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前編
過程と結果 1
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返事をした直後から後悔している。
こんな不誠実な関係は、ティンザーの主義に反していた。
(彼がいなければ、この問題は解決できない……でも……)
それは嫌というほど、わかっている。
だとしても、という話なのだ。
そもそも、サマンサは、側室や愛妾を侍らせることを是としてはいない。
彼女たちの役割は、重々、承知している。
けして、否定はしていなかった。
ただ、男性側の誠実さを問うているのだ。
女性を無碍に扱っている気がしてならない。
己を中心にして、彼女たちに愛情の取り合いをさせている、と思ってしまう。
もちろん、貴族が後継者を必要とするのも理解はしている。
やむにやまれぬ事情があるのだろうとも、頭ではわかっていた。
だが、ティンザーは、その枠から外れている。
時に、政略的な婚姻をすることはあれど、妻は正妻だけなのだ。
そのため家督を分家、もしくは分家の分家などに譲ったことすらある。
(ローエルハイドも、そういう誠実さを持っていると思っていたのに……)
ローエルハイドは、大公の時代から正妻は1人。
側室や愛妾を迎えたことはない。
大公は2人目の妻を迎えていたが、これは先妻が亡くなってからの話だ。
(確か、アドラントがロズウェルドに併合されたのは、彼の祖父がアドラントの皇女と婚姻したからよね。そのかたも皇女を深く愛していたという話だったわ。彼の父親は妻を迎えていないけれど、彼を認知している……)
母親が、どこの誰かは、誰も知らないとのことだった。
彼の父は、長く独り身だったのに、ある日、突然、彼を連れて来たのだという。
しかし、彼は黒髪、黒眼で「人ならざる者」であるのは一目瞭然。
母が誰かなどには関係なく、ローエルハイドの当主と成り得た。
(我ながら矛盾している気がしなくもないけれど、そのほうが、いっそ潔い感じがするわね。少なくとも、公平さはあるのじゃない? 愛情に順位付けしないだけマシというものよ)
ローエルハイドには愛に関して独特の捉えかたがあると感じていた。
そして、ティンザー気質にも通じるところがあると思い込んでいたのだが、どうやらそれは間違いだったらしい。
婚約者がいながら、こんな提案ができるのだから。
「ひとつ、訊いてもいい?」
「なんなりと」
まったく、ふざけている。
これでは、ティモシーと、たいして差がないではないか。
よく比喩とされる、狐から逃げたら狼がいた、みたいな気分だ。
「私から頼んでおいて言うことではないけれど、あなたの行動が婚約者を傷つけるとは思わないの?」
「思わないね。彼女は、これしきのことで傷つくような女性ではない」
「これしき? 自分の婚約している男性が、ほかの女性を囲うのよ? しかも婚姻前にね。それが、たいしたことではないと思えるなんて、あなたの倫理観は歪んでいるのじゃない?」
ふっと、空気が変わる。
うすら寒いような感覚に、肌が粟立った。
彼が、わずかに目を細めている。
「私は、きみが思っているより、遥かに彼女を大事に思っている」
言われた瞬間、本気だと感じた。
婚約者の女性が傷つくかどうかについては彼の主観によるものなので、実際には不明確だ。
だが、彼は、真に婚約者を大事に思っている。
言葉にも口調にも嘘はない。
(彼女を愛しているのね……それなら、なぜ私を追いはらおうとしないの……?)
