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第2部
第二十章 愛別離苦
しおりを挟む伊織の目の前には、唖然とする梶原の顔があった。
その視線は、伊織の頭上に釘付けである。
無理もない。
伊織が探し出し、連れ戻した容保の愛鳥は、見事に勇ましい容姿の鷹へと変貌を遂げていたのだから。
雛鳥の可愛らしさとは打って変わって、目を疑いたくなるほどの勇壮さである。
暫時口を半開きにして、声もない梶原。
そろそろ伊織は溜まりかね、こほん、と一つ咳払いをした。
それで漸く我に帰ったか、梶原は慌ててかぶりを振った。
「はっ……! いかん、我を失っていた! しかしこれが、あのピヨ丸様だと申すのか」
「間違いないようです」
ピヨ丸は大人しく伊織の、何故か頭に止まっている。
時折両翼をばたつかせては、座り心地を確かめるように身じろぎし、その度に伊織の結い髪は無残にも踏み荒らされた。
「ちょっと目を離した隙に、こんな立派な成鳥になろうとは……」
奇妙なこともあるものだと、ぶつぶつ言う梶原。
本当にこれがピヨ丸なのか半信半疑とでもいうように、梶原はその後も暫く鷹を眺め回していた。
そうして日没間際、ようやっとピヨ丸を容保の許へ連れて行くこととなった。
ピヨ丸かどうかの真偽は、容保の前に出せば自ずと分かるはず。
飼い主にあれだけ懐いていたのだ、きっと自分からいつものように主人の傍へ寄り添うだろう。
それが、何よりの証拠であると梶原は判断したのだ。
***
未だ床に臥す容保の寝室を訪れた、二人と一頭。
相変わらず容保の顔色は優れない様子だったが、伊織は梶原の後に続いて入室した。
「殿、急報にございます」
梶原が声を掛けると、容保は首だけをこちらへ回し、二人の姿をその視界に捉える。
容保が掠れた声音で「何だ」と問い返した矢先。
伊織の頭上を引っ掻くようにして、鷹が跳躍した。
「! いだだだだだっ!?」
「!?」
両翼を広げたのもほんの一瞬。
鷹はすぐさま畳の上に着地した。
頭皮から出血でもしたかもしれない、と伊織は自らの頭を擦る。
突然襲った痛みに、不覚にも涙目になってしまった。
そんなことはいざ知らず、鷹は大きな体躯を左右に揺さぶりながら、ぼてぼてと容保に歩み寄っていく。
「伊織殿、これは間違いなさそうだ」
その様を眺めながら、梶原は伊織にだけ届く声で言う。
「だから言ったじゃないですか、本物だって」
言い返す伊織の声も、やはり小声だ。
「――にしても、徒歩で近付いていくところがまた、ピヨ丸様らしいというか何というか」
「部屋の中でばさばさ飛ばれたら大変ですよ」
「しかし自らそんな気遣いが出来るというのがまた、ピヨ丸様らしからぬ……」
「…………」
後半の辺りは伊織も否定はしなかった。
***
憔悴しきっていたに見えた容保も、思わぬ展開に側近の肩を借りて身を起こした。
ぼてぼてと歩み寄っていったピヨ丸は、既に容保の膝の上にどっしりと蹲っている。
「これは、驚いたな」
たっぷりと間を置き、容保も我が目を疑うように膝の愛鳥を見て言った。
「献上されてよりこれまで、なかなか成鳥にならぬと思ってはいたが……」
一方、ピヨ丸はじろじろと眺め回す容保の視線など気にも留めていない様子。
三者は共に、不思議だ、奇妙だ、しかし驚いた、などとそんな会話を優に半刻も交わした。
それから漸く、容保が場を仕切るようにぱしりと膝を叩いた。
「ピヨ丸も大人の仲間入りであるな。よし、ここは幼名を改め、何か相応しい名をつけてやらねば」
「げ、元服……でございますかな、殿」
梶原がやや呆れたように確かめるが、容保は実に真摯な面持ちで「うむ」と一言返すのみ。
我が子も同然の可愛がりようである。
容保は義理の姉からの贈り物だと思って可愛がっているのだろうが、この徹底振りには伊織も少々面食らった。
容保にとって、照姫とはどういう存在なのか。
ただの義姉であるはずなのだが、それ以上の思いがそこにあるように思えてならなかった。
(それだけ照姫様が心の支えになってる、ってことかな……)
