新選組秘録―水鏡―

紫乃森統子

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第2部

第二十四章 千荊万棘(後)

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 十月に入り、数日が経ったその日、壬生の新選組屯所へ俄かには信じ難い報せが入った。
「そいつは一体どういうことか、詳しくお聞かせ願おうか」
「詳しくも何も、今申し伝えた通り。詮議は明日我が本陣にて内々に行われることと相成った」
 土方を訪ねて屯所に姿を現したのは、会津藩公用方の広沢安任だった。
 その場に同座する沖田も、流石に仰天して目を白黒させている。
「ちょっと待って下さいよ、何だって高宮さんが詮議を受けなきゃならないんです!? 大体公用方に出仕していただけで、会津公の鷹匠を仰せつかったわけじゃないんですよ!」
「よせ、総司。理由はどうあれ、あいつがたとえ一時的にでも鷹を任されていたんなら、詮議は受けて然るべきだ」
「土方さんまでそんな……! あの人はうちの隊士です、私たちの同意なく勝手な処罰を下されては困りますよ!」
 喰い下がろうとする沖田を、土方はもう一度、今度は言葉短く窘めた。
 広沢は持て成しの茶に手を付けることもなく、端的に用件だけを述べると、右脇に置いた二本に手を触れる。
 もうそろそろ退出する、という素振りだ。
「詮議の場には、望むなら貴殿らの席も設けよう。来るか来ぬかの判断はお任せする」
 返事を待たずに立ち上がった広沢を、土方は座したまま呼び止める。
「広沢殿」
「何だ?」
 踵を返そうとした足を止め、広沢は自然、上から見下ろす形で土方を見遣る。
 土方もまた、広沢を見上げて険しい視線を投げた。
「あれは自らの意思で本陣に赴き、本陣で失態を犯した。そもそも新選組は会津の配下だ。ならば、会津のやり方で充分に詮議した上、相応に裁いてもらって構わない」
「土方さん!?」
「そうか……。いや、何も高宮ばかりを吊るし上げようという詮議ではないのだ。高宮を預かった私の監督責任も問われるのでな。私もそれなりの処罰を覚悟している」
 険しい面持ちで言い、広沢は一呼吸置く。
 そしてやや苦笑するように口角を上げた。
「お主もなかなか厳しい男だな。……いや、あるべき正しき判断が出来る男、と申したほうが良いか」
「……」
 広沢の言葉に揶揄の色はなく、煽り立てるような挑発を滲ませることも一切ない。かと言って、称賛めいたものを感じられるわけでもなかった。
 土方は眉ひとつ動かさず、ただ視線のみを以って返す。
「まあ、裁かれるかどうかは明日の詮議次第。仮に高宮が故意に時実を逃がしたのだとしても、鷹の一頭や二頭で命までは取られまいよ」
 広沢は最後にそう言い置いて敷居の外へ出て行った。

     ***

 同じ頃、見廻組幹部であり、伊織の後見役を引き受けた佐々木の許にも、同様の報が入っていた。
 が、佐々木は報せを持って来た使者がその場を辞した後も然程の動揺はせず、寧ろ冷静沈着として思案に暮れているようだった。
 使者の去ったその部屋で、腕を組んだままどっしりと腰を落ち着ける佐々木の様子を窺いつつ、蒔田は声をかける。
「おい、佐々木。先程から随分と真剣に考え事をしているようだが、こういう場合は下手に動かぬほうが良いぞ」
 日頃追い掛け回している伊織の窮地だというのに、佐々木の反応があまりに静か過ぎる。
 蒔田としても出来れば関わり合いにはなりたくなかったが、一応釘を刺しておいたほうが良さそうだと判断したのである。
「肥後守は暗君ではない。愛鳥の失踪ぐらいで重罰を科したりはせぬはずだ。そもそも、本当のところはまだはっきりと分からぬのだろう?」
 佐々木を窘める材料を、蒔田は次々投入する。
 だが、佐々木はさっぱり耳を貸す様子もなく、真剣な眼差しを畳の一点に留めて、暫時黙したままだった。
 何となく、妙な空気を纏っているようにも見える。
「……おい。返事くらいせんか」
 堪りかねて声の調子を落とすと、佐々木は漸くその視線を蒔田に向けた。
「む、悪い。聞いていなかったわけではないのだが、少々考え込んでいた」
 それくらい、見ていれば分かる。
 そして多分、あまり賛成したくないようなことを考え込んでいたのであろうことも。
 嫌な予感が頭を擡げるものの、佐々木の深刻な面持ちにやや気圧されて蒔田は口を噤む。
「蒔田。ここで動かねば、私は生涯悔いを残すことになろう」
 低く重厚感のある声音は、決意の固さを物語る。
「自分でも解せんのだが、何故かあれを放っておくことが出来ぬのだ。たとえあれが私を必要と思わずとも、それでも――。あれのために何かしてやりたいと思えてならぬ」
「佐々木、お主……」
「本音を申せば、剣など教えたくはない。あれには、女子として生きる道を残しておいてやりたいのだ。刀を振う必要など、あれには本来あるはずもないのだから、な」
 珍しく深い憂いの籠った佐々木の眼に、蒔田もほんの少し心を動かされそうになる。
 心底から伊織を案じていることは、間違いなさそうだ。
「今ならば、まだ引き返すことが出来るはずだ。詮議の場であれが女性にょしょうであると公にしてしまえば、或いは……」
 至って真面目に話す佐々木の顔を、蒔田は思わずぎょっとして見返した。
 それこそ、とんでもない。
 そんなことをすれば、容保をはじめ会津の重臣を欺いた罪をも問われることになるのだ。
 蒔田の抱いた危惧を見透かしてか、佐々木はふと薄い笑みを零す。
「このまま新選組に留まるか否か……、あれの幸いを願うならば、選ぶまでもなく答えは決まっておるだろう」
「正気か? お主の言動一つで、伊織の将来は容易く変わってしまうぞ。大体、そんなことをすれば土方が黙ってはおるまい?」
「愚問。私は土方をそれなりに見どころのある男だと思っているが、伊織の処遇に関して溜飲を下げた覚えは一度もない」
 きっぱりと言う割りに、佐々木の眼差しに一瞬の揺らぎが見えた。
「……お主がどうしてもと申すなら、止めはせぬ」
 だが、と蒔田は語調を強める。
「それが本当に伊織のためになることなのか――、今一度よく考えてみることだ」
 言い置き、蒔田は悠然と部屋を出ていく。
 佐々木はそれきり、何も語ろうとはしなかった。

