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1章

1-5 お風呂、入りたい

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「――人をこんな目に合わせておいて、随分と快適そうじゃないか……ねえ、バンビーノ?」

 水の滴る猫っ毛の髪。そいつの頬を伝う雫が一滴、ヤナギの頬にぽつんと落ちる。水滴はおそらく跳ねなかった――何故かといえば、跳ねるほどの勢いがなかったからだ。
 真上から、間近から顔を覗き込まれている。面白がるような、怒っているような。判別のつかない笑みを浮かべて。
 その顔のせいというだけではなかったが、眠気は一気に覚めていた。
 心臓が跳ねる。学校では“王子様”などと呼ばれているが、その顔はただシンプルに美しい。その顔が目の前にあるという事実が落ち着かない。ひとまずヤナギにできたことは、狼狽えることだけだった。何故? 何が? どうして? 疑問だけがただ空回りする。
 そんな中で。
 ようやく掴んだ問いかけがこれだった。

「……バンビーノってなんだ?」
「最初に気にするのがそれなの、酷くないかい。ヒメノ」

 女は……呆れたらしい。ため息をついて体を起こすと、濡れた前髪をかき上げた。よほど雨に降られたらしく、全身びっしょりだった。
 水も滴るナントヤラなんてほめ言葉があるが、最初にそれを言った奴はわかってるやつだったに違いない。普段とは違う崩れた髪型に、濡れているせいか艶やかな肌、張り付いて体型がうっすらとわかるような服の濡れ具合。
 いつもと違うからこそ、その差異が素材の魅力を引き立てる――

(……お前は何を考えてんだ、バカタレが)

 ヤナギは内心のドギマギを抑えて、何故か目の前にいる学園の王子様ことアマツマに問いかけた。

「なんでここにいるのかと、なんでそんなにびっしょりなのかと、なんで俺の家にいるのかと、なんで俺の顔触ってたのかと、どれから訊いたほうがいい?」

 特に、わからないのは一番目だ。何故ヤナギの部屋の中にいるのか。一人暮らしをしているのは伝えていたが、場所までは教えていなかったはずだ。
 なのに堂々と不法侵入されている。意味が分からない。
 が。

「…………」
「……な、なんだよ」

 半眼でじとりと睨まれて、思わずヤナギは後ずさった。といってもソファに座ったままなので、逃げることができたわけでもないが。
 更に数秒じっくりと睨まれた後。あからさまに大げさなため息をついて、恨みがましくアマツマは言ってきた。

「答えは全部一緒だよ。全部キミのせいだ」
「俺の?」

 きょとんと繰り返すと。
 頬を紅潮させながら、アマツマは矢継ぎ早に怒りを叩き込んでくる。

「自転車借りただろ。貸し借りは嫌いだったから、今日話をしようと思ったらキミは風邪だという。一人暮らしって聞いてたから、家の場所はタカトに訊いたんだ。そしたら場所はわかったけど、歩いていける距離に病院はないし、この雨だから困ってるかもと思ってさ。風邪薬とか買って来てみたら、チャイム鳴らしても出てこない。不在なのかと思ったら部屋の鍵は開いてるし、本格的に重い風邪なのかもと思って入ってみたら、キミはソファでぐーすか眠ってる。しかも健康そうな顔でだ。キミ、もしかしてズル休みか?」

 頬すら少し膨らませ、ぷりぷりとアマツマは言ってくる。どうやら怒っているようだが。

「……風邪薬?」

 またきょとんとまばたきして。ふと気づいてヤナギはテーブルを見やった。見覚えのない濡れたビニール袋の中から、市販薬やらゼリー飲料やらが覘いている。
 半ば呆然と視線を戻して、ヤナギはしみじみと呟いた。

「マジか……お前っていい奴だったんだな」
「キミは酷いやつだよ。ボクの予想よりはるかに酷いやつだ」

 対するアマツマの返しはからいが。半眼で睨まれても濡れ鼠では迫力はなく、つい苦笑してしまう。
 と――身を折るように、大きくくしゃみが一つ。

「――クシュンっ!」
「お、おいおい。大丈夫か?」
「いったい誰のせいだと……?」
「それは悪かった。まさか、休んだだけで差し入れしてくれるとは思ってなかったんだよ。自転車貸しただけだし……というか、なんで濡れてんだ? 傘は?」
「ヒメノ……自転車で傘は違反だろ」
「そらまあそうだけど。だからってそんなん今どき気にする奴もいないだろ」

