いつかの空を見る日まで

たつみ

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第1章 彼女の言葉はわからない

擦過の思惑 1

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「それは私に、死ね、ということですね」
「は……?」
 
 彼女は、貧相なカップを取り落としそうになる。
 貧相とはいえ陶器でできた食器は少ない。
 割ってしまったら、調達が面倒だ。
 
「私が、無能な役立たずであるため、用無しであると。むしろ、足手まといにしかならないのなら、死ね、ということですね」
 
 しばし茫然。
 
 だが、フィッツの髪と同じ薄金色の瞳には「本気」と書いてある。
 真剣に真面目に言っている。
 もとより、フィッツは冗談なんて言わないし。
 
「そんなこと、ひとっ言も言ってませんけど?」
 
 フィッツは無能どころか有能だ。
 手に入りにくい食材の調達から料理に掃除と、至れり尽くせり。
 文句のつけどころがない。
 このボロ小屋でも快適に過ごせているのは、フィッツあってのこと。
 彼女も家事はできるが、食材の調達や防衛的な対処はできないのだ。
 
 届けられる食材に紛れている「毒入り」は、すべてフィッツが見抜いている。
 でなければ、ただの半月も無事ではいられなかっただろう。
 命までとられることはなかったかもしれないが、体に不調はきたしていたはずだ。
 
 良くも悪くも、彼女は「せい」に執着がない。
 
 苦しかったり、痛かったりするのは嫌だと感じている程度だ。
 ただし、生きることに執着はなくても、自ら死ぬ気もない。
 今、生きているのは成り行きであり、すぐさま逃亡できない状況だからだった。
 
 なによりフィッツのおかげ。
 
「自由に生きていいって言っただけだよね」
 
 それが、なぜ「死ね」と言ったことになるのか。
 フィッツの頭の構造が、彼女には理解不能。
 有能なのに、人間関係における理解力が不足しているのではなかろうか。
 
「自由にしろというのは、すなわち、姫様のおそばには不要の者という……」
「違うから。極端過ぎ」
 
 一緒に過ごす中で、フィッツが「そういう人」だとは、なんとなく理解した。
 カサンドラのためなら、なんでもする。
 命すら己のものだと思っていない。
 カサンドラが、死ねと言えば、躊躇ためらいもせず命を絶つはずだ。
 
 彼女は、テーブルに肘をつき、ごわつく焦げ茶の長い髪をかきあげる。
 フィッツとは、価値観が違うという以上に、生きかたそのものが違い過ぎた。
 見た目が良く優秀、従順で忠誠心にも厚いし、自分の手足として使うには、これほどいい人材はいないけれども。
 
「あんたには、自分のしたいことってないの?」
「私のしたいことは、姫様をお守りし、その暮らしを支え、いかに快適に……」
「もういい。わかった」
 
 フィッツが、座ったままでも、胸に手を当て会釈する。
 しばしばフィッツは、こうした仕草をするのだ。
 儀礼的なものではなく、心からカサンドラを敬っている。
 
 厄介なことに。
 
 正直、重い。
 重過ぎて、お祓いをしたくなるレベルだ。
 背中になにか憑りついている感覚とは、こういうものかもしれない。
 できれば、フィッツには、自分になど関わらず「自由」に生きてほしいが、この様子では、とても期待できなかった。
 
(悪い奴じゃないのは、わかってる。でも、人ひとりの命を背負わされるのって、どうよ? しんどいって……)
 
 心でだけ、思う。
 フィッツの今後については先送りにして、話題を変えることにした。
 また「死ね」と言っているだなんて誤解をされてはかなわないからだ。
 
「ところで、フィッツ。私は、この生活を続けようとは思ってないからね」
「はい。姫様のお心のままに」
「当然、いつまでも、ここにいる気もない」
「いつでも、ご出立できるようにしておきます」
 
 その「出立」には、フィッツも含まれるのだろう。
 カサンドラと離れることを考えているとは思えない。
 なにしろ「自由」イコール「死ね」なのだ。
 彼女の予定にはなかったことだが、いたしかたないと諦める。
 
