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【閑話】この中に裏切り者がいる─アンジェロ
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星の神の神託がステラフィッサにもたらされた日────
ふたつ並んだ棺を前に、どうしてこうなってしまったのか、これからどうなっていくのか、言い知れぬ不安を感じていても、アンジェロはそれを言葉にすることはできなかった。
誰よりも暗い闇を抱えた父の、公爵の背中に、語りかける言葉が見つからなかった。
***
八歳の年に、アンジェロには婚約者ができた。
かねてより予定されていた縁組ではあるが、妹が第一王子の婚約者に決まると同時に、兄であるアンジェロの婚約も推し進められる形となった。
その頃公爵家は妹の下にも優秀な養子を迎え、アンジェロの代になってもガラッシア家の盤石の地位は揺るぎもしないだろうと思われていた。
……ボールが坂道を転がるように、幸せに満ちていたはずのアンジェロの人生が急転したのは、このすぐ後だった。
目の前で母が息絶えていったあの日のことを、未だに夢に見続けている。
婚約者の邸宅の庭で、温かく眩い時間は、突如現れた暴漢にズタズタに引き裂かれた。
母のドレスが血に染まっていくのを呆然と見ていたアンジェロに、暴漢は次いで刃を向けてきた。
ギラギラと憎悪に満ちた視線に身動きも取れず、側にいた婚約者を押し退けるようにナイフが走り、その肩に深い傷を負わせた。
それでも恐怖で動けないアンジェロと、倒れ込んだ婚約者を庇うように、侯爵夫人が二人に覆いかぶさり、あとはもう何も覚えていない。
ただただ重苦しい葬儀に並びながら、白い棺の中に眠る人が朝焼けの女神のようだと讃えられていた自分の母親だとは信じられなかった。
手を繋いでいた妹は、その日から隠されるように姿を見せなくなった。
葬儀に義弟は出席させられず、公爵家の邸の隅に追いやられていた。
その義弟に差し伸べる手を、アンジェロは持っていない。
何もかもなくなった。
優しい父母も、可愛い妹も、もうこの邸では見られないのに、この前まではいなかった他人の子がぽつりとその場に蹲っていても、アンジェロにはかける言葉がなかった。
その後、自分を庇い、背中に大きな傷を負ったという侯爵夫人と婚約者を見舞い、自分が持っているものはすべて欠けてしまったのだと再確認した。
婚約者を大事にしようと思うのは、傷を負わせてしまったという責任感から。
労ろうと思うのも、義務感。
誰かを愛おしいと思う心が、アンジェロからは欠けてしまったのだ。
***
長じるにつれ、アンジェロは自分に期待される役割をこなすことしか考えなくなった。
父の公爵は自分を顧みない。
妹だけが彼のすべてだ。
鳥籠に閉じ込められて人形のように扱われる妹が果たして幸せなのかはわからないが、自分が口出しできることではないのだとアンジェロは自分に言い聞かせていた。
……時おり、義弟が何かを鳥籠に持って行っているのは知っていた。
鳥籠から出られない妹のために、空を、花を、蝶を、色とりどりのものをそのまま切り取って写した絵画のようなものを、人がいないのを見計らってせっせと部屋の扉の隙間から差し込んでいるようだった。
そんなことをしても、妹はきっと何も慰められないのに。
ある時、その様子を覗いていると、妹が何かを言ったらしい。
義弟の肩が驚いて跳ねた。
義弟は、小さく「ごめんなさい」とだけ呟いて、鳥籠の前から逃げ出して行った。
それからも、二人には何かやり取りがあったのかも知れないが、アンジェロは気にすることを止めた。
誰に咎められても義弟が鳥籠を気にかけることをやめられない代わりに、アンジェロは、自分自身すら傷付ける情というものを、完全に手放してしまった。
***
それまでまだ留まっていたはずの父の様子が一変したのは、アンジェロが学園のニ年に進級した頃だった。
八年前、母を亡くした時のような暗く深い穴が、また公爵家に大きな口を開いたように、父の雰囲気が変わった。
あの頃、多くの貴族家やそれに連なる商人が消えた。
すべてガラッシア公爵の仕業だという噂が流れていたが、噂は噂のまま、ひととおりの人物が消えると血生臭い空気はいったん落ち着いていたのに。
妹の身に何かあったのだ。
父の手から大切な宝物が理不尽に奪われる時、すべて道連れにして飲み込もうとする闇が現れる。
八年前は妹の存在で首の皮一枚繋がっていたものが、断たれようとしている。
