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第1章 彼女の言葉はわからない
三角の折目 4
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すでに夜中になっていて、周囲は真っ暗になっている。
地下牢に行く前にさした目薬のおかげで、暗視が効いていたが、そのせいで再び恥ずかしい思いをした。
夕食後、予定通り、洞窟から出て、崖を登った。
洞窟の時と同じく「籠」を使っている。
そこまでは、足手まとい感をいだきつつも、恥ずかしさはなかった。
だが、崖の上から、ここまでの間が問題だったのだ。
帝国側は断崖絶壁だったが、ザフイ側は、なだらかな坂となっていたのに、彼女は、またしてもフィッツに「抱っこ」されている。
地面に降り立ってからも、その状態は続いた。
(私には足跡を残さないように歩くなんて器用な真似できないけどさ……)
帝国側は砂漠だったが、坂を下り終えたところには、草が生い茂っていた。
ところどころ低木が生えている場所があり、そこから農地に繋がっている。
育てられているのは、大麦らしい。
年に2回収穫時期があり、ちょうど2回目の収穫前なのだそうだ。
フィッツは、なんでもよく知っているなと思った。
が、しかし。
(抱っこで、麦の解説するんだもんなぁ)
当然とばかりに抱き上げてくるフィッツに、諦めの心境ではある。
と、同時に「慣れさせる」を実践しているのかと、疑ってしまう。
カサンドラの命令に「絶対服従」ではないため、すこぶる怪しい。
常日頃は気遣いなんてしないのに、おかしなところで気遣われている気がする。
(どこまで、私に羞恥心を捨てさせようっていうんだよ)
フィッツ相手に、羞恥心などあってないようなものだ。
見られていなかったことがない、というくらいに見られてきたし、気にするのも忘れかけていた。
だからこそ「抱っこ」に対する、ささやかな羞恥心程度は残しておきたい。
根こそぎ持って行かれたら、女性としてというより人として駄目な気がする。
「どういうおつもりですか、ティ……フィッツ様」
「どういうとは、なにがだ」
「いつまで、ここにおられる気かと、お聞きしております」
「いつまでもなにも、ずっとに決まっている」
立場が下であると認識しているアイシャだが、やけに剣呑な目つきでフィッツをにらんでいた。
フィッツもフィッツで、やけに冷淡な眼差しをアイシャに向けている。
間に挟まれているというのに、なにがなんだかわからない。
ここは、農地の先にあった町の、小さな宿屋だ。
町に何軒かある宿のひとつ。
けれど、ここが選ばれたのには理由がある。
(ザフイの人口は5万人くらい。リュドサイオの3つの属国中、規模は最も小さいらしいけど、その中にもラーザの民がいるわけで……)
この宿屋の主が、そうだった。
深夜に裏口から現れたにも関わらず、アイシャと同じ反応をしたのだ。
主とその家族を含め、5人が平伏。
声をかけただけで、体はぷるぷる、滝の涙。
重過ぎるほど重い光景だった。
さらに、主曰く「いつか役に立てるようにと、ラーザの民は、小国を中心にして帝国全土に散らばった」のだそうだ。
小国を中心としたのも、女王もしくは王女が「落ち延びる」過程で立ち寄りそうだと考えたからだという。
恐ろしさに、身震いを禁じ得ない。
フィッツは、少々、頭のイカレた男だが、気楽に話せる分、まだマシ。
アイシャにしろ、宿屋の者たちにしろ、仰々しいこと、この上もない。
その理由が「ヴェスキルの継承者だから」でしかないのだから、いよいよ、頭が痛くなる。
「本気で仰っておられるのですか?」
「なぜ、私が冗談を言う必要がある」
宿屋の一室。
狭いが丁寧に掃除がしてあり、清潔感があった。
フィッツは、小うるさいメイド長のように、隅々まで点検していたけれども。
「正気とは思えないからにございます」
「いいかげんにしろ、アイシャ・エガルベ。なにが言いたい」
だんだんに、フィッツの口調が刺々しくなっていく。
表情は変わっていないが、内心では、苛立っているようだ。