彼の行動は矛盾していて、感情は複雑。
なにを考えているのか、さっぱり理解できなかった。
「私と彼女との関係を、きみときみが婚姻するはずだった男との関係に重ねて見るのはやめてくれ」
「そうね。どちらかと言えば、あなたのほうが冷酷よ。私にとってはね」
また、ふっと空気が変わる。
粟立っていた肌が、元の温度を取り戻していた。
サマンサは真面目な顔で問う。
理性が、これ以上は踏み込むなと言っていたが、無視した。
サマンサには重要なことだからだ。
「本当に彼女が傷つかないと誓える?」
「私は彼女を傷つけるようなことはしない。いくらでも誓おうじゃないか」
「それなら……いいわ」
重ねて見るなと言われたが、無理だった。
婚約者の彼女に、自分と似たショックを与えたいとは思わない。
彼の言葉に少しでも嘘があれば、サマンサは、いったんは成立した関係を解除しようと考えていたのだ。
たとえ、どんな目に合わされても、ほかに手段がなかったとしても。
(よく考えて返事をすべきだったのは、わかっているけれど……頼る人が、この人しかいなかったから飛びついてしまって……迂闊だったわ)
彼の話の持って行きかたが上手かったというのもある。
動揺の上に動揺を重ね、返事を求められた時には正常な判断がしにくくなっていた。
この手を掴むしかない、と思わされたのだ。
(でも、結果として決断したのは私だもの。責任は私が負わなければ)
彼の言葉に嘘はなかった。
どういうふうに説明するのかは不明だが、婚約者の彼女が傷つかないように、彼は上手くやるのだろう。
不本意ではあるものの、しかたがない。
もう引き返すことはできそうにないし、引き返しても、そこに道はないのだ。
「さて、きみも納得したようだし、1度、家に帰ってはどうかな?」
「そうさせてもらうわ。両親に話をしておかなければならないもの」
「あまり私のことを悪く言わないでくれよ? 私は彼らを好ましく思っているのでね。嫌われないよう、きみが手を尽くしてくれることを期待している」
「どうかしら? 両親に本当のことを話せない不誠実さに、私は耐えなくちゃならないのよ? あなたの面倒まではみきれそうにないわ」
さっきは彼の手を借りたくて、自分の心の底にある感情まで差し出した。
けれど、もう交渉は成立している。
どういうふうに取り繕うかまで、つべこべ言われる筋合いはない。
駒になるのはともかく、感情まで投げ売りするとは言っていないのだ。
「私は私の好きに話すだけよ。それで、あなたが私の両親に嫌われても、知ったことではないの」
「きみは私がテーブルを引っ繰り返すとは思わないのかね?」
「思わないわ。私が決断をして、あなたは、それを受け取った。そうでしょう?」
彼が、ひょこんと眉を上げる。
ほんの少し、どきりとした。
彼の、いたずらっぽい仕草は、とても魅力的だ。
すべてを許し、笑い事にしてしまいそうになる。
(まったく……こうやって女性を言うなりにしているのね。たちの悪い人……)
サマンサは、魅力的だと感じた部分を、心の中で否定した。
ティモシーのことで凝りている。
同じ間違いを犯すつもりはない。
目の前にあるものが熱いと知っていれば、さわらないのは当然だ。
「いいね。そういう気概を持つことは大事だ。ますます、きみが気に入ったよ」
「それはなによりだわ。なにしろ、私は、あなたの“特別な客人”ですもの」
「きみ、もしかして、私がいないところでも、言いふらす気かい?」
「今の条件は、交渉内容を他言しないということだけよ? でも、あなたが体裁を気にするのなら条件に入れるといいわ。あなたがいないところで、私の立場を吹聴しないようにってね」
婚約者の彼女が傷つかないとの言葉が真実であるなら、どこで誰に、彼の「特別な客人」であるかを話そうと、かまわないはずだ。
その意味を察したらしく、彼が小さく笑う。
「いいさ。好きなだけ吹聴したまえ。私にかまうことはないよ」
「言ったでしょう? あなたの面倒までみる気はないって。あなたにかまう必要がどこにあるの? 私がほしいのはあなたではなくて、立場と口実だけよ」
「胸にグサッとくることを言うねえ。期待していたのに残念だなあ」
少しも残念に感じていない口調で言いながら、彼が立ち上がった。
見送りは結構と言いたかったが、中庭は広く、迷ってしまうかもしれない。
