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第1章
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秋も終わりに近づく10月、
予備校では浪人生を対象としたガイダンスがある。
志望校決定ガイダンスなんて・・・
一度受験を経験した私たちに意味はあるんだろうか。
そんなことを思いつつ教室に入る。
広い教室、席一杯に生徒が着席をしているせいで、
教室はじめじめとした嫌な暑さを感じた。
息苦しい。
熱く入試について語る社員は悪い人ではないんだろう。
けれど、私は彼らをどうしても好きになれない。
だって彼らの話は勉強と成績と入試の情報ばかりで、
きっと私の性格や過去の経験になんて興味がないのだから。
そんな人に何かを教えてもらったところで
私は本当に受験に合格できるとは思えない。
だから、少しでも離れたとにいようと思ったのだけれど、失敗した。
後ろの席は既に、よく授業をさぼって遊んでいるメンバーが陣取っていた。
何とか教室の真ん中に空席は見つけたけれど、
隣には既におしゃべり好きのグループが陣取っていて、
私は既にこの教室から抜け出したかった。
ガイダンスが始まってからも後ろの方は会話がやまず、
私に届くのは生徒の会話。
「あいつ、一人で熱くなっててほんとないわ~。」
「それな、誰も聞いちゃいないのにね。」
おしゃべりグループの話題は、前で喋る熱血な社員へと移っていく。
グループの男女はクスクス笑う。
私の体は思わずこわばる。
なんで人は群れると悪口が正当化するんだろう。
なんで悪口で楽しくなれるんだろう。
悪口はナイフだと、私は思う。
悪口は時に、関係のない周りの誰かも傷つける。
悪口をいう人は、自分がナイフを振り回していることに気が付いてはいない。
そんな言葉を発する人を、私はどうしても受け入れることができない。
けれど、言葉を発しないだけで、私も今社員の事を好きになれないと思っていたのだから、
私も彼らとはなんら変わらない人間なんだろう。
自分に対する嫌悪感に更に心の痛みが増す。
もうこの教室になんかいたくない。
嫌いだ。
大勢の若者も、溢れ出す感情も、そんな気分にさせるこの予備校も、全てが嫌いだ。
この世の中には、価値のある人とない人がいると思う。
価値のない人は、私。
勉強もできないし、運動もできない、心も汚い。
私の周りに人は集まらない。
価値のある人はお兄ちゃん
高校時代は強豪野球部のキャプテンで、大学は有名な国公立大学。
お兄ちゃんは皆の憧れだ。
今は大手の会社に就職して、プロジェクトのリーダーとして
若くして皆を引っ張っていく立場にいるらしい。
まさに理想の良い人だ。
模範例だ。
私はどう頑張ったってお兄ちゃんのようには、なれない。
きっとお兄ちゃんが産まれる時に、価値ある人間になるための能力は全て
持ってかれてしまったんだと私は思っている。
ふと、頭に疑問が浮かぶ。
喫茶店で出会った彼は、どんな人なんだろう。
あの後、彼もあの喫茶店をよく利用することを知った。
私があの喫茶店に通う前から来ていたのかもしれないし、
そうではないのかもしれない。
けれど、彼を知る前のことは私には分からない。
いつもカウンター席で、アイスコーヒーを飲みながらパソコンに向き合う彼。
相変わらず少し疲れた顔をしていて、
何を考えているのか、その表情からは読み取ることができない。
そんな彼につい目が行ってしまうので、
最近の私はカフェでも集中ができないでいた。
はぁ、とため息をつく。
いつの間にか私の頭は彼でいっぱいになる。
喫茶店で会うだけの彼をなぜここまで意識してしまうのか。
目で追ってしまうのか。
今までそんなことはなかったはずなのに。
私にはどうしても理解ができなかった。
浪人して私はおかしくなってしまったのだろうか。
そんな事を考えても答えが出ないことは知っている。
なのに、ここ最近ずっとこのことを考えている。
