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 石造りの通路は、やがて上りの階段になっていく。
「この先は、私兵たちの控え室になってるみたいだから、気をつけて。たぶん、さっき、有子が落ちてくる途中で悲鳴をあげたから、私兵に加えて魔術師も来ているかもしれないし」
「でも、何で廊下の壁が、いきなり忍者屋敷みたいに裏返るのよ? この別荘、マジで意味不明なんだけど……」
「もともと、この別荘を作った貴族が、相当な趣味人でさ。スパイ小説にもハマってて、回転する壁なんか作っていたらしいのよ。作った当時は、回転する壁の向こう側にも隠し部屋があったんだけどさ、ウダーイがこの別荘を買い取って改築した際に、建て増しして牢屋を作るのに、隠し部屋を無くしちゃったみたいなのよ。以来、屋敷内に賊が入ってきたら、壁にもたれた際に発動する罠として使われてるんだって。まあ、別荘の私兵や魔術師には、周知されてるんだけどね」
 有子は今さらながら、冷や汗が出てきた。罠が用意されているということは、当然、この先に敵が待ち伏せしているということだ。
「アタシが念を拾ってみた限り、控え室には十数人の私兵がいるわね。魔術師も一人いるみたい。突破するなら、策を練らないと」
 エッちゃんは目をつむって、少し考えこんでしまう。再び目を開くと、うずくまって必死で何かを念じていた。同時に、階段の上の控え室で、「うわあっ!」だの「何をする?」だのという怒号が聞こえ始めた。野太い男の声ばかりなので、おそらく私兵たちが何者かに攻撃されているのだろう。そのうち、鎧ごしに肉を斬り裂くような音が聞こえ、「手こずらせやがって……いきなり、どうしたんだ?」などといぶかしむ声も聞こえる。
 私兵たちは一息つくかと思われたが、次から次に、剣が打ち合わされる金属音や、「何をする?」という怒号が聞こえてくる。三十分ほどたって、全く怒号や音が聞こえなくなってから、エッちゃんは念じるのをやめ、立ち上がったが、全身にびっしょりと汗をかいており、立っているのも辛そうだ。
「……もう扉を開けて良いよ……。中の私兵や魔術師は、アタシが全滅させたから……」
 有子が恐る恐る控え室の扉を開けてみると、室内は血の海だった。強烈な血ののにおいに、むせかえりそうになる。室内には、十数人の遺体が転がっていた。テーブルやいすは派手に倒され、床には純度の低い果実酒の瓶やコップ、つまみの豆の皿が散乱している。
「……アタシが私兵を一人ずつ操って、他のやつらを攻撃させたのよ……。その一人が倒されたら、次の一人を操ってさ……。最後の一人には、敵と相討ちになってもらったわ……。まあ、ただでさえ疲れる魔法を、これだけ何度も使ったから、今日はこれ以上は使えそうにないけどね……。アタシはもう、立っているのもやっとだから、後は有子がアタシを連れてって……」
 苦しそうなエッちゃんを肩で背負うと、有子は控え室を出て、再び廊下へ出た。エッちゃんは精根尽き果てたとみえて、眠りかけているのか、体がやけに重く感じられた。廊下では、エッちゃんがレーム子爵家や従者の念を拾い、分かれ道に出くわすたびに、どちらへ進めば良いか指差してくれる。エッちゃんが私兵や魔術師の念も拾って、敵の位置をだいたい把握しているためか、しばらくは敵に出くわさずに済んだが、レーム子爵家の部屋まで後一区画というところで、運悪く私兵に出くわしてしまった。
「貴様か。今まで仲間をさんざん殺してくれたのは……」
 私兵たちの顔には、怒りの色がみてとれた。もっとも、怒りでは、有子も負けていない。
「何よ? あんたらだって、ウダーイがエッちゃんを凌辱しているときに、止めようともしなかったじゃないの! あたしなんて、ウダーイに虎に食わされかけたんだよ! あたしやエッちゃんにはやりたい放題やっても許されるのに、自分らが傷つけられるのは許せないってわけ? 勝手だわ!」