公爵家の忌まわしい噂がまた再燃したかのようだった。
今度は、母にまつわる悪意ある噂話の登場人物ではなく、治癒の力を持つヴィジネー家の人間が消えはじめた。
本当に消えた者、身の危険を感じて隠れた者、アンジェロに区別はつかない。
アンジェロは、公爵が何をしているかは知らない。
父がやろうと決めたことは、アンジェロが何を言っても止めることはできないから、それをいちいち気にすることは無駄なことだと思っていた。
だから公爵家にたびたび血の匂いが漂っても、見て見ぬフリをすればいいと思っていた。
父はアンジェロに進んで加担させるようなことをしない。
そもそも妹以外には関心がなく、公爵家の体面を保つことにもぞんざいになっていたから、それらはすべてアンジェロの役目になっていた。
直接何か言われた訳ではないが、おそらく、それだけが父から求められていることだと汲んで、アンジェロはそのようにしてきた。
そうして築いた表の顔のアンジェロが知らなければ、それは公爵家で起きたことにはならない。
例え、幼馴染の侯爵令息の婚約者候補の血がそこに流れていたとしても、アンジェロは何も知っていてはいけなかった。
────結局、父は大切な一羽を守るためだけに手を尽くし、多くの血を流したのだろうが、鳥籠に、もう人形はいない。
アンジェロがひさしぶりに見た妹は、幼い頃から少し大きくなっていたけれど、手足は痩せて、痛々しいほどだった。
決して安らかとは言えない顔だが、声をかければ昔のように「おにいさま」と呼んではくれないだろうか。
……この八年、気にかけることをやめてしまっていたのに、なんて自分勝手な願望だろうか。
そして、妹の死は、公にされなかった。
妹が逝ったその日にもたらされた神の言葉にステラフィッサ王国中が大騒ぎになっていたせいもあるだろうが、父は、妹の死を受け入れられなかったのではないだろうか。
身体が傷まないように母にもかけていた氷魔法を妹にもかけ、二人はまるで並んで眠っているようだった。
そうして、二つの棺は、ガラッシア領の別荘に大切に移送された。
ここを愛して暮らしていた祖父も先代の執事も、母の事件があってから相次いでこの世を去り、使用人が手入れだけをして寂れていくだけだったその城に、父ははじめて義弟を認め、大掛かりな魔法をかけさせた。
ファウストだけではない、時おり公爵家で見かける刃のような髪を持つ父の配下のような者たちにありったけの魔力を注ぎ込ませて、ガラッシア家の直系しか立ち入れない強固な結界を張り、閉ざした。
慣れない魔法を使い、鋼色の髪をした者たちが何人か使い潰されても、義弟すら虫の息になっていても、父は頓着しない。
別荘地への道も閉ざされたから、この城は、本当に母と妹二人だけが眠る場所になった。
騒がしくなる王都を離れ、二人を静かな湖畔で静養させるような、そんな表情で父は別荘地を後にした。
……これから王都で、ステラフィッサ王国で何が起こるか、父はすべて知っているようだった。
*****
星の巫女が神託どおりに舞い降り、星の災厄を阻止するために十二の星を集めることになったその日。
アンジェロもその一員として参加しながら、父に言われたことを思い出していた。
ひさしぶりに、明確に、求められた。
────父が思う道筋に、巫女を誘導すること。
前の巫女の日記が出てきたが、日記どおりではなく、巫女一人に星の力を集めること。
それが本当は正解なんだよ、と父は嗤った。
役に立たない星の民の言うことは聞かなくていい。
星の望むままに。
星のために巫女は喚ばれたのだから。
星の力を、掠めとるようなことはしてはいけない。
だけどこれは、お前以外は知らなくてもいいことだからね。
内緒だよ、と人差し指を唇に当てた父は艶然として、そうしてアンジェロはそれに従う他にない。
例え幼い頃から仕えた第一王子がアンジェロの心に必死で訴えかけても、大事な人を亡くして荒れた幼馴染に激しく詰め寄られても、同じく一つ年下の幼馴染に疑惑の目で見られても、星の目を持った騎士に見透かされるように見られても。
────哀れな星の巫女が、健気に自分の心を解かそうとしてくれても。
誰にも心を開け渡してはいけない。
婚約者がいるという理由であえて壁を作っても、聞き分けのない子供のようにその少女は無心でこちらの心に入り込んでくる。
それにも見ないフリをして。
この少女が、父の描く未来でどんな目に合うのか怖ろしくてたまらないのに。
それも、見ないフリをする。
アンジェロは、決して裏切れない。
