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第1章 彼女の言葉はわからない
禍事の予兆 3
しおりを挟む「姫様」
フィッツは、カサンドラに声をかけつつ、地図を消す。
首をかしげていたカサンドラの表情が、すぐさま変化した。
「なんか嫌な予感がするんだけど、気のせい?」
「皇太子が、こちらに向かって来ています」
途端、うわぁと、カサンドラが嫌な顔をする。
カサンドラと皇太子が会うのは、基本、ひと月に1度だった。
前回はディオンヌ絡みではあったが、それは前々回からすれば、ほぼ1ヶ月後にあたる。
「まだ1ヶ月、経ってないよね?」
「5日です、姫様」
「うんざりだよ。面倒くさい」
カサンドラが大きく息を吐く。
話をするのも顔を見るのも、相当に嫌なのだろう。
カサンドラから止められていなければ、殺してもかまわない。
だが、よけいに「面倒なことになる」らしいので、フィッツは、手をくださないことにした。
「とりあえず上に戻ったほうがいいですね」
「フィッツは?」
「ご一緒します」
「あれ? そうなの? いつもは隠れてるのに」
「姫様が宮で暮らしていないと知った皇太子が、どう出てくるか、わかりません。危険があるとは思いませんが、注意は必要です。それに、姫様にお茶を淹れさせることはできませんよ」
「なるほど。それじゃ、よろしくね」
来客のために、カサンドラの手を煩わせるわけにはいかない。
ましてや、相手は客とも言えない相手だ。
カサンドラが嫌う者を、フィッツは「客」だとは認識していなかった。
(姫様が望むなら、奴と刺し違えてもいいのだがな)
しかし、カサンドラは皇太子との相討ちなど望まない。
そして、フィッツの中にも矛盾した想いが育っている。
カサンドラのために死ぬことは、ティニカの家の者としての「当然」だ。
同時に、カサンドラのために死ぬことはできない、とも思う。
カサンドラに言われた「死んだら守れなくなる」のが、嫌だった。
同じ「ティニカの価値観」の中で、フィッツは2つの想いをかかえている。
(あの側近がいなければ、私の生存確率は上がる。今後、ぶつかることを想定すると、あの者は片づけておくべきか……しかし、姫様は望んでいないかもしれない。今は放っておくとしよう)
ベンジャミン・サレスは、皇帝付きの騎士セウテルより手強い。
ある意味で、フィッツと似た資質を持っているからだ。
相手との距離を問題にせず、攻防に傾きのない万能型。
装備品や身のこなしから、そう判断している。
皇宮内の騎士は、たいてい近接に特化していて、武器は剣やナイフが主だ。
対して、ベンジャミンは銃を使う。
帝国で開発された、薄く小型でありながら、スイッチひとつで、中長距離用から短距離用に切り替えられる優れものだ。
皇太子自身は、どちらかと言えば攻撃特化型なのだが、特殊な武器を使うため、そもそも間合いに入るのが難しい。
この2人が揃っていると、ラーザの技術の結晶を身に着けているフィッツでも、対応しきれない場合が想定される。
「フィッツ、行くよ」
「はい、姫様」
カサンドラの後ろについて階段を上がり、上の部屋に戻った。
じきに、皇太子と「お付き」がやって来る。
「何食わぬ顔してないとね」
「なにも食わない顔、ですか?」
「あ、フィッツは、いつも通りでいい」
2人で「居間」に入った。
そこには、薄汚れたソファらしきものがある。
用をなしていないスプリングに、へたったマット、その上に穴の空いた布が巻きつけられているだけのもの。
これがソファと呼べるのかは定かではない。
一応、穴の部分に継当てはしている。
全体的に直そうとしたのだが「長居しないから無駄」と言われ、穴を塞ぐだけに留めたのだ。
そのソファらしきものにカサンドラは腰かけ、フィッツが後ろに控えた。
バンッ!
