いつかの空を見る日まで

たつみ

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第1章 彼女の言葉はわからない

乖離の成果 3

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 フィッツの場合は愛称ではなく、単なる「呼び名」だが、人が、人を愛称で呼ぶことがあるのは知っている。
 その条件は「親しい間柄であること」だ。
 だから、どうしてもカサンドラを愛称で呼びたい。
 なのに、口にしようとすると、言葉がうまく出て来なくなる。
 
 フィッツは、カサンドラが湯を浴びている浴室の前に立っていた。
 安全は確保されているため、見張りはいらないのだが、離れがたかったのだ。
 
 もちろん、中に入ることは、もうしない。
 カサンドラは「別にいい」と言ってくれているものの、アイシャの言葉を、忘れられずにいる。
 
(私は、姫様と恋仲ではないし、夫でもない。不必要に裸身を見るのは破廉恥だ)
 
 思いながら、胸のあたりを、ぎゅっと握りしめた。
 今まで、考えもしなかったことを、考えてばかりいる。
 ティニカでは教わらなかったので、自分で考えるよりほかない。
 その中で、思考を中断したくなることも、ままある。
 
 カサンドラといると楽しいのに、苦しい。
 愛称で呼びたいのに、呼べない。
 
 それが、なぜなのか、わからなかった。
 考えても、答えがみつけられないのだ。
 
(私は、おそらく、普通ではないのだろうな)
 
 人は、人から産まれる。
 親が子を育てる。
 親を亡くしたり、親に捨てられたりする子がいるのは知っていた。
 だとしても、比喩ではなく事実として「親がいない」子はいない。
 
 だが、フィッツに「親」はいないのだ。
 
 フィッツの中の「当たり前」は、ティニカでのもので、一般的ではないのだと、ようやく気づいている。
 そもそも、ほかの基準なんて考えたことがなかった。
 ティニカの教えの上に、フィッツの命は成り立っていたからだ。
 
(姫様がヴェスキルの継承者でなくても、私は、やはりそばにいたいと思っている。ティニカとしては、失敗作だ。お仕えする前なら処分されていた)
 
 ティニカでは、ヴェスキルの継承者を守り、世話をする者が作られている。
 候補は複数いるのだが、最も優秀な者しか必要とはされない。
 あとあと面倒なことにならないように、選ばれなかった者は処分されるのだ。
 フィッツは、自分と同じく作られた者たちが処分されるのを目にしている。
 
 なんとも思わなかった。
 
 不要な者が処分されるのを、ごく自然に受け止めている。
 フィッツ自身、カサンドラに「不要」と見なされれば、いつでも自死するつもりでいたのだ。
 ティニカの存在理由は、それしかないから。
 
(しかし、姫様は、私がいいと言ってくれた。私がいなければ困るとも……)
 
 ふっと、胸が軽くなる。
 知らず、胸から手を離していた。
 たとえティニカとしては出来損ないであっても、カサンドラが必要としてくれるのなら、それだけでいいと思える。
 
(……愛称で呼べるようになったら……姫様と私は、恋仲になれるのだろうか)
 
 今度は、胸の奥が、ぽっぽっと熱くなってきた。
 最近、よくこうなる。
 不快ではないが、落ち着かない。
 
「フィッツ~、いる~?」
「は、はい。います。なにか必要なものがありますか?」
「ごめんごめん、用があったわけじゃなくて、いるかなって思っただけ~」
 
 浴室内から、歌うような声が響いていた。
 また、うまく言葉で表現できない感覚が胸に広がる。
 無意識ではあるのだが、フィッツの口元に笑みが浮かんでいた。
 
 声が笑っている。
 
 そう感じたのだ。
 何年も仕えてきて、その間、カサンドラは、いつも淡々としていた。
 とくに女王の他界後は、ひどく冷静で、何事にも動揺しなくなっている。
 感情に揺らぎがなく、落ち着いていた。
 
 それまでは、皇太子に会ったあとやなんかには、感情の揺らぎがあったのだ。
 明確に言われたわけではないが、皇太子に好意をいだいているのは察していた。
 
 あれほどに無関心さを示されていて、なぜ好意的になれるのかはわからなかったものの、フィッツにとっては関係ない。
 関係なく「使命」を果たすべく、行動している。
 
(私も、姫様ご自身には、無関心だった……? 姫様が言っていたのは、こういうことかもしれない。ヴェスキルの継承者だからと……)
 
 ティニカは「ヴェスキルの継承者」であることを、なにより重要視する。
 もとより、ティニカ自体が、ヴェスキルのために作られた家門からだ。
 千年ほども続く歴史の中で、その思想は変わらず存在し続けている。
 今だって、どこかで「ティニカ」は作られているのだろう。
 
