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第1章 彼女の言葉はわからない
きみのいない空の下では 1
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涙が、こんなにも出るものだとは知らなかった。
勝手に目からあふれて止まらない。
止めようとする気持ちも、彼女の中には残っていないのだ。
涙は出てくるが、言葉は出て来なくなっている。
抱きしめている相手の名も呼べない。
悲しくて、怖くて、名を口にできなかった。
呼んでも返事がないとわかっているからだ。
名を呼ぶたびに、フィッツの死を実感することになる。
周りは静かだった。
もう誰も立っていない。
人は大勢いるが、うろんな瞳で地べたを這っている。
言葉を発することのできる者はいなかった。
口からは涎だけが流れ落ちている。
これが、彼女の力。
人であれば、その影響力から逃れることはできない。
当然、フィッツも巻き込むことになる力だった。
実際、最初に影響を受けたのは、フィッツなのだ。
それで、彼女は自分の力に気づいている。
来たくて来たのではない、世界。
自分の意思を無視して「カサンドラ」とされてしまったことに腹を立てていた。
命と体を「与えてもらった」とは思えず、押し付けられた状況に、憤りしか感じなかったのだ。
目覚めたのは、あのボロ小屋。
出会った最初の人物が、フィッツ。
腹を立てていた彼女は、自分がカサンドラでないことをフィッツに話している。
頭がおかしくなったと思われてもかまわなかった。
けれど、その時からフィッツはフィッツで。
(何回、言っても、姫様は姫様だって言ってたね……)
それでも、初めのうちは信じていないのだと考え、信じさせようとした。
元の世界での「名前」を名乗ろうとしたのだ。
その際、彼女は違和感を覚えている。
意識しないと、それまで使ってきたはずの「名前」が出てこなかった。
とはいえ、意識すれば、なんとか言葉にできそうだったので、口にしかけた。
その途中で、フィッツが膝をついていなければ、自分の力に彼女は気づかないままだっただろう。
すぐに「この世界」の言葉に切り替えたことで、その場は事なきを得ている。
のちにフィッツから「頭の中をいじられたみたい」だったと言われた。
『姫様の力は、言葉によるものだと考えられます。人の脳は、それが音ではなく“言葉”だと認識すると勝手に理解しようと働き出しますが、大幅に理解の範疇を越えると、脳の機能が破損します。姫様の力は、おそらく、そういうものかと』
人は、言葉により、意思の伝達を行う。
たとえ言語体系が違っていても、話しかけられれば「なを話しているのか」を脳が解析しようとするらしい。
そして、それは自分の意思では止められないのだそうだ。
もちろん、単に言葉が通じないだけなら、脳が損傷を受けることはない。
自分の理解できない言語だと認識するだけに留まる。
頭痛を感じることはあるだろうが、所詮、その程度だ。
が、彼女の言葉は異質だった。
文字通り「次元」が違う。
だから、一瞬で許容量を超える。
聞いただけでも、脳が損傷を受けるのだ。
フィッツが軽傷ですんだのは、元々、演算能力が高かったからに過ぎない。
とはいえ、彼女が長く話し続けていたら「壊して」しまっていただろう。
アトゥリノの兵に、彼女は、なにかをしたわけではない。
ただ、話しただけだ。
日本語で。
意識しなければ出てこないものの、彼女には馴染み深い言葉であり、特別なものではなかった。
それが、この世界の者たちにとっては、理解の及ばないものと化す。
むしろ、動物の鳴き声のほうが、まだしも「理解」できるのだ。
動物の鳴き声は言語として捉えないし、この世界に存在している「音」だった。
脳は、そのように判断する。
言語だと認識できるにもかかわらず、どこにも存在しない言葉。
カサンドラの肉体は、この世界のものだ。
だが、魂とでもいうものは、次元の違う世界から送られたもの。
まさしく、その存在自体が、力の源となっている。
(こんな力あっても……どう使っていいのか、わからなかったんだよ……)
フィッツを巻き込まず、上手く使える方法を考えておけば、フィッツを死なせずにすんだかもしれない。