彼がコーヒーを飲むと知ってから、
私も一度アイスコーヒーを頼み、彼と同じでブラックで飲んでみた事がある。
一口飲んだ瞬間の苦さと香りにむせ込んで、もらった水を飲み干した。
そのあとミルクと砂糖を入れて、コーヒーはようやく私の飲める味になった。
少しでも彼に近づきたくて、その後、私はアイスのカフェオレを頼んでいる。
ガイダンスが終わり、教室が賑やかになった。
一気に大勢の人が押し寄せ渋滞する出口。
早く教室から抜け出したいと思っていたけれど、
あの中に入っていくのは気が引ける。
見ているだけで息苦しい。
多分マスクを外せばもう少し息苦しさは無くなるんだろう。
けれど、私はマスクを外さない。
外せないのだ。
いつからだろうか。
私は感情でむせ返りそうになることを、
マスクをつけることで抑え込んでいた。
マスクをつけることで、周りの目線から解放された気分になることに気が付いて、
私はますますマスクが手放せなくなった。
時計を見るともう8時半。
こんな時間に喫茶店に行ったら、帰りが遅くなるのでお母さんは怒るだろう。
けれど今、家に帰ろうとはどうしても思えなかった。
だからと言って、遠回りをして家に帰る体力は残っていない。
私はリュックを背負って立ち上がると、人が少なくなった教室を足早に立ち去った。
予備校を一歩出た瞬間感じる空気の匂い。
秋の匂いは好きじゃない。
まだ若干夏の湿り気を帯びているけれど、温度の冷たい空気が鼻を通り抜けていく。
何でこんなにも、秋は人の心を騒がせるのだろうか。
悲しいような、寂しいような、何とも言えないこの気持ち。
ただでさえ心穏やかでないのに、秋はどうしてそんなに追い打ちをかけてくるのか。
私はマスクの上から口を押さえ、それから早足で地下への階段を駆け下りていった。
喫茶店に入り、いつもの席を確認すると、
既にその席は埋まっていた。
私は目を見張る。
その席には彼が座っていた。
今日みたいに、いつもの席が空いていないことはたまにあった。
私の居場所に誰かが座っている。
それは私にとって許せないことだった。
その人は何にも悪くないのに、相手に対する嫌悪感が私を支配し、苛立たせた。
それなのに、彼が私の席に座っているというのに、
私は嫌悪感を抱かなかった。
むしろ、なぜか彼に受け入れられた気持ちになった。
心が熱くなった。
彼の隣の席はひとつあいていた。
隣に座りたい。
私と彼は他人で、隣に座ったところで何かがあるわけではない。
でも、少しでも彼に近づきたかった。
彼の隣に向かって歩く。
胸が高鳴る。
なんだか顔がほてって、私はマスクを外す。
今の時間に入ってくる客などほとんどいなくて、
あの席を取られる事はきっとない。
なのにどうして、私はこんなにも焦るのか。
隣に到着した。
真剣にパソコンと向き合う彼。
そういえば私はいつも彼より先に来ていたから、
彼の後姿を見たことはなかったかもしれない。
思ったよりも大きな背中。
思わず唾をのんだ。
なんだか急に恥ずかしくなって、私は急いでレジに向かった。
今日も私はカフェラテを頼む。
今日の彼はホットコーヒーを頼んでいた。
ホットにしようかとも思ったけれど、
喉が渇いてゴクゴク飲める飲み物が飲みたかった。
カフェラテを受け取り席に戻る。
さっきと様子が違う彼。
腕を組み、うつむき、こくんと船を漕いでいた。
私は財布をしまうのも忘れて、彼を見た。
仕事が忙しかったのだろうか。
彼も私と同じで寝てしまうこともあるんだ。
親近感が湧いて、なんだか嬉しくなる。
この人は私の心細さを、わかってくれる人だろうか。
この人に話を聞いてほしい、私のことを受け入れてほしい。
彼は他人なのに、私はそんなことを期待をする。
なぜこんなにも惹かれるんだろう。
この気持ちは誰に伝えようとしてもわかってもらえないと思う。
けど、期待してしまっているんだ。
彼は他人だけど、私の気持ちをわかってくれるんじゃないかって。
全てを包み込んでくれるんじゃないかって。