ともあれ、本邸の前までは、彼について歩くよりほかないだろう。
と、思ったのだけれども。
「さあ、どうぞ。3日後の夜、迎えに行く。その時に、きみがここにいなければ、私は、すごすごと引き下がろう。交渉決裂を受け入れてね」
「これって……」
「ああ、きみを待たせている間に、ちょいときみの部屋に行って点を作ってきたのだよ。馬車は、とうに帰してしまったしね。安心してくれていい。クローゼットを覗いたりはしていないから」
柱が2本現れていて、その向こうに見慣れた自分の部屋がある。
怒りに体が震えた。
彼の言った「点」がなにかは知らないが、魔術を使ったのは間違いない。
「なんて無神経な人なの! 女性の部屋に勝手に入るなんて!」
「そうかい? 私は、存外、紳士的でね。きみが馬車を使って、3日もかけて帰るのは気の毒だと思ったのだよ? 近頃、めっきり物騒になっただろう?」
平然と言う彼の横面を引っ叩いてやりたかったが、黙って門を抜ける。
彼が「良い夜を」と言ったが、サマンサは、当然に無視した。
こんな不誠実な関係は、ティンザーの主義に反していた。
(彼がいなければ、この問題は解決できない……でも……)
それは嫌というほど、わかっている。
だとしても、という話なのだ。
そもそも、サマンサは、側室や愛妾を侍らせることを是としてはいない。
彼女たちの役割は、重々、承知している。
けして、否定はしていなかった。
ただ、男性側の誠実さを問うているのだ。
女性を無碍に扱っている気がしてならない。
己を中心にして、彼女たちに愛情の取り合いをさせている、と思ってしまう。
もちろん、貴族が後継者を必要とするのも理解はしている。
やむにやまれぬ事情があるのだろうとも、頭ではわかっていた。
だが、ティンザーは、その枠から外れている。
時に、政略的な婚姻をすることはあれど、妻は正妻だけなのだ。
そのため家督を分家、もしくは分家の分家などに譲ったことすらある。
(ローエルハイドも、そういう誠実さを持っていると思っていたのに……)
ローエルハイドは、大公の時代から正妻は1人。
側室や愛妾を迎えたことはない。
大公は2人目の妻を迎えていたが、これは先妻が亡くなってからの話だ。
(確か、アドラントがロズウェルドに併合されたのは、彼の祖父がアドラントの皇女と婚姻したからよね。そのかたも皇女を深く愛していたという話だったわ。彼の父親は妻を迎えていないけれど、彼を認知している……)
母親が、どこの誰かは、誰も知らないとのことだった。
彼の父は、長く独り身だったのに、ある日、突然、彼を連れて来たのだという。
しかし、彼は黒髪、黒眼で「人ならざる者」であるのは一目瞭然。
母が誰かなどには関係なく、ローエルハイドの当主と成り得た。
(我ながら矛盾している気がしなくもないけれど、そのほうが、いっそ潔い感じがするわね。少なくとも、公平さはあるのじゃない? 愛情に順位付けしないだけマシというものよ)
ローエルハイドには愛に関して独特の捉えかたがあると感じていた。
そして、ティンザー気質にも通じるところがあると思い込んでいたのだが、どうやらそれは間違いだったらしい。
婚約者がいながら、こんな提案ができるのだから。
「ひとつ、訊いてもいい?」
「なんなりと」
まったく、ふざけている。
これでは、ティモシーと、たいして差がないではないか。
よく比喩とされる、狐から逃げたら狼がいた、みたいな気分だ。
「私から頼んでおいて言うことではないけれど、あなたの行動が婚約者を傷つけるとは思わないの?」
「思わないね。彼女は、これしきのことで傷つくような女性ではない」
「これしき? 自分の婚約している男性が、ほかの女性を囲うのよ? しかも婚姻前にね。それが、たいしたことではないと思えるなんて、あなたの倫理観は歪んでいるのじゃない?」
ふっと、空気が変わる。
うすら寒いような感覚に、肌が粟立った。
彼が、わずかに目を細めている。
「私は、きみが思っているより、遥かに彼女を大事に思っている」
言われた瞬間、本気だと感じた。
婚約者の女性が傷つくかどうかについては彼の主観によるものなので、実際には不明確だ。
だが、彼は、真に婚約者を大事に思っている。
言葉にも口調にも嘘はない。
(彼女を愛しているのね……それなら、なぜ私を追いはらおうとしないの……?)
