いつかの空を見る日まで

たつみ

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第2章 彼女の話は通じない

絶望の路頭 4

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 キャスの心は、空っぽになっている。
 目の前で壊れてしまった。
 
 いくつもの景色が流れては消えていく。
 どれも掴むことができなかった。
 目には、現実の世界など、なにも映っていない。
 見えるのは、幻想の欠片ばかりだ。
 
 暑かった夏の日。
 あの日の夕日。
 
 フィッツは、決めてしまっていたのだろうか。
 自分の影を、独りぼっちにしてしまうと。
 彼自身の影を、独りぼっちにすることを。
 その2つが、もう重なることはないのだと知りながら、それでも。
 
 自分の言葉は、どこにもとどかない。
 とどかなかった。
 
 あげく、靴を履いてもおらず、抱き上げてくれる手も失ったのだ。
 裸足では影踏みもできない。
 フィッツの影を、つかまえられない。
 
 穏やかで優しい、フィッツと過ごした日々の欠片が心に落ちてくる。
 それは秋から始まり、夏で終わっていた。
 茶色の時間が軋むたび、薄金色の髪がゆらゆら揺れる。
 
 『毎日が楽しくて、嬉しくて……こんな日がずっと続けばいいと思える。これが、幸せというものなのですね。大好きですよ、キャス』
 
 こんな時にさえ、愛しているという言葉は、フィッツに向けるためだけの想いの詰まった箱の鍵。
 
 陽が落ちかけていて、キャスの姿の影模様を作っている。
 その中で、キャスは泣くこともできず、ただ空を見上げていた。
 
 フィッツは、もう逝ってしまったのだろうか。
 
 あの日、抱きしめたフィッツの体の感触が全身に広がっていく。
 今でもキャスは、フィッツを抱きしめたままでいるのだ。
 
 『では、姫様にしかできないことをしてくれますか? 私を抱きしめてください。姫様にしかできないではないですか』
 
 幻想と現実をごちゃまぜにしながら、なにもかもが燃えかすになってしまわないようにと、それでも世界を創り上げ、歩いていた。
 ただ侘しさだけが繋がる記憶の線路を。
 
 フィッツの声が聞こえない。
 呼んでも呼んでも、返事がない。
 
 声に出しても、出さなくても、繰り返し繰り返し、呼んだのに。
 
 まるで音のない世界に迷いこんだみたいだった。
 フィッツの声が聞こえないだけで、無音になる。
 どうして返事をしてくれないのかと、フィッツに訊きたかった。
 
 『私が姫様を置いて行くなど、有り得ません』
 
 そう言っていたのに、置き去りにしたではないかと、フィッツを責めたかった。
 けれど、どこまでも、心がフィッツを追ってしまう。
 現実を受け入れることができずにいる。
 
 こんな風になってなお、嘆きという苦痛ですら、フィッツと共有するためだけの世界を封じる命の片羽かたば
 
 残された半分の羽では、飛ぶことはできない。
 空を見上げ、もう片方の羽を探すだけだ。
 そのための指標が、あの薄金色のひし形だった。
 
 フィッツの魂が封じられていた、あの。
 
 『先ほど、愛称で呼べるようになったら、姫様と恋仲になれるのだろうかと思っていました』
 
 心の燃えかすと自分の影が、あたたかい日なたを思い起こさせる。
 2人でピクニックをした日のことだ。
 いつしか隣に座ることに、フィッツは恐縮しなくなっていた。
 
 全力で努力するから、だから。
 
 『待っていてください』
 
 のちに、そう言ったフィッツに「ずっと待つ」と返事をしている。
 だから、ずっと待っている。
 
 フィッツは、自由になれたのだろうか。
 ティニカという鎖から解放されたのは、わかっている。
 解放されたあと、青空の向こうに逝ってしまったのだろうか。
 もしそうなら、待っていても、フィッツは帰らない。
 
