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第1章 彼女の言葉はわからない
日々どうでもいいことばかり 4
しおりを挟む「仰る通りです、姫様」
薄暗がりの中でも、己の主が振り向いたのが見える。
暗闇でも視界を失わないための施術を受けていた。
「私は姫様じゃないって、何回も言ってるよね?」
「聞いていますが、私にとって姫様は姫様です」
「私の話を理解した上で、返事してんの? フィッツ」
彼の名は、フィザルド・ティニカ。
だが、その名を使った記憶がない。
物心ついた頃には、すでに「フィッツ」と呼ばれていた。
呼ぶのが主以外いないと言っても差し支えないほど、フィッツの本名は知られていないのだ。
薄金色の短髪に、同じ色の切れ長の瞳。
高い身長と、精悍な顔立ちをしているが「必要がある時」以外は、無表情。
そろそろ冬支度に入ろうかという時期にもかかわらず、灰色の半袖シャツと茶色の薄っぺらいズボンという格好をしている。
王女の従僕としては貧相極まりないが、フィッツは、なにも気にしていない。
「おそらく、理解しています、姫様」
「理解してるのに直さないってほうが、タチ悪い」
「恐れ入ります」
「褒めてないよ」
フィッツは胸に手を当て、会釈してみせる。
そうは言われても、姫様は姫様であり、それ以外の何者でもない。
少なくともフィッツにとって、カサンドラは姫なのだ。
ラーザの女王の娘であり、ヴェスキルの名の後継者。
代々、ラーザ国を統治してきたヴェスキル王族は、今、フィッツの目の前にいるカサンドラだけになってしまった。
そして、ティニカ家は、ヴェスキル王族のためだけの存在とされている。
当主は2番目に有能な者が務め、最も有能な者は王族を守護し、世話をするのだ。
フィッツは、女王のフェリシアが行方知れずになったあとに、生を受けた。
だが、女王の不在とは無関係に、ティニカの教えのもと、育てられている。
初めて「仕えるべき主」の話を聞いたのは、3歳の時。
その頃まだカサンドラは産まれてもいなかった。
「お食事にしますか?」
「用意してんでしょ?」
「整えています」
「抜かりないね」
フィッツは、カサンドラに再び会釈してから、明かりを灯した。
皇宮にあるような眩しい光を放つ照明器具ではないが、ほんのりとした暖かみのある明かりを提供してくれる。
どんよりとした雰囲気が消え、室内の視界が良くなった。
嵐が来れば壊れそうな小屋には、4つの部屋がある。
寝室に浴室、居間、それと食堂兼調理室。
どの部屋も狭かった。
小屋全体の広さをしても、皇太子との「面談」に使われる、ひと部屋分もない。
カサンドラの後ろに立ち、食堂に向かう。
簡素な木のイスを引き、カサンドラが座るのを待った。
同じく木のテーブルは、「危険」がないよう磨き上げている。
長く放置されていたらしきそれは、傷だらけで、あちこちに木のめくれがあり、いつ棘が刺さるかわからない状態だったのだ。
フィッツは、準備してあった食事をテーブルに並べる。
とはいえ、食材に限りがあるため、豪勢な夕食とはいかない。
スープにパンとサラダ、それにもう1皿。
メインとなる肉料理だったが、厚みのない小さな鳥肉だ。
食材は、5日に1度しか届けてもらえなかった。
しかも、2人分とするには不十分な量しか「配給」されない。
当然、新鮮なものなど与えてもらえずにいる。
そのため、肉や魚は、フィッツが独自で調達していた。
「また私の分だけ? あんたのは? フィッツ」
「私は、3日に1食で体力を維持できます」
「そういうことじゃない」
銅色の目で、きろっとにらまれる。
主の食事が優先されるのは、フィッツには、あたり前の状況だ。
特に食材が乏しい時に、己の食事に構ってはいられない。
だから、「そういうことではない」の意味がわからずにいた。
「あんたは平気でも、私は嫌なんだよ。自分だけ食べてるなんてのはね」
「私のことは、お気になさらず。姫様は、御身のことだけを考えてください」
「無理」
ひと言のもとに言い切り、カサンドラが、料理の盛り付けを変え始める。
ちょうど半分ずつになるよう、料理を乗せ換えていた。
それが終わると、その「半分」をテーブルの向かい側に押しやる。
「フィッツが食べたら、私も食べる。食べないなら、私も食べない」
「しかし、姫様……」
「あんた、私にひもじい思いをさせたいの?」
サッサッと、カサンドラが手を振った。
向かい側に座って食事をしろ、ということのようだ。
しかたなく、フィッツは「命令」に従う。
カサンドラの言う通り、主に「ひもじい」思いはさせられない。
そのように教育されている。
「いい? 今度から、私が食べる時には、フィッツも食べる。わかった?」
「わかりました」
カサンドラが、大きく溜め息をついた。
なにか気分を害することをしたのかもしれないと思う。
だが、主を最優先とするのが「ティニカの教え」なのだ。
フィッツは、そういう生きかたしか知らない。
顔も知らない主のためだけに「生きろ」と言われて育ったのだ。
実際に、フィッツがカサンドラに会ったのは、6年前。
15歳になった年、ひっそりと帝国の裏街で暮らしていたラーザの女王と王女の元に辿り着いた。
女王から仕える許しを得て以来、フィッツは王女から片時も離れずにいる。
「それにしても、あんたの忠誠心って、どこに宿ってるわけ?」
「忠誠心とは宿るものなのですか?」
「普通は、そうなんじゃない? 忠誠心ってさ、恩や義理があったり、尊敬する人だったりするから、いだけるものなんじゃないの?」
「私には、わかりません」
自分が食事をしなければ、カサンドラも食事に手をつけない。
主に食事をさせるため、フィッツは料理を口にする。
次回からは、調達する食材の量を増やすことにした。
でなければ、カサンドラの食事の量が減ってしまう。
「私、話しかたも仕草も半月前と、全然、違うよね? なのに、気にならない?」
「なりません」
「見た目だけの判断で、忠誠心をいだけるってのが、不思議でしかたない」
「見た目だけではないですよ」
カサンドラの瞳が、わずかに揺れた。
確かに、彼女は半月ほど前とは驚くほどに人格が変わっている。
大人しく物静かで、慎ましく丁寧に語るカサンドラとは、まるで違った。
けれど、フィッツには、ほとんど意味がないのだ。
「私は、姫様を知る前から、お仕えしていました」
「でも、6年も仕えてきたんでしょ? なにか思うところはないの?」
「ありません。姫様は姫様です」
カサンドラの外見や人格は、フィッツの生きかたに影響を与えるものではない。
彼女は、ヴェスキルの名を継ぐラーザの王女だ。
血の1滴、肉の一片にまで、それは刻み込まれている。
それが、フィッツの忠誠心の向かう先だった。
量の少なくなった料理は、すぐに腹の中におさまってしまう。
フィッツの皿が空になるのと、ほぼ同時に、カサンドラの皿も空になる。
いったん皿を下げ、後片付けは後回しに、食後のお茶を用意した。
カサンドラの言いつけ通り、今度は2人分だ。
「国はなくなってるし、女王も死んだ。私は、姫様じゃない」
ラーザは滅んだ。
国の名は、地図から消えている。
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ラーザは領土に非ず、民自身である。
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ラーザに想いを馳せるフィッツに、カサンドラが呆れたような口調で言った。
「私は姫様じゃないし、女王になる気もない。だから、フィッツ。あんたも、もう自由になれば? 自分の人生を生きなよ」
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