いつかの空を見る日まで

たつみ

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第1章 彼女の言葉はわからない

つまらないことは切り捨て 3

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 あれから5日。
 
 執務に追われていても、カサンドラのことが頭から離れない。
 腹も立っていたし、不愉快でもあった。
 なのに、あの凛とした横顔が忘れられずにいる。
 
(あれが、あの女……彼女本来の姿だったのか……)
 
 平民だったカサンドラは、皇宮では、ずっとおどおどしていた。
 教育係をつけたのに、いつまで経っても礼儀は身につかず、お茶ひとつ満足には飲めずにいた姿を思い出す。
 ティトーヴァは指摘しなかったが、失敗するたびに申し訳なさそうな笑みを浮かべる彼女が不快だったのだ。
 
 顔を合わせると、カサンドラは期待に満ちた眼差しを向けてくる。
 それも煩わしかった。
 押しつけられた婚約者でしかない女に、好感など持てない。
 その上、婚約自体が、彼女の母に、父がそそのかされた結果だと思っている。
 
 だから、ティトーヴァは、自分の意思を示すため、常に距離を取ってきた。
 無用な期待はするなと伝えてきたつもりだ。
 それでも、カサンドラは期待を捨てずにいた。
 と、最近までは、そう思っていた。
 
(ほんの、ふた月……それで、あそこまで無関心になれるとは思えない)
 
 ならば、2年以上ティトーヴァに向けていた「期待」こそが偽物だったと考えるよりほかない。
 すっかり騙されていた自分が情けなくなる。
 と、同時に、カサンドラに対し、わずかな称賛をおくりたくなる。
 
 見事だった、と。
 
 おどおどしていた姿への不快感とは異なり、不愉快さはあっても、今の彼女に、不快は感じない。
 むしろ、不愉快さは自身に対するものだと、薄々は感じている。
 
 部屋を出て行くカサンドラを引きめられなかった。
 
 どう言葉をかけても、弾き返されるとわかっていたからだ。
 ある意味では、臆した、とも言える。
 そのせいで、あれこれ考えてしまう。
 
 ああ言えば良かったか、こう言えば会話を続けられたか。
 どうすれば彼女を引き留められたのか。
 
 過ぎたことを思い悩んでも無駄だ。
 わかっているのに、振りはらえずにいる。
 自分が、ひどく愚かな者になったような気もして、それが不愉快だった。
 
(俺に期待しなくなったのは……良いことだが……)
 
 あまりに極端に過ぎる。
 カサンドラは、ティトーヴァへの期待を捨てたのではない。
 完全に関心をなくしていた。
 
 話すのも顔を見るのも、うんざり。
 
 カサンドラが叩きつけてきた「無関心さ」から伝わってきた、唯一の感情だ。
 彼女は、あっさりとティトーヴァを切り捨てている。
 躊躇する様子すら見せなかった。
 そもそも関心なんて持っていなかったと判断するのに、十分な態度だ。
 
(父は、俺をうとんじていると彼女に話したのか……?)
 
 結局、謁見内容についてはわからずじまいになっている。
 だが、カサンドラは「知りたければ父親に聞け」と言った。
 そのあとも「親子関係の問題」と言い、ティトーヴァの頼みを退しりぞけている。
 
 きっと、皇帝と皇太子、父と息子の関係が良好ではないと知っていたのだ。
 
 ただぼんやり皇宮で贅沢暮らしをしている、愚かで身の程知らずな女だと思ってきたが、そうではない。
 ティトーヴァと皇帝である父の関係が思わしくないのは事実だ。
 が、知っている者は、ほとんどいなかった。
 
 皇帝に、四六時中ベッタリのセウテルは知っているだろう。
 同じく、ティトーヴァと行動をともにしているベンジャミンも知っている。
 とはいえ、あとは数人いる腹心の部下くらいだ。
 
 次期皇帝の座を狙う者は少なくない。
 そういう者たちに知られないよう細心の注意をはらっている。
 
 なのに、カサンドラは知っていた。
 
 皇帝から直に聞いたのか、ティトーヴァの把握できていない情報網があるのか。
 いずれにせよ、カサンドラが愚かではない証拠だ。
 持っている情報をあからさまにすることなく、なのに、効果的に使った。
 あの時、一瞬であれ、ティトーヴァは動揺したのだから。
 