     ***

 時実が目の前で消えてから、幾日が経ったか。
 容保の愛鳥がいなくなったことに、皆が気付かぬ道理はなかった。
 失踪当日に、伊織は謝罪を添えて事の顛末を報告していたが、詮議の日までただ手を拱いていたわけではない。
 こうなっては最早、出仕以前の問題である。
 清水寺を中心に、方々を捜し回った。
 報告を受けた梶原や広沢までもが、人手を回して捜索に当たってくれたのだが、それも徒労に終わろうとしている。
 伊織自身も見つかる確率の低いことを承知の上で捜索を続け、結局、今日の今日まで時実の影すら見つけ出すことは叶わなかったのである。
 見つかるわけがなかった。
 風の中に溶けるように、落葉の始まった木々の間で消えた時実を、この目で見たのだから――。

     ***

 そして今。
 伊織は険しい面持ちの錚々たる顔触れに囲まれて、広間の中央に据えられていた。
 広間には、梶原や広沢、そして手代木といった公用方の人間が顔を揃えており、伊織の後見を引き受ける佐々木の姿もあった。
 他にあまり見ない顔も幾人か並んでいるが、その見慣れぬ面々こそが今回の調役なのであろうことは、何となく理解出来た。
 だが、それよりも。
 伊織をぎくりとさせたのは、広間正面に鎮座する肥後守の姿だった。
 詮議は内々のものと聞かされていただけに、その存在はいよいよ伊織の緊張を高めたのである。
 そこに止めとばかりに、土方や沖田といった新選組の人間は皆無。
 報せは届いていると思われたが、姿がないのはどういうわけか。
 否が応にも不安がせり上がる。
(結構な一大事なのに……)
 確かに我儘を通して黒谷に出仕してはいるが、それでも伊織が新選組に属しているのに変わりはない。
 この場に現れないのは、単に本陣での不始末は本陣の裁量に任せるという方針故か、それとも――。
(……もしかして、見捨てられた?)
 想像したくはなかったが、悲しいかな、土方ならばそれが誰であれ、足手纏いはあっさり切り離すことも辞さない。そんな気がする。
 確かに、自ら土方の許を離れる選択をしておいて、都合が悪くなれば助けに現れて欲しいなどと、今更そんな虫の良い話もないだろう。
 けれど、この場に土方の姿がないことを悲観せずにはいられなかった。