この力でもって、追っ手を制圧できていたのかもしれない。
あまりにも大きな影響を与える力に、自分が怯んでさえいなければ、と思う。
けれど。
フィッツは、もうその影響を受けない。
彼女の力は、フィッツになんの影響も与えられはしない。
フィッツは死んでしまったから。
彼女は周囲に視線を向ける。
それから、力なく、笑った。
「……大惨事だ……今さら、こんなことしたって……意味ないのにさぁ……」
見渡す限り、人が倒れている。
まともな「人間」は、1人もいない。
全員、壊れてしまった。
いや、壊したのだ。
サラ……。
ふっと、腕の中が軽くなる。
見れば、フィッツの体が足先から消えかけていた。
彼女の頭に、理由と結果が落ちてくる。
『基本的に、私の体は、そのようになっています。私の体から離れたものは細胞が死滅し、消滅する仕組みです。たとえば、手首が切り離されると、その手首は消滅します。髪の毛より時間はかかると思いますが』
つまり、フィッツ自身の命が失われたため、すべての細胞が消滅しようとしているのだ。
あの時、フィッツは「時間効率」だと言ったが、おそらく、それは理由の1つ。
フィッツは言わなかったが、もっと重要な理由があったに違いない。
ラーザの技術を流出させないため、という。
彼女は、必死でフィッツの体をかきいだく。
「駄目……逝かないでよ……逝かないで、フィッツ……」
お願いだから、独りにしないで。
言葉にできない間にも、フィッツの体が崩れていった。
気づけば、腕の中は空っぽ。
自分で、自分の体を抱きしめている。
「なんにも……残してくれないなんて……あんまりじゃん……」
かくんっと、うなだれた。
顔の横に長い髪が落ちてくる。
紫紺色のそれは、肩を通り過ぎ、へたりこんでいる彼女の膝まであった。
瞳は紫紅の色をしている。
(そっか……隠れ家じゃ……色、変える必要なかったから……)
皇宮を逃げる時、体質を変える装置を壊した。
そのため、カサンドラ本来の姿に戻ったのだ。
逃亡中は目立ち過ぎるので、薬により髪と目の色を変えていた。
隠れ家には、フィッツと2人。
だから、ずっと薬は飲んでいない。
なにも隠す必要はなかったからだ。
今となっては、別の意味で隠す必要はなくなっている。
誰にどう思われようが、どうでもいい。
そう思った彼女の視線の先に、なにかがある。
もう動くのも嫌だったが、色に惹かれて手を伸ばした。
フィッツの薄金色の髪と瞳を思い出す。
ひし形の立方体をしたなにかは、薄金色に輝いていた。
片手に握りこめるほどの大きさだ。
両手で抱きしめ、声もなく、彼女は泣く。
(抜かり、ないね……フィッツは……形見まで用意してた……?)
これまでの人生で、生きるために必死になったことなんてなかった。
フィッツに出会って「生」に執着した。
人に関わらず、恋愛にも無関心。
なのに、フィッツを知りたいと思い、恋をした。
「私も……大好きだよ、フィッツ……」
言いかけた言葉は、途中切れになっている。
最後に、もう1度、ちゃんと言っておけばよかったと思った。
フィッツは、どう思っていただろう。
自分がフィッツに恋をしていると、わかってくれていただろうか。
生きることを願い、恋をして、頑張った。
頑張ろうとした。
その結果が、これだ。
「もう……頑張らなくても……いいよね……頑張りたくない……」
フィッツの体は失われ、遺されたのは薄金色の立方体だけ。
もとより、生きるために頑張るような性分ではない。
これ以上、なにをどう頑張ればいいのか、わからなかった。
『生きていてほしいのです』
『大好きですよ、キャス』
フィッツの声が聞こえた気がする。
両手を開いて、ひし形の立方体を見つめた。
薄金色の向こうに、フィッツがいるように感じられる。
「なんだよ……まだ頑張れって……? 1人で逝っちゃったくせに……」
ひし形に、彼女の涙が落ちていた。
宝石のような、それの上を、流れていく。
しばらく、彼女は、そうしていた。
陽射しが弱まり、外にある「本物」の太陽が沈みかけている。
今朝まであった「幸せ」が、夕方には消えてしまった。
それでも、フィッツは「幸せ」だと言ったのだ。
渋々、立ち上がる。
泣き過ぎて頭はぐらぐらしているし、体も疲れきっていた。
よろよろしながら、溜め息をつく。
「……私、頑張る気ないからね、フィッツ……ここにいたくないだけだから……」