 ティニカは変わらない。
 
 けれど、自分は変わった、と思う。
 たとえば、今、正当なヴェスキルの継承者が見つかったので、その者に仕えろと言われても、彼女の傍を離れる気はない。
 以前とは、真逆の思考になっている。
 
 別人になろうが、その血の1滴までもがヴェスキルならば、それが、フィッツの仕えるべき理由だった。
 なのに、今は、ヴェスキルの血がどうでも、彼女の傍にいたいと感じている。
 しかも「仕える」との意識とは、異なる感覚もあった。
 
「お待たせ、フィッツ」
 
 きゅうっと、胸が締めつけられる。
 カサンドラが、自然な笑顔を、フィッツに向けていた。
 
 一緒にいると楽しいのに、苦しい。
 
 当たり前に笑ってくれる彼女に、どう応えればいいのかすら、自分には、わからないのだ。
 それは、きっと「普通」ではないからに違いない。
 身の程をわきまえるべきなのかもしれないが、できなかった。
 
「え? フィッツ? どしたの?」
 
 フィッツは、許しを得ることも忘れ、カサンドラを抱きしめている。
 自分でも、自分の中に、そうした「衝動」があるとは知らずにいた。
 だが、ただ彼女を抱きしめたかったのだ。
 
「なに、寂しかった? だったら、入ってくればよかったのに」
「そんな破廉恥な真似はしません」
「フィッツならいいって言ってるじゃん」
「なぜ、私ならいいのですか?」
「ん~、下心がないからかな。別に、私の全裸なんて見飽きてるでしょ?」
 
 抱きしめた時と同様、唐突に、パッと体を離す。
 ものすごく居心地が悪い感覚があった。
 こんな感覚も初めてで、理屈がついてこない。
 まるで自分の言動を分析できないのだ。
 
「私には、下心がないのでしょうか?」
「なに言ってんの、フィッツ」
「下心があるのかないのか判断できません」
「はあ? 下心の意味はわかってるんだよね」
 
 こくり。
 
 フィッツとて、男女の親密な関係がどういうものかはわかっている。
 同意のあるなしとは無関係の「下心」が存在するという知識もあった。
 だが、自分の感覚が「下心」によるものかは、判断できずにいる。
 
「先ほど、愛称で呼べるようになったら、姫様と恋仲になれるのだろうかと思っていました。それから以前も言ったように、姫様を抱きしめたり、口づけたり、肌にふれたいと思っています。これは、下心でしょうか?」
「う、うーん……そっか……」
「申し訳ありません。自分で判断ができないのです」
「フィッツさ、ほかの人にも、そういうことしたくなる?」
 
 問われている意味がわからず、フィッツは、少しだけ体を離した。
 そうしなければ、カサンドラの顔が見えないからだ。
 カサンドラに、呆れたり、怒ったりしている様子はない。
 
「ほかの者に対しては、必要があるかどうかの判断はしますが、したくなることはありません」
「そんな必要ないから」
「ですが、姫様をお守りするのに……」
「じゃあ、フィッツのためなら、私があいつとキスしてもいいんだね」
 
 ちらっと、想像が頭をよぎる。
 
「……い、嫌です」
 
 体が、ふるふるっと震えた。
 今までも、何度か「嫌だ」と感じた事象はある。
 が、これは中でも最大級の「嫌」だった。
 不快も入り混じって、背筋が、ざわざわする。
 
「私も、フィッツが誰かと、そういうことすると、同じように感じるんだよ」
「嫌なのですね」
「嫌だよ」
「わかりました。しません。ですから、姫様もしないでください」
「わかった。しない。でも、フィッツが誰かとしたら、私もするからね」
「肝に銘じておきます」
 
 カサンドラが「しない」と言ったので、ひとまず安心する。
 自分がしなければ、彼女もしないのだ。
 ならば、たとえ「ティニカ」が必要だとする場合であっても、しないと決める。
 彼女が誰かと親密になるのは「絶対」に嫌だった。
 最善ではなくとも、カサンドラを守る別の手段を考えればいい。
 
「それとさ、フィッツ」
「はい、姫様」
「フィッツは下心あってもいいよ。私も前に言ったけど、フィッツなら嫌じゃないからさ。あ~、でも、やっぱりキスとかは愛称で呼べるようになったらだね」
 
 声が笑っている。
 
 カサンドラは自らを「意地悪で性根が悪い」と言うし、優しいという感覚も漠然としたものには違いない。
 それでも、フィッツは彼女を「優しい」と感じる。
 自然に、笑みを浮かべ、うなずきながら言った。
 
「全力で努力します」
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