 一応学校でもルールで禁止してはいるが。だからといって全員がルールを守るはずがない。というよりこれに関しては、守る方が少数派だろう。
 それに、禁止されているのは傘を差しながら自転車に乗ることだ。自転車を押しながら傘をさすことは禁止されていないので、わざわざ濡れる理由がない……というのを視線に込めて見やると。
 うっと息を詰まらせたのち、視線を逸らして……ぽつりと、アマツマが囁く。

「……持ってきてない」
「持ってきてないって……傘をか? あの空模様で?」
「だって、朝は降ってなかったし……」
「……なあ。そうなると濡れたのは俺のせいじゃなくないか?」
「そ――それはそうかもだけど! そ、そもそも、キミが――クシュンっ!」

 と、更にくしゃみが一つ。既に秋も半ばということでアマツマは冬服を着ているが、それでも雨に濡れれば冷えるだろう。

「とりあえず体拭いてこいよ、脱衣場そっちにあるから。そのままだとマジで風邪引くぞ。服は……まあ最悪、どうしようもなかったら俺のジャージ貸すけど」

 さすがに放っておくわけにもいかず、ヤナギは出来る範囲での提案をしたが。
 じとりと恨みがましくにらみつつ、アマツマはとんでもないことを言い出した。

「……お風呂」
「……あん?」
「お風呂、入りたい……」
「はあ?」

 思わず素っ頓狂な声が出た。もはや悲鳴だった。

(風呂? いくらクラスメイトであるとはいえ、友人ですらない男の家で? 本気で言ってるのかこいつは?)
「……これで風邪引いたら、キミのせいだぞ」
(いやいやいやいや)

 すねたようにじっとりとした視線で睨まれ、思わずたじろぐ。
 だがだからといって受け入れていいかというと、これはそんなことはない問題だった。

「いやダメだろ。ここ俺んち。俺、男。危機感!」
「ききかん?」

 まるで異世界の言葉でも聞いたかのように、アマツマ。
 だがすぐにニ……ッコリと笑うと、崩れた前髪をかき上げて、

「へえ? 危機感? ここに危険があるのかい? ここにはキミしかいないのに?」
「いや、一般論としてだな」
「一般論はどうでもいいよ。問題なのはキミなんだから。で? キミは? キミは私にとって危険なのかい?」
「いや、それは……」
「へくち」
「オイわざとらしくくしゃみすんじゃねえ」

 思わずツッコむが、効きはしない。何が楽しくなってきたのか、アマツマはくしゃみの姿勢のまま、こちらを盗み見るようにして笑っている。
 早々に根負けすると、ヤナギはうんざりと呻いた。

「わかったよ、好きにしろ。何が起きても知らないからな」
「ホント? ありがとう。いやあ、話がわかるっていいねえ」
「…………」

 深々とため息をつく。当てつけのつもりだったが、アマツマはにやにやと笑うだけだ。
 力尽きた心地でソファに身を沈め、天井を見上げる――と、追撃のようにアマツマは言ってくる。

「それに、危険なんかあるわけないよ。だってボクは、王子様だからね」

 声は自信満々だ。それこそ確信を持って言っているようだが。
 だがまったく意味がわからず、ヤナギはぽかんと呟いた。

「それ、今なんか関係あるか?」
「……え?」
「は?」

 不意の声に、きょとんと視線を降ろす。迎えてくれたのは――何故かこちらと同じようにぽかーんとした、アマツマの顔だ。
“何言ってるんだろう、この人は”という顔をしている。奇妙な話だが、おそらくはお互いに、同じ表情で相手を見ていた。
 そのまま疑問符を浮かべること、一秒、二秒、三秒……十秒までは数えなかったが。
 口を開いたのは、ヤナギの方が先だった。

「風邪引くぞ。とっとと行け。脱衣場そこな」
「あ、うん……」

 どうにも歯切れが悪そうに、首を傾げながら、アマツマ。
 その背中が脱衣場のほうへと消えていくのを見送ってから――ため息をつく。
 どうにも理解はできなかったが、文脈から察しはした。

「アイツ、自分が“王子様”だから、“男”の俺には襲われないって言ったのか?」

 だとしたら、とんでもない勘違いだ。
 間の抜けた事実だが、アマツマはシンプルに美人だ。髪が短くあまり凹凸に恵まれていないために女性的な印象はあまり強くないが。かといって男性的かというとそんなことはない。
 ヤナギからすれば、アマツマはあくまでも女子だった。それも、ボーイッシュというだけの美人だ。学校では王子様と呼ばれてて当人もそれに応えるかのように女の子に甘い、変な奴ではあるのだが。
 なのにあの反応ということは――彼女は“王子様”なんて呼ばれてるせいで、自分が女であることを忘れてる?

「無防備にもほどがあるぞ……」

 どっと疲れのようなものを感じて、ヤナギは再びソファに体を沈めた。
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