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第1章 彼女の言葉はわからない
結果の是非 1
しおりを挟む「あれ? あれれ?」
カサンドラが、周囲を見回している。
なにかに気づいたように、ティトーヴァのほうに顔を向けた。
軽く首をかしげている。
その姿に、思わず、口元に笑みが浮かんだ。
なんとなく、カサンドラの気分が緩んでいるように感じられる。
「ベンジーは?」
その呼びかたに、少しイラっとした。
が、自分の手の中に、カサンドラの手があることで、気分が和らぐ。
小声でティトーヴァの耳に囁いてくるのも心地良かった。
演技も疲れるのだろう、気兼ねのない言葉遣いで話したいらしい。
「帝国の代表だ」
「え? 帝国も参加するんだ?」
「当然だろう。帝国主催の試合だぞ」
「そうだけどさ。不利なんじゃない? いや、そうでもないのか。帝国相手だと、周りが気を遣ってくれるよね」
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「でもさ、それだとアトゥリノが統治権を持ってる従属国は、アトゥリノの代表を蹴落としてもいいってことになるけど……」
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「だろうね」
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今後の優遇措置に関わるのだから、これもまた命懸けだ。
「つまり、アトゥリノは5人で戦うわけか」
アトゥリノが統治権を持っているのは4つの国、それとアトゥリノの代表であるルディカーンを含めると5人になる。
同じく、リュドサイオは4人。
「それじゃ、デルーニャは? フィッツと3人で戦う……わけないよなぁ」
「デルーニャは、毎年、代表も含め帝国につく。帝国が4人で戦う構図だ」
「てことは、今年は、ベンジーとデルーニャの2人で、3人が帝国側の陣営になるじゃん。アトゥリノだけで5人もいるのに、フィッツは不利もいいとこだよ」
「アトゥリノはともかく、リュドサイオは手出ししないはずだ。ベンジーにも言い含めてある。アトゥリノ以外の2陣営は気にせずともよい」
カサンドラが銅色の瞳に、ティトーヴァを映していた。
顔が近づいていることに気づいて、心臓の鼓動が速くなる。
今日の彼女は、ひと際、美しかった。
いつもの姿が美しくないのではないが、身なりを整えた分だけ、美しさが増している。
ディオンヌが用意していたらしきお仕着せのドレスは、カサンドラには似合っていなかった。
故意ではあったのだろうが、贅を尽くしてはあっても品のないものばかりだったのだ。
しかし、今日は、シンプルなデザインが、上品さを引き立てているドレスを身につけている。
服飾、宝飾、美容と、皇宮ご用達の者を集め、厳しく言い聞かせておいた効果に違いない。
もし、カサンドラを侮っているとティトーヴァが感じたら、出入り禁止にすると伝えてあった。
しかも、ティトーヴァが、直々に申し渡したので「伝達漏れ」などという言い訳も通用しない。
ディオンヌとのつきあいもある者たちだったため、念には念を入れたのだ。
「へえ、本当にセウテルを説得してくれてたんだ」
「すると言っただろう」
「そうだけどさ。セウテルは、私のこと嫌いみたいだから、あれこれ口実をつけて逃げるんじゃないかって思ってた」
「配下の1人も抑えつけられんようでは、次の皇帝にはなれん」
次の瞬間、ティトーヴァの心臓が大きく跳ねた。
周囲の音も遠ざかる。
くすくすという小さな笑い声だけが耳に響いていた。
カサンドラが笑っている。
どうしてかはわからないし、どうでもよかった。
演技ではなく、掛け値なしの笑顔であることに、大きく心を揺さぶられている。
ここが公の場だというのも忘れた。
無意識に、ぐっと体を乗り出す。
そして、顔を近づけた。
ティトーヴァの瞳の中で、カサンドラが大きくなる。
心臓が、とくとくと鼓動を速めていた。
「ちょっと……くっつき過ぎだよ」
ぺんっと、軽く腕を叩かれ、正気に戻る。