     ***

「――時実は名賀様の守り袋を銜えたまま、舞台の下で掻き消えました。そこで消息を絶ち、行方は杳として知れぬままです」
「ふむ……、それで以上だな?」
 梶原が尋ね、伊織はこくりと頷きながら「はい」と短く返す。
 失踪時の状況を詳細に尋ねられ、伊織はそのすべてにありのままを説明してみせたのだった。
 広沢からの直接の指示によって名賀の捜索と説得を試みたことから始まり、清水でのあの瞬間に至るまで。
 そこに嘘を含めることは一切しなかった。
 鷹匠頭に許可を得ることもなく、自らの判断だけで時実を黒谷の外へ連れ出したことも、事実のまま口述したのである。
 容保の反応如何によって自らの処遇が決まるかと思うと、危機感と不安とで些か声が震えそうになった。
 ぴんと伸ばした背筋も、やや強張った肩や手足も、少し気を抜けば一気に崩れてしまいそうな気がする。
 一通りの状況説明を終えても、それは一向に治まらなかった。
 その場に居並ぶ面々は一様に、「掻き消えた」というあたりで一層渋い顔になっていた。
「一つ問うが、その消えたと申すのは、何かの死角に入り込んだために見失った、という意味でよいな?」
 調役と思しき初老の臣が問うた。
「いえ、信じ難い話かとは思いますが、本当に溶け入るように姿を消したんです」
 大真面目に伊織が言って返すと、質疑を投げた臣は露骨に呆れた顔をする。
「そのようなことが起こるはずがない。これほど見え透いた虚言を信じる者はおらぬぞ」
 疑念に満ちた眼差しを投げかけられ、僅かに怯みかけた伊織だが、それでも前言を撤回することはしなかった。
「時実がどこへ姿を隠したかは扨置き、この者が自らの判断のみによって時実を本陣の外へ連れて出たことは事実のようだ。ならば、然るべき罰は必要ではなかろうか」
 調役の一人が言うと、他の面々も揃って頷き出す。
 ありのままの事実を述べたことに悔いはなかったが、かえって雲行きが怪しくなり始める。
(やばい。切腹とか言われたらどうしよう……)
 背中に嫌な汗が滲むのを感じ、伊織はあれこれと切腹回避策を模索する。
 しかし今の伊織には、正直に陳述したことがそのまま仇とならぬよう願うしかなかった。
「いや、お待ち下され」
 と、そこに口を挟んだのは、意外にも広沢だった。
「この者を預かり、その指導監督にあたっていたのは他でもない私だ。名賀様をお捜しし、その説得にあたるよう指示を下したのも私なのだ。こやつを庇うつもりは毛頭ないが、高宮にすべての非があるわけでないこともご承知頂きたい」
「ならば、広沢殿はご自身にも責があると申されるか?」
「無論、某も相応の処分は申し受ける所存。だが、高宮の独断と行動については、それはそれとして処分を申し渡して下されたい」
 広沢は淀むところもなく、きっぱりと断言する。
(うっわー。やっぱり庇う気ないよ、広沢さん)
 公明正大と言えば聞こえは良いが、仮にも部下である者を庇うつもりが毛筋ほどもないとは、広沢らしいと言うべきか。
 だが、どちらにしろ不問に処される可能性は無いに等しい。
 周囲の雰囲気はまるで刺すような険阻さを孕み、伊織は何度も姿勢を正し直す。
 日頃は何かと鬱陶しい後見の佐々木ですらも、眉間に皺を寄せて押し黙っている。
(……っていうか、いたのか、おっさん)
 どうやら、いつも強烈な気配を漂わせる佐々木の存在にさえ気が付けぬほど緊張していたらしい。
 その上、実に不本意ではあるが、見慣れた顔がそこにあるというだけで、どこか安心感を覚えてしまう。
 梶原や広沢も見慣れたと言えば見慣れた顔だが、未だ付き合いは短く、佐々木の顔に覚える安堵感には遠く及ばないのが現実だ。
 勿論、この場に佐々木がいたからと言って、この局面を脱することが出来るとも思えなかったが。
 それまで難しい顔で調役のほうをじっと眺めていた佐々木の視線が、ふと伊織に向けられた。
 瞬間、何を言われるものかと身構えたが、佐々木は伊織の推測を裏切って、無言のまま再び視線を戻してしまったのだった。
(あれ、佐々木さんの様子がおかしい?)
 この場面に限って言えば、それで普通なのだろうとは思う。
 思うのだが――。
 伊織への処分を侃々諤々と論じ合う、数人の調役を真っ向から見据え、佐々木はついにその沈黙を破る。
「各々方。伊織の後見人である私にも、一つ発言権を頂けようか」
 声音も重々しく、些か威圧的にさえ聞こえる佐々木の申し出は、容保の許可を得て即座に認められる。
「此度の所業とはまた別の話になるのだが、この機に是非、明らかにしておきたいことがございましてな」
 おや? と、伊織は首を傾げた。
 安堵感を覚えたのも束の間。それはすぐさま傾き、佐々木の口から告げられようとしている何事かに、俄かに不安が募り出す。
 そして次の瞬間、その不安は見事に的中することになった。
「この者、高宮伊織は、実を申せば女子でございまして――」
 この時、伊織の脳内はまっさらな雪原の如き白銀の世界になった。
 言うに事欠いて、なんてことを。
 佐々木を除いて、その場の全員がぽかんと口を開けた。
 驚いたというよりは、恐らく皆、瞬時に彼の発言内容を理解出来なかったのだろう。
「!!! ぉおぁっ!? さっ佐々木さ……!?」
 漸く声が出たと同時に、佐々木からは強烈な威圧を含んだ視線が投げ返される。
「おまえは黙っておれ」
「ちょっ、何を唐突にわけの分からんことを! いくら何でもそんな冗談を言っていい場所じゃないだろうっ!?」
 伊織の予想を遙かに上回った容赦のない暴露に、伊織の心臓は飛び跳ねる。
 言い返す言葉を吟味する間もなかったが、どう立ち回れば良いかだけは判る。
 とにかく誤魔化さなければ。
 因みに言葉遣いが些か粗暴になったことは、伊織の精一杯の「俺は男だ」という主張の表れだ。
 想定外の展開に、一瞬は声を失くした他の一同も、徐々にざわめき始める。
 中でも広沢に至っては、もう面白いくらいに引き攣り笑いをしながら、頭の先から爪先までを蔑むかのように眺めてくる始末。
「た……高宮っ。お主、佐々木殿の申すのは真なのか?」
「嘘です! 広沢さんまで不吉なことを言わないで下さい! こんな佐々木のおっさんの言うことを真に受けるんですか!? しっかりして下さいよ、ほんと怒りますよ!?」