 自分は、なにをしているのか、と思う。
 
 やわらかだった夕方の陽射しが消え、急に空が雲っていた。
 薄暗い空から、小さな雨粒が落ちて来る。
 けれど、雨が降っても傘がない。
 自分は、誰を庇うこともできないのだ。
 
 いつもいつも。
 
 フィッツが手を引いてくれた。
 抱っこをして走ってくれた。
 1人では、草原を駆けることもできないのだ、自分は。
 
 なにをしているのか、と思う。
 なにもできないくせに、なにかができるのだと勘違いをして、なにをやっているのかと、思った。
 
 とたんとたんと地面を叩く雨は物静かに、秒針よりも時間を刻む。
 それは、あたかも、まだお前の心臓は動いているだろうと、彼女に突きつけてくるかのようだった。
 
 こんな時でさえ。
 
 彼女の「生」は、フィッツとの夢想を形にするための螺旋を描いた心の結露。
 目から流せない涙が、心のうちで滴となり、流れ落ちていく。
 彼女は、ただ生きていた。
 絶望さえ遠く、鼓動に似た雨音だけが、無意味に耳に響いている。
 
 『フィッツが1番なんだけどなぁ。フィッツより近い人なんていないよ』
 『言葉で言っても伝わらないなら、行動で伝えることにする。ここを出たらね』
 『新しい場所に着いたら、キスしよう』
 『いいんだよ。私に1番近いのは、フィッツなんだって証なんだから』
 
 フィッツは、もう忘れてしまったろうか。
 絵空事になってしまった、あの日の約束を。
 
 フィッツに、もう1度、好きだと言いたかった。
 フィッツからも、好きだと言われたかった。
 一緒に生きることができないのなら。
 
 一緒に死のう、と言ってほしかった。
 
 フィッツは、彼女のほしかった言葉を、なにひとつ知らない。
 知らないまま、逝ってしまった。
 
 こんな風になってもまだ。
 
 愛をするのは、フィッツを迎えるためだけの朽ちた心の煤払い。
 いつかフィッツと会える時にと、備えていた。
 正しく自分の心が伝えられるよう、彼女は幻想の中で生きることを選んだ。
 フィッツに「それならしかたありませんね」と言ってもらえるまではと。
 
 見上げっ放しの空は濁っていて、光は見えない。
 都会の空でもないのに、星が見えないのを、おぼろげに不思議に感じる。
 雨が、彼女の顔を濡らしていた。
 冬の雨は冷たいはずだが、そういう感覚はない。
 
 この世界に来たのは、フィッツと出会うだめだったのではないか。
 
 そんなふうに思っていた。
 来たくて来た世界ではないが、フィッツと出会えたことで、来なければ良かったとは思えなくなったのだ。
 
 フィッツの視線の先には、いつも彼女がいて。
 彼女の視線の先にも、フィッツがいるようになった。
 
 なのに、今は、どちらの視線も繋がらない。
 ぷっつりと、断ち切られてしまっている。
 いつもあったはずの薄金色が見えなかった。
 その薄金色の中にいた自分も見えない。
 
 たったひとつの星。
 
 それは、どこにいても、自分の位置を示してくれていた。
 道に迷った旅人が、空を見上げて探したという。
 どんななにが変わっても、どれだけ時間が経っても、変わらない道標みちしるべ
 
 元いた世界では、北極星と呼ばれていた。
 
 住む世界が変わり、星の位置も変わっていたとしても。
 彼女にあった、フィッツという名の北極星。
 
 空に投げ出される光景。
 ひどくゆっくりとした銃弾の動き。
 映画の特殊効果のような映像。
 
 その中で、彼女は見たのだ。
 
 『ご自身の命を大事にしてください』
 
 どうして?
 
 『姫様に生きていてほしいのです』
 
 どうやって?
 
 視線は繋がらない。
 声は聞こえない。
 言葉はとどかない。
 
 彼女のたったひとつの星。
 
 北極星は、砕けて、散った。
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