いつかの空を見る日まで

たつみ

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第2章 彼女の話は通じない

有限の幻想 1

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 盤面を操る者。
 
 それは、人ではなかったのだ。
 ザイードの目には、はっきりと見えている。
 ほかの魔物では気づけないほどの、ごく微かな魔力の揺らぎ。
 ザイードのように抑制している、というのとは違うようだ。
 
 魔力がほかのものより大きい魔物は、周りを威圧しないため、抑えこむことも少なくない。
 とはいえ、完全に抑制することはできず、いくぶんかは漏れ出てしまう。
 たとえば、強い香りのする花を箱に入れても、匂いをかき消すことはできない、といったふうだ。
 
 だが、ザイードの前に立つ男からは、そういう雰囲気がない。
 花を箱に入れる際、花粉が箱についてしまった、という感じだろうか。
 まるで、この男の持つ魔力ではないもののようなのだ。
 酷く違和感がある。
 
「その体は誰のものぞ?」
「これだから魔物は嫌いなんだよ。獣くせえしな」
 
 男が口を歪めて、鼻をこすった。
 本気で嫌がっている。
 そして、ザイードの言葉を否定しなかった。
 
 相手は、魔人だ。
 
 細かな花粉のように、男の体に纏わりついている魔力は、真っ黒だった。
 かなり濃い。
 灰色や黒っぽいなどという、ザイードが目にしたことのある魔人のものとは違う。
 
 真っ黒だ。
 
 おそらく人の体を「借りて」いるのだろう。
 古い文献に、わずかではあるが、そんなことが書かれていた。
 聖魔は人を「使う」ことができるため、人は聖魔を嫌うのだとか。
 
 読んだ時には意味が、よくわからずにいた。
 のちに、キャスから聞いた「精神干渉」のことかもしれないと、想像していた。
 けれど、精神を操るのと、人を使う、というのとは、別個のものだったのだ。
 
 単に精神に干渉して操るのではない。
 人の体を、いわば「乗っ取る」ことが、聖魔にはできる。
 
 それを、ザイードは、明確に感じ取っていた。
 違和感の正体は、それなのだ。
 体が「人」であるのは間違いない。
 なのに、内側には人でないものがいる。
 
(人を魔力で攻撃したとて、このような痕は残らぬ)
 
 魔力は、それを持つものの、体に宿っているものだ。
 魔物の魔力には匂いもあるが、使ったあとに、残り香はない。
 色や揺らぎ、匂い、そのすべてが「持っている」状態を示している。
 使っている状態を示すものではないのだ。
 
 ましてや、いったん使った側の体から離れた魔力が、使われた相手に「残る」などとは有り得なかった。
 たとえわずかであろうが、体に纏わりつくことも、だ。
 
 すなわち、この男自身が魔力を秘めている、ということになる。
 なのに、男から魔力は感じられない。
 ただ花粉にも似た痕が見えるだけだった。
 
(なれば、人の体を使うておるとしか考えようがない)
 
 理屈はわからないが、魔力を使うにあたり、なにか制限でもあるのだろう。
 人の体を使っているせいで、自由には使えないのではなかろうか。
 人は3つの種の中で、唯一「魔力を使えない」生き物だ。
 その体を、魔力を持つ魔人が使う。
 
(入れ物に、形の合わぬものを無理に押し込めておるようなものよな)
 
 ザイードは、自分の魔力が、ほとんど残っていないと知っている。
 今のお前では勝てない、と男が言ったのは、そういう意味だ。
 
 自分にも男の魔力の痕跡が見えているが、相手にも見えている。
 人の体を借りていても、魔人は魔人ということらしい。
 気づくべきことには気づく。
 
「お前とて魔力を自在には使えぬのであろう。もとより聖魔の力は我らに通じぬものゆえ、いかがいたす? 人の武器を使うか、魔人よ」
「まぁ、そういうことになるわな」
 
 この男を、このまま生かしてはおけない。
 
 本能が、そう悟っている。
 人間の兵たちが無謀な突撃をやめなかったのは、この男のせいだ。
 精神を操ったのではないだろうが、なにか別の手段を持っているに違いない。
 