 伊織は焦燥と狼狽に任せてやや浮き腰になり、そのままの勢いで佐々木を振り返ると即座に反撃に出た。
「大体なぁっ、あんたも私を庇おうってんなら、もう少し現実味のある嘘が言えんのかっ!?」
「黙れと申すのが分からぬかァ!!」
「……っ!」
 正面から喝破され、伊織は思わず乗り出していた身を引っ込めた。
「もう良いだろう……! こんなことをして、おまえに一体何の得がある? 何のためにおまえはここまでするというのだ!」
 思いがけない反問に、伊織はまたしても不意を突かれた。
 どうせいつもの暴走だろうと思ったのだが、今度ばかりはどうも様子が違う。
 佐々木の視線が、慨然として伊織の双眸を射抜いた。
「新選組隊士であり続けるためか? 或いは土方のためか? だがどうだ、ここまで進退窮まる事態に陥ってさえ、土方は愚か、新選組の誰ひとりとしてこの場に駆け付けた者はおるまい!」
 矢継ぎ早に捲し立てた佐々木の言葉は、そのまま太い杭となって伊織の心の臓を貫いた。
 衝かれるには、余りに痛過ぎる図星だったのだ。
(なんで――)
 どうして、佐々木がそれを言うのか。
 何故、彼はそこまで自分を新選組という組織から切り離そうとするのか。
 優しいかと思えば厳しく、厳しいかと思えば優しくもある。元々そういう表裏のある人だとは思っていたが、今回の言い様だけは嘗てないほどに深く、伊織の胸を抉った。
 何かを言い返そうと思うのに、何れも声にはならなかった。
 ここで遣り込められては、尚更周囲の疑念を煽ることになるだけ。
 そうと分かっていても動揺は治まらず、喉が震える。
「女子のおまえがここまでせねばならぬ理由とは何だ。万一にもこの場で詰め腹を切ることになっても、おまえは委細構わぬと申すか?」
「理由って、それは……」
 憤りとは裏腹に、このまま押し切られてしまいそうな形勢となり、伊織はたじろぐ。
「お待ちなさい」
 そこへ、新たな声が割って入った。
 この場にはそぐわない、柔らかな女声。
 思わず誰もがその声の主を辿り、下座を振り返った。
 打掛を掻い取り、するすると裾を鳴らして現れたのは、容保の側室、名賀であった。
 先日の清水で見掛けた姿とは違い、今日は会津二十八万石を背にするに相応しく、上品な趣向で着飾っている。
 名賀付きらしい侍女も一人、その後からついて来ていたが、毅然とした名賀とは対照的に、侍女はおろおろと頻りに周囲を窺っていた。
 名賀は敷居を越えてすぐに立ち止まり、伊織に食ってかかっていた佐々木を一睨みする。
「とりあえず、そこのおまえ! 伊織殿に詰め腹を切らせようなどと、滅多な事を申すでないわ!」
「ぬぉっ!? ちちち違う! 私はそんな話をしていたわけでは――」
「ええい黙りおれ! 縁起でもないことを申していたのは事実であろう!」
 咄嗟に頭を振って否定する佐々木を、名賀は更に詰る。
「そもそも何です、伊織殿に向かって女子だなどと! 伊織殿とて立派な殿方、そのような侮辱は許し難い! おまえは目でも腐っておるのか!」
「うぬっ!!?」
 登場するなり辛辣な言葉をぶつけ始める名賀に、佐々木の眼は愕然と見開かれる。
 何か反論したいようだが、思うように言葉が出てこないらしい。
 人間、沸点を越えると声さえ失うようだが、興奮状態を一気に煽られた佐々木の蟀谷には、隆々と青筋が浮いている。
 しかし、名賀は今にも悶死しそうな佐々木を鼻で嗤い、これでもかというほど踏ん反り返った。
「ほほほほ! ああら、いけない。わたくしとしたことが、勢い余ってつい間違った事を申してしまいました。……腐っているのはおまえの目ではなく、おまえの頭でしたわね!」
「!!? んななななななな――っ!!!?」
 目の前で顔を真っ赤にする佐々木には、最早冷静さのかけらもない。武人にあるまじき醜態と言って良い。
 名賀の言い様もかなりのものだが、佐々木の憤りも度を超している。
(……でもまあ、名賀様のお陰でおっさんの攻撃を回避出来た……の、かな)
 調役の藩士たちからなら兎も角、思わぬ方向から飛んできた征矢に、伊織も怯んでいたところだ。
 名賀が伊織を男であると明言してくれたことは、何より心強い。
 得難い味方の登場に安堵する。
「さあ、今すぐに今の非礼を詫びなさい。今すぐに詫びれば、きっと伊織殿も水に流してくれるでしょう。おまえと違って、伊織殿は穏やかで思慮深い殿方ですもの」
 ふん、と鼻を鳴らして凄む名賀を見上げ、更に憤りに顔を真っ赤にする佐々木を見遣り、伊織はたった今感じた安堵感を拭った。
 ホッとしている場合ではなさそうだ。
(名賀様も名賀様だけど……)
 佐々木の手が今にも抜刀しそうに見える。
 剣豪が聞いて呆れるし、大人げないことこの上ない。
 対する名賀は、これが全く動じていない。伊織でさえ時に怯まされる佐々木の威圧感を受けても顔色一つ変えていないのだから豪胆なものだ。
 本当ならば仲裁すべきところだろうが、二人の論点が他ならぬ自分自身というだけあって、どう仲裁してよいものか悩む。
 ついでにこのまま問題自体が有耶無耶になってしまえばいいのに、と虫のいい考えも頭をよぎる。
「ふん……、大方、衆道の気でもあるのでしょう。伊織殿に懸想して、なお且つ己の体面を保ちたいがために、伊織殿を女子に仕立て上げようという浅はかな愚行に走っているのに違いありませんわ」
「なっ何を馬鹿な! 罷り間違っても衆道などありえぬわ! 名賀様こそ、如何に肥後守様の御側室といえ、余りにお言葉が過ぎましょうぞ!」
「ほほーう? おまえ、衆道こそ否定するようだけれど、伊織殿に懸想していることは否定しないのですねぇ?」
「ぐぬっ…!! がはぁっ!!」
 佐々木はどうやら痛恨の一撃を食らったらしく、やけに目を剥いて大袈裟な苦悶の表情になる。吐血でもしそうな勢いだ。
「あー……まあ、その、ちょっと二人とも落ち着いて――」
 と、当事者自らが宥めるのもおかしな話だが、伊織はどうにも居た堪れず口を挟む。
「くっ……これが落ち着いてなどいられるものか!」
「ほほほ、おまえなどに伊織殿を渡しはせぬわ!」
(ええー? どういう流れになってんだ、これ……)
 何故、名賀が佐々木を相手に伊織を奪い合わなければならないのか。
 予期せぬ名賀の登場に、詮議の場は殊更妙な展開を見せたのであった。