つぶやいて、最後の関門「防御障壁」を抜けるために、彼女は歩き出した。
勝手に目からあふれて止まらない。
止めようとする気持ちも、彼女の中には残っていないのだ。
涙は出てくるが、言葉は出て来なくなっている。
抱きしめている相手の名も呼べない。
悲しくて、怖くて、名を口にできなかった。
呼んでも返事がないとわかっているからだ。
名を呼ぶたびに、フィッツの死を実感することになる。
周りは静かだった。
もう誰も立っていない。
人は大勢いるが、うろんな瞳で地べたを這っている。
言葉を発することのできる者はいなかった。
口からは涎だけが流れ落ちている。
これが、彼女の力。
人であれば、その影響力から逃れることはできない。
当然、フィッツも巻き込むことになる力だった。
実際、最初に影響を受けたのは、フィッツなのだ。
それで、彼女は自分の力に気づいている。
来たくて来たのではない、世界。
自分の意思を無視して「カサンドラ」とされてしまったことに腹を立てていた。
命と体を「与えてもらった」とは思えず、押し付けられた状況に、憤りしか感じなかったのだ。
目覚めたのは、あのボロ小屋。
出会った最初の人物が、フィッツ。
腹を立てていた彼女は、自分がカサンドラでないことをフィッツに話している。
頭がおかしくなったと思われてもかまわなかった。
けれど、その時からフィッツはフィッツで。
(何回、言っても、姫様は姫様だって言ってたね……)
それでも、初めのうちは信じていないのだと考え、信じさせようとした。
元の世界での「名前」を名乗ろうとしたのだ。
その際、彼女は違和感を覚えている。
意識しないと、それまで使ってきたはずの「名前」が出てこなかった。
とはいえ、意識すれば、なんとか言葉にできそうだったので、口にしかけた。
その途中で、フィッツが膝をついていなければ、自分の力に彼女は気づかないままだっただろう。
すぐに「この世界」の言葉に切り替えたことで、その場は事なきを得ている。
のちにフィッツから「頭の中をいじられたみたい」だったと言われた。
『姫様の力は、言葉によるものだと考えられます。人の脳は、それが音ではなく“言葉”だと認識すると勝手に理解しようと働き出しますが、大幅に理解の範疇を越えると、脳の機能が破損します。姫様の力は、おそらく、そういうものかと』
人は、言葉により、意思の伝達を行う。
たとえ言語体系が違っていても、話しかけられれば「なを話しているのか」を脳が解析しようとするらしい。
そして、それは自分の意思では止められないのだそうだ。
もちろん、単に言葉が通じないだけなら、脳が損傷を受けることはない。
自分の理解できない言語だと認識するだけに留まる。
頭痛を感じることはあるだろうが、所詮、その程度だ。
が、彼女の言葉は異質だった。
文字通り「次元」が違う。
だから、一瞬で許容量を超える。
聞いただけでも、脳が損傷を受けるのだ。
フィッツが軽傷ですんだのは、元々、演算能力が高かったからに過ぎない。
とはいえ、彼女が長く話し続けていたら「壊して」しまっていただろう。
アトゥリノの兵に、彼女は、なにかをしたわけではない。
ただ、話しただけだ。
日本語で。
意識しなければ出てこないものの、彼女には馴染み深い言葉であり、特別なものではなかった。
それが、この世界の者たちにとっては、理解の及ばないものと化す。
むしろ、動物の鳴き声のほうが、まだしも「理解」できるのだ。
動物の鳴き声は言語として捉えないし、この世界に存在している「音」だった。
脳は、そのように判断する。
言語だと認識できるにもかかわらず、どこにも存在しない言葉。
カサンドラの肉体は、この世界のものだ。
だが、魂とでもいうものは、次元の違う世界から送られたもの。
まさしく、その存在自体が、力の源となっている。
(こんな力あっても……どう使っていいのか、わからなかったんだよ……)
フィッツを巻き込まず、上手く使える方法を考えておけば、フィッツを死なせずにすんだかもしれない。
この力でもって、追っ手を制圧できていたのかもしれない。
あまりにも大きな影響を与える力に、自分が怯んでさえいなければ、と思う。
けれど。
フィッツは、もうその影響を受けない。
彼女の力は、フィッツになんの影響も与えられはしない。