とはいえ、アイシャも、ますます眉を寄せ、厳しい表情になっている。
「ここは浴室だと、お分かりになっておられるのでしょうか?」
「見ればわかる」
お、と思った。
よもや、まさか。
今までフィッツと2人だったし、彼女はフィッツを説得するのは諦めていたし、説明しても伝わらないと思ってきた。
それを、アイシャは、今まさに問題としているのではなかろうか。
「では、ここに居座るのはおやめください」
ぴくり。
フィッツの眉が吊り上がる。
おそらく、いや、絶対にアイシャの言わんとしていることを理解していない。
まるで見当違いなことを言い出すと、わかっていた。
「視聴覚情報用の装置をここで使うことはできない。今後のために温存する必要があるからな。近距離であれば、視聴覚情報より目視のほうが確実でもある」
やっぱりね。
フィッツの主張と、アイシャの苦言は、まるで別の方向に描いた矢印だ。
お互いに、明後日のほうに向かって矢を放っているも同然。
会話にはなっていても、意思の疎通はできていない。
「まさか今まで視聴覚情報装置を使っておられたのですか?!」
「皇宮にいた頃は、常時、使用していた。万全の態勢で姫様をお守りするのが、私の使命だ」
「ティニカが、そういう家門だとは存じておりますが、それはあまりにも……」
アイシャが、ちらっとカサンドラに視線を向けてくる。
肩をすくめ、首を横に振ってみせた。
フィッツとは、こういう男なのだ。
出会った当初から、少々、頭がイカレていた。
そのイカレ具合は尋常ではない。
が、もはや、慣れた。
そして、諦めている。
「……おいたわしいことにございます……そのような……」
悲壮な表情になるアイシャに、苦笑いをもらした。
ラーザの民として育てられたとしても、アイシャの日常は一般的なものと大きな差はなかったのだろう。
「聞き捨てならないな。おいたわしいとは、どういう意味だ」
「これが、おいたわしくなくて、なんと申し上げればよろしいのですか」
確かに、おいたわしいね。
我ながら、そう思う。
アイシャが言いたくなる気持ちを、彼女は理解できた。
フィッツには理解しがたくとも。
「世間一般の女性ですら、裸身を男性に見せることはございません! ましてや、高貴なる御身の肌を晒すなど……恋仲にある者や夫ならばともかく、女性が男性に裸身を見られるのが、どれほどの恥辱か、ご存知ないのですか、ティニカ公!」
心に刻んだはずのことも、ショックのあまり忘れてしまったらしい。
アイシャは、フィッツに人差し指を、ビシッと突きつけている。
対して、フィッツは「え?」という顔をしていた。
無理もない。
(フィッツ、下心ないからなぁ。使命感でしてたことだし、驚くよね)
帝国の小屋では、2人きりで過ごしてきている。
カサンドラを守れるのは、フィッツだけだったのだ。
少し目を離した隙に、カサンドラが害されるかもしれない。
その危険を排除していただけで、他意はなかったと、わかっている。
「し、しかし、浴室は警戒しづらく、無防備にもなる場所だ」
アイシャの言葉に、明らかにフィッツは動揺していた。
フィッツとも思えないくらいの狼狽えぶり。
「皇宮では、いたしかたなかったかもしれませんが、今は私がおります。浴室内の警護は私にお任せください。何事かあっても対処いたしますし、必要なれば、お呼びいたします。ですから、破廉恥な真似は、お控えいただきたい!」
フィッツの顔色が変わった。
初めて見たが「色を失う」との言葉がぴったりの、顔面蒼白状態だ。
あのフィッツが、アイシャに反論もできずにいる。
「姫様……私は、けして……けして……」
「わかってる。フィッツは破廉恥ではないよ」
「ですが……姫様は……」
「まぁ、安全のためとはいえトイレまでっていうのは……」
がたん。
音に驚いて、そっちを見ると、アイシャが、がっくりと片膝を床についていた。
ティニカ育ちではないアイシャには刺激が強過ぎたのかもしれない。
「今後、御身に対する目視での警護は、できる限り、私が担わせていただきます。女性特有のお気遣いが必要な場所は、とくに。よろしいですね………ティニカ公」