     ***

 昼下がり、斎藤はぶらりと清水寺の界隈に来ていた。
 当て所もなく歩を進める斎藤の隣には、実に楽しげな笑顔の大柄な男が、これまた実に軽快な足取りで並び歩いている。
 別に連れ立って歩く気など毛筋ほどもなかったのだが、黒谷の傍を通りかかった折にちょうど鉢合わせてしまった。
「沖田さん、あんた暇なのか?」
「ええ? 暇じゃありませんよ」
 だったら何故ついてくるのか、と言ってやろうとした矢先、沖田の方が先に口を開いた。
「それで、何か見つかりました?」
「……何か、とは?」
 にまにまとあからさまに含みのある顔が、斎藤の正面に廻り込むようにして覗く。
 常々思うのだが、この男、何も知らぬ素振りで接近してくるが、その実どこまでも深く見通していそうに思えてならない。
「またまた、隠さないでくださいよ。調べているんでしょう? 高宮さんのこと」
「……まぁな。だが、調べたところで面白いものが出てくるわけでなし、退屈なものだ」
「へぇ、……っということは、もう大方の調べはついてるんですねぇ。流石は斎藤さんだなぁ、ほんっと、仕事が早いんだから」
「そうでもない。調べても何も出てこなかっただけだ」
 事実、高木小十郎という男を中心に探ってみても、高宮伊織との間には何の接点も見出せなかった。
 他の家中は無論のこと、足軽や中間に至っても、それらしい繋がりのある者は今のところ浮上していない。
「会津に的を絞って言う限り、高宮の足跡は奴が京に現れた頃からのものしか見当たらない」
「ふぅん。高木さんとは接点なし、ですか」
 ふとそこで沖田の足が止まり、斎藤も釣られて立ち止まる。
「斎藤さんが調べても、接点の一つも出てこない。ってことは、やっぱりあの人……」
 顎に手を添え、如何にも考え込む風を装うが、よく見ると沖田の目は然程に真剣ではないようだ。
 が、斎藤がそう思った次の瞬間、沖田の目の色が明らかに変わった。
「……どうした?」
 問いかけたが、沖田は顎に手を添えたまま、どこか一点を見つめてぽかんと口を開けている。
「……いやぁ、参ったな」
「? 何がだ」
「いえね、私、実を言うと、今と全く同じ状況に出くわした事があるんですよねぇ」
「はぁ?」
「ほら、あれ」
 と、沖田の指差す先には、見慣れぬ格好をした女がいた。
 いや、崖下の草叢に覆い隠されるようにして、倒れている。
「……何だ? あれは」
 女が、こんな場所で行き倒れていることも不審だが、それ以上に不審な格好だ。
「本当に、何なんでしょうね? 実を言うと私、以前にもここで不審人物を発見した事があるんですよ。……ああ、でもあの時は面白そうなものだったんで、持って帰ったんですけどね。今回のは……どうしたものかなぁ」
 あの時拾った物も、やっぱり奇妙な格好をした女子には違いなかったけれど――、と沖田は独り言のように呟く。
(……不審物を持ち帰ったのか。面白そうだというだけで)
 沖田の口振りから察するに、不審物とは言っても物品ではなく、明らかに人間のことだろう。
 不審人物を持ち帰る、というのは、つまり捕えて連行したということだ。
 奇妙な格好をした、不審人物を。
(だが――、待てよ。そんな人物を、俺は一度だって屯所で見掛けたことはない……)
 沖田が捕えて来ていたのなら、何かしらの詮議があったはずだ。
 不審人物なら日頃からいくらでも捕えているし、然して珍しいものではない。だが、それが奇妙な格好の女子であるというのなら話は別だ。
 普段捕える不逞の輩一人一人の件は覚えておらずとも、そういう珍しい捕物なら記憶に残らないはずがない。
 沖田は過去に、この場所で何を――、いや、誰を拾ったのか。
 斎藤は沖田の横顔を一瞥する。
 表情から何かを読み取れるかと思ったのだが、沖田はほんの少し揶揄された時と同様に、半笑いの困り顔をするだけだった。
 目の前に落ちている物をどうするか。
 恐らく、考えているのはそれだけだろう。
 斎藤は短く嘆息してから、草叢に倒れる女に目を向けたのだった。

