狐娘は記憶に残らない

宮野灯

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第3話 奥之院和佳は亡霊を追う

8 決して交わらない世界観

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 枝高の女子高生自殺事件。
 昨年発生したその投身自殺は、地元紙はもちろん、全国ネットでも一部報道されたらしい。当時のあたしが知っていたのは、屋上から身を投げての自殺だったことと、彼女が高校三年生であったということくらい。

 そう、今年の三月に卒業した兄貴とは同じ学年だったのだ。当時の彼の話を断片的に聞くに、どうやら同じクラスでもあったらしかった。

 囚地エリ。

 あたしはその自殺者の名を、兄貴からしか聞いたことが無い。先生も、先輩も、新聞も、テレビも、ネットも「高校三年の女子生徒」とだけ伝えた。
 遺書も見つかっておらず、自殺の原因は、自身の病気によって世の中を悲観してのもの……などという報道が、一部でされていたと思う。

 事件が起こったのは四月二十日。
 今年はその日に全校集会が開かれた。彼女が辿ってしまった道のりを、他の生徒が辿らないように。教職員のそんな気持ちがあっての集会だったのだと思う。

 だが、彼女が具体的にどんなことに悩み、そして自殺していったのか、それを伝えられることは無かった。
 名前も告げられず、心も伝えられず、彼女の自殺は外枠だけが固定されて、中身は空虚でしかなかった。……そんな外枠だけを伝えられて、あたしたちは何を学べばいいのだろう。

 中身を知っているのは、当時の彼女を知る者だけだ。

「和佳が言う、教室棟の三階の上。事件の後チェーンが巻かれて出入り禁止になったが、あの扉は屋上に繋がっている。以前も基本的に施錠はされていたが、しばしば閉め忘れられていた。特に屋上へ登ることが禁止されていた訳でもなかったから、昼休みをそこで過ごす生徒もいたな」

 やはり、とあたしは思う。
 ながめからその扉の先に何があるか聞いていなくても、枝高にあれほどまで封じ込める必要があるスポットは、盗られては困るものを入れる金庫か、再び事件を起こさないように閉じる必要のあった屋上くらいしか存在しないだろう。

 どう見たってあのチェーンと南京錠は間に合わせだ。当初から閉じられる意図があったものでは決してない。
 金庫とは何か。……中のものを意図せず外に持ち出させないために作られるものだ。……だからあのチェーンが、金庫か屋上か、どちらを封じるものなのかは明白だった。

「囚地エリとは同じクラスだった。初めて話した時の印象は……そうだな。儚く、吹けば消えてしまいそうな、そんな存在に思えた。そもそも彼女は留年していたから、そこまで詳しくは知らないが」

「留年?」

「生まれつきの病気で、出席日数が足りなかったと言っていたな。かなり重い病気だったらしく、高校三年にまで上がれたのも奇跡みたいなものだと。だから、元々は先輩であって、クラスからも浮いていた。かなり痩せていて美人だったのも、この孤立に拍車を掛けていただろう」

 あたしは、教室で留年した色白美人が外を見ながら考え事をしている、そんな状況を想像してみた。

 たいていの人間とは軽く話すことができる自信はあったが、確かにその子には近寄り難いだろう。入学したてならともかく、高校三年にもなればそれまでに築かれてきた人間関係もあるはずだ。
 出来たての薄氷ならともかく、分厚い氷の層に木の棒を突き立てるのは容易ではない。

「距離を詰めにくい。このままでは気が休まらなかろうと思い、俺は何度か話しかけてみたんだ。彼女はお喋りではなかったが、色々と考え込むのが好き……というよりは、入院中などはそれくらいしかやることが無かったらしくてな。そこで考えたことを、何度か俺に話してくれた」

「で、その美人は何を話したのよ」
「自分が何を残せるか、ということをよく話していたな」
「は?」

「病気のこともあって、彼女は自分自身のことを希薄な存在だと感じていたらしい。そんな希薄な存在がこの世に何か生きた証を残すとしたら、何がいいのだろうね、などと問われたこともある。問われたとは言っても、答えは求めていないようだったな。すぐにそっぽを向いて、どこかに歩いて行ってしまった」