低い、地の底から響いてくるような声で、アイシャが言う。
フィッツは、動揺から抜け切れていないのか、無言。
そして。
こくり。
地下牢に行く前にさした目薬のおかげで、暗視が効いていたが、そのせいで再び恥ずかしい思いをした。
夕食後、予定通り、洞窟から出て、崖を登った。
洞窟の時と同じく「籠」を使っている。
そこまでは、足手まとい感をいだきつつも、恥ずかしさはなかった。
だが、崖の上から、ここまでの間が問題だったのだ。
帝国側は断崖絶壁だったが、ザフイ側は、なだらかな坂となっていたのに、彼女は、またしてもフィッツに「抱っこ」されている。
地面に降り立ってからも、その状態は続いた。
(私には足跡を残さないように歩くなんて器用な真似できないけどさ……)
帝国側は砂漠だったが、坂を下り終えたところには、草が生い茂っていた。
ところどころ低木が生えている場所があり、そこから農地に繋がっている。
育てられているのは、大麦らしい。
年に2回収穫時期があり、ちょうど2回目の収穫前なのだそうだ。
フィッツは、なんでもよく知っているなと思った。
が、しかし。
(抱っこで、麦の解説するんだもんなぁ)
当然とばかりに抱き上げてくるフィッツに、諦めの心境ではある。
と、同時に「慣れさせる」を実践しているのかと、疑ってしまう。
カサンドラの命令に「絶対服従」ではないため、すこぶる怪しい。
常日頃は気遣いなんてしないのに、おかしなところで気遣われている気がする。
(どこまで、私に羞恥心を捨てさせようっていうんだよ)
フィッツ相手に、羞恥心などあってないようなものだ。
見られていなかったことがない、というくらいに見られてきたし、気にするのも忘れかけていた。
だからこそ「抱っこ」に対する、ささやかな羞恥心程度は残しておきたい。
根こそぎ持って行かれたら、女性としてというより人として駄目な気がする。
「どういうおつもりですか、ティ……フィッツ様」
「どういうとは、なにがだ」
「いつまで、ここにおられる気かと、お聞きしております」
「いつまでもなにも、ずっとに決まっている」
立場が下であると認識しているアイシャだが、やけに剣呑な目つきでフィッツをにらんでいた。
フィッツもフィッツで、やけに冷淡な眼差しをアイシャに向けている。
間に挟まれているというのに、なにがなんだかわからない。
ここは、農地の先にあった町の、小さな宿屋だ。
町に何軒かある宿のひとつ。
けれど、ここが選ばれたのには理由がある。
(ザフイの人口は5万人くらい。リュドサイオの3つの属国中、規模は最も小さいらしいけど、その中にもラーザの民がいるわけで……)
この宿屋の主が、そうだった。
深夜に裏口から現れたにも関わらず、アイシャと同じ反応をしたのだ。
主とその家族を含め、5人が平伏。
声をかけただけで、体はぷるぷる、滝の涙。
重過ぎるほど重い光景だった。
さらに、主曰く「いつか役に立てるようにと、ラーザの民は、小国を中心にして帝国全土に散らばった」のだそうだ。
小国を中心としたのも、女王もしくは王女が「落ち延びる」過程で立ち寄りそうだと考えたからだという。
恐ろしさに、身震いを禁じ得ない。
フィッツは、少々、頭のイカレた男だが、気楽に話せる分、まだマシ。
アイシャにしろ、宿屋の者たちにしろ、仰々しいこと、この上もない。
その理由が「ヴェスキルの継承者だから」でしかないのだから、いよいよ、頭が痛くなる。
「本気で仰っておられるのですか?」
「なぜ、私が冗談を言う必要がある」
宿屋の一室。
狭いが丁寧に掃除がしてあり、清潔感があった。
フィッツは、小うるさいメイド長のように、隅々まで点検していたけれども。
「正気とは思えないからにございます」
「いいかげんにしろ、アイシャ・エガルベ。なにが言いたい」
だんだんに、フィッツの口調が刺々しくなっていく。
表情は変わっていないが、内心では、苛立っているようだ。
とはいえ、アイシャも、ますます眉を寄せ、厳しい表情になっている。
「ここは浴室だと、お分かりになっておられるのでしょうか?」
「見ればわかる」
お、と思った。
よもや、まさか。