     ***

「では、こうするとしよう」
 不毛な遣り取りを続ける佐々木と名賀の間に割って入ったのは、意外にも会津を統べる存在、容保であった。
 それまで特に口を挟むこともせず、ただただ詮議に耳を傾けていただけだった。
 それ故に、その場の全員がぴたりと口を噤むのには充分な一言だったのだ。
「余の側室と、そこの佐々木は何やら別な問題で揉めておるようだが、今は時実の一件を詮議していたはず。そうだな?」
 しれっと澄ました面持ちで同意を求める容保に、一同は慌てて肯定の意を表す。
 一瞬前まであれほどに気を昂らせていた佐々木と名賀でさえ、ばつが悪そうにしつつも大人しくなったのだから、流石と言わざるを得ない。
 静かになった室内をくるりと視線で一撫でして、容保は満足げに笑う。
「此度の件について、余としては差控処分ということで収めたいと思うのだが。そうだな、五日ほどの公務差控、ということでどうであろうか」
「さっ、差控!? って、あの、それだけ……でございますか!?」
 仰天したのは何も調役の藩士たちだけではない。
 伊織も辛うじて声には出さなかったものの、暫時言葉の意味が分からなくなる程度には驚いた。
 軽過ぎる、と思うのは、周囲の面々の様子から判じても間違った感想ではないはずだ。
「うむ。此度の件に関しては、どうやら余の側室も浅からず絡んでおるようだしな。あまり事を荒立てたくはない」
「し、しかし、殿! それではいくら何でも……!」
 調役の一人が異議を唱えようとするのを、容保は片手で制する。
「仮にも、そこの高宮伊織は新選組隊士だ。幾ら我が手に抱えた組織だとて、これを切っ掛けに内輪揉めでも起こされては適わぬ」
 よって、公務差控を申し渡す。と、容保は鷹揚に頷いてみせる。
 容保は周囲の呆気に取られた様を存分に堪能するかのようにしてから、広沢へ視線を滑らせた。
「そちにも同様、公務差控を……そうだな、そちの場合、五日も引っ込んでいてもらっては支障も出よう。よって、広沢。そちの場合は二日くらいで良かろう」
 それまで呆然と容保を直視していた広沢は、その声に弾かれたように伏礼する。
「……は、仰せの通りに」
「だが。高宮、広沢の両名には、時実の捜索を命ずるぞ? 差控はあくまで公務に限る。何も蟄居せよというわけではないのでな、仕事はしてもらうぞ」
 少々声を張って命じる容保に、伊織は思わず広沢を振り向いた。
 広沢もまた顔を上げ、ちらりと伊織に視線を投げたが、すぐに再び平伏し、容保の意向に従う旨を挙措に表す。
 これだけ寛大な措置で済ませてくれよういうのだ、役人たちが再び異議を申し立てないうちに容保に従っておくほうが賢明だろう。
 そんな打算もあって、伊織も広沢の態度に倣い、その場で容保に対して頭を垂れた。
 が、容保は尚も鷹揚な声で続ける。
「……それで、高宮」
「はい」
 伊織だけを名指して、容保は面を上げるよう促す。
「そちの出向期間も当然、時実が見つかるまで引き延ばさせてもらうことになるが、構わぬな?」
「「ええっ!?」」
 途端、伏していた顔をがばっと上げ、伊織と広沢は同時に声を上げた。
「まあっ、それは良いお考えですわ、殿! もういっそのこと、伊織殿にはこれからもずっと、本陣へ詰めて頂くのが宜しいのではないかしら」
(ええええっ!? ずっと!?)
 容保の裁量に、名賀が目を煌めかせて賛同する。その上、とんでもない提案まで持ちかけている。
 ふと横を見遣れば、広沢も声には出さないものの、猛烈に嫌な顔をして名賀を見ていた。
(うわ。広沢さん、多分私と同じ事考えてるな……)
「何を驚くことがある。当然であろう? 時実を見付けぬまま、一人新選組に戻って何事もなかったように過ごすと申すのか?」
「……いえ、それは――」
 考えてもみれば、容保の言い分は尤もなことだ。
 責任らしい責任も取らずに、期間が終わればとっとと屯所に帰ってしまうなど、決して褒められたものではないし、誠実とは言えない行いだろう。
(でも、だけど……。それじゃあ近藤局長が帰って来るまでに間に合わない――)
 近藤が戻るまでの間、という期限付きでの黒谷出仕だ。
 容保に従えば、土方との約束を反故にすることになる。
 伊織は考え込み、暫時の後、改めて顔を上げた。
 身分の差を表すかのように、雛壇の上の容保とは相応の距離があるが、その表情を読み取れぬほどに遠いわけではない。
 伊織が真っ直ぐに容保の双眸を見据えても、容保は一切感情を揺るがさずに伊織を見返してきた。
 同じ座敷に着いていても、他とは一線を画した高みに在る人だ。
 単なる目通りならばいざ知らず、こういう場に同席してみるとやはり天地ほどの身分の差を感じずにはいられない。
 だが、それに怯んで声を呑み込むことは出来なかった。
「――恐れながら、殿」
「ふむ、何か意見があるようだな?」
「ばっ、……高宮、この馬鹿者! 殿様に御意見など……!」
 傍らの広沢が咄嗟に伊織を咎め立てしようと向き直るが、容保はそれをあっさり却下する。
「よい、広沢。意見を聞こうではないか」
 容保が軽く片手を振って制すると、広沢も渋々と言った様子で引き下がる。
「余が許す。申してみよ、高宮」
「……ありがとうございます」
 伊織はその場で深く座礼し、今一度容保を直視する。
「殿のご意向は尤もな事と存じます。ですが、先程殿の仰せになられた通り、私は新選組の隊士。局長である近藤が京を離れております今、私が本陣出仕を延長するには副長土方の同意も必要かと」
 些か声音は萎んだものの、伊織はそこまで言うと容保からの返答を待つ。
 すぐ傍で広沢がまたぞろ何かを言いたげに口を開きかけたが、結局広沢が伊織を窘めることはなかった。
 それに代わるように、容保が口を開く。
 手にした扇子を閉じたまま、その顎に添えて天井を仰ぐ様子は、聊かの幼ささえ垣間見える。
「ふぅむ、それは一理ある、か」
 意見を吟味しながら容保が溢した言葉に、伊織はほっと胸をなでおろす。
「それでは……」
「うむ。土方には余から使者を出し、事の顛末を報せるとしよう。それでよいな」
 会津公直々が立てる使いならば、まず歪曲された説明がなされることもないだろう。
「はい、ご深慮に感謝致します」
 伊織は安堵半分、だがやはりどこか複雑な思いも半分といったところだった。

