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妖編

4.藍狐の口づけ

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娘子にゃんず、にゃーんず!」
「はい、朱鷹しゅよう様」

にこ、とたおが微笑みながら振り返る。彼はゆっくりとお茶を飲みながら、屋敷から見える絶景に息を吐いていた。

後ろからやってきた朱鷹が嫋を抱きしめ、頬にキスをする。嫋はそれをクスクスと笑いながら受け止め、桃色の頬をさらに赤くさせた。

「もう、朱鷹様は甘えん坊なのですね」
「嫋にだけだぞ。なぁ、俺のこと好きになったか? 他の雄と交尾してねぇか?」
「はいはい、好きですし、えっちなこともしてないですよ。もう、人っ子一人来れないのにどうやって不貞を働くのですか?」
「んむ……」

むっと朱鷹が眉を顰める。嫋はこう言っているが、嫋の「好き」は決して恋愛感情としての「好き」ではない。

朱鷹は嫋と過ごすうち、それに薄らと気づいていた。きっと嫋は、目の前に昔の恋人が現れ体を求められれば拒否しない。

ご飯を準備してくれるから、守ってくれるから、気持ちいいことをしてくれるから好き。それだけだ。

朱鷹はそれを実感すればするほど、胸が焼かれるような思いがした。

(俺はこんなにお前のことを想っているのに!)

ぎり、と奥歯を噛み、穏やかな顔で外を眺める嫋を恨めしげに見つめる。今すぐにでもその顔をぐちゃぐちゃに歪めてやりたい、と思う。

ああ、早く押し倒したい。はやく精を注いで、俺の肩に縋り付いて泣く嫋を可愛がりたい! お前には俺しかいないって分からせて、それで───。

性行為をしている時だけ、嫋は「娘子」になってくれる。

きっと自分の前に嫋を愛していた人間もそうなのだ。愛らしく振る舞う嫋の全てを支配したくて、心を得られない苦しみに喘ぎながらその体にのしかかる。

嫋はおぼこ娘のような顔をしていながら、男を悦ばせる術を知っていた。そして、男をその肌にのせる心地良さも。

(えん……)

嫋が呟いた名前だ。
あれ以来その名を聞いた事はないが、きっと昔の恋人に違いない。

淵という人間について、知り合いにでも聞いてみようか。顔の広い藍狐らんこなら何か知っているかもしれない。

見つけ出せば、すぐにその首を掻っ切ると決めている。嫋の最奥に精を注ぎ入れた人間など、この世に存在すると考えるだけで腸が煮えくり返る。

「そろそろ狩ってくる」
「いってらっしゃいませ。いつもありがとうございます」
「そうだ、今日は牛にするんだ。晩飯一緒に食うか?」

朱鷹の晩飯と言えば、大抵は生の大型動物である。

前は人間を好んで食べていたが、嫋の懇願により動物を食すようになっていた。

それでも嫋は共に食べることを嫌がり、大抵は1枚扉を隔てて食事を行う。
口付けも口を濯ぎ歯を磨かないと泣いて嫌がられる。

「ひっ……い、いえ。嫋は遠慮します! 隣のお部屋で頂きますので、食べ終わったら、その……」

もじ、と嫋の腰が揺れる。もうこの屋敷に来て何回もした行為であるのに、嫋はまるで初めてかのように恥じらう。

嫋は潤んだ瞳で朱鷹を見つめ、ちろりと赤い舌を覗かせる。

朱鷹は嫋の腰に腕を回して引き寄せ、ふっくらとした唇を貪った。嫋が朱鷹の胸に手を添えてしなだれかかる。

朱鷹から与えられた唾液を、蕩けた目でゴクリと飲み込んだ。腰からスルスルと移動し尻を揉む筋張った手に、そっと自らの細い指を重ねてさする。

「んっ、んぐ……んぅ~……♡」
「はっ、暗くなる前には戻ってくる。勝手に外に出ちゃだめだぞ?」
「ほかの妖に食べられてしまうかも、ですよね?」
「そう。偉いな、嫋」
「ふふっ」