 『放っておいてください』
 
 カサンドラの声が、耳に蘇る。
 咄嗟に「できない」と答えた。
 皇命による婚約者を放っておくことはできないと理由づけまでしている。
 だが、それは言い訳だ。
 ティトーヴァも自覚している。
 
 義務として、月に1度だけカサンドラと会ってきた。
 なんの進展もないまま2年。
 放置しているのと変わらないことぐらい、わかっている。
 
 今度は、カサンドラの、まっすぐに見つめてくる瞳が思い出された。
 めずらしくもない銅色の瞳だ。
 ティトーヴァは、それまでカサンドラを美しいと思ったことはない。
 なのに、あの時、彼を見据えてきた瞳が輝いていたように感じられたのだ。
 
「ベンジー、彼女は、どうしている?」
「ディオンヌ王女様なら、ご自分の宮におられるはずですよ」
「……は?」
「え……?」
 
 考え事をしながらも目を通していた書類から顔を上げた。
 執務机の前に立っているベンジャミンに視線を向ける。
 ベンジャミンが不思議そうな表情を浮かべているのに気づいた。
 
「いや、違う。ディオンヌのことではなく……」
 
 少し言いよどむ。
 なぜベンジャミンがディオンヌだと思ったのかを察したのだ。
 
 ティトーヴァは「彼女」と言った。
 
 カサンドラのことは、ずっと「あの女の娘」とか「あの女」といった言い回しをしている。
 当然、名を呼びもせずにいた。
 自分の言動で、いかにカサンドラをないがしろにしてきたかを、改めて知る。
 
 ほかの者の前ではともかく、ベンジャミンには、カサンドラに対しての嫌悪感や憎悪を露わにもしてきた。
 ティトーヴァが「彼女」と言えば、ディオンヌのことだと思うのが自然なのだ。
 事実、今までは、それで間違いはなかった。
 
「もしや、あの女……カサンドラ王女のことですか?」
「まあ、そうだ……」
「気になっておられるようですね」
 
 言われて、少し焦る。
 カサンドラを気にしていると指摘されたのが恥ずかしかった。
 今まで、散々、こきおろしておいて、突然「気になる」だなんて滑稽に過ぎる。
 
 それに、カサンドラとは、母親同士の因縁もあった。
 カサンドラを認めるのは、母を貶めることに繋がりはしないだろうか。
 
(しかし……思えば、彼女と母親は関係ない、か。彼女が、なにかをしたわけではないのだからな)
 
 母親の罪を娘に負わせるのは理不尽だったかもしれない。
 
 初めてティトーヴァは、そう思った。
 婚約にしても、カサンドラには、どうにもできないことだ。
 思い返すと、カサンドラは、なぜかティトーヴァには、なにも要求せずにいる。
 
 贅沢三昧しているのに、ただの1度も宝飾品をねだったことがない。
 なんだか奇妙な矛盾を感じた。
 
「謁見で継承権の話が出なかったとは言えませんし、気にされるのもわかります」
「え……あ、ああ……そうだな」
 
 ベンジャミンの手前、うなずいておく。
 カサンドラ自身が気になっていた、とは言えなかったからだ。
 自分の中でも、まだ整理がついていない。
 たった1日のことで、カサンドラへの認識が変わってしまっている。
 
 ティトーヴァは、すくっと立ち上がった。
 この2年の姿が偽りだったのなら「本物の」カサンドラと話がしたい。
 
 無関心さを叩きつけられ、自分のとってきた行動が正しいものだと言い切れなくなっている。
 歩み寄る努力をすべきだったのではないか、と。
 
(母を引きめられず、父に認められず……だが、父に反抗することもできず……そういう自分への腹立たしさを、彼女にぶつけていたのかもしれない)
 
 謁見内容については、後回しでいい。
 まずはカサンドラとの話し合いが先だ。
 正当な理由があると思っていたから、カサンドラを憎めた。
 が、その正当性が揺らいでいる。
 
 そして、カサンドラ自身を知らなければ、この得体のしれない「矛盾」も、解消できない気がした。
 カサンドラの母がどうであれ「彼女自身」を見極める必要がある。
 
「どちらに?」
「別宮だ」
「え……っ?」
 
 ベンジャミンが驚いたような声をあげていたが、足は止めない。
 ティトーヴァの頭には、あの凛とした横顔だけが思い浮かんでいた。
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