カサンドラのしかめた顔に、渋々、体を離した。
体が少し熱い。
(彼女は俺の婚約者だ。俺のものに、口づけをしてはならん理由など……)
ティトーヴァは、自分の考えに、またもや混乱する。
カサンドラに口づけようとしていたことに、気づいていなかったからだ。
(危うかった……危うく人前で……いや、人目など気にすることはない……だが、カサンドラに平手を……それは手を押さえれば……ああ、いや、違う……)
カサンドラが抵抗しても、押さえつけるのは簡単だろう。
とはいえ、無理に口づけるなんて倫理に反する。
それに、と思った。
絶対に嫌われる。
それを、ティトーヴァは、無関心よりマシだとは考えられない。
嫌われたくない、と思ってしまったのだ。
混乱はおさまっていないが、わかったことがあった。
自覚していたよりも遥かに、カサンドラに惹かれている。
だから、嫌われたくない。
今以上に、良い関係を築きたい。
ほかの誰よりも親密な存在になりたい。
握った手のぬくもりに、どきどきする。
なんでもないと思っていたことが、なんでもなくなっている。
ティトーヴァとて25歳の成人した男だ。
女性とベッドをともにしたこともある。
皇命で、カサンドラが婚約者になったあとの2年間は「清廉」な生活をしているものの、それはよけいな憶測を避けるために過ぎなかった。
カサンドラを尊重したのではない。
婚約者がいようと、王族や貴族は、女性との関係を続けることもある。
だが、政敵から足元をすくわれる危険性も伴っていた。
関係を持つ相手を間違えれば、皇太子の座を手放すことにもなりかねない。
加えて、ティトーヴァが女性関係を清算したのは、危険を冒してまで、欲に執着する必要を感じていなかったからでもある。
皇帝が皇后に夢中になり、政務を疎かにしていたため、忙しかったし。
なのに、手を握っているだけで、どきどきしていた。
隣にいるカサンドラを意識せずにはいられない。
どうかしている。
自分でも思うのだが、自制しようとしてもできないのだ。
頭の中が、ぐるぐるしていた。
この場からカサンドラを連れて、私室に戻りたい。
口づけを交わし、邪魔なドレスを剥ぎ取りたい。
そして。
「始まるみたい。みんな、出て来たよ。フィッツは、と……あそこだ」
ぐるぐるが、ピタリと止まる。
本当に「どうかしている」と思った。
心を揺さぶる感情を、真剣に、必死で抑えこむ。
そのために、名残惜しかったが、カサンドラの手を離した。
直接的な肌の感触に耐えられそうになかったのだ。
「あそこを回るだけなんだよね?」
「そうだ。レーンを周回して、最初に到達した者が勝利者となる」
努めて平静を装い、競技の流れを話す。
操縦者たちが、楕円をしたレーンに横並びに揃っていた。
そろそろ開始の合図が鳴る。
胸の裡に、惜しいような、救われたような、不可解な感覚があった。
「何回?」
「3周目が最後だな。その際、同時とみなされた場合は、その者たちだけで、1周して勝負をつける」
「周回してる間に攻撃してくるんだろうけど、どんな攻撃?」
「見ていればわかるだろう」
そっと、カサンドラから体を離す。
近づきたいのはやまやまだが、近過ぎるのは危険だ。
自分でも、自分がなにをしでかすか、わからない。
なにせ「自制」が効かなくなっているのだから。
「事前に知っとけば驚かなくてすむのにさ。別にいいけど」
つんっと、カサンドラが、そっぽを向いてしまう。
慌てて言い訳をしたくなるのを我慢した。
言い訳しようにも、口にできる言い訳がない。
お前と密着しているとベッドに連れて行きたくなる、とは。
ティトーヴァは、自分自身に落胆する。
こんな不甲斐ない部分があるとは思いもしなかった。
大層に情けない気分だ。
レーンのほうを見ているカサンドラを、横目でちらり。
あの日と同じく、凛としている。
思わず、頬に手を伸ばしかけた。
その時、場内で操縦者の紹介が始まり、歓声が沸き起こる。
(こうなってはしかたがない。認めるさ。俺は、彼女が好きなのだ。惚れている。この想いは……今宵の宴のあと、ベッドで伝えるとしよう)
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