姉弟の込み入った事情に介入する口など、当然伊織は持ち合わせていない。
よって、伊織は内心で勝手にそう納得する。
容保自身の支えとなり得るものは唯一、幼き時分から身近に過ごした照姫だけなのだろうか。
彼女から贈られた愛鳥を見る容保の眼差しは穏健で、微笑ましいようにも思える。
だが、こうして病床に就く容保の姿は、暗に会津藩の末路を示唆している風にも感じられた。
今はまだ、長州藩こそが逆賊と呼ばれている時世だというのに。
(時尾さんがあんなこと言うから……)
容保に心許無げな印象を拭い去れないのは、時尾から守護職退任の是非を強く言い聞かされて間もないからだろうか。
「伊織殿? どうした」
いつの間にかぼんやりと物思いに耽っていたらしい。
梶原に声をかけられたお陰で、遠のいていた二人の気配が急に近くなった。
いえ、と首を横に振り、伊織は居住まいを正した。
すると、再び話を元に戻したらしく、容保は不意に伊織へ話を振る。
「伊織、そちはどのような名が良いと思う」
「! えっ、ぇーーと……」
突然そんなことを問われても、今まで「ピヨ丸」で馴染んでいたせいか、特にこれといったものも浮かばない。
「と、時に、殿の御愛鳥は照姫様よりの贈り物だとか……。それならば、照らす、という字を入れるのは如何でしょう?」
すると容保は、さも意外そうな面持ちで伊織を凝視した。
もしや何かまずいことでも口走ってしまっただろうかと、伊織は反射的に身構えてしまった。
が、容保はすぐに普段の柔和さを取り戻し、微かに笑った。
「よく知っているな。如何にも、鷹の雛は照姫より余に贈られた」
言って容保はその膝にどっしりと圧し掛かる鷹に視線を落とす。
その仕草は、どこか憂いを含んで目を伏せたようにも見えた。
「確かに、照姫より贈られたものだと、あの時は疑いもせなんだが……」
容保は一拍置いて、伊織に視線を戻した。
そうして一つ頷いたかと思うと、容保はふと独り言のように呟く。
「ときざね……」
「は、……それは?」
梶原が問うと、容保はちらりと梶原にも視線を向ける。
「時の真実、と申す意味で、時実とはどうだろうか」
伊織は思わず、隣の梶原と顔を見合わせた。
今し方伊織が提案した「照」の字は、全く含まれていない。
(却下ですかい、容保様……)
自ら尋ねておいて、伊織が提案した矢先にいともあっさりと無視した意見を述べる容保。
だが、伊織の気にかかったのは、それではない。
時実の名のうちに、時尾と同様の一字が見られることに引っ掛かりを覚えていた。
(もしかして、ピヨ丸の本当の飼い主が時尾さんだって、容保様は知っている――?)
少々勘繰りも混じるが、まるきり時尾を除外視して名付けたものではないように思えた。
「さて、どうだろうか? その方らの賛同がなければ別な名を考えようと思うが」
「あ、ええ……そうですね。私は良き御名と存知ます。ねぇ、梶原様」
咄嗟にそんな返答をしつつ、伊織は梶原にも同意を求める。
するとやはり梶原も同じく諸手を挙げて賛成の意を示した。
「そうか、ならば名は時実で決定であるな!」
容保は顔を綻ばせて言うと、掲げるようにその腕に鷹を止まらせた。
一先ずこれにてピヨ丸失踪は一件落着、漸く公用方に戻れる。……と、伊織が安堵した矢先だった。
「伊織、これよりはそちに時実の世話を任せたいと思うのだが……。引き受けてくれるか」
「はい! それはもう………」
安堵で笑顔になっていた伊織だが、つい口走った自らの返事の途中で声が萎んだ。
「な、なんですと?」
「今、はい、と申したな? 余はしっかりとこの耳に聞いたぞ」
「いや、それはその、つい条件反射で」
まさか鷹の世話なぞ任せられるとは思いも寄らなかったのである。
ただでさえ公用方の見習いで右往左往しているというのに、この上時実の面倒まで見られるはずがない。
ここはたとえ失礼に当たろうとも、正直に断ってしまったほうが身のためである。
「恐れながら、殿。私は公用方の見習い中でもあります。時実様の御世話までは……」
「何、身の回りの世話をしろと申すわけではない。どちらかと申せば遊び相手になってくれということだ」
