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物音一つしないような、闇色の絵の具が溶けたような晩だったからだろう。こっそり開けたつもりだった自室の扉は、蝶番が思ったより錆びていたみたいで大きな音を立てた。
妹が隣室で寝ているので、ほんの少しの音だけで妹は起きてしまうのではないかとビクビクしていた。抜き足差し足忍び足で廊下を歩いても、老朽化した古い自宅は熟睡中の妹に対する気遣いの一切を考えないらしい。
なんとか気付かれずリビングまで辿り着いた。六人座れる大きな食卓の両側に、二つだけ木椅子が置いてある。
思えば、住民が四人も減ったこの家は恐ろしく寂しいところが多かった。水の魔石を埋め込んだ蛇口から水音がしている。栓が締まりきっていないせいだ。
暗い茶色の食卓に手紙を置いた。便箋を、封もしないでそのまま。初めは妹に別れを告げるべく真面目腐った文章を書いていたのに、どうも性にあわなくて結局ふざけたものを書いた。
便箋の上に重石を置いたら玄関に向かった。肩からかけた鞄が壁に当たらないように、慎重になって本だらけの狭い廊下を通り抜けると、カラーガラスの小窓が綺麗な玄関扉に辿り着いた。今夜は満月で、明るい光が射し込んで灯りのない廊下に魔法陣の柄を浮かべている。
ドアノブを捻って一歩外に出たところで、扉に鈴が付いていたことを思い出した。澄んだ音を立てて鈴が鳴る。妹は起きてこなかった。
急いで扉を閉めて傘立ての箒を手に取ってみると、しばらく使っていなかったからか蜘蛛の巣が張っていた。けれど気にしている暇はない。
家から少し距離をとって箒に跨った。本来女の魔術師は箒は横乗りだけれど、横乗りなんて、格好付けたお嬢様のやることだと思っている。全ては本の中の話だから、実際のところどうなのかは知らないけど。
柄に刻まれた魔術回路に魔力を通すと、回路は、一度淡く輝いた。正常に作動する証拠だった。頭で念じて浮上する。
十センチ程浮いて、軽く動作確認してから征くつもりだったのにえらく高いところまで浮いてしまった。
久しぶりの運転だからコツを忘れてしまっているんだろう。降下するのも面倒臭くてそのまま飛翔する。まず村を囲ってそびえ立つ山脈に向かうべく前進したところで、柄の先に付いたランプが点っていないのに気が付いた。危うく宵闇の中を月明かりだけで運転するところだった。
点灯したランプで空を照らしながら振り向けば、村はずれの我が家は遥か遠く。前方には村の中央、象徴とも言える巨大な精霊樹が間近にあったので、性悪クソッタレの世界に毒された、無知な愚か者共の家々を見下ろしながら通過した。
私だって無計画に家を出たわけじゃない。まだ十一の可愛い妹を置いて家を出ることを望んだわけではない。
私は居場所を見つけなければいけないから、排斥され迫害される我々の居場所を見つけたいから家を出たのだ。そこに少し、私という一介の少女の存在意義について、誰しもに知らしめてやりたいような凶悪な野望を一握り抱えている。
数年前、夕食のパンを飲み込んで語ったこの目標を、妹が、夢物語だと一蹴した、その夢の実現のためである。
見下ろしていた家の一つに広い庭があった。そこに生えたばらの木を、月明かりが照らしている。空から見えるばらの木は深緑に赤が点々と付いただけのお粗末なものだけれど、間近で見ればきっと美しい大輪の華が咲き誇っているんだろうな、と思ったところで箒は森に入った。ばらは見えなくなってしまった。
私は信じている。世界のどこかに、きっと私や妹が穏やかに暮らせる場所があるのだと。
火炎のポーションで畑が焼かれることも、投げられた石で窓が割れることもない。薬が買えないせいで病に倒れてそのままになることも、学び舎に通えないから自宅で古い本ばかり読まなければいけないようなこともない、ただ穏やかに暮らせる土地があることを信じている。
本当は、どんな野望を抱いたって私の名前が世界に残ることはないと分かっていた。シュノン・マシューはただの異人の少女だから。魔法の才能も、優れた容姿も、人を惹きつける魅力もない。異世界人のように誰もが羨む能力も、本に載る英雄のような技量もないから。
手元に残された唯一の血縁である妹の余生を平穏で飾りたい。例え彼女がそれに反対したとしても、だ。
一つ欲を出すなら、一度で良いから友情というものに触れてみたい。ぐらいだろうか。