どれくらい眺めていたんだろう。
彼が目覚め、私達は目があった。
その瞬間、時が止まった。
周りの音も、周りの人も、何にも気にならなかった。
私と彼。2人だけの世界。
風がブワッと吹き寄せる感じがした。
いつもほっそりとした目は今だけは少し大きくて、
彼が二重だと気が付いた。
少し薄めな茶色の瞳。
幼さを感じる柔らかな印象は、
鼻と口元からくるんだろうか。
「ええっと…僕ら、知り合いだったかな?」
ちょっと困ったように笑う彼。
「ご、ごめんなさい…!」
とっさに謝る。
急いで椅子に座る。
彼の声が頭の中で反芻する。
少し高めで、穏やかな声色。
頬が赤くなるのが分かって、慌ててマスクをつけた。
彼は困っていだろう。
他人に寝顔を見つめられていたのだから。
だけど私はどうしようもないくらい、今、彼の事で一杯だ。
カフェラテを飲む。
苦さにむせる。
私はカフェラテに砂糖を入れることすら、忘れてしまっていたのか。
治まらない、胸の高鳴り。
下がらない体温。
あげられない顔。
きっと今の私は耳まで熱い。
フッと笑う声が聞こえる。
「まぁまぁ、落ち着いて。」
彼がお水を差しだしてくれる。
恥ずかしい、けど何でもいい。
気に掛けてくれたことが嬉しい。
私の肘が彼にとん、と当たって、私の体はさらに熱くなる。
気持ちが溢れ出して、言葉は何も出てこない。
私は黙って頭を下げるのが精一杯だった。
しばらくの沈黙。
どうしよう、何かしゃべらなきゃ。
「僕はもうすぐ帰るよ。」
彼がそう言ってパソコンを閉じる。
あぁ、帰っちゃうのか。
まだ隣にいてほしいのにな。
話をしたいのにな。
私を知ってほしいのにな。
そんな儚い願いは叶わず、彼は支度を終え席を立つ。
待ってほしい。
顔を上げる。
彼ともう一度目があう。
彼は微笑んだ。
心が熱い。
なぜこんなに優しくしてくれるのか。
私は全くの他人だったのに。
これから先も他人であるはずなのに。
彼の行動は理解を超えていた。
「あ、あの・・・!」
私は急いで立ち上がる。
「私、あなたが好きです!」
彼の驚いている顔が見えた。
予備校では浪人生を対象としたガイダンスがある。
志望校決定ガイダンスなんて・・・
一度受験を経験した私たちに意味はあるんだろうか。
そんなことを思いつつ教室に入る。
広い教室、席一杯に生徒が着席をしているせいで、
教室はじめじめとした嫌な暑さを感じた。
息苦しい。
熱く入試について語る社員は悪い人ではないんだろう。
けれど、私は彼らをどうしても好きになれない。
だって彼らの話は勉強と成績と入試の情報ばかりで、
きっと私の性格や過去の経験になんて興味がないのだから。
そんな人に何かを教えてもらったところで
私は本当に受験に合格できるとは思えない。
だから、少しでも離れたとにいようと思ったのだけれど、失敗した。
後ろの席は既に、よく授業をさぼって遊んでいるメンバーが陣取っていた。
何とか教室の真ん中に空席は見つけたけれど、
隣には既におしゃべり好きのグループが陣取っていて、
私は既にこの教室から抜け出したかった。
ガイダンスが始まってからも後ろの方は会話がやまず、
私に届くのは生徒の会話。
「あいつ、一人で熱くなっててほんとないわ~。」
「それな、誰も聞いちゃいないのにね。」
おしゃべりグループの話題は、前で喋る熱血な社員へと移っていく。
グループの男女はクスクス笑う。
私の体は思わずこわばる。
なんで人は群れると悪口が正当化するんだろう。
なんで悪口で楽しくなれるんだろう。
悪口はナイフだと、私は思う。
悪口は時に、関係のない周りの誰かも傷つける。
悪口をいう人は、自分がナイフを振り回していることに気が付いてはいない。
そんな言葉を発する人を、私はどうしても受け入れることができない。
けれど、言葉を発しないだけで、私も今社員の事を好きになれないと思っていたのだから、
私も彼らとはなんら変わらない人間なんだろう。
自分に対する嫌悪感に更に心の痛みが増す。
もうこの教室になんかいたくない。