つまりは、政務に追われ病床に臥せりがちな容保に代わり、時実を外で遊ばせてやってくれ、ということなのだと容保は語る。
「そちの手が空いた時でよい。頼まれてくれぬか」
鷹と触れ合うことに自信はないが、そうまで言われては無碍に断ることも憚られる気がする。
暫時考えて、伊織は結局、それを受けることにしたのであった。
***
壬生村、新選組屯所の庭にしゃがみこむ隊士が一人。
手に持った木の枝で、ぐりぐりと一頻り地面を弄り、ふと中天を見上げる。
「帰ってきませんねぇ」
「ったりめぇだ。んな早く帰って来るわけがねぇだろう」
ぼやく沖田に、土方はすぐ背後の縁側から面倒臭そうに返した。
「今戻って来ねぇってことは、出自も何とか詮索されずに済んだんだろ。まあ、いずれ勝手に帰ってくらぁ」
「近藤さんや平助もいないし、尾形さんたちもいないし、つまんないんですよねぇ最近」
「阿呆か。詰まろうが詰まるまいが、大体一番組はこれから巡察なんじゃねぇのか、おい」
詰まらないと愚痴を溢す以前に隊務をこなせ、と土方は説教をし始める。
「あんな豆鉄砲一人いねぇぐれぇで、意気消沈する馬鹿がどこにいる」
「会津様のところはそんなに楽しいんですかね。ねぇ土方さん?」
「総司、てめぇ……。さっぱり俺の話を聞いてねぇな」
土方が憮然とする傍ら、沖田は依然として退屈そうに木の枝を弄んでいる。
詰まらないことに気を回すよりも、もっと他にやるべきことがあるだろう。と、土方は軽く吐息を漏らした。
そこへ。
「土方副長」
と、やや緊張した声音で呼びかける者があった。
屯所の入口に見張り兼来客の取次役として立たせていた隊士の一人であった。
「どうした」
小走りにやって来た隊士を振り向き、土方はきりりといつもの強面に直る。
「来客です。会津藩士と自ら称しておりますが……如何いたしましょう」
土方は、ぴんと眉を跳ね上げた。
会津藩士、という言葉に反応したのは言うまでもなく、それは傍にしゃがみ込む沖田も同様に反応を示したようだった。
「土方さん。これはもしかして高宮さんが何か仕出かしたのかもしれませんね?」
沖田はそう言いつつも、どことなく愉快げな表情である。
伊織が何らかの失態を見せ、新選組に強制送還でもされてきたのではないか。そんなことを、沖田はさも心配げに言う。
それですら楽しそうに見える。
黒谷で伊織が何かを失敗、即屯所に戻ってくると考えているのが丸分かりである。
「会津藩士か。そいつは何だ、黒谷からの使者か?」
沖田の物言いはさて置き、他に会津の者が尋ねてくる理由も特に思いつかない。
ゆえに、そんなことを聞き返したのだが、取次ぎの隊士から返った言葉は意外なものだった。
「いえ、それが、黒谷よりの正式な御使者ではないようです。個人的に確かめたいことがあるとかで……」
「確かめたいこと……」
土方は腑に落ちない顔で沖田を見遣った。
見れば、恐らく沖田も同じ事を考えているのだろう。僅かに口の端が上がっている。
「ほら、土方さん。やっぱり高宮さん、身分のことで……」
「しかしな、佐々木が後ろ盾にあるってのに、いきなり藩士が個人的に屯所まで来るか?」
「でも、所詮佐々木さんですから。怪しまれる余地は充分ですよ。会津様が内々に調査の手を回すのも可能性大有りじゃないですか」
「………」
こそこそと耳打ちし合う土方と沖田。
取次役の隊士は怪訝そうにしながらもじっと土方の返答を待っていたが、やがてしびれを切らしたか、「あのう」と声をかけてきた。
「来客は一人だけですが、お通しして構いませんでしょうか?」
「あ? ……ああ、そうだな。お通ししろ」
土方はやっと隊士に向き直り、一拍置いて返答した。
隊士は土方の返答にきびきびと了解し、再び正面門のほうへと駆け戻っていった。
「誰でしょうね? 勿論私もお話聞いてて構いませんよね? ダメって言っても聞かせてもらいますからね~」
「来客だからって、別に何も出ねぇぞ」
「やだな~。お客人用のお菓子狙ってるように見えますか? 高宮さんのことを心配すればこそ、私もそのお武家さんにお会いしたいんですってば」
