いつかの空を見る日まで

たつみ

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第1章 彼女の言葉はわからない

三角の折目 3

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 ははっという軽い笑い声が室内に響く。
 皇宮内の貴賓室の中でも、ひときわ豪奢な部屋だ。
 なにもかもに金がかかっているのがわかる。
 だが、気楽に過ごせるようにとの配慮もあった。
 
 そのひとつが、カウチだ。
 通常、居間にはソファが置かれているのだが、ここにはカウチが置かれている。
 足を伸ばして寛いでも良いとの意味合いからだろう。
 
 向かいには、テーブルを挟んで、1人用のイスが2つ。
 イスといっても、背が低く、ソファを2つに切ったような形をしていた。
 クッションも厚く、座り心地は悪くなさそうだ。
 
「あの女が逃げたらしいよ」
 
 ロキティスは、カウチに横になり、足を伸ばしている。
 イスに座っているのは、ゼノクルだった。
 戦車試合のあと、祝宴の終わりに皇太子は姿を見せていない。
 2人は、それぞれあてがわれた貴賓室に戻っている。
 
 その翌日だ。
 なにも音沙汰がないことを不審に思ったのか、ゼノクルが、ロキティスの部屋を訪ねてきた。
 ロキティスが「なにか」知っていると見越していたに違いない。
 実際、知っていたわけだが、それはともかく。
 
「さすが情報通だな。それに、弟より口が軽い」
「セウテルは帝国側の人間だからね。なにも言いやしないさ。でも、世の中には、塞げる口と塞げない口とがある」
「また金にものを言わせたわけだ」
「下級貴族や平民出の騎士は、金の力に抗えないのだよ。誇りや忠誠より、明日の食い扶持ぶちのほうが大事だろう?」
 
 森狩りに出ている騎士たちの大半は、下級貴族か平民だ。
 統率している上級騎士はともかく、配下の中には「不届き者」もいる。
 詳細までは知らされていなくても、自分たちがなにを探しているのかくらいは、当然に知っていた。
 
「またどうして、逃げたりなんかしたんだろうな。お前のとこの姫はしくじったんだろ? それなら、皇太子妃として安泰じゃねぇか」
「その皇太子妃になりたくなかったからじゃないかな」
「意味がわからねえ。現状、皇后もいなけりゃ、側室もいない。あの女の1人勝ちだってのに、なにが不満なんだ?」
「さぁね。僕らには分からない理由があるのだろうさ。たとえば……」
 
 ロキティスは、含み笑いをもらす。
 またゼノクルに「悪い顔」と言われるかもしれないが、気にしていない。
 良い人の振りをするのは、それを必要とする者たちの前、もしくはロキティスが必要だと感じた時だけだ。
 ゼノクル相手に、今さら良い人ぶっても意味がない。
 
「彼と親密な関係だった、とか」
「あの従僕か? いやぁ、そんなふうには見えなかったぜ? どっちかってぇと、皇太子殿下とのほうが親しげだったろ」
 
 ロキティスは、寝転がったまま、片手をそっけなく、パッパッと振って見せる。
 存外、ゼノクルは純朴なところがあるのだ。
 
 アトゥリノ人とは根本が違っていた。
 リュドサイオ人は、皇帝のため、すなわち国への忠義心で動く。
 が、アトゥリノ人を動かすのは、欲と利だ。
 
 その違いにより、見えるものも異なってくる。
 最近、ロキティスは愛妾の1人を殺した。
 外見だけが取り柄の、地位も権力も財もない女だ。
 にもかかわらず、側室になりたいなどと言ってきたので、始末している。
 
 ロキティスの中で「利にならない」と判断したためだ。
 
 ゼノクルなら、そういう判断はしない。
 側室にしたかもしれないし、せいぜい穏便に追い出すくらいが精一杯。
 手切れ金を「不利益」とも思わず、支払っただろう。
 
「女には表と裏の顔があるものさ。現に、2人で逃げているじゃないか」
「そりゃあ、従僕ならついて行くのが当然だ。忠義心があれば、なおさらな」
「わかっていないなぁ、ゼノは」
 
 呆れてみせても、ゼノクルに気分を害した様子ない。
 ロキティスが年下だろうと、優れた部分については認めているからだ。
 ゼノクルは年上らしい落ち着きを持っていないし、礼節にも重きを置いていない性格をしているが、些末なことで目を吊り上げるような短気さもない。
 
 のらりくらりとロキティスをかわしながら、聞けることは聞き出しておこうという腹なのだ。
 ロキティスも、話せることは話すつもりでいた。
 どうせ噂は、すぐに広まるだろうから、先んじて話したほうが「利」になる。
 
「忠義心があるのなら、引きめたと思うよ? 女が1人じゃなにもできないってことは、彼にもわかっていたはずさ。手伝わないと言えば、とどまるしかないとね」
「だから、忠義心で……」
「違う、違う。自分が死ぬのはともかく、あの女が死ぬのを、彼は望まないのだよ。彼の忠義心は、そういう類のものだ。リュドサイオのきみなら理解できるだろ?」
 