 魔物と人の摂理は違う。
 同様に、聖魔と人の摂理は異なるはずだ。
 ザイードに人の摂理は理解できない。
 だが、この男は、それを理解している。
 
「お前、あの時の、でっけえ魔物だろ。ほら、ジュポナで会ったじゃねぇか」
 
 ザイードの瞳孔が、すうっと狭まった。
 ザイードは、1人1人の顔までは覚えていない。
 はっきりと覚えているのは皇帝くらいだ。
 
「ありゃあ、すごかったぜ? まさか壁をぶち破って逃げるなんざ、ちょっと考えられねぇよな。よくあれで死ななかったもんだ」
 
 キャスが取引をしなければ死んでいただろうことは、わかっている。
 魔力は尽きていたし、尾も脚も、ちぎれていた。
 生きているのは、キャスのおかげだ。
 
「なぁ、お前、その小娘が欲しいんだろ? まぁ、今は壊れちまってるようだが、直せねぇわけじゃあねえ。直したうえで、お前にくれてやる」
 
 ザイードは肩越しに、キャスに視線を投げる。
 地面に、ぺたりと座り込み、動く気配はない。
 
 最初に助けた時より、酷い状態だ。
 あの時は、まだ「会話」ができていた。
 今のキャスは、話しかけても、まったく反応がない。
 
 キャスを「直せる」のなら、直したいと思う。
 泣くこともせずにいるキャスは、声も出さず泣くキャスよりも、ザイードの胸を痛ませていた。
 
 視線を男に戻し、ふっと息を吐く。
 それから、瞳孔を狭めたまま、男を見つめた。
 小さく笑う。
 
「魔人とは、かくも弱きものであったか」
 
 キャスは聖者と取引をして、ザイードを救った。
 だが、ザイードは魔物なのだ。
 人とはことわりが違う。
 キャスと同じ選択はしないし、できない。
 
(癒せるものなら癒してやりたい。余に心を向けてほしいとも思うておる。だが、誰ぞの手を借りてはならぬ。キャスが己で立たねば意味がない。キャスの意思で、余を見てくれねば意味などないのだ)
 
 ザイードは、魔物だった。
 
 自然の摂理の中で生きている。
 生き物は、自分の力で生きなければならない。
 与えられたもの、手にいれたもので、なんとかやりくりをして命を繋ぐ。
 
 それでも、死ぬ時は死ぬのだ。
 
 少なくとも、キャスの体は生きようとしている。
 魔獣から助けた時も、そうだった。
 そして、幻想の中であったとしても、キャスは立ち上がったのだ。
 死にたい心をかかえながら、できる限り生きようと踏みとどまっていた。
 
 今度も、きっと立ち上がれる。
 いつになるかはわからないが、きっと自らの意思で立つに違いない。
 それまで、支え続ければいいのだ。
 そばにいて、命を繋ぐ手助けをする。
 
「己が、なにも持っておらぬゆえ、わからぬのだ。わからぬゆえ、あらゆるものを知りたがり、欲しがる。聖者とは、魔人とは、さように弱き生き物ぞ」
「そうかもな。けどよ、俺に頼るほうが簡単だろ? 手に入れてぇもんが、すぐに手に入るんだ。人の命ってのは短いしな。待ってる間に、くたばっちまうぜ?」
「かまわぬさ。それが自然の道理だ。余は、やりたきようにやる。これまで、そのように生きてきた。これからも、そのように生きる」
 
 人の命は魔物より短い。
 いつか、なんていう日は来ないのかもしれない。
 だとしても、魔人の手を借りてまで、キャスは生きたいと思うだろうか。
 その答えもまた、キャスから聞かなければ、わからないのだ。
 
「融通が利かねぇな、魔物はよ」
 
 カチャッと音がする。
 男が銃を手にしていた。
 残った魔力で体を硬化させる。
 緑の鱗が、いっそう色を濃くした。
 
 立て続けに、銃の音が響く。
 無視して、ザイードは男に向かって走った。
 一瞬で間合いを詰め、首を片手で掴む。
 尖った爪が首に食い込んだ。
 
 中にいるのが魔人でも、体は人のものに過ぎない。
 装備によって魔力での攻撃は効かないと、わかってもいる。
 なので、物理的な攻撃を仕掛けたのだ。
 1対1なら力で押し負けたりはしないと踏んでいた。
 
「魔物が……なんで、人に勝てねぇか……知ってる、か?」
 
 首から血を流し、息苦しそうにしながら、男が嗤う。
 耳をかさず、手に力を込めた。
 
「人は、人を殺すし……裏切る……心が弱え……魔物は……心が強過ぎんだよ!」
 
 男の手が動く。
 ハッとなって、その手を掴んだ。
 が、一瞬、遅かった。
 ザイードは男を突き放す。
 
「キャス……っ……」
 
 男が狙ったのは、キャスだった。
 咄嗟に、ザイードはキャスを抱きしめて、その体を庇う。
 ぱんっと、背中に銃弾を食らった。
 
「そうやってさ、お前らは退かねぇよな? ずっと庇ってろよ。でなきゃ、小娘が死ぬことになるぜ?」
 
 ジュポナの、あの場に、この男はいたのだ。
 皇帝の取った手段を知っていることには、気づいていた。
 同じ場所を繰り返し的確に撃ってくる。
 戦場にいた兵たちのように、でたらめな撃ちかたはしない。
 
 ザイードの鱗が傷つき、血が流れ始める。
 紫色の血だ。
 
(かまわぬさ。ああ、かまわぬ。この命はキャスに救われたのだ。ここで命を落とすのなれば、死に時なのであろうよ)
 
 ザイードは、魔物だった。
 自然の摂理の中で生きる、魔物なのだ。
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