自分を監視する影のような男の目があることを知っているから。
何が起きても、それが父の思惑どおりなら、それが正解なのだと周りに思い込ませるように、周到に整える。
それだけが、アンジェロに求められたことだった。
────巫女が星を何個目か手に入れた時。
幸運の名を持つ義弟が暗澹たる未来に向かう彼らにほんの少しだけの希望をもたらしたのは、どの人生の時だったのだろうか。
ふたつ並んだ棺を前に、どうしてこうなってしまったのか、これからどうなっていくのか、言い知れぬ不安を感じていても、アンジェロはそれを言葉にすることはできなかった。
誰よりも暗い闇を抱えた父の、公爵の背中に、語りかける言葉が見つからなかった。
***
八歳の年に、アンジェロには婚約者ができた。
かねてより予定されていた縁組ではあるが、妹が第一王子の婚約者に決まると同時に、兄であるアンジェロの婚約も推し進められる形となった。
その頃公爵家は妹の下にも優秀な養子を迎え、アンジェロの代になってもガラッシア家の盤石の地位は揺るぎもしないだろうと思われていた。
……ボールが坂道を転がるように、幸せに満ちていたはずのアンジェロの人生が急転したのは、このすぐ後だった。
目の前で母が息絶えていったあの日のことを、未だに夢に見続けている。
婚約者の邸宅の庭で、温かく眩い時間は、突如現れた暴漢にズタズタに引き裂かれた。
母のドレスが血に染まっていくのを呆然と見ていたアンジェロに、暴漢は次いで刃を向けてきた。
ギラギラと憎悪に満ちた視線に身動きも取れず、側にいた婚約者を押し退けるようにナイフが走り、その肩に深い傷を負わせた。
それでも恐怖で動けないアンジェロと、倒れ込んだ婚約者を庇うように、侯爵夫人が二人に覆いかぶさり、あとはもう何も覚えていない。
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手を繋いでいた妹は、その日から隠されるように姿を見せなくなった。
葬儀に義弟は出席させられず、公爵家の邸の隅に追いやられていた。
その義弟に差し伸べる手を、アンジェロは持っていない。
何もかもなくなった。
優しい父母も、可愛い妹も、もうこの邸では見られないのに、この前まではいなかった他人の子がぽつりとその場に蹲っていても、アンジェロにはかける言葉がなかった。
その後、自分を庇い、背中に大きな傷を負ったという侯爵夫人と婚約者を見舞い、自分が持っているものはすべて欠けてしまったのだと再確認した。
婚約者を大事にしようと思うのは、傷を負わせてしまったという責任感から。
労ろうと思うのも、義務感。
誰かを愛おしいと思う心が、アンジェロからは欠けてしまったのだ。
***
長じるにつれ、アンジェロは自分に期待される役割をこなすことしか考えなくなった。
父の公爵は自分を顧みない。
妹だけが彼のすべてだ。
鳥籠に閉じ込められて人形のように扱われる妹が果たして幸せなのかはわからないが、自分が口出しできることではないのだとアンジェロは自分に言い聞かせていた。
……時おり、義弟が何かを鳥籠に持って行っているのは知っていた。
鳥籠から出られない妹のために、空を、花を、蝶を、色とりどりのものをそのまま切り取って写した絵画のようなものを、人がいないのを見計らってせっせと部屋の扉の隙間から差し込んでいるようだった。
そんなことをしても、妹はきっと何も慰められないのに。
ある時、その様子を覗いていると、妹が何かを言ったらしい。
義弟の肩が驚いて跳ねた。
義弟は、小さく「ごめんなさい」とだけ呟いて、鳥籠の前から逃げ出して行った。
それからも、二人には何かやり取りがあったのかも知れないが、アンジェロは気にすることを止めた。
誰に咎められても義弟が鳥籠を気にかけることをやめられない代わりに、アンジェロは、自分自身すら傷付ける情というものを、完全に手放してしまった。
***
それまでまだ留まっていたはずの父の様子が一変したのは、アンジェロが学園のニ年に進級した頃だった。
八年前、母を亡くした時のような暗く深い穴が、また公爵家に大きな口を開いたように、父の雰囲気が変わった。
あの頃、多くの貴族家やそれに連なる商人が消えた。
すべてガラッシア公爵の仕業だという噂が流れていたが、噂は噂のまま、ひととおりの人物が消えると血生臭い空気はいったん落ち着いていたのに。
妹の身に何かあったのだ。
父の手から大切な宝物が理不尽に奪われる時、すべて道連れにして飲み込もうとする闇が現れる。