 まだ納得しかねるような顔をしながらも、ゼノクルが小さくうなずいた。
 リュドサイオ人は「忠義」や「忠誠」の旗を誇りとして掲げている。
 忠義心を持ち出されると、理解できないとは言えなかったに違いない。
 
「しかし、だ。現実に、奴は、あの女と逃げた。それこそ矛盾してるだろ」
「ところがね。その矛盾を打ち消す理由が存在する」
「……肌を合わせりゃ、王女も女に成り得るって話か?」
「そういうところだね」
「けどよ、いくら惚れてても、忠義心が強けりゃ手は出さねぇもんだぜ?」
 
 ロキティスは、ひょいと肩をすくめた。
 ゼノクルの純朴さが、ここでも発揮されている。
 カサンドラを「あの女」と侮蔑的に呼んでいるくせに、どこかで、皇帝から情をかけられている王女との認識をしているのだ。
 
 そのため、考えない。
 
「あの女が誘ったのさ」
 
 案の定、ゼノクルが、ハッと息をのむ。
 想像もしていなかったからだ。
 驚きと困惑が、はっきりと伝わってくる。
 ロキティスは、軽く両手を広げてみせた。
 
「考えてごらんよ。あの女に、あれほどの忠義心を持って仕えているのだからね。誘われて断れると思うか? どうしてもと泣きすがられたら? 果たして突き放せるだろうか?」
「まぁ……それは、そうかもしれねぇな」
「1度、体を重ねれば、そこにいるのは、もうただの男と女さ。情に流されて駆け落ちしても不思議じゃないね」
 
 ロキティスは、カサンドラのことを、妹のディオンヌから聞いている。
 大人しくて、臆病な女だという話だった。
 皇太子に好意的なところが滑稽だと言っていたのも覚えている。
 
 『だって、お兄様、殿下は、あの女のことに、てんで無関心なのよ?』
 
 自信たっぷりに話していたディオンヌのほうが、今や滑稽だ。
 ロキティスは、再三、妹に警告をしてきた。
 大人しくしているのは見せかけかもしれないし、人の心など、いつどう変わるかわからないものだと、言ってきたのだ。
 
(馬鹿な奴だ。自惚れが過ぎるから、身を亡ぼすのさ)
 
 ロキティスの目に映ったカサンドラは、ディオンヌの形容していた女とは印象が異なっていた。
 戦車試合が始まる前、挨拶をした際には「婚約者」としての虚勢だと思っていたが、違ったのだ。
 印象が変わったのは、祝宴後での会話による。
 
 カサンドラはロキティスを簡単にあしらった。
 堂々としていて、女王の風格すら漂っていたと思う。
 臆病などとは、とんでもない。
 ディオンヌは完全に「してやられた」のだ。
 
「お前、あの従僕が欲しかったんじゃねぇのか」
「諦めちゃいないよ。そこで、きみに頼みがあってね」
「頼み? やなこった。ろくなもんじゃなさそうだ」
「ゼノ、きみにも、いい話になる」
 
 ちらっと、ゼノクルに視線を投げる。
 それから、視線を天井に向けた。
 煌びやかなシャンデリアが目には映っている。
 
「僕がアトゥリノの国王になったほうがいいと思わないか?」
「まだ王太子にもなれてねぇのに、大仰な話だな」
「僕以外の6人の王子のうち、4人が父に迎合している。あとの2人は、王位には無関心だ。きみも知っているはずだよ。父は欲が深いってね」
 
 黙っているが、ゼノクルからわずかな怒りが伝わってきた。
 帝位の簒奪さんだつまで見据えている父を、ゼノクルは許せないのだ。
 ゼノクルは「忠のリュドサイオ」人だから。
 
「僕が、なぜ有能な者をはべらせていると思う? 面倒ごとを、そいつらに押し付けて、優雅に気楽に生きていきたいからさ。帝位なんて欲しがったりしないよ。僕は父とは考えが違う。財のアトゥリノは、財をこそ欲するべきだ。帝位ではなく」
「それで、奴が欲しいのか」
「彼は、最も上手くやれそうな人材だ。それに、身内を使うと足がつき易くてね」
 
 ロキティスは、父を殺し、王位の簒奪を考えている。
 実際、考えの違うロキティスを、父が王太子にするはずがなかった。
 4人のうちの誰かが選ばれるだろう。
 その前に、父を殺してしまえば、第1王子であるロキティスが自然と王位に就くことになる。
 
「奴じゃなきゃ駄目なのかよ」
「確率の問題だね。彼に任せれば、失敗するかもしれないなんて怯えずにすむ」
「ずいぶん、買ってるんだな」
「優秀な者を侍らせていればわかる。彼は素晴らしい暗殺者だよ」
 
 ロキティスは体を起こし、ゼノクルに対面する格好でカウチに座り直した。
 ゼノクルも、まっすぐにロキティスを見返してくる。
 
「それで、ロッシー、俺に頼みってのは?」
 
 ロキティスは、ゼノクルに微笑みかけた。
 きっと自分は「悪い顔」をしている。
 
「彼らがリュドサイオに入ったら教えてほしい」
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