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偏見アンサー

久留里と越碁の噛み合わない会話

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「あァ…。カモシカ?」
「は、はい。氈鹿です…」
「あのね!凪沙とお兄、くるりんおねーちゃんとお友達になったんだよ!それでね、越後屋のおにーちゃんもお友達になってほしくて、連れてきちゃった!」
「は、蜂谷さん!」
「お友達通り越して彼氏彼女になるのも凪沙とお兄は大歓迎だよっ!男女の仲になるには2人きりでお話をするのが成功の近道!お見合いだってそうだもん!じゃ、凪沙は帰るね~。ごゆっくり!」
「蜂谷さん…!」

ーーちゃんと事実を言って!大暴投してから「2人でどっかいっちゃった球拾ってきて!」なんてパスされても困るよう…!

久留里が伸ばした手からするすると逃れた久留里はバイバイと手を振って久留里を玄関に残し去っていった。本気で置いていかれてしまったようだ。後に残されたのは、状況を飲み込めていない越碁と、どう話を切り出せばいいかわからない久留里だけ。

「…ナギが悪ィ」
「…ち、違うんです!謝るのは私の方で、」
「ナギが無理矢理連れてきたんだろ。ナギもツルも、すぐ勘違いして余計な気ィ回してくんだ。ったく、関係ないやつに迷惑掛けることねェだろ」
「…かっ、関係は、あります!」
「…あァ?」

思わず声が裏返ってしまったが、久留里が頼み込んでこうして越碁に引き合わせてくれた凪沙の印象が悪くなることは避けなければならない。久留里は勇気を出して、越碁に向けて叫ぶように話を切り出した。

「わ、私が。蜂谷さんにお願いしたんです…!その、確かめたいことが、あって」
「…確かめてェことだァ?わざわざ家まで?」
「そ、それは…。私、蜂谷さん…ええと、お兄さんの方…2人で一緒にいる所しか、見たことがないので…。越碁さんだけに、聞きたくて…相談したら、蜂谷さんが…」
「…警戒心がねェ」

警戒心がないと越碁に言われるのは二度目だ。一度目は初めて名前を名乗った時。二度目は、今。鶴海は「悪気があって言ってるわけじゃない」と言っていた。つまり、久留里を心配しているのだ。たいして仲がいいわけでもない、それも男性の家に来るなんてどうかしていると言いたいのかもしれない。久留里は自分に価値がないと思いこんでいるので、何故越碁に難色を示されているのかがわからずに不思議そうな顔をしている。意味が通じていないと態度で理解した越碁は、息を吐くと言葉を重ねた。

「あのな。お前は、誘われたらホイホイついていくのか?」
「え、えと。ついてきてくれと言われて…それを断るのは…失礼に当たります、よね…?」
「失礼でもなんでも。行き先がはっきりしねェだろ。安請け合いすんな。襲われたらどうすんだ」
「襲われたり…?しないですよ?私、誰かに加害されるほど可愛くもなければ美しくもありません…。私がお金を支払って懇願したとしても、私のことをどうにかしようなんて男性はいないと思います」
「…はァ」

またため息。今度は、語尾が上がっている。疑問符が付いているようにも聞こえてびくりと肩を震わせるが、越碁は手招きをして久留里に背を向けた。ついてこいと言いたいらしい。靴を脱いで小さく「お邪魔します」と声を出して廊下を歩く。右側の客間と思われる和室に入り、窓を全開にした越碁は「身に危険を感じたら窓から逃げろ」と久留里に真剣な眼差しで伝えてから上座に腰を下ろしたので、久留里もゆっくりと下座に腰を下ろす。

身に危険を感じたら、とはどういう意味だろうか。

出入り口の鍵を常に開けているから、頻繁に泥棒が金目の物を盗みにやってくるのかもしれない。まさか越碁が手を上げたり、久留里の身体に触れようと、万が一のことが起きた際、彼女が逃げる動線をわざわざ確保しているのだとはつゆ知らず、久留里はのんきに泥棒が頻繁に出没する家に住んでいたら大変だろうなと考えている。

「女だったら誰でもいい奴もいる」
「そうなんですか…?」
「ニュースでよくあんだろ」
「私、家にテレビがないので…」
「あァ?」
「国営放送の受信料を払わないといけないんですよね?取り立てが来るし、どうせ家には寝に帰ってるだけなんだから、節約しなさいってお母さんが…」
「…変わってんな」
「変わってますか?よく、わかりません…。母子家庭だったからでしょうか。うちにはお金がなくて…お母さんは…」
「…言いたかねェことまで聞き出す気はねェよ」
「…ごめんなさい。隠しているわけでは、ないんです。皆知ってますから。私は貧乏で、どんくさくて、ブスで。友達の一人もいない。母もいなくなって、一人で生活してるーー」
「ペラペラペラ。よく回る口だな、おい」
「は、はい!」

怒っているわけではないとわかっている。鶴海さんの言葉を信じるならば。けれど、彼が口を開くたびにどんな鋭い言葉が返ってくるのか。恐ろしくて溜まらないのだ。皆そう。久留里が自分のことを話すと、可哀想なものを見る目をするか、遠回しに仲良くすると貧乏が移るからと言うような話をされる。

「よく知りもしねえやつに個人情報を話すな。今までよく生きてこられたなァ?いちから百まで体験したこと、感じたことを話す必要はねェ。言葉を濁せば物分かりのいいやつは深入りしてこねェよ。興味深そうに聞いてくる奴は敵だと思え。どうせろくなことにならん」
「あ、あの。お、怒って…ますか」
「あァ?」
「だ、だって…蜂谷さんが…羊森さんは怒ると息継ぐ暇なく話し続けると…」
「どっちだ。ナギ?ツル?」
「お兄さんの方です…っ」
「わかんねェな。名字で呼ばれると」
「え、ええと。たいして仲もよくないのに…お名前で呼ぶものなのでしょうか…」
「友達なんだろ。ナギは気にしない」
「は、はい…。じゃあ、妹さんの方を、これからは下の名前でお呼びします…」

越碁が満足そうに頷く。
怒っているわけではないようだが、久留里が自身の身内話をしてから越碁の瞳から剣呑な光が薄れてきたのは気のせいだろうか。まるで、自分が辛い体験をしたかのように目を細めて、何かを耐えるように拳を握り締めている越碁を見た久留里は、越碁が何に対して拳握り締めたのかが理解できない。久留里の境遇に思うことがあるのは間違いないだろうが、今まで久留里にとってはこれが普通だったのだ。きっとこれからも。久留里は危険だと越碁が心配するような生き方を続けていく。
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