     ***

 詮議の対象である伊織と広沢が退場を許された後、調役の幾人かが神妙な面持ちで口を開いた。
「殿。これではいくら何でも示しがつきませぬぞ。広沢殿には兎も角、あのような小者に手ぬるい処分で済ませては、殿のご権威に関わります」
「同感ですな。内部の者ならばいざ知らず、外から入り込んで来た者には尚更、もっと重い罰を与えて然るべきと存じます」
 彼らが腹に据え兼ねているのは、あくまでも伊織の所業であって、それを監督する立場の広沢ではないようだった。
 容保の傍近くで控えていた名賀が反論しようと口を開く。
「! ちょっと、何ですって…!? 殿の下された処分に不満があるとでも!?」
「まあまあ、名賀。そう皆を責めるものではない」
 のんびりとした口調とは裏腹に、容保は賺さず名賀の声を遮った。
 気に入らない。
 外部の者だからと、余計に罰を重くする必要がどこにあるというのか。
 身内か否かは、罪の重さを左右するほどに重要なことではない、と名賀は思う。
「お止め下さいますな、殿!」
 尚もそう言い募ろうとする名賀に、容保はすっと目を細める。
 それは睥睨ではなかった。
 宥めるような、優しく諭すような眼だ。
「……」
「よいか、名賀。この者たちの申し分も、余は解せぬではないのだ。処罰は、その罪状に比例させるべきものであって、此度のことは確かにそれなりの処罰を与えてよいものには違いない」
「それは……」
 ぐっと言葉を詰まらせ、名賀は不満げに容保を見返す。
 だが容保のほうはそれを気にかけた様子もなく、控えていた手代木に目配せた。
「新選組へ、急ぎ此度の顛末を伝えよ」
「御意」
 手代木は容保の指示を受けて深く一礼すると、脇目を振る事もなく席を立った。
 それを合図とするように、他の家臣たちも未だ渋面を作りながらも、次々と場を辞していく。
 それを見送ってから、名賀は容保の真意を測るように視線を戻す。
 残ったのは、容保と名賀、そして容保の背後に控えて沈黙を守る小姓の三人だけだった。
 名賀の視線を受け、容保は些か疲れを滲ませた表情で微笑んだ。
「新選組の隊規というものは、至極厳しいものと聞いている。反すれば即刻粛清という、血の掟だ。そちは知っておるか?」
「……詳しくは存じません」
「高宮伊織、あの者もその掟に縛られている。新選組は会津の傘下にあるが、新選組を統べているのは局長の近藤と……副長である土方。隊規に背いた者を罰するのもまた、あの二人であって、我々ではない」
「それはつまり、会津の許に在りながら、会津の意には染まぬもの、とでも?」
「左様。新選組にしてみれば、会津は利害の一致故、身を寄せているにすぎぬのだろう。少なくとも、副長の土方という男は会津の達しがあったところで、己が理念に反する事ならば、そう安易に屈するような者ではなかろう」
 故に、その統制下にある者を会津が独断で処遇するわけにはいかない。と、容保は威厳も振るわずあっさり言いのける。
「高宮は元々、近藤の留守中のみの期限付きの出仕だったのだ。この程度のことで、あの者の帰るべき場所に禍根を残すべきではない」
 ただやはり愛鳥も惜しいので、捜索せよと指令を出した、と。
 名賀はそれ以上掘り下げて聞く気にもなれず、小さく吐息した後で話題を変えた。
「そういえば、此度のわたくしの所業については、如何様な罰を下さいますのか……。お伺いしても?」
 時実失踪の根源ともなった一件だ。そもそも名賀が不用意に出歩くことをしなければ、時実が失踪する事も伊織が糾弾される事もなかっただろう。
 名賀自身も罪悪感がないわけではなかった。
「わたくしこそ、処断されて然るべきでございましょう」
「ふむ。まあそうかも知れぬが、別に構わぬ。そちもまた、意に染まねば易くは折れぬ、己の掟をしかと持つ者なのであろう」
「……は?」
 これもまた、あっさり。
 名賀はぽかんと口を開けたまま、容保を見返した。
 憤りを見せるでも、諦め顔でもなく、ただただ鷹揚に微笑んでいる。
(それは……どういう意味なのかしら)
 これほど清々しく許されると、逆に「おまえなんかどうでもいいし」と言っているようにさえ聞こえる。
 少なくとも、名賀のお忍び癖は後見や身内にも累が及ぶ程には問題視される行動だ。
 それを、何の迷いもなく「別に構わぬ」とは、仮にも殿様がそんな対応で良いのか。
 呆気に取られていると、容保は僅かに面持ちを引き締めた。
「余はそちを責めようとは思っておらぬ。だが、そちを解放してやるわけにもゆかぬのも事実であるし、それがそちの為になるとも余には思えぬ」
 それだけは、努々忘れぬように――
 容保は名賀の返答を待たず、話はこれで終わりとばかりに座を退いた。
 その背を見送る名賀の胸中に、これまでに感じ得たことのない不快感が漂っていた。

