寝かしつけるのはサマンサの役目になっている。
 寝顔を見たあと、額に口づけを落とした。
 
「本当に可愛いわ」
 
 記憶はちっとも戻らないが、あまり気にならない。
 リスのおかげだと思う。
 世話ができているかはともかく、あの小さな手を握っていると穏やかな心持ちになれるのだ。
 いずれ離さなければならない手だとしても。
 
(まだしばらくは大丈夫よね)
 
 思いながら、部屋を出る。
 小屋が狭いため、3人で一緒にいることが多いのも良かった。
 窮屈なソファに体を寄せ合って座るのが好きだと思う。
 隣に人がいると、ひどく安心できたからだ。
 
「また寝起きが大変だな」
「そんなことないわ。だいたい起きる時間もわかってきたもの」
 
 リスは寝起きに1人だと大泣きする。
 どこかに置き去りにされたと勘違いするらしい。
 そのため起きる頃には、リスのところに行くことにしていた。
 泣いてから気づくのではなく、泣く前に抱き締めたかったからだ。
 
 ソファがひとつしかないため、レジーの隣に座る。
 腰をおろした時、扉が叩かれた。
 驚いて、反射的にレジーの顔を見る。
 また「お迎え」が来たのではないかと思い、不安になった。
 
「空いてるよ」
 
 サマンサを安心させるように、レジーがサマンサの手を、ぽんぽんと軽く叩く。
 応えるため、レジーに小さく微笑み返した。
 
 扉が開き、貴族服の男性が入って来る。
 胸が、ざわざわっとした。
 ひどく落ち着かない気分を、不快に感じる。
 そのサマンサを置いて、レジーが、スッと立ち上がった。
 
「このような場所に、ようこそおいでくださいました。ローエルハイド公爵様」
「やあ、レジー。ずいぶんと隠遁な生活をしているようだね」
「飛び領地を転々としておりましたが、今は、ここに落ち着いております」
 
 ローエルハイド公爵。
 
 そう呼ばれた男性は、レジーとは知り合いらしい。
 リスを連れに来たのではなさそうなことに安堵する。
 それにしても、なにか奇妙に胸がざわついてしかたがない。
 
「家には帰らなくてもいいのかい?」
「とくにすることもありませんし。私は、まぁ、気楽なものですよ」
 
 サマンサは、2人のやりとりを、ぼうっと見つめていた。
 挨拶をすべきなのだろうが、自分の名さえわからないのだ。
 仕草などは思い出せるのに、名乗ることができない。
 そのせいで、立ち上がることもできずにいる。
 
「申し訳ございません。ご覧の通り、ここは狭いもので、向こうの部屋ならイスもございますし、そちらでお話をいたしましょう」
「いや、ここでかまわない。座る必要などないさ」
「しかし、公爵様を立たせっ放しというのも……」
「気にしないでくれたまえ。彼女を連れに来ただけなのでね。すぐにおいとまする」
「え……サムを、ですか?」
 
 急に、2人から視線を向けられ、サマンサは、びくっと体をすくませた。
 ローエルハイド公爵という人を思い出せない。
 自分の知り合いなのだろうか。
 サマンサは助けを求め、レジーに視線を投げた。
 
「公爵様はサムとお知り合いなのでしょうか?」
 
 レジーの言葉に、ぴくりと、その男性の眉が吊り上がる。
 なにか不愉快なことだったのかもしれない。
 だとしても、サマンサにとっては「知らない人」なのだ。
 とても、ついて行く気にはなれなかった。
 
「そうとも。彼女のことを、私は、よく知っている」
 
 冷たい口調に、ぞくりとする。
 サマンサは、じわっと立ち上がった。
 後ずさりをして、その男性から距離を取る。
 
「い、行かないわ……私は、ここにいたいの」
「そういうわけにはいかないね。きみにもわかっているはずだ」
「不躾なことを言わないでちょうだい。勝手に来て、なんなの? 私の意思を無視して連れて行くことなんかできないわよ?」
 
 男性がサマンサに近づこうと足を踏み出した。
 その前にレジーが立つ。
 
「お待ちください。どういうご事情があるかは存じませんが、サムは……」
「私の邪魔をするものじゃないよ、ライナール・シャートレー」
 
 公爵という男性は、ひどく冷ややかな口調で言い、レジーを無視し、サマンサのほうに来ようとした。
 さらに、レジーが立ちふさがる。
 室内に険悪な雰囲気が広がっていた。
 