彼の行動は矛盾していて、感情は複雑。
なにを考えているのか、さっぱり理解できなかった。
「私と彼女との関係を、きみときみが婚姻するはずだった男との関係に重ねて見るのはやめてくれ」
「そうね。どちらかと言えば、あなたのほうが冷酷よ。私にとってはね」
また、ふっと空気が変わる。
粟立っていた肌が、元の温度を取り戻していた。
サマンサは真面目な顔で問う。
理性が、これ以上は踏み込むなと言っていたが、無視した。
サマンサには重要なことだからだ。
「本当に彼女が傷つかないと誓える?」
「私は彼女を傷つけるようなことはしない。いくらでも誓おうじゃないか」
「それなら……いいわ」
重ねて見るなと言われたが、無理だった。
婚約者の彼女に、自分と似たショックを与えたいとは思わない。
彼の言葉に少しでも嘘があれば、サマンサは、いったんは成立した関係を解除しようと考えていたのだ。
たとえ、どんな目に合わされても、ほかに手段がなかったとしても。
(よく考えて返事をすべきだったのは、わかっているけれど……頼る人が、この人しかいなかったから飛びついてしまって……迂闊だったわ)
彼の話の持って行きかたが上手かったというのもある。
動揺の上に動揺を重ね、返事を求められた時には正常な判断がしにくくなっていた。
この手を掴むしかない、と思わされたのだ。
(でも、結果として決断したのは私だもの。責任は私が負わなければ)
彼の言葉に嘘はなかった。
どういうふうに説明するのかは不明だが、婚約者の彼女が傷つかないように、彼は上手くやるのだろう。
不本意ではあるものの、しかたがない。
もう引き返すことはできそうにないし、引き返しても、そこに道はないのだ。
「さて、きみも納得したようだし、1度、家に帰ってはどうかな?」
「そうさせてもらうわ。両親に話をしておかなければならないもの」
「あまり私のことを悪く言わないでくれよ? 私は彼らを好ましく思っているのでね。嫌われないよう、きみが手を尽くしてくれることを期待している」
「どうかしら? 両親に本当のことを話せない不誠実さに、私は耐えなくちゃならないのよ? あなたの面倒まではみきれそうにないわ」
さっきは彼の手を借りたくて、自分の心の底にある感情まで差し出した。
けれど、もう交渉は成立している。
どういうふうに取り繕うかまで、つべこべ言われる筋合いはない。
駒になるのはともかく、感情まで投げ売りするとは言っていないのだ。
「私は私の好きに話すだけよ。それで、あなたが私の両親に嫌われても、知ったことではないの」
「きみは私がテーブルを引っ繰り返すとは思わないのかね?」
「思わないわ。私が決断をして、あなたは、それを受け取った。そうでしょう?」
彼が、ひょこんと眉を上げる。
ほんの少し、どきりとした。
彼の、いたずらっぽい仕草は、とても魅力的だ。
すべてを許し、笑い事にしてしまいそうになる。
(まったく……こうやって女性を言うなりにしているのね。たちの悪い人……)
サマンサは、魅力的だと感じた部分を、心の中で否定した。
ティモシーのことで凝りている。
同じ間違いを犯すつもりはない。
目の前にあるものが熱いと知っていれば、さわらないのは当然だ。
「いいね。そういう気概を持つことは大事だ。ますます、きみが気に入ったよ」
「それはなによりだわ。なにしろ、私は、あなたの“特別な客人”ですもの」
「きみ、もしかして、私がいないところでも、言いふらす気かい?」
「今の条件は、交渉内容を他言しないということだけよ? でも、あなたが体裁を気にするのなら条件に入れるといいわ。あなたがいないところで、私の立場を吹聴しないようにってね」
婚約者の彼女が傷つかないとの言葉が真実であるなら、どこで誰に、彼の「特別な客人」であるかを話そうと、かまわないはずだ。
その意味を察したらしく、彼が小さく笑う。
「いいさ。好きなだけ吹聴したまえ。私にかまうことはないよ」
「言ったでしょう? あなたの面倒までみる気はないって。あなたにかまう必要がどこにあるの? 私がほしいのはあなたではなくて、立場と口実だけよ」
「胸にグサッとくることを言うねえ。期待していたのに残念だなあ」
少しも残念に感じていない口調で言いながら、彼が立ち上がった。
見送りは結構と言いたかったが、中庭は広く、迷ってしまうかもしれない。
ともあれ、本邸の前までは、彼について歩くよりほかないだろう。
と、思ったのだけれども。
「さあ、どうぞ。3日後の夜、迎えに行く。その時に、きみがここにいなければ、私は、すごすごと引き下がろう。交渉決裂を受け入れてね」
「これって……」
「ああ、きみを待たせている間に、ちょいときみの部屋に行って点を作ってきたのだよ。馬車は、とうに帰してしまったしね。安心してくれていい。クローゼットを覗いたりはしていないから」
柱が2本現れていて、その向こうに見慣れた自分の部屋がある。
怒りに体が震えた。
彼の言った「点」がなにかは知らないが、魔術を使ったのは間違いない。
「なんて無神経な人なの! 女性の部屋に勝手に入るなんて!」
「そうかい? 私は、存外、紳士的でね。きみが馬車を使って、3日もかけて帰るのは気の毒だと思ったのだよ? 近頃、めっきり物騒になっただろう?」
平然と言う彼の横面を引っ叩いてやりたかったが、黙って門を抜ける。
彼が「良い夜を」と言ったが、サマンサは、当然に無視した。
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