闇の中にただひとり

竹野きのこ

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闇の中にただひとり

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 気がついたとき、男は真っ暗闇のなかにいた。

 不思議なことに、どれだけ力をこめても手足を満足に動かすことができなかった。それどころかまぶたを開くことすらできない。
 体になにか痛みがあるというようなことはないようだ。男はひとまず安心し、自分の置かれている状況をかんがみる。しかし驚いたことに、男はなにも覚えていなかった。なにひとつ、覚えていないのだ。

 どのような経緯でこんな状況におちいっているのか、ということだけではない。自分がどんな名前で、どんな生いたちで、どんな顔をしているのか。男には自らに関する一切の情報を思い出すことができなかった。もしかしたら頭に強い衝撃でも受けたのか……、なんらかの薬を盛られた副作用なのかもしれない。
 そうこうしているうちに、男はもっと悪いことを思いついてしまった。これは……もしや「植物状態」というものなのではないだろうか。自分は人工呼吸器をつけられ、ベットに寝かされているのだ。ひとりでは寝返りをうつこともかなわず、食事を取ることもかなわず、ただ生きているだけの状態。そういう状態でも、明確に意識をたもっていることがあると聞いたことがある。自分はなにかの事故などにまきこまれ、植物状態になってしまったのではないか。男はそんな思いに取りつかれてしまった。

 なにも見ることもできず、指一本動かすことができない。それにもかかわらず意識だけはある。そんな状態で、この先、何十年にもわたって生き続けるなど、恐怖以外のなにものでもない。昔、赤の他人の話として聞いたときはそうやって単に怖いと思ったものだが、自分自身がそんな状態になってしまったかと思うと、もはや「恐怖」などというわかりきった単語では語ることはできなかった。
 しかしどれだけ考えたところで、それは根拠のない想像に過ぎないのも確かだ。誰かが正解を教えてくれるわけでもないだろう。――もうやめよう。考えても無駄だ。そう割りきって男は考えるのをやめ、今できることに頭を向けることにした。

 男は悪い想像を追いだそうとするかのように、全身の力をふりしぼり体をひねろうと試みる。するとさっきまでは体中、どこもまったく動く気配はなかったが、自らの意思に従って足先がわずかながらに動いたのを感じた。
 どうやら単に動かないというよりは、脳みそとの連携がうまくいっていないようだ。何度か試行錯誤すればいつかは自由に動かすことができるかもしれない。
 どのみちほかにやることはない。男は自らの体を意のままにするために、思いつく限りの方策をひとつひとつ試していく。疲れを感じれば眠り、それ以外のときはみずからの体と対話する。そうやって時間がすぎていった。

 昼夜の感覚もなければ、時間の感覚もない。どのくらいのときがたったのかはわからない。腹がへらないのは不思議なものだが、どうせチューブでもつなげられて、ビタミン剤が流しこまれていたりするのだろう。細かいことはわからないが、実際になにかの管のようなものが自分の体から出ているような感触があった。手が自由に動けばもう少しいろいろわかるのに……と思うともどかしかった。まぁ自らなにもしなくても食事も排せつもできるのだからいい身分なものだ。誰に聞かせるでもなく、男は自分の身の上を卑下した。

 男のつぎこんだ時間と情熱は少しづつ実をむすんでいた。まずは右足を少し動かすことができるようになった。動くといってもわずかに伸ばすことができるという程度だし、強く集中し、うまくいけばまれに動くというレベルだが、着実に成果は出ているように思われた。
 純粋な植物状態で、症状が固定しているなら、まったく動かすことはできないだろう。それが自らの意思で少しでも動かせることができるということは、自分は少しづつでも回復しているということではないだろうか。そんな前向きな憶測が男を元気づけていた。

 その日、いつものように足を延ばそうと念じた瞬間、ついに足先までひとつの線がつながったようで、足がピンと伸びきった。言葉にすればたかだが10文字の行為だったが、その後ろには、何日何時間という試行錯誤が積み上げられている。通常の状態であったら涙を流していたかもしれない。

 その上、足が伸ばせたというだけではなかった。伸ばした足はなにかにあたったのだ。固くはない。むしろやわらかい壁のようななにか。それに伸ばした足があたったのだ。これまでまったく感じることができなかった自分以外の存在を感じることができた。それは目が見えない人が、急に目が見えるようになったかのような大いなる喜びを男にもたらした。やったぞ。小さく些細なことかもしれないけれど、ついに男はひとつのハードルを乗り越えたのだ。そう叫んで回りたい気持ちだった。

 ――そして次の瞬間、男は聞いた。そのやわらかい壁の向こう側から、人の声がする。なにを話しているのかは聞きとれないが、その声は間違いなく笑っている。ひとりではない。男と、女が、ひとりづつ。ふたりでなにかを話しながら笑っているのだ。
 嘲笑しているという感じではないが、壁を一枚はさんで、動くことさえもかなわない男がここにいるというのに、そんな楽しそうに笑うなんて。一体どういう神経をしているのだ。
 体が自由になるなら乗りこんでいって、怒鳴りつけてやりたい気分だった。もちろんそんなことができる状態からは程遠い。今は我慢だ。耐え忍んで、少しづつでも回復していけば、いつかはヤツらの顔を拝むことだってできるかもしれない。それまでの我慢だ。もうしばらくの辛抱だ。――そう思い、男はまた眠りにおちた。



 次第に体も動くようになってきた。壁を蹴とばすことはそれほど難しくなくなった。相変わらず目は見えないし、満足にはほど遠かったが、まれに態勢を変えることすらできた。このままいけば、いつかは自由に動くこともできるようになるだろう。そう思って男はほくそ笑んでいた。

 しかしそんな油断を知ってか知らずか状況は急変した。
 なんの前触れもなく身動きができなくなり、がっちりと全身を押さえつけられる。いや、違う。この壁自体がせまってきているのだ。これまでほとんと不自由なく、すごしていたこの空間自体が縮小している。仕組みはわからない。だがここに存在する異物をひねりつぶそうとする勢いで、壁は男をしめつけていた。

 あまりの圧力に何度も意識が飛ぶ。これまで長い時間をかけ、多少は動けるようになってきたとはいえ、こんな圧倒的な力の前ではなんの役にもたたない。次第に強まる圧力に、もはやこれまでなのか……と諦めの気持ちが広がる。このままずっと植物状態かと思い悩んだ時期は、もういっそ命を絶ってくれないだろうかと願ったものだ。しかし、実際にこうして死に直面するとやはり死にたくない。そう思わざる得ない。

「助けてくれ! 俺は死にたくない! 死にたくないんだ!」 

 もちろんそんな言葉は形にならない。仮になったとしても、この状況に救いの手を差し伸べてくれるとは限らないだろう。パンっと言う音と共に何かが流れ出す。苦しい息が出来ない。圧力は強まるばかり。これ以上は耐えられない。――ああもう、俺はダメだ。



 男が死を覚悟した瞬間、視界が明るくなった。
 誰かが泣き叫んでいるのが聞こえた。それはまるで赤ん坊のような声で……いや、違う。泣き叫んでいるのは、――俺だ。そして俺のすぐ近くから聞き覚えのある声がした。

「はじめまして。……私の赤ちゃん。産まれてきてくれてありがとう」

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