ドアを叩くでも、声をかけるでもなく、蹴破ったらしい。
その向こうには、ベンジャミンが立っていた。
すぐに後ろへと下がる。
代わりに姿を現したのは皇太子だ。
カサンドラは、ドアのほうを見ようとはしていない。
ソファにもたれかかり、視線を天井に向けている。
フィッツの「眼」は、カマキリという昆虫を基にした技術に支えられていた。
あちこちに仕掛けている視聴覚情報用の装置を媒介としている。
立体的に見えるのは当然だが、360度の視界を持つのは普通ではない。
カサンドラの後ろに立っていても、カサンドラが見ている場所までも把握できるのだから。
「きみは、こんなところで暮らしていたのか」
皇太子が挨拶も抜きに、許可も取らず、室内に入って来た。
後ろからベンジャミンもついてくる。
皇太子に声をかけられても、カサンドラは、そちらに顔は向けない。
フィッツには、前に座っているカサンドラの表情も見えていた。
(これが、なに食わない顔、というものだろうか?)
さっきカサンドラに言われた言葉が、理解できずにいる。
最近は、そういうことがよくあった。
そのたびに、フィッツは微かな不安を覚える。
カサンドラに置き去りにされるのではないかと、心配になるのだ。
「ドアを壊すほどのことですか?」
「ドアなど、どうでもいいだろう。きみは、こんな場所で暮らすべきではないのだからな。すぐに宮に戻れ」
「嫌です」
ぴしゃりと、カサンドラが言う。
その間にも、皇太子がカサンドラに近づいて来た。
ベンジャミンは入り口付近で控えている。
小屋が狭いので、さほど離れてはいないが、中距離と言える間合いだ。
フィッツは、頭の中で皇太子とベンジャミンとの戦闘を予測する。
結果、勝算の見込み有りと判断していた。
2人がカサンドラを巻き込んでもいいと考えているのなら、形勢は逆転する。
が、皇太子の「婚約者」であるカサンドラを巻き込むことはしないだろう。
いっぽう、当のカサンドラは、フィッツにつくはずだ。
もちろん、カサンドラを危険に晒す気はないが、フィッツの背後にカサンドラがいるだけで、向こうは戦闘の幅が格段に狭くなる。
一瞬の隙をついて逃げるのは、簡単だった。
(しかし、姫様は、穏便な逃亡を考えているからな)
おそらく戦闘になる可能性は低い。
カサンドラは、穏便に逃亡できる「時期」を見計らっているのだ。
命に危険がおよばない限り、フィッツはカサンドラの意思に従う。
「お前は、俺の婚約者だぞ。こんなところに置いておけるか」
おや?と、フィッツは思った。
カサンドラも気づいたに違いない。
少しだけ眉をひそめている。
どういうわけか、皇太子の言葉遣いが変わったのだ。
口調からすると、怒っているというふうでもない。
むしろ、動揺していると感じた。
「私は、2年以上、ここで暮らしてきましたけど?」
「だからだ。これ以上、不自由な暮らしをさせることはできん」
「不自由なんてしていません」
カサンドラの言葉は「真実」だ。
事実は「王女としては不自由な暮らし」かもしれない。
王女としての衣食住が足りているとは、フィッツとて思ってはいなかった。
とはいえ、カサンドラの「真実」は、事実とは異なる。
皇宮での暮らしのほうが、よほど不自由。
それが真実だと、フィッツにはわかっていた。
カサンドラは、フィッツでさえ側には起きたがらなかったのだ。
メイドや騎士にまとわりつかれる生活など望むはずがない。
なにひとつ自分の思うようにできない暮らしは窮屈だ。
「すまなかった」
皇太子が、カサンドラの前に跪く。
これには、カサンドラも驚いたらしい。
びくっとして、体を後ろに引いている。
「こんな扱いを受けているとは知らずにいたことを、悔やんでいる。これからは、正しい扱いが受けられるよう万全の措置をとると約束しよう。だから、宮に戻れ」
フィッツは、カサンドラがどこに行こうとついて行くつもりだ。
だが、カサンドラは顔を引き攣らせており、皇太子の申し出を喜んでいないのは間違いない。
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