今までフィッツと2人だったし、彼女はフィッツを説得するのは諦めていたし、説明しても伝わらないと思ってきた。
それを、アイシャは、今まさに問題としているのではなかろうか。
「では、ここに居座るのはおやめください」
ぴくり。
フィッツの眉が吊り上がる。
おそらく、いや、絶対にアイシャの言わんとしていることを理解していない。
まるで見当違いなことを言い出すと、わかっていた。
「視聴覚情報用の装置をここで使うことはできない。今後のために温存する必要があるからな。近距離であれば、視聴覚情報より目視のほうが確実でもある」
やっぱりね。
フィッツの主張と、アイシャの苦言は、まるで別の方向に描いた矢印だ。
お互いに、明後日のほうに向かって矢を放っているも同然。
会話にはなっていても、意思の疎通はできていない。
「まさか今まで視聴覚情報装置を使っておられたのですか?!」
「皇宮にいた頃は、常時、使用していた。万全の態勢で姫様をお守りするのが、私の使命だ」
「ティニカが、そういう家門だとは存じておりますが、それはあまりにも……」
アイシャが、ちらっとカサンドラに視線を向けてくる。
肩をすくめ、首を横に振ってみせた。
フィッツとは、こういう男なのだ。
出会った当初から、少々、頭がイカレていた。
そのイカレ具合は尋常ではない。
が、もはや、慣れた。
そして、諦めている。
「……おいたわしいことにございます……そのような……」
悲壮な表情になるアイシャに、苦笑いをもらした。
ラーザの民として育てられたとしても、アイシャの日常は一般的なものと大きな差はなかったのだろう。
「聞き捨てならないな。おいたわしいとは、どういう意味だ」
「これが、おいたわしくなくて、なんと申し上げればよろしいのですか」
確かに、おいたわしいね。
我ながら、そう思う。
アイシャが言いたくなる気持ちを、彼女は理解できた。
フィッツには理解しがたくとも。
「世間一般の女性ですら、裸身を男性に見せることはございません! ましてや、高貴なる御身の肌を晒すなど……恋仲にある者や夫ならばともかく、女性が男性に裸身を見られるのが、どれほどの恥辱か、ご存知ないのですか、ティニカ公!」
心に刻んだはずのことも、ショックのあまり忘れてしまったらしい。
アイシャは、フィッツに人差し指を、ビシッと突きつけている。
対して、フィッツは「え?」という顔をしていた。
無理もない。
(フィッツ、下心ないからなぁ。使命感でしてたことだし、驚くよね)
帝国の小屋では、2人きりで過ごしてきている。
カサンドラを守れるのは、フィッツだけだったのだ。
少し目を離した隙に、カサンドラが害されるかもしれない。
その危険を排除していただけで、他意はなかったと、わかっている。
「し、しかし、浴室は警戒しづらく、無防備にもなる場所だ」
アイシャの言葉に、明らかにフィッツは動揺していた。
フィッツとも思えないくらいの狼狽えぶり。
「皇宮では、いたしかたなかったかもしれませんが、今は私がおります。浴室内の警護は私にお任せください。何事かあっても対処いたしますし、必要なれば、お呼びいたします。ですから、破廉恥な真似は、お控えいただきたい!」
フィッツの顔色が変わった。
初めて見たが「色を失う」との言葉がぴったりの、顔面蒼白状態だ。
あのフィッツが、アイシャに反論もできずにいる。
「姫様……私は、けして……けして……」
「わかってる。フィッツは破廉恥ではないよ」
「ですが……姫様は……」
「まぁ、安全のためとはいえトイレまでっていうのは……」
がたん。
音に驚いて、そっちを見ると、アイシャが、がっくりと片膝を床についていた。
ティニカ育ちではないアイシャには刺激が強過ぎたのかもしれない。
「今後、御身に対する目視での警護は、できる限り、私が担わせていただきます。女性特有のお気遣いが必要な場所は、とくに。よろしいですね………ティニカ公」
低い、地の底から響いてくるような声で、アイシャが言う。
フィッツは、動揺から抜け切れていないのか、無言。
そして。
こくり。
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