八年前は妹の存在で首の皮一枚繋がっていたものが、断たれようとしている。
公爵家の忌まわしい噂がまた再燃したかのようだった。
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本当に消えた者、身の危険を感じて隠れた者、アンジェロに区別はつかない。
アンジェロは、公爵が何をしているかは知らない。
父がやろうと決めたことは、アンジェロが何を言っても止めることはできないから、それをいちいち気にすることは無駄なことだと思っていた。
だから公爵家にたびたび血の匂いが漂っても、見て見ぬフリをすればいいと思っていた。
父はアンジェロに進んで加担させるようなことをしない。
そもそも妹以外には関心がなく、公爵家の体面を保つことにもぞんざいになっていたから、それらはすべてアンジェロの役目になっていた。
直接何か言われた訳ではないが、おそらく、それだけが父から求められていることだと汲んで、アンジェロはそのようにしてきた。
そうして築いた表の顔のアンジェロが知らなければ、それは公爵家で起きたことにはならない。
例え、幼馴染の侯爵令息の婚約者候補の血がそこに流れていたとしても、アンジェロは何も知っていてはいけなかった。
────結局、父は大切な一羽を守るためだけに手を尽くし、多くの血を流したのだろうが、鳥籠に、もう人形はいない。
アンジェロがひさしぶりに見た妹は、幼い頃から少し大きくなっていたけれど、手足は痩せて、痛々しいほどだった。
決して安らかとは言えない顔だが、声をかければ昔のように「おにいさま」と呼んではくれないだろうか。
……この八年、気にかけることをやめてしまっていたのに、なんて自分勝手な願望だろうか。
そして、妹の死は、公にされなかった。
妹が逝ったその日にもたらされた神の言葉にステラフィッサ王国中が大騒ぎになっていたせいもあるだろうが、父は、妹の死を受け入れられなかったのではないだろうか。
身体が傷まないように母にもかけていた氷魔法を妹にもかけ、二人はまるで並んで眠っているようだった。
そうして、二つの棺は、ガラッシア領の別荘に大切に移送された。
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ファウストだけではない、時おり公爵家で見かける刃のような髪を持つ父の配下のような者たちにありったけの魔力を注ぎ込ませて、ガラッシア家の直系しか立ち入れない強固な結界を張り、閉ざした。
慣れない魔法を使い、鋼色の髪をした者たちが何人か使い潰されても、義弟すら虫の息になっていても、父は頓着しない。
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アンジェロもその一員として参加しながら、父に言われたことを思い出していた。
ひさしぶりに、明確に、求められた。
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星のために巫女は喚ばれたのだから。
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だけどこれは、お前以外は知らなくてもいいことだからね。
内緒だよ、と人差し指を唇に当てた父は艶然として、そうしてアンジェロはそれに従う他にない。
例え幼い頃から仕えた第一王子がアンジェロの心に必死で訴えかけても、大事な人を亡くして荒れた幼馴染に激しく詰め寄られても、同じく一つ年下の幼馴染に疑惑の目で見られても、星の目を持った騎士に見透かされるように見られても。
────哀れな星の巫女が、健気に自分の心を解かそうとしてくれても。
誰にも心を開け渡してはいけない。
婚約者がいるという理由であえて壁を作っても、聞き分けのない子供のようにその少女は無心でこちらの心に入り込んでくる。
それにも見ないフリをして。
この少女が、父の描く未来でどんな目に合うのか怖ろしくてたまらないのに。
それも、見ないフリをする。
アンジェロは、決して裏切れない。
自分を監視する影のような男の目があることを知っているから。
何が起きても、それが父の思惑どおりなら、それが正解なのだと周りに思い込ませるように、周到に整える。
それだけが、アンジェロに求められたことだった。
────巫女が星を何個目か手に入れた時。
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