 思わず、ハァハァと息を荒げるほど、一気にまくし立ててしまう。エッちゃんが傷つけられると、ここまで怒ることができるのかと、自分でも驚いた。もっとも、私兵をかきわけて魔術師が現れたときには、怒りが恐怖に転じてしまったが。
「ほう、誰かと思えば、わしがベオグラード遠征軍の第三軍にいたときに出くわした大天使か。あれだけの火の魔法を浴びせられながら、よく五体満足でいられたものだ。神の加護でもあるのかな……? まあ良い。あのときは、宗教裁判にかけるために、貴様を生け捕れという命令が出ていたから、魔法を加減せざるを得なかったが、今回はその必要はなさそうだ。貴様は釈明もせずに脱獄したことで、罪が重くなり、宗教裁判にかけなくても死罪が確定したからな。同時にレーム子爵家の侍女という立場でありながら、ウダーイ殿下の私兵を殺したことで、レーム子爵家を罰する口実ができた後だからな」
 魔術師はニタニタ笑いながら言う。その両手には、炎の魔法が赤々と燃えていた。こうして話している間にも、炎はますます大きくなり、夜の廊下を明々と照らしている。
「どうした? こないなら、わしからいくぞ!」
 魔術師の両手から、大輪の炎が有子めがけてほとばしる。膨大な熱量が伝わり、周囲にいた私兵たちまでもが、「熱いッ!」などと叫んで逃げ出すほどだ。以前よりも熱い空気の圧に、有子はエッちゃんもろとも後方に吹き飛ばされる。有子が熱風で呼吸もままならないうちに、魔術師は一歩ずつ、有子に向かって距離をつめてくる。有子は完全に戦意喪失し、歯がカチカチと鳴る始末だった。エッちゃんは既に目を開ける気力も無いとみえて、有子の腕の中でグッタリしている。
「ふっ、たわいもない。いくら大天使と呼ばれていても、しょせん、ただの小娘か。せめてもの慈悲だ。苦しまずに殺してやろうぞ」
 魔術師は右手を有子に、左手をエッちゃんに向ける。両手には大きな炎が赤々と燃え上がっていた。有子も今度こそはおしまいだと、目をつむった。そのとき――。
「こらぁ、おぬし、我が家の侍女たちに何をするか!」
 いきなりレーム子爵の声がしたかと思うと、肉を裂く音がして、鮮血が床にぶちまけられる音がする。有子が恐る恐る目を開けると、何とレーム子爵が魔術師の脇腹に剣を突き刺しているではないか。もちろん、レーム子爵自身も無傷では済まず、上着やワイシャツやズボンは焼けこげており、顔や両手にはやけどができて、ただれている。おまけに魔術師の返り血を浴びており、壮絶な姿となっていた。ただし、魔術師もすぐにレーム子爵を蹴飛ばして払いのけると、飛びすさって距離をとる。脇腹には剣が刺さったままで、鮮血があふれてきている。
「貴様……不意をついたとはいえ、このわしに剣を突き刺すなど、ただ者ではないな」
 魔術師は脇腹をかばいながら言う。傷は深く、しゃべるのも辛そうだ。
「そりゃあ、ワシとて、若い頃から戦場で剣や槍を振り回してきた身だ。全ては、今は亡き妻と、娘のゾフィーを守るためだった。そんなワシでも、丸腰なうえに、数人の私兵どもに見張られていては動きようがなかったが、先ほどから急に私兵どもがこの区画へと移動し始めたのでな。ゾフィーには、いざとなったら護身術で身を守るように伝えおき、部屋の扉を体当たりで破って、一人でここへ来てみれば、私兵が落としていった剣が落ちているではないか。炎であぶられて熱かったが、あえて握り締めて、おぬしに突き刺したのだ。さあ、観念して降参せよ。その傷では、さっさと手当てせねば、手遅れになるぞ」
 もっとも、レーム子爵のほうも、立っているのも辛そうだ。有子とエッちゃんを救うために、必死で虚勢をはっているのだろう。だが、魔術師が降参するそぶりも見せず、レーム子爵に向けて炎をほとばしらせようとしているのを見ると、レーム子爵は有子に向き直って、必死の形相で言った。