頭を撫でられ、嫋がお日様のように笑う。このところずっと、嫋が朱鷹に口酸っぱく言いつけられたことだ。

妖に食べられてしまう、というのも理由の一つとしてそうなのだが、その中に隠れているのは「他の人間に見られれば盗られてしまう」という朱鷹の恐れだ。

嫋が未だ朱鷹の妖の部分を恐れていたのを知っていたし、もし自分のいない間に嫋が人間に情を抱いたら……。

山を降りてしまうかもしれない。生贄なんてもの、なんの縛りにもならない。嫋の意思でなくては意味が無い。

(はやく、はやく嫋の心が欲しい)

朱鷹は空を飛びながら、ズキズキと痛む胸に目を細めた。



一方、嫋は朱鷹の心配もよそに、のんびりと庭の手入れをしていた。

「こんにちは」
「はいっ!?」

突然声をかけられ、思わず肩を跳ねさせる。振り返ると、そこには以前道案内をしてもらった青年が立っていた。

「お嬢さんじゃなくて、お兄さんだったんだね」
「あっ、前に道を教えてもらった……!」
「そうそう、僕だよ。ちゃんと辿り着けたみたいでよかった。可愛い人だなって思ってたから、忘れられなくて会いに来ちゃった」

青年はスラスラと世辞を吐く。青い袍を着ており、ニコニコと愛嬌のある笑みを浮かべている。

嫋は世辞であると察して、無自覚に落胆したままクスクスと笑った。

「ふふ、そんな……でも、ありがとうございます。お名前は教えていただけますか……?」
「藍狐」
「藍狐様……? 変わったお名前ですね」
「うーん、まぁ人間にはいないよね。僕も妖なんだ、大鷲じゃなくて狐なんだけど」

藍狐と名乗った男が、不意に嫋の肩に腕を回す。嫋は驚いた様子で男に引き寄せられ、その胸に身を預けるような体勢になった。
藍狐の長い白髪が嫋の頬にかかり、嫋はその擽ったさに身をよじる。男の髪はカーテンのように外界と嫋を遮断した。

「ら、藍狐さま?」

(た、食べられてしまう……かも)

嫋が戸惑った様子で首を傾げる。ふるふると震える唇を見て、藍狐はにたりと口許を歪めた。

「葉っぱがついてた。そういえば、お兄さんのお名前は?」
「嫋と申します……」
「嫋、嫋ちゃんね」
「あの、女の子ではありませんから、その呼び方は……」
「あはっ、ごめんごめん」

嫋についていた葉はもう取ったというのに、藍狐は嫋の背中に回した腕を離すことは無かった。それどころかスルスルとその手は下に下がっていく。
背骨を撫で、その手は腰の脇をグッと指で押す。骨盤神経が刺激され、嫋は体を跳ねさせた。

「……」
「んっ!?♡ ぁっ……んぅ……」

藍狐は嫋の唇を奪い、口腔内に朱鷹の痕跡をさがす。たしかに朱鷹のにおいがして、なるほどこの生贄を愛でているのだと確かめる。

(ふぅん……花嫁衣裳着てたけど、本当に夫婦なんだ。食料用だったら食べようと思ったのにな)

「はふっ、はぁ……んむ……」
「ふっ……あいつ、目はいいけど鼻は人並みなんだ。言わなきゃバレないよ」

腰が抜けた嫋の耳元で囁き、ぺろりと舐め上げる。嫋は甘えるように藍狐の胸の中で肩を丸めたが、てらてらと光る唇から発せられた言葉は正反対のものだった。

「ぁんっ……藍狐様……このような事はいけません、嫋は朱鷹様のものですから……」
「うんうん、そうだね」

懇願する嫋を適当にいなし、名残惜しそうに尻を撫でる。

(そろそろ帰ってくるな……)

朱鷹も耳は良いのだが、藍狐はそれを遥かに上回る。
雪の下、微かに身じろぐネズミの気配を捉えるほどの聴力を誇るのだ。大鷲の風を切る音を遥か先から察知し、嫋から手を離す。

1年ごとにパートナーを変える狐と違い、猛禽類は1度パートナーを決めたら生涯を相手に捧げる。

本能に従順な朱鷹に手を出したことがバレれば、藍狐とて危うい。

「ごめんね、あいつが本当にきみを嫁として扱ってるのか知りたかったんだ。今度はあいつがいるときに来るよ。またね、嫋ちゃん」
「……藍狐、さま……」

ぽつり、と嫋が呟く。吐息には熱が篭もり、去っていく藍狐の背を悩ましげに見つめていた。
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