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最終章 彼女の会話はとめどない
複雑な日々があるばかり 1
しおりを挟む「この家から立ち退いてください」
その言葉に、手からポロっと木のスプーンが落ちる。
板敷の床に落ちたそれが、かつんっと音を立てた。
紫紅の瞳は、口を開いた相手に釘付け。
だが、相手の薄金色の短い髪は揺らぎもせず、少し吊り上がった同じ色の瞳も、感情を示していない。
「なぜ、余が立ち退かねばならぬ」
そりゃそうだ、と思う。
この家の持ち主が立ち退かなければならない理由などない。
その家主が、緑色の鱗に同じ色の背中まである髪、黒い目と金色の瞳孔を持つ、魔物だとしても、だ。
たとえ、オオトカゲっぽい顔立ちで、歯がギザギザしていても、だ。
この家の持ち主は、魔物の国にある、ガリダという名の領地の長をしている。
言うなれば「領主」のような立場なのだ。
「戸を開け放った場所に姫様の寝所があるというのは、危険過ぎます」
真冬だというのに、灰色の半袖シャツと茶色の薄っぺらいズボン。
自ら体温調節ができるので、困らないのだと聞いていた。
一応、彼女の「従僕」となっている。
その忠実さにかけては疑いの余地はなく、また右にも左にも出る者はいない。
いや、前後上下も含め360度、だ。
フィザルド・ティニカ。
それが、彼の名だ。
とはいえ、正式名で呼んだことは、1度もない。
知り合った頃から「フィッツ」と呼んでいる。
本人が、そう名乗ったからだ。
「であれば、奥の部屋を使うがよい」
腕を組み、落ち着いた雰囲気を醸し出しながらの話しかたにも、もう慣れた。
ガリダ特有の「服」は、浴衣のような雰囲気を持っている。
重ねた襟に鉄板がついているのと、腰をスカーフのようなもので縛っているのが大きな差と言えた。
長だからなのかは知らないが、たいてい黒に銀糸の刺繍、裏地は赤のものを身につけていることが多い。
ほかのガリダたちは、もっと明るい色の生地で仕立てられたものを着ている。
魔物の国、ガリダの長、ザイード。
それが、その魔物の名だ。
表情は読みにくいが、感情の機微は、なんとなくわかる。
金の瞳孔が狭まり、大きな尾の先が細かく左右に振れているところからすると、機嫌がいいとは言い難い。
「では、ご納得いただけたようなので、すぐにでも立ち退いてください」
朝から、なにを言い出すのかと思えば、というところ。
間に挟まれ、逆に口を挟めなくなっていた。
最近、笑うことが少なくなっていて、笑いかたを忘れている。
という以上に、今は笑えない。
カサンドラ・ヴェスキル。
それが、彼女の名だ。
いや、だった、と言うべきで、今は「キャス」と名乗っている。
彼女としては「カサンドラ」の名は捨てたつもりでいた。
はっきり言って、再び「カサンドラ」に戻るなんて考えてもいない。
この世界は、元々、彼女が住んでいた世界とは違う。
元の世界で死に、そこで出会った本物の「カサンドラ・ヴェスキル」に嫌も応もなく、魂の交換をさせられた。
その結果、この世界で「カサンドラ」をするはめになったのだ。
が、様々な事情や状況を経て、彼女は「キャス」として生きている。
この世界の、魔物の国で。
「キャスが奥の部屋を使うのはよい。だが、なにゆえ余が立ち退かねばならぬ」
ザイードの言うことは、ものすごく「もっとも」だった。
この家はザイードのもので、居候をしているのはキャスのほうだ。
居候に、家の主が追い出されるなど聞いたことがない。
とはいえ、フィッツが次に言いそうな台詞にも予想がついた。
「こちらは、私が使うからです」
(こっちは、自分が使うから、でしょ)
諸般の事情があり、フィッツは「ティニカ」に戻っている。
なので、今現在、少々、頭のイカれた男だと言わざるを得ない。
出会った頃と、ほとんど変わらない思考をしている。
それが自分のせいだということも、キャスにはわかっていた。
「意味がわからぬ」
でしょうね、と言いたくなる。
キャス自身、出会った頃は、フィッツがなにを考えているのか、さっぱりわからなかったのだ。
どういう思考をすれば、そうなるのか。
わからなかったし、わかろうともせずにいた。
今、キャスがフィッツの思考を理解できるのは、その後の経験則による。
一緒に過ごした時間の中で、フィッツをわかろうとし、知っていった。
同時に、フィッツも変わっていったのだけれども。
目の前にいるフィッツは、彼女と恋をした「フィッツ」ではない。
ティニカのフィッツなのだ。