嫌いだ。
大勢の若者も、溢れ出す感情も、そんな気分にさせるこの予備校も、全てが嫌いだ。
この世の中には、価値のある人とない人がいると思う。
価値のない人は、私。
勉強もできないし、運動もできない、心も汚い。
私の周りに人は集まらない。
価値のある人はお兄ちゃん
高校時代は強豪野球部のキャプテンで、大学は有名な国公立大学。
お兄ちゃんは皆の憧れだ。
今は大手の会社に就職して、プロジェクトのリーダーとして
若くして皆を引っ張っていく立場にいるらしい。
まさに理想の良い人だ。
模範例だ。
私はどう頑張ったってお兄ちゃんのようには、なれない。
きっとお兄ちゃんが産まれる時に、価値ある人間になるための能力は全て
持ってかれてしまったんだと私は思っている。
ふと、頭に疑問が浮かぶ。
喫茶店で出会った彼は、どんな人なんだろう。
あの後、彼もあの喫茶店をよく利用することを知った。
私があの喫茶店に通う前から来ていたのかもしれないし、
そうではないのかもしれない。
けれど、彼を知る前のことは私には分からない。
いつもカウンター席で、アイスコーヒーを飲みながらパソコンに向き合う彼。
相変わらず少し疲れた顔をしていて、
何を考えているのか、その表情からは読み取ることができない。
そんな彼につい目が行ってしまうので、
最近の私はカフェでも集中ができないでいた。
はぁ、とため息をつく。
いつの間にか私の頭は彼でいっぱいになる。
喫茶店で会うだけの彼をなぜここまで意識してしまうのか。
目で追ってしまうのか。
今までそんなことはなかったはずなのに。
私にはどうしても理解ができなかった。
浪人して私はおかしくなってしまったのだろうか。
そんな事を考えても答えが出ないことは知っている。
なのに、ここ最近ずっとこのことを考えている。
彼がコーヒーを飲むと知ってから、
私も一度アイスコーヒーを頼み、彼と同じでブラックで飲んでみた事がある。
一口飲んだ瞬間の苦さと香りにむせ込んで、もらった水を飲み干した。
そのあとミルクと砂糖を入れて、コーヒーはようやく私の飲める味になった。
少しでも彼に近づきたくて、その後、私はアイスのカフェオレを頼んでいる。
ガイダンスが終わり、教室が賑やかになった。
一気に大勢の人が押し寄せ渋滞する出口。
早く教室から抜け出したいと思っていたけれど、
あの中に入っていくのは気が引ける。
見ているだけで息苦しい。
多分マスクを外せばもう少し息苦しさは無くなるんだろう。
けれど、私はマスクを外さない。
外せないのだ。
いつからだろうか。
私は感情でむせ返りそうになることを、
マスクをつけることで抑え込んでいた。
マスクをつけることで、周りの目線から解放された気分になることに気が付いて、
私はますますマスクが手放せなくなった。
時計を見るともう8時半。
こんな時間に喫茶店に行ったら、帰りが遅くなるのでお母さんは怒るだろう。
けれど今、家に帰ろうとはどうしても思えなかった。
だからと言って、遠回りをして家に帰る体力は残っていない。
私はリュックを背負って立ち上がると、人が少なくなった教室を足早に立ち去った。
予備校を一歩出た瞬間感じる空気の匂い。
秋の匂いは好きじゃない。
まだ若干夏の湿り気を帯びているけれど、温度の冷たい空気が鼻を通り抜けていく。
何でこんなにも、秋は人の心を騒がせるのだろうか。
悲しいような、寂しいような、何とも言えないこの気持ち。
ただでさえ心穏やかでないのに、秋はどうしてそんなに追い打ちをかけてくるのか。
私はマスクの上から口を押さえ、それから早足で地下への階段を駆け下りていった。
喫茶店に入り、いつもの席を確認すると、
既にその席は埋まっていた。
私は目を見張る。
その席には彼が座っていた。
今日みたいに、いつもの席が空いていないことはたまにあった。
私の居場所に誰かが座っている。
それは私にとって許せないことだった。
その人は何にも悪くないのに、相手に対する嫌悪感が私を支配し、苛立たせた。