     ***

「清水は行き倒れの名所か何かなんですかねぇ?」
 昏倒して起きる気配のない女をそのまま放置していくことも憚られ、沖田はやれやれとその傍らに膝を着く。
 小柄で細い身体は、けれど年頃の女子のそれであるように見えたし、こんな人目につかない奥まった場所で倒れている。
 何者かにかどわかされ、乱暴を働かれでもしたかと思ったが、一見して乱暴狼藉の痕跡は見られない。
「あれ? この人……」
 しゃがみ込んで行き倒れ人を観察していた沖田が、ひょいと顔を上げ、数歩下がった距離に立つ斎藤を見上げる。
「斎藤さん、ちょっと」
 ぱたぱたと手招きすると、斎藤も面倒そうにゆっくりと歩み寄った。
「ねえ斎藤さん。私の目、おかしくないですよね?」
「俺があんたの目の事など知るか」
「高宮さんて確か、今は黒谷にいるはず……ですよね?」
「? まあ、出奔していなければそうだろうな」
「だってほら、見て下さいよ」
 横向きに倒れている妙な身なりの女を静かに仰向かせると、沖田はまじまじとその顔に見入る。
 釣られて斎藤も、沖田の背後から身を屈めて覗き込んだ。
「……ね」
「……ああ、そうだな」
 共にじっと女の顔を眺め回していたが、やがてどちらからともなく互いに顔を見合わせる。
「どうする」
 端的に尋ねる斎藤の態度からは、端から沖田に判断を委ねる意向のようだ。
 何となく、他人事とは思えない顔をした女人。そうでなくとも、道端で倒れている者を見捨てて帰るわけにもいかない。
 沖田は苦笑しつつ女を抱え上げると、くるりと踵を返した。
「連れて帰りましょうか。一応」
「……それは屯所へか? それとも、黒谷へ、なのか?」
「屯所ですよ。こんな面白いもの、土方さんに見せない手はないじゃないですか」
 沖田は、意識のない人間を抱えているとは思えないほど軽い足取りで、風を切るように来た道を引き返し始める。
(沖田さんの言う『面白い』の基準は、いまいち分からん……)
 きっと、いや絶対に面倒事の種だろうに、と思うと、斎藤の足はずしりと重くなったのであった。

     ***

「わざわざの御足労、痛みいる」
「何、我が愚弟の醜態をお主にとくと聞かせたいと思ったまでよ」
 土方の許に手代木が訪れた頃には、既に日も傾いていた。
「……まあ、我が愚弟の素行は扨置き、報告しておこう」
 手代木の用件が何であるかは、聞かずと知れたことだった。
 障子戸を隔てて虫の声が辺りを包む。
 宵の帳が気配を漂わせるが、室内もまだ薄明るく、火を灯すにはまだ早い時分だろう。
「結論から申せば、五日の出仕差控で事無きを得た」
 手代木の一言一言に、土方は黙って耳を傾ける。土方に口を挟む気がないと知り、手代木も相槌を待たずに言葉を繋いだ。
「だが、御愛鳥の行方は未だ知れず、殿は高宮伊織にその捜索を御命じになられた。故に、高宮の黒谷出仕を少々引き延ばすことになるかも知れぬ」
 そこで初めて、土方の眉が跳ねた。が、すぐに元の沈着な面持ちに返る。
「時に、土方。あの場に出向かずに本当に良かったのか。恐らくあの娘、お主の来ぬ意味を誤解しているものと思うが?」
「いや。お気遣いは有り難いが、今更どう弁解するつもりもない。会津の内部でのことだ、俺が行ってどうなるものでもないからな」
 それに、と土方はほくそ笑む。
「てめぇが裁かれる立場になって、責任の所在ってやつを芯から考えただろう。大なり小なり、責任ってなぁ必ずついて回るもんだ。そいつから逃れることは出来ない。その道を自分で選んだ以上は、な」
 土方の正論に、手代木は苦い笑みを漏らした。
「そうであろうな。己が意思から生じたものからは、何人も逃れ得ぬ」
 それから幾許かの時間が流れた頃、屯所には沖田と斎藤が戻り、新たな珍騒動が起こることになるのであった。


【第二十五章へ続く】
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