「……あたしなら関わりたくない」
「見ている世界が違うような気はした。が、それも一つの生き方だと俺は思う。それに……そうだな、運命的な数字、なんていう話もしていたな」
「今度は数字? まったく話に付いていけそうにねえんだけど」

「彼女は子供の頃から、ある数字に縁があったらしくてな。誕生日に始まり、合格した受験番号、よく利用するバスのナンバー、初めて告白された日、病気を宣告された時刻、病室の番号、手術の開始時間。彼女の中で大きな出来事が起こるときには、必ずその数字が絡んでいたそうだ。だから、次に何か大きなことが起こるときにも、必ずその数字が絡んでくるのではないかと……そう思ったらしい」

「で、結局その数字って、何」
 兄貴はふと、深呼吸をして――それから、あたしにゆっくりと言った。

「これ以上は話せない。……結局俺にもその数字を告げずに、彼女は逝ってしまった。だから――話せない」

 あたしはその返答を受けて、兄貴の顔をじっと見つめた。あたしはこいつが嘘を吐いているかどうか、表情で判断する自信がある。
 彼は滅多に嘘を吐かないから、そのストレスに弱いのだろう。表情筋の使い方でわかるのだ。……ながめなんかは、いつも表情を貼り付けている上に嘘を吐き慣れているから、まったくわからないけれど。

 彼は努めて、眉尻を、口角を固定していた。……嘘を吐いている。
 クソ兄貴は、その数字が何なのか知っている。

「本当は聞いてたんじゃないの、その数字」
「まさか。……彼女は胸の内に、その数字を隠していたんだ」

 今度は、本当のことを言っているようだった。兄貴には、囚地エリから直接聞かずに、その数字を知る機会があったのだろうか。

「彼女はきっと、亡くなるその間際までその数字に固執していたと思う」

 あたしだって、意識する数字はある。例えば七。あたしの誕生日は七月七日で、ラッキーセブンだ。見かけたときに特別な意識を持つことはあるが、そんなオカルトじみた考えはしたことが無い。

「……死ぬ瞬間の心理が想像できるなんてね。話しかけてきてくれた兄貴が、囚地エリにとって同学年で唯一の理解者だった、ってわけ?」
「そうは思わないが、ある程度信頼されているのかもしれないな。……不思議なノートを渡されたこともあったし」
「そのノートって、どんなのよ」

「……大したことは書いていなかったよ。だが、遺品ではあったからな。遺族のご両親に返そうと思ったんだが……。すぐに引っ越してしまったから、その機会は訪れなかった。……ともかく、囚地エリについては俺も理解できているとは思わない。クラスメイトだったのも十日くらいだ。だが、これだけは言える――彼女は、俺たちが考えるような物差しとは、まったく違う尺度でこの世を見ていた。俺たちがメジャーで世の中を測っているのに対して、彼女は体重計で物事を量っているような感じだ」

 気に食わないが、兄貴に同意だった。
 涼子やながめの世界の見方と、あたしの見方に差異があるのはわかる。それでも理解できないことはない。怖い話が好きだったり、人をいじるのが好きだったり、その程度だ。
 だが話を聞く限り囚地エリのそれは、あたしの理解の範疇を超越していた。

 そして、気になることがもう一つ。

「囚地エリが自殺したのって、何時頃だったの」
「部活に行っていたので詳しくはわからないが……騒動が起こったのは夕方くらいだったはずだ」

 あたしは、四百十九人目の出現した時間帯を思い返していた。
 涼子が部室棟の前で目撃した時間。然人が突き落とされながめに発見された時間。あたしが今日、階段で消えた女子高生を見かけた時間――今日ながめに確認したとき、時計は四時二十二分を指していた。どの事案でも、時間帯はその辺りになるはずだ。

 命日の日付。囚地エリが固執していた数字。……いくつもの数字が頭の中を行き交って、そして……混ざり合おうとする。

 あたしは首をブンブンと振って、そんなわけないと振り払う。
 ……そもそも、兄貴に自殺の話を聞いたのは、あたしが目撃した「彼女」の存在が、誰かの悪い冗談であるという確信を得たいがためだった。だが話を聞くにつれて、あたしの仮説はどんどんと闇に覆われていく。

