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夜に呑まれて

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息子を轢いたトラックの運転手は、涙を流しながら何度も謝った。

だが、助手席に乗っていた男は事故直後もただ突っ立っているだけで、
「どうして謝罪しなければいけないんだ。赤信号で飛び出してきたのはそっちだろ」
と言い張り、事故以来一度も私と旦那の前に姿を現さなかった。
その代わりに、彼の父親が何度も謝罪に来た。

息子の両親は彼の態度に激憤していたが、彼の言うことは間違ってはいなかった。
息子は赤信号にも関わらずボールを追いかけて道路に飛び出し、トラックに轢かれたのだ。

悪いのは息子だし、もっと言えば彼をしっかり見ていなかった両親の責任だ。
それでも、彼には一言だけでいいから謝って欲しかった。

息子の父親は、
「あいつはそういう男だ。人として大切な何かが欠けている可哀そうな奴だから、
もうあいつの事を考えるのはやめよう」
と、どうにかして一歩を踏み出そうとしていた。

だが母親はずっと、息子が死んだあの日に取り残されたままだ。
あの日の出来事を忘れることはできないけれど、一歩を踏み出すきっかけを作ることならできる。

あいつを殺せば、少しはこのモヤモヤした気持ちも晴れるかもしれない。
そうすれば、彼女も父親のように一歩を踏み出すことはできなくても、前を向くことくらいはできるかもしれない。

母親は助手席の男が家から出て行くのを見届けると、
彼の家に忍び込み机の上に鋸やナイフ、カッターといった凶器を一つずつ丁寧に並べた。
どうせ殺すなら、彼には目一杯苦しんでもらうことにしよう。

彼を苦しめる準備をしていると、玄関のドアが開く音がした。
しかし、彼は午後八時まではバイトで帰ってこないはずなのに、今はまだ午後六時を少し回ったところだ。

母親は急いでクローゼットの中に隠れると、クローゼットの隙間から様子を見ていた。
帰ってきたのは、彼ではなく彼の父親だった。

彼はここで一人暮らしをしているはずだ。
運悪く彼の父親も今日ここへ来る予定だったのか?
なんにせよ、母親は身動きが取れなくなってしまった。

それから二時間近く、助手席の男の父親は凶器が並んだ机の横にあった椅子に、
母親はクローゼットの中で彼が帰ってくるのを待った。



「びっくりした、どうして親父がここにいるんだよ。どうやって家の中に入ったんだ?」
彼はそう尋ねたが、父親は何も言わずに母親が用意した凶器の一つである切狭を手に取ると、
突然彼の腹をその切狭で一突きした。
「おい、じじい、、、。てめぇ何しやがんだよ、、、」
そう言いながら玄関の方へ逃げようとする彼の背中を、今度はアイスピックで何十回も刺した

そして彼が動かなくなったのを確認すると、父親は風呂場へと向かった。
母親はその隙にクローゼットから出ると、逃げるように自宅へと向かった。

一体、何が起こったんだ?
どうして彼の父親はあんなことをしたんだ?
それより、私はどうなるんだ?
凶器を用意したのは私だが、彼を殺したのは父親だ。
でも、彼を殺した凶器を用意したのは私だ。
私は共犯者ということになるのか?

翌朝、父親は自首した。
後日刑事から聞いた話だが、父親は、
「机の上に包丁などの刃物が並べられているのを見て、息子は自殺しようとしているのだと思った。
その時、声が聞こえたんだ。
“殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ―――”
と、誰かが私に何度もそう言ったんだ。あれはきっと、神が私に与えた天命なんだ」
そう供述したそうだ。

それを聞いて、母親は心底安堵した。
よかった、その殺害に私が関与しているかもしれないなんて、誰も疑っていない。
ようやく私も新たな一歩を踏み出せるかもしれない、と。

けれど、母親がおかしくなったのはその時からだった。



“彼を殺す”というある種の生きる目標を失うどころか、その目標を他人に奪われた母親は、
何に縋って生きていけばいいのかがわからなくなっていた。

そして気が付くと、彼女は助手席の男の母親を殺害していた。
家に押し入り首をナイフで刺した後、死体はバラバラにしてトイレに流したり燃やしたりして処理した。

警察も息子の死や旦那の逮捕のことを当然知っていたので、
気がおかしくなって失踪したのではないかと、誰も彼女が殺されたなんて思いもしていない様子だった。

そして母親は、彼女を殺すことで初めて彼のことがわかった気がした。
もしかしたら彼も、あの時の自分みたいに臆病なだけだったのかもしれない。
彼はただ突っ立っていただけなのではなく、何もできなかっただけなのかもしれない。
あまりの恐怖で身動きが取れず、自分を守るために心にもないことを言ったのかもしれないと。

母親は自分がしでかしたことの愚かさに気付き、助手席の男の父親のもとへ面会に行った。
しかし、話をなかなか切り出せないでいた母親に、彼は優しい声で、
「こんな私のために、こんなところまで来てくれてありがとう。まるであなたは、あの時の神様みたいだ」
そう言った。
それを聞いて、母親はその場で気持ちが悪くなり吐いてしまった。

と同時に、こうも思った。
ダメだ、こいつも殺さなくちゃ。

そう思うと、なぜだかさっきまではあんなに気持ちが悪かったのに、
いつの間にか喉元まで来ていたあのモヤモヤはすっかりなくなっていた。
きっと、新たな目標ができたことからくる高揚感のおかげだろう。

そして助手席の男の父親が仮釈放されたその日、母親は彼を殺害し姿を消した。

けれど、彼女の衝動が治まることはなかった。
彼女は当の昔に自分自身を、自分自身の心を殺していたからだ。

彼女は考えた。
次は、誰だ?

そもそも息子が死んだのは誰のせいだ?
本当に悪いのは誰なんだ?
その数日後、彼女の旦那が自宅で血を流しながら倒れているところを発見された。

こうして心優しかった母親は殺人鬼となり、今では殺しを職業とするようにまでなった。



僕が目を覚ましたころにはすべてが終わっており、
母は警察からも裏社会の人間からも追われる存在となっていた。

もしこれが事実ではなくフィクションだったなら、
なんてつまらないミステリー小説の導入だろうと呆れるかもしれない。

だから、最初は僕もそう思うことにしようと必死に努力した。

けれど、僕と同じようになんとか一命を取り留めた父親のあの怯え切った姿を見たら、
それがフィクションだとは思えなかった。

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