「あの馬鹿もさ、大人しくディオンヌと婚姻すればいいと思うんだよね」
「皇命には逆らえないのでしょう」
「それで、私に八つ当たりするのは筋違いじゃない。自分の腰抜けさを人のせいにしないでほしいよ。そのせいで、ディオンヌに目の敵にされて、いい迷惑だわ」
 
 ディオンヌは皇太子の従姉妹で、最も近しい女性だった。
 きっと皇后になるのは自分だと思っていたに違いない。
 純粋な好意からなのか、地位や身分が欲しいからなのかはともかく、その立場が失われるとは思ってもみなかっただろう。
 2年前までは。
 
 ディオンヌは、当時、今のカサンドラと同じく18歳。
 皇太子妃として迎えられてもおかしくない歳だ。
 そこに、いきなり見知らぬ女が割り込んできた。
 
 しかも、王女と言っても、すでに滅んだ名もなき国の王女。
 あげく、生まれながらに平民として暮らしてきた女。
 
 気に食わなくて当然に思える。
 もちろん、だからと言って「毒混入」は、やり過ぎだし、同情で賄えるほど彼女の許容量も大きくはない。
 
「ならば、壊してしまえば良いのでは?」
「フィッツ……」
「申し訳ございません。姫様が手をくだされずとも、私が殺……」
「いや、そうじゃない」
 
 きょとんとした顔をするフィッツに、目を細めてみせた。
 つくづくと「環境が悪い」と思わずにはいられない。
 
「簡単に、人を壊すだの、殺すだの言わないでよね。私は、面倒なことはせずに、気楽に暮らしたいだけなんだから、よけいなことはしない」
「わかりました」
 
 だいたいディオンヌに好き放題を許しているのは皇太子だ。
 奴が、1度でも、自ら「婚約者」の元に足を運んでいれば、カサンドラの状況に気づけた。
 その、たった「1度」がなかったがために、2年もの間、皇太子はディオンヌのしていることを知らずにいる。
 
「事実と真実が違うってこともわからない、馬鹿なんだよ、あいつは。周りの言うことが、全部、事実だと思ってるなんてさ。井戸の蛙も真っ青だわ」
「井戸の蛙ですか」
「外を知らない、お坊ちゃまだってこと」
 
 ディオンヌの、カサンドラに対する仕打ちを誰も皇太子に報告していない。
 それどころか、メイドのみならず護衛騎士も含め、皇宮中が示し合わせ、隠しているのだ。
 知らないのは皇太子のみ、というのが滑稽で笑える。
 
「事実ってのはエビデンス……証拠がある。でも、真実に証拠はいらない。本人が思うことが真実だもの。その区別もつかないから、馬鹿だって言ってんだよ」
 
 フィッツが、納得顔でうなずいていた。
 彼女は頬杖をついたまま、訊ねる。
 
「フィッツは、わかってんの?」
「理解しています」
「ホントに?」
 
 こくり、とフィッツがうなずいた。
 真面目くさった顔で言う。
 
「たとえば、本日、私は姫様と夕食をとりました。これは事実です」
「そうだね」
「ですが、私が姫様ととった夕食は貧相なものでした。これは真実です」
「お~、優秀~。その通りだよ。私は、豪華だと思ったもんね。実は、魚より肉が好きでさ。肉が出て来ると、反射的に豪華って思う。これが、今夜の夕食における私とフィッツの真実の差。事実は揺るがないものだけど、真実には個人差がある」
 
 カサンドラの待遇も、こうした「真実」によって隠蔽されている。
 事実は、カサンドラがボロ小屋で暮らしている、ということ。
 だが、ディオンヌらの真実は「カサンドラは皇宮で暮らしている」だ。
 ディオンヌが、カサンドラに、立場とは見合わない扱いをしているのが事実。
 とはいえ、ディオンヌにとっては「十分な衣食住を与えている」のが真実。
 
「周り中に裏切られているというのに、本当に気づいていないのでしょうか?」
「気づいてないね。疑うことを知らない純真な人なんじゃないの?」
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「同情する?」
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 真実は、自分にとってのみ重要であるべきだ。
 人は、それぞれ違うから。
 
「ま、あと少しの辛抱なんだしさ。それまで大人しくしててよ、フィッツ」
「姫様の仰せのままに」
 
 そっけない彼女の口調にも、フィッツは、いかにも恭しく会釈をする。
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