 スカーフの色だってそうだ。
 枝高は学年ごとに色が違い、卒業した学年の色は新入生に引き継がれる。あたしたち一年の色は、本来であれば入れ代わりで卒業していた――囚地エリと同じ色なのだ。

 誰かの冗談という仮説が暗闇に沈んでいくと……そこに浮かんでくる別の説は、もうこれしかない。四百十九人目は、囚地エリだったのではないか。それも、幽霊となった――。

「和佳、俺が話せるのはこれくらいだ。……囚地エリは確かに死んだ。人間は死ねば終わりだ。だから、屋上のチェーンを除けば今の枝高にその影響があるはずがない。……それは、わかってくれるな」

 兄貴があたしの目をじっと見て、そう告げる。
 あたしだってそうだと信じたい。死んだ人間が現世に何か影響を与えるなど、そんなことがあっていいはずがない。

 この話はもう終わりだと主張するように、クソ兄貴は先ほど消したばかりのテレビの電源を付けた。

 そのとき、玄関の戸が開く音がした。ただいま、という声。少ししてリビングの扉が開き……あたしの目の前に、母が現れる。

「ただいま。和佳、まだテレビ見てたの」
「見てねーよ」
「おかえり。……テレビを見ていたのは俺だ」
「あら、そう」

 母は兄貴を優しい目で見た後、あたしに冷たい視線を向ける。

「和佳。勉強はどうしたの。……部活に入ってないんだから、時間はたっぷりあるはずでしょ。期末でも同じような点数を取ったら……」

 ああ。ダメだ。……一時、恐怖や考え事で落ち着いていたあたしの心が、再度強火に当てられたように沸騰する。

「うっせーな、試験直後くらいは好きにさせろよ」
「口が悪いわよ、和佳。また屁理屈言って!」

 ぐらぐらと沸き上がる衝動に、反論の言葉が喉を迫り上がってくるが、それをぐっと堪えて母の横をすり抜ける。そのまま階段を上り、自分の部屋へと逃げるように駆け込んだ。

 感情的になっても仕方がないことくらい、頭では理解している。……だが、なぜあたしがこんな目を実の母から向けられなければいけないのか、その憤りは発散する場所を失っていた。
 あたしはベッドに飛び込んで、マットを強く叩いた。スプリングが反動でぼよんと跳ね、間抜けな恰好であたしも跳ねてしまう。最悪だ。

「点数悪いったって、いっつも学年一位の兄貴と比べられたら、誰だってそうだっつーの!」

 あたしは枕に口を当てて、大声で叫んだ。それは布と詰め物に吸収されて、もごもごというくぐもった音を響かせる。

 あたしは飛び起きると、乱暴に鞄に入っていた紙を掴み取る。
 平均点を下回った然人のテスト結果だ。こんな結果を出すやつもいるのに、あたしはきちんと頑張ったんだぞ。だいたい平均点を超えてるんだから、よくやったと褒められこそすれ、怒られる筋合いはまったくないはずだ。

「あれ……?」

 然人の中間試験結果を見て、何かが引っ掛かる。
 ……変だ。ながめから渡されたときには、何も引っ掛からなかったはずなのに。激昂していた頭が急激に冷却され、あたしはうつ伏せになってその紙をじっと見る。

 そして、気が付いてしまう。ながめに手渡されたときは知らず、今だからこそ知っている情報。

 結びついた情報は、一つや二つではない。囚地エリの命日。幽霊の目撃されている時間帯。兄貴から聞いた、囚地エリが意識していた数字……これも、誕生日やバスのナンバー、時間帯や病室番号に共通していることから、候補の範囲は狭くとることができた。
 そして極めつけは、その数字を知っているであろう兄貴の言っていた「死ぬ直前までその数字に固執していた」という推測。

 頭に浮かぶ数字は、これしかなかった。……四、二、そして〇。

 改めて手の内にある紙を見る。中間試験は八教科、満点なら八百点。その五割ちょっと。

 ……然人の合計点は、四百二十点ちょうどだったのだ。
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