『喪失』

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1.He lose arm 広瀬 亜夢

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 車の正面衝突をした。というのに、私の脳内はまるで二度寝をするような心地良さだった。何か気持ちの良い音が聴こえてきた。誰かが私を揺り動かしていたが、睡魔のような何かに抗えずに私の意識は途絶えた。

 そして目覚めた時。
 私に腕は無かった。

 理解が遅れる。いや、理解を拒絶する。異様な程はっきりとした頭がこれは夢では無いと訴え掛けてくる。

亜夢あむ。」

 私の名前を呼ばれた。目の前には母親が居た。私はベッドの上で寝ていたようだ。
 ここは知らない部屋だ。何処かの病室のようにも見える。

「どうなった?」

 そう言いたかったが、上手く声が出なかった。

「あお……うお。」

 実際にはこのように聞こえていたと思う。
 その様子を見ていた母は「安静にしてなさい」と私を宥めた。

「貴方は事故にあったのよ。覚えてる?」

 事故…?
 そうか。バイクを運転してた時に逆走した車と正面衝突したのか。
 その事実を思い出した時、急に喪失感に駆られた。当然ならが腕のことではない。もっと大きく重大で大切なものだ。

(これ、もうピアノ弾けないよな…。)

 事故の数分前に耳に残っている、マンネリとした退屈な音色を思い出した。自分の指で弾いていた自分の曲だ。
 あの時、ピアノを弾いていた時、私には少し飽きが来ていたのだ。ここ数年、表現したいものが無くなり似通った曲ばかりを作っていたのを記憶している。
 今回の事故はその後の話だ。丁度、バイクでも運転して外の空気でも吸おうかと思った矢先の出来事だった。

 ピアノなんていつでも弾けるから、今日はもう作曲なんて忘れて、このまま何処か。その何処かは漠然としていて具体的なイメージとかは無いが、何処か楽しそうな場所にでも行こうかと思っていた。

 だが、結果はこうだ。そのピアノをいつでも弾ける日というのは永遠に訪れなくなってしまった。
 その現実に、私は目を背けようとしているのに、私の両腕だったものはいつまでも視界の中に入ってくる。
 今の私に付いている棒は、赤ん坊の腕のように短く、その赤ん坊の腕よりも使い勝手の悪いものだ。

 そして、その病室で数日が経った。

 当然ながら、糞ほど退屈な院内生活だった。私が言うのも何だが、心此処に在らずというのを体現していた。
 ふとスマホを弄ろうとしても当然ながら電源を入れることすら出来ず、下品な話ではあるが排泄や性処理もまともに出来なくなってしまった。
 好きでもない他人の手によって、私の陰茎をゴム手袋越しに扱かれた時は、一種の羞恥プレイかと錯覚し、それを自覚しながら果てたのも屈辱的だった。いや失敬、今のは私の射精介助をしてくれた方に失礼だな…。彼女も好きでやっている訳では無いだろうに。
 それと、喉は特に何もせず完治した。今では前みたいに声を出せる。

 それにしても退院か。今は両親に実家まで運ばれている。足は無事だったので移動こそ自由に出来るが、不自由なことに変わりはなかった。

 ピアノが弾きたい。
 その陳腐で儚い私の願いはいつしか夢や幻想と変化していくのだろうか。
 今ならば良い曲が弾けそうだと言うのに、だからこそ悔しい。

 実家に着くと、早速私は足でパソコンを立ち上げた。パスワードは昔のままで苗字をローマ字にしただけのゆるゆるセキュリティだ。
 そして、『広瀬 亜夢』と私の名前を足で不器用に検索した。

 ネット記事だけでも沢山あった。動画投稿サイトでも便乗動画が沢山出回っていた。『有名ピアニスト、腕紛失』大体、言ってることは皆同じだ。

 私のコアなファンはまだまだ私の活躍を期待しているようだが、それは多分無理だ。今までピアノの横に楽譜を置いてのアナログでしか作曲をした事が無く、パソコン等エゴサする為の道具としか考えていない。
 それに、個人的に電子音で作るというのが気に食わないのだ。これは本当に個人的で子供の我儘というかプライドに近しいものだ。

 ネットサーフィンを続けていると、一つの動画が目に止まった。
 『広瀬 亜夢ざまぁwwww』
 当然のようにその動画のコメント欄は大荒れで低評価は物凄いものだったが、高評価も少し入っており、私はそれが気に食わなかった。

 私の気持ちも知らないで好き勝手言いやがる。
 というか、私と全くなんら関係も無い癖して私に同情する動画を上げている奴らは何を考えているんだ! ただの登録者稼ぎに人の不幸を利用しやがって!

 何だか癪に障る。ありとあらゆる物に怒りが湧き出てくる。どうしようも無い程に気が狂っていると自覚しながら、畳の上で芋虫のように身を捩り踊り狂っている。
 これでも私なりに精一杯暴れて怒りを発散しているつもりなのだ。

 その様子を親に見られて病院へと逆戻りしそうになり、急遽冷静さを取り繕った。
 かの有名な小説家である中島敦も志半ばで倒れたと聞く、両腕を失った今でこそ言えるが、あの世という物があれば彼とは良い酒を酌み交わせそうだ。

 そんなこんなで、ピアノを弾けないピアニストのつまらなく退屈で不毛な二度目の人生がスタートした。25歳、春の出来事だ。
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