自分の恋い慕うフィッツに戻ってほしくはあるが、葛藤している。
同じことを繰り返したくなかったし、繰り返すことで、フィッツを「また」喪うのが怖かった。
だから、キャスは、フィッツと距離を取ろうとしている。
「ここはザイードの家なんだよ、フィッツ」
「存じております」
「知ってて追い出そうとしてるわけ?」
「姫様の身の安全を確保することに、ガリダの長も了承しました」
ぴたっと、ザイードの尾が動きを止めた。
が、いよいよ瞳孔が狭まっている。
「お前は、余がキャスを脅かすと思うておるのか?」
「魔物にも男女の別はありますからね」
「余は何ヶ月もキャスと寝食をともにしておる。その間、寝床に引き込んだこともなければ、潜り込んだこともない」
「だとしても、それは、私がいない間のことです」
「余が男であるゆえ出て行けと言うておるようだが、お前はどうなのだ」
「私は姫様をお守りし、世話をする者です。姫様に下心など持ちません」
ううっと、呻きたくなった。
しかたがないことだとわかっていても、胸が痛む。
そんなにキッパリ言わなくてもいいだろうに、と少し恨めしくなった。
そう、確かに、元々、フィッツは、こういう人だ。
主である「カサンドラ」に忠実過ぎるほど忠実で、下心などいだきもしない。
というより、発想自体がない。
彼女を異性だなんて、ほんのわずかにも意識していないのだ。
姫様は姫様。
フィッツにとって「カサンドラ」は、それ以上の存在ではなかった。
なのに、フィッツは「カサンドラ」のためだけに存在していて、その命までをも賭してしまう。
知っていたから「取引」を拒んだのに。
(結局、最後の最後で、私はフィッツに頼っちゃったんだよな……死ぬ前に、もう1回、会いたいって思ってさ……)
その想いが、フィッツを呼び戻している。
1度は死んだ魂を、生き返らせてしまったのだ。
「なにゆえ、そう言い切れる」
「私がティニカだからです」
「ティニカというのは、生殖機能を持たぬ種族か?」
「いいえ。生殖機能は持っておりますが、それが?」
「……キャスよ。余は、この者の言うておることがわからぬのだが……」
でしょうね、と言いたくなった。
それは言葉の問題ではなく、フィッツが、少々、頭のイカれた男だからだ。
魔物でなくとも理解できないだろう。
思いながら、少し気になったことを口にする。
「フィッツは魔力が使えないのに、会話できるんだね」
会話になっているとは言えないが、それはともかく。
「かつてラーザの女王陛下は、魔物との対話を望まれていたそうです。その要望にお応えすべく、ティニカでは、魔物の言葉を解析し、装置化を成し遂げました。魔力とは異なりますが、対話に支障のない程度の、限りなく近い感覚系の装置です」
「それをフィッツも使ってるってこと?」
「使ったのは初めてですが、体に組み込まれていますので」
大きく溜め息をつきたくなった。
ティニカは、どこまでも「ティニカ」なのだと感じる。
人を「作って」も平気、作った「人」に、どんな施術をしても平気。
しかも、それらはすべて「ヴェスキル王族のため」なのだ。
キャスは、フィッツの姿を見つめる。
純血種の聖者であり「カサンドラ」の父親であるラフロでさえも、体を蘇らせることはできない、と言っていたのを覚えていた。
おそらく、この体は、聖魔の国で見せられたフィッツの双子の片割れ。
自我はなく、ティニカは「予備」としていたようだ。
そこにフィッツの「魂」を繋いでいる。
キャスが「カサンドラ」の体に繋がれたように。
意識的にしたことではない。
なので、この結果を手放しでは喜べずにいる。
罪の意識のような葛藤を感じていないわけではなかった。
それでも、生きているフィッツの姿に喜びを感じる。
と、同時に不安もあった。
彼女自身の心は、なにも変わっていないからだ。
フィッツの度を越した忠誠心を恐れている。
「とにかく、ザイードを追い出すのは駄目だよ。元々、ここはザイードの家なんだからね」
「わかりました。では……」
別の家を建てる、と言い出しそうだと思う。
が、しかし。
「建て増しをすることにします」
「は? 建て増し……?」
「姫様と、私、そこの長の3人で暮らせる広さに建て増しします」
ザイードの瞳孔が、今度は広がっていた。
キャスは、フィッツを知ってはいるが、それでも理解できないこともある。
ティニカのフィッツは、彼女の想像を軽く超えてきたりするので。
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