「レジーになにかしたら、許さないから」
「サム。いいから、きみは下がってろ」
 
 しりじりっと、サマンサは後ずさる。
 レジーの言う通りにはしたが、逃げる気はなかった。
 レジーになにかあれば自分のせいだ。
 置いていけるはずがない。
 
(それに逃げても追われるに決まっているわ)
 
 公爵がどういう人なのかはわからないが、暴挙もいいところだ。
 いきなり人の家に来て「連れて行く」だなんて、身勝手に過ぎる。
 サマンサは、ちらっと視線を、もうひとつの部屋の扉に向けた。
 そこには、リスがいる。
 
(リスを置いてはいけない。目が覚めて私がいないとわかったら、捨てられたと思うもの……そんなこと絶対にできない)
 
 相手が誰であれ、引く気はなかった。
 無抵抗で連れて行かれたりはしない。
 積み上げてある薪でも投げてやろうかと考える。
 
「いいか。彼女は……私の婚約者だ。まだ解消はされていない」
「知らないわ、そんなこと!」
 
 実際、覚えていないのだから、まったく実感がなかった。
 男性が、目を、すうっと細める。
 黒い瞳が、ひどく冷酷そうに見えた。
 
「きみに選択権を渡した覚えはないな。私がきみを不要とするまで、きみは私のものだ。それをきみも承知していたと思うがね」
「知らないって言っているでしょう! 私は行かないわよ! わかったら、帰ってちょうだい!」
「拒否する権利など、きみにはない」
 
 なんて冷酷な人だろうと思う。
 サマンサの意思を、当然のごとく無視しようとしていた。
 言い合う2人の間に、レジーが割って入る。
 
「彼女は行かないと言ってるだろ。無礼は承知だが、サムの意思を俺は尊重する。あなたが誰であれ、勝手なことはさせねぇよ」
「きみには関係のないことだ。出しゃばった真似はしないでくれ」
「女性に無理強いとは、ローエルハイドの名に傷がつくぜ?」
「いくらでもつけるがいい。体裁にこだわりなんて持っちゃいないさ」
 
 公爵という人は、だんだんに苛立ってきているようだ。
 言葉がささくれているのを感じる。
 ピリピリとした緊張感も漂っていた。
 
「きみをひざまかせることなど、私にとっては容易い。私の自制が効いているうちに、退いてくれないか。でなければ、きみの手足を折らなければならなくなる」
「この人でなしッ!!」
 
 あまりな言い草に、思わず怒鳴る。
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 だが、すぐに気のせいだと思い直した。
 
「知っているさ。私は冷酷な人でなしだ。ああ、ろくでなしで恥知らずでもある」
「まったくだわ! 自分から、そんなことを言うなんて、恥知らずにもほどがあるでしょう?!」
 
 サマンサは壁際に置いてあるチェストの上から花瓶を掴む。
 それを公爵に向かって投げつけた。
 ヒュッと軽い音を立て、花瓶が宙で動きを止める。
 
(この人、魔術師なのね! 魔術を使うなんて卑怯じゃない!)
 
 ただただ腹が立った。
 魔術をこれ見よがしに使っているらしく、花瓶がクルクルと円を描いている。
 
「貴重品とも思えないが、人様の物を壊すべきではないよ」
「俺の手足を折るのはかまわないって言い草だったけどな」
「きみは、まぁ、人のものに手を出している側だからね」
「私は、あなたのものなんかじゃないわっ!」
「なぜ、わからない?!」
 
 公爵が、初めて大きな声を出した。
 なぜだかひどく驚いて、サマンサは口を閉じる。
 険しい表情の中に、苦痛があるように見えた。
 なにか胸の奥が、ずきずきと痛む。
 
「サム……」
 
 小さな声に、ハッとなった。
 振り向くと、部屋からリスが出て来ている。
 こんな大人同士のやりとりを見せたくない。
 サマンサはリスに駆け寄り、その体を抱き締める。
 
「大丈夫、大丈夫よ」
「……サム……」
「どこにも行かないわ。私は、ここにいるでしょう?」
 
 きゅっと、リスが抱き着いて来た。
 相手が魔術師だろうと、言うなりになんてならない。
 その思いが強くなる。
 
 リスを独りにしたくなかった。
 
 サマンサは、わずかに振り向き、公爵をにらむ。
 どうしてかはわからないが、言葉が口をついて出た。
 
「私はここでは厄介者じゃないの。あなたにとっては、どう?」
 
 公爵が、きゅっと口を横に引き結んだ。
 レジーもサマンサたちのほうに駆けよって来る。
 そして、庇うように2人を抱きしめた。
 
退いてくれ。でなけりゃ、俺も対抗措置をとる」
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