「ユウコにエイコ、頼みがある。この先の区画にゾフィーがいるはずだから、ゾフィーと合流して、別荘から脱出してくれ。ワシはこの魔術師を倒してから行く」
 有子は、レーム子爵は魔術師と刺し違える気だと悟った。レーム子爵の慈愛に満ちた瞳が、そのことを雄弁に物語っている。そうこうするうちに、魔術師は炎をほとばしらせてきた。脇腹の傷のせいか、先ほどより威力は落ちているが、それでも直撃すれば、無傷では済まない。
「さあ、早く行け! ワシがまだ健在なうちに!」
 その言葉を最後に、レーム子爵は床に落ちていた二つ目の剣を拾うと、魔術師めがけて突っ込んでいった。有子はエッちゃんを背負うと、ゾフィーのいる区画を目指して駆ける。
 走っているうちに、ゾフィーはすぐに見つかった。有子はエッちゃんとゾフィーと抱き合って、再会を喜び合った。幸い、ゾフィーが貴族令嬢のためか、凌辱された跡は見られない。レーム子爵が魔術師に立ち向かったことを伝えると、ゾフィーは「お父様……わたくしのために、何ということを……」と、しばらく泣いていたが、すぐに気をとりなおすと、「従者たちも救いに行きましょう」と駆け出した。
 といっても、従者たちの牢屋のある区画に行くためには、先ほどの魔術師がレーム子爵と戦っている区画を通らねばならないが、そこを通るのは危険すぎるため、エッちゃんの指示で庭園に出て、庭園を横切って牢屋のある棟に向かった。やがて、棟の入口が見えてくるが、そこには頭のはげた長いひげの長身の男が、上着やワイシャツなどの貴族の礼服を着て立っている。傍には数人の私兵がいた。
「あれは、ハイラッラー侯爵です。あの男は剣の腕だけでなく、魔法も多少は使える魔法剣士です。手ごわいですよ」
 ゾフィーの説明の通り、ハイラッラー侯爵の眼光は鋭く、いかにも腕が立ちそうだった。
「ふっ、たかが小娘どもとあなどっておったが、まさか本当にここまで来るとはな。ただ、貴様らは大変な間違いを犯した。わずか三人の従者を助けるために、ワタシが警備している獄舎まで来てしまったんだからな。あくまで令嬢を助けるのが最優先で、従者などは見殺しにしても良かったろうに。さあ、剣のさびに変えてやろうぞ」
 言うが早いか、ハイラッラー侯爵は剣を一振りした。剣の先から衝撃波がほとばしり、地面に亀裂が入っていく。有子たちは横に飛びすさってよけたが、衝撃波は次々にほとばしり、地面に亀裂を入れていく。
「ははは……。どうした? 防戦一方では勝てんぞ。少しは反撃してこぬなら、ワタシも面白くないではないか」
 ハイラッラー侯爵の哄笑が響き渡る。もっとも、有子とて魔素を使った反撃の糸口を探ろうとしていたが、有子の周囲に魔素が全く見当たらないのだ。おそらく、ハイラッラー侯爵が、全ての魔素を自分の周囲に集中させているのだろう。
「貴様、どうやら魔素に頼りすぎたようだな。自分の周囲に魔素が無いか、確かめているのが、ここから見ても丸わかりだぞ。見るからに新米の魔術師だな。なら、これはどうだ?」
 ハイラッラー侯爵は有子めがけて、巨大な水流の渦をほとばしらせる。とっさのことなので、有子も白い光で全身を覆って水流の直撃を避けたが、水流に呑み込まれ、閉じ込められてしまった。せめて水から顔だけは出して呼吸しようとするが、水は有子を中心へと引っぱるので、それさえもできない。
「ほう、バカの一つ覚えのように、魔素を使うだけではないのか。思ったよりやるな。だが、この水流は貴様を何時間でも包み込んで、呼吸を遮断するぞ。果たして、何分もつかな?」
 有子は限界に近かった。白い光は有子の顔を包み込んで、空気を供給してくれるが、徐々に小さく薄くなっていく。有子の魔力が衰えていっている証拠だ。
「子爵令嬢、貴様もさっさと降参して、はいつくばればどうだ? 父の子爵が同行していないところを見ると、貴様の父は、もう生きているかどうかもわからんだろう。クチャーイを擁立しようとするレーム子爵の志は、露と消えたわけだ。貴様もワタシに忠誠を誓うなら、妾ぐらいにはしてやっても良いぞ」