それなのに、彼が私の席に座っているというのに、
私は嫌悪感を抱かなかった。
むしろ、なぜか彼に受け入れられた気持ちになった。
心が熱くなった。
彼の隣の席はひとつあいていた。
隣に座りたい。
私と彼は他人で、隣に座ったところで何かがあるわけではない。
でも、少しでも彼に近づきたかった。
彼の隣に向かって歩く。
胸が高鳴る。
なんだか顔がほてって、私はマスクを外す。
今の時間に入ってくる客などほとんどいなくて、
あの席を取られる事はきっとない。
なのにどうして、私はこんなにも焦るのか。
隣に到着した。
真剣にパソコンと向き合う彼。
そういえば私はいつも彼より先に来ていたから、
彼の後姿を見たことはなかったかもしれない。
思ったよりも大きな背中。
思わず唾をのんだ。
なんだか急に恥ずかしくなって、私は急いでレジに向かった。
今日も私はカフェラテを頼む。
今日の彼はホットコーヒーを頼んでいた。
ホットにしようかとも思ったけれど、
喉が渇いてゴクゴク飲める飲み物が飲みたかった。
カフェラテを受け取り席に戻る。
さっきと様子が違う彼。
腕を組み、うつむき、こくんと船を漕いでいた。
私は財布をしまうのも忘れて、彼を見た。
仕事が忙しかったのだろうか。
彼も私と同じで寝てしまうこともあるんだ。
親近感が湧いて、なんだか嬉しくなる。
この人は私の心細さを、わかってくれる人だろうか。
この人に話を聞いてほしい、私のことを受け入れてほしい。
彼は他人なのに、私はそんなことを期待をする。
なぜこんなにも惹かれるんだろう。
この気持ちは誰に伝えようとしてもわかってもらえないと思う。
けど、期待してしまっているんだ。
彼は他人だけど、私の気持ちをわかってくれるんじゃないかって。
全てを包み込んでくれるんじゃないかって。
どれくらい眺めていたんだろう。
彼が目覚め、私達は目があった。
その瞬間、時が止まった。
周りの音も、周りの人も、何にも気にならなかった。
私と彼。2人だけの世界。
風がブワッと吹き寄せる感じがした。
いつもほっそりとした目は今だけは少し大きくて、
彼が二重だと気が付いた。
少し薄めな茶色の瞳。
幼さを感じる柔らかな印象は、
鼻と口元からくるんだろうか。
「ええっと…僕ら、知り合いだったかな?」
ちょっと困ったように笑う彼。
「ご、ごめんなさい…!」
とっさに謝る。
急いで椅子に座る。
彼の声が頭の中で反芻する。
少し高めで、穏やかな声色。
頬が赤くなるのが分かって、慌ててマスクをつけた。
彼は困っていだろう。
他人に寝顔を見つめられていたのだから。
だけど私はどうしようもないくらい、今、彼の事で一杯だ。
カフェラテを飲む。
苦さにむせる。
私はカフェラテに砂糖を入れることすら、忘れてしまっていたのか。
治まらない、胸の高鳴り。
下がらない体温。
あげられない顔。
きっと今の私は耳まで熱い。
フッと笑う声が聞こえる。
「まぁまぁ、落ち着いて。」
彼がお水を差しだしてくれる。
恥ずかしい、けど何でもいい。
気に掛けてくれたことが嬉しい。
私の肘が彼にとん、と当たって、私の体はさらに熱くなる。
気持ちが溢れ出して、言葉は何も出てこない。
私は黙って頭を下げるのが精一杯だった。
しばらくの沈黙。
どうしよう、何かしゃべらなきゃ。
「僕はもうすぐ帰るよ。」
彼がそう言ってパソコンを閉じる。
あぁ、帰っちゃうのか。
まだ隣にいてほしいのにな。
話をしたいのにな。
私を知ってほしいのにな。
そんな儚い願いは叶わず、彼は支度を終え席を立つ。
待ってほしい。
顔を上げる。
彼ともう一度目があう。
彼は微笑んだ。
心が熱い。
なぜこんなに優しくしてくれるのか。
私は全くの他人だったのに。
これから先も他人であるはずなのに。
彼の行動は理解を超えていた。
「あ、あの・・・!」
私は急いで立ち上がる。
「私、あなたが好きです!」
彼の驚いている顔が見えた。
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