フィッツは死んでしまったから。
彼女は周囲に視線を向ける。
それから、力なく、笑った。
「……大惨事だ……今さら、こんなことしたって……意味ないのにさぁ……」
見渡す限り、人が倒れている。
まともな「人間」は、1人もいない。
全員、壊れてしまった。
いや、壊したのだ。
サラ……。
ふっと、腕の中が軽くなる。
見れば、フィッツの体が足先から消えかけていた。
彼女の頭に、理由と結果が落ちてくる。
『基本的に、私の体は、そのようになっています。私の体から離れたものは細胞が死滅し、消滅する仕組みです。たとえば、手首が切り離されると、その手首は消滅します。髪の毛より時間はかかると思いますが』
つまり、フィッツ自身の命が失われたため、すべての細胞が消滅しようとしているのだ。
あの時、フィッツは「時間効率」だと言ったが、おそらく、それは理由の1つ。
フィッツは言わなかったが、もっと重要な理由があったに違いない。
ラーザの技術を流出させないため、という。
彼女は、必死でフィッツの体をかきいだく。
「駄目……逝かないでよ……逝かないで、フィッツ……」
お願いだから、独りにしないで。
言葉にできない間にも、フィッツの体が崩れていった。
気づけば、腕の中は空っぽ。
自分で、自分の体を抱きしめている。
「なんにも……残してくれないなんて……あんまりじゃん……」
かくんっと、うなだれた。
顔の横に長い髪が落ちてくる。
紫紺色のそれは、肩を通り過ぎ、へたりこんでいる彼女の膝まであった。
瞳は紫紅の色をしている。
(そっか……隠れ家じゃ……色、変える必要なかったから……)
皇宮を逃げる時、体質を変える装置を壊した。
そのため、カサンドラ本来の姿に戻ったのだ。
逃亡中は目立ち過ぎるので、薬により髪と目の色を変えていた。
隠れ家には、フィッツと2人。
だから、ずっと薬は飲んでいない。
なにも隠す必要はなかったからだ。
今となっては、別の意味で隠す必要はなくなっている。
誰にどう思われようが、どうでもいい。
そう思った彼女の視線の先に、なにかがある。
もう動くのも嫌だったが、色に惹かれて手を伸ばした。
フィッツの薄金色の髪と瞳を思い出す。
ひし形の立方体をしたなにかは、薄金色に輝いていた。
片手に握りこめるほどの大きさだ。
両手で抱きしめ、声もなく、彼女は泣く。
(抜かり、ないね……フィッツは……形見まで用意してた……?)
これまでの人生で、生きるために必死になったことなんてなかった。
フィッツに出会って「生」に執着した。
人に関わらず、恋愛にも無関心。
なのに、フィッツを知りたいと思い、恋をした。
「私も……大好きだよ、フィッツ……」
言いかけた言葉は、途中切れになっている。
最後に、もう1度、ちゃんと言っておけばよかったと思った。
フィッツは、どう思っていただろう。
自分がフィッツに恋をしていると、わかってくれていただろうか。
生きることを願い、恋をして、頑張った。
頑張ろうとした。
その結果が、これだ。
「もう……頑張らなくても……いいよね……頑張りたくない……」
フィッツの体は失われ、遺されたのは薄金色の立方体だけ。
もとより、生きるために頑張るような性分ではない。
これ以上、なにをどう頑張ればいいのか、わからなかった。
『生きていてほしいのです』
『大好きですよ、キャス』
フィッツの声が聞こえた気がする。
両手を開いて、ひし形の立方体を見つめた。
薄金色の向こうに、フィッツがいるように感じられる。
「なんだよ……まだ頑張れって……? 1人で逝っちゃったくせに……」
ひし形に、彼女の涙が落ちていた。
宝石のような、それの上を、流れていく。
しばらく、彼女は、そうしていた。
陽射しが弱まり、外にある「本物」の太陽が沈みかけている。
今朝まであった「幸せ」が、夕方には消えてしまった。
それでも、フィッツは「幸せ」だと言ったのだ。
渋々、立ち上がる。
泣き過ぎて頭はぐらぐらしているし、体も疲れきっていた。
よろよろしながら、溜め息をつく。
「……私、頑張る気ないからね、フィッツ……ここにいたくないだけだから……」
つぶやいて、最後の関門「防御障壁」を抜けるために、彼女は歩き出した。
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