「無礼な! 上級貴族である侯爵の吐く言葉とも思えませぬ。わたくしは妾にはなりませぬぞ。あなたに媚びへつらって生きるぐらいなら、死んだほうがマシです」
 既に別荘は火に包まれていた。火元は、魔術師とレーム子爵が戦っている区画だ。有子のいる区画にも火が回り始めている。そのうち、上方の渡り廊下が火に包まれて、燃えながら有子の上に落下してくる。ものすごい轟音をたてて落ちてくると、火の熱で有子の周囲の水をほとんど蒸発させて水蒸気に変えてしまった。有子は「ケホッ……ケホッ」と言いながら、ずぶぬれの体を起こす。
「何たる悪運の強いガキだ。だが、二度目はないぞ」
 ハイラッラー侯爵は二回目の巨大な水流を飛ばしてくる。
「おあいにくさま。二度も同じ手はくわないわよ!」
 有子は水流を後ろに走りながらよけると、白い光を思いっきり増幅させて、ハイラッラー侯爵に向けて発した。ハイラッラー侯爵は、水流で有子をとらえられないうちに、水流を発している右手を白い光で覆われてしまい、右手が消滅してしまったのだ。おまけに、私兵のうち二人が、白い光に巻き込まれて消滅してしまった。
「ぎゃああああっ……! あ……熱い……!」
 ハイラッラー侯爵は思わず座り込んでしまい、悲鳴をあげる。有子の魔法の威力を初めて見た私兵たちは、全員が恐れをなして逃げ出してしまった。それでもハイラッラー侯爵は、左手で有子に水流を飛ばそうとするので、有子はホッとしたところで虚をつかれて、再び水流に呑み込まれた。
「へっ、ぬかったな、小娘。今度こそ、剣のさびに変えてやる……」
 だが、言い終わらぬうちに、ハイラッラー侯爵は後頭部を大きなレンガの残骸で殴られた。レンガはところどころが、落下の衝撃で砕かれてとがっているので、後頭部は裂けて派手に血が流れる。
「誰だ?」
驚いて振り向くと、殴ったのはゾフィーだ。ハイラッラー侯爵が水流を飛ばしている間に、ゾフィーが上方から落ちてきた渡り廊下の端の残骸をつかみ、ハイラッラー侯爵を殴ったのである。まだ熱いレンガなので、つかんだゾフィーの両手はやけどをしてしまったが、何度もレンガを振り下ろすことで、ハイラッラー侯爵の頭蓋骨を割るのには充分だった。ゾフィーが疲れ果ててレンガを落とす頃には、ハイラッラー侯爵は倒れてしまい、間もなく出血多量で絶命した。同時に有子の周囲を覆っていた水も消滅する。
「……あ……熱っ……。わたくしの両手の皮がむけて、ひどいことになってますわ。慣れないことは、するものじゃありませんね……。でも、護身術を習ったことで、筋肉がついていたからこそ、わたくしにもできる攻撃があったのですわ……」
 ゾフィーの両手は、熱のために皮がほとんどむけて、肉が露出していた。有子はポケットからハンカチを取り出すと、ゾフィーの手に包帯代わりに巻いてやった。こうして、三人の従者たちも、牢屋に火が回る直前に救出されたが、火災が収まった後で焼け跡を探していると、レーム子爵が魔術師と折り重なるようになって死んでいるのが発見された。ウダーイは、火が出ると同時に、さっさと馬車で別荘を離れていたので無事だった。
 一方、ハイラッラー侯爵については、私兵たちが途中で逃げてしまったこともあり、殺害の瞬間を見た者がいないので、火災に乗じて侵入した賊によって殺されたことにされた。後に有子が知ったことだが、ハイラッラー侯爵は性格がかなり悪く、いつも私兵たちをこき使ったり、つまらない理由で処罰したりしていたので、私兵たちの評判は、すこぶる悪かったのだ。おまけに、戦災孤児であった者の少なくない私兵たちには、「孤児への支援は、貴族には無駄な負担だ」と言って、孤児院への寄付をしたがらないハイラッラー侯爵に不満を抱く者も多かった。
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