森を抜けて満月の下、ほんの少しだけ振り返ると、憎いあの村は森に遮られて見えなくなっていた。それに対して、心のどこかで安心してしまった。
妹が隣室で寝ているので、ほんの少しの音だけで妹は起きてしまうのではないかとビクビクしていた。抜き足差し足忍び足で廊下を歩いても、老朽化した古い自宅は熟睡中の妹に対する気遣いの一切を考えないらしい。
なんとか気付かれずリビングまで辿り着いた。六人座れる大きな食卓の両側に、二つだけ木椅子が置いてある。
思えば、住民が四人も減ったこの家は恐ろしく寂しいところが多かった。水の魔石を埋め込んだ蛇口から水音がしている。栓が締まりきっていないせいだ。
暗い茶色の食卓に手紙を置いた。便箋を、封もしないでそのまま。初めは妹に別れを告げるべく真面目腐った文章を書いていたのに、どうも性にあわなくて結局ふざけたものを書いた。
便箋の上に重石を置いたら玄関に向かった。肩からかけた鞄が壁に当たらないように、慎重になって本だらけの狭い廊下を通り抜けると、カラーガラスの小窓が綺麗な玄関扉に辿り着いた。今夜は満月で、明るい光が射し込んで灯りのない廊下に魔法陣の柄を浮かべている。
ドアノブを捻って一歩外に出たところで、扉に鈴が付いていたことを思い出した。澄んだ音を立てて鈴が鳴る。妹は起きてこなかった。
急いで扉を閉めて傘立ての箒を手に取ってみると、しばらく使っていなかったからか蜘蛛の巣が張っていた。けれど気にしている暇はない。
家から少し距離をとって箒に跨った。本来女の魔術師は箒は横乗りだけれど、横乗りなんて、格好付けたお嬢様のやることだと思っている。全ては本の中の話だから、実際のところどうなのかは知らないけど。
柄に刻まれた魔術回路に魔力を通すと、回路は、一度淡く輝いた。正常に作動する証拠だった。頭で念じて浮上する。
十センチ程浮いて、軽く動作確認してから征くつもりだったのにえらく高いところまで浮いてしまった。
久しぶりの運転だからコツを忘れてしまっているんだろう。降下するのも面倒臭くてそのまま飛翔する。まず村を囲ってそびえ立つ山脈に向かうべく前進したところで、柄の先に付いたランプが点っていないのに気が付いた。危うく宵闇の中を月明かりだけで運転するところだった。
点灯したランプで空を照らしながら振り向けば、村はずれの我が家は遥か遠く。前方には村の中央、象徴とも言える巨大な精霊樹が間近にあったので、性悪クソッタレの世界に毒された、無知な愚か者共の家々を見下ろしながら通過した。
私だって無計画に家を出たわけじゃない。まだ十一の可愛い妹を置いて家を出ることを望んだわけではない。
私は居場所を見つけなければいけないから、排斥され迫害される我々の居場所を見つけたいから家を出たのだ。そこに少し、私という一介の少女の存在意義について、誰しもに知らしめてやりたいような凶悪な野望を一握り抱えている。
数年前、夕食のパンを飲み込んで語ったこの目標を、妹が、夢物語だと一蹴した、その夢の実現のためである。
見下ろしていた家の一つに広い庭があった。そこに生えたばらの木を、月明かりが照らしている。空から見えるばらの木は深緑に赤が点々と付いただけのお粗末なものだけれど、間近で見ればきっと美しい大輪の華が咲き誇っているんだろうな、と思ったところで箒は森に入った。ばらは見えなくなってしまった。
私は信じている。世界のどこかに、きっと私や妹が穏やかに暮らせる場所があるのだと。
火炎のポーションで畑が焼かれることも、投げられた石で窓が割れることもない。薬が買えないせいで病に倒れてそのままになることも、学び舎に通えないから自宅で古い本ばかり読まなければいけないようなこともない、ただ穏やかに暮らせる土地があることを信じている。
本当は、どんな野望を抱いたって私の名前が世界に残ることはないと分かっていた。シュノン・マシューはただの異人の少女だから。魔法の才能も、優れた容姿も、人を惹きつける魅力もない。異世界人のように誰もが羨む能力も、本に載る英雄のような技量もないから。
手元に残された唯一の血縁である妹の余生を平穏で飾りたい。例え彼女がそれに反対したとしても、だ。
一つ欲を出すなら、一度で良いから友情というものに触れてみたい。ぐらいだろうか。
森を抜けて満月の下、ほんの少しだけ振り返ると、憎いあの村は森に遮られて見えなくなっていた。それに対して、心のどこかで安心してしまった。
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