結局、伊織が戻って来そうな気配を感じ取りたいだけらしい。
確かに、あれがいないだけで随分と屯所内は静かだ。
尤も、近藤を筆頭に内部の者がごっそりと江戸へ下っていることを考えれば、この静謐さも至極当然なのだろうが。
「ああ、でも」
と、沖田は不意に眉宇を顰めた。
何か重要なことでも思い出したかのような面持ちになった沖田は、土方に振り向くなり凄味のある眼差しを向けてきた。
「高宮さんが帰ってくると、当然、もれなく佐々……」
「待て! それ以上言うんじゃねえ。噂をすれば何とやらって言うだろうが!」
土方が叫んだと同時に、二人の背後で砂利を踏む音が聞こえた。
「御免。御主が副長の土方殿か」
「ほら見ろ! てめぇが佐々木の噂なんかしやがるから……!」
「えー、違いますよ土方さん。ほら、肥後守様の御家中ですよ」
慇懃ながらもどこか尊大な物言いで声をかけられ、土方はまたてっきり佐々木が現れたのかと早合点していた。
が、沖田に促されるまま振り返れば、そこに佇んでいたのは、佐々木などではなかった。
ついさっき取次ぎを許可した、会津藩士のようである。
土方の反応に怪訝な表情をした、けれど穏健な雰囲気を持つ壮年の武士であった。
「……あー……。これは、失礼致した。会津の御家中と伺ったが……」
御名を何と申されるか。
土方がそう問うよりも早く、男はきっちりと頭を下げて名乗った。
「某は会津藩大目付役、高木小十郎と申す者。以後お見知り置き頂きたい」
「あ、ああ……新選組副長、土方歳三だ。こっちは副長助勤、沖田総司」
土方も同様に名乗り返し、ついでに紹介に与った沖田も、軽い会釈で挨拶とした。
***
「それで、確かめたいことがおありだとか?」
副長室でゆるりとくつろぎ、土方は漸く本題に触れた。
いよいよ伊織の出自について根掘り葉掘り問い質されるかと、多少身構えていたのだが、直後に土方の懸念は徒労だったことが判明する。
高木の開口一番は、伊織の「い」の字もなかった。
「うちの貞をご存知だろうか!?」
真剣そのもの、寧ろ逼迫した空気さえ纏う高木は、身を乗り出してそう問うた。
「さ、貞……?」
「左様! うちの貞を知らんか!」
「知らんか、と申されましても」
ずいずいと身を乗り出して迫ってくる高木に、土方は座したまま徐々に後退する。
唐突にそんな事を訊かれても、出せる答えは唯一つ。
「知らん」
「なっ何だとぉぉおおおう!!」
高木は、鼻頭同士が擦れんばかりに迫ったままで怒鳴った。
唾も飛ぶ飛ぶ。真正面に詰め寄られた土方の顔面は、被害甚大である。
「きったねぇな! 何なんだよ、知らねえもんは知らねぇ!」
「知らんわけがあるか! 私はこの耳でしっかり聞いたんだ! 貞と瓜二つな新選組隊士がいると……!」
貞、という名を耳にしたのは、土方も沖田も初めてである。
まして、そういう隊士がいるという話自体、過去一度も聞き及んだことはない。
未だ興奮冷めやらぬ様子の高木は、決してふざけているようには見えない。だが、土方はどうにも溜飲の下がらない思いを拭えなかった。
傍らで無作法にも胡坐を掻く沖田とも視線を合わせたが、しかし三者共に沈黙したきり。
やがて沈黙に重圧のようなものが重なり始めた頃、沖田が不意に立ち上がった。
「やれやれ、何かと思えば人探しでしたか。残念ですけど高木さん、貞なんて子はうちにはいませんよ」
他を当たってみることです。と、露骨にがっかりした風に突っ撥ねる。
すると、肩肘を張って目をぎらつかせていた高木が、目にも明らかに悄然となった。
「……そうか、おらんか」
身を乗り出していた姿勢も解き、しおしおと元の位置へ戻る。
「貞は私の娘なのだ。卯月に黒谷を訪れ、我が殿に目通った後、京見物していたらしいのだが……。それ以後の消息がぱったりと途絶えてしまっている」
高木は低い声ながら細々と語る。
土方としては別段そんな身の上話を聞くつもりは毛頭なかった。が、一度は立ち上がった沖田が、何故かもう一度座り直したのを見ると、渋々己も耳を貸すことにした。
「皆、娘はもうこの世にないだろうと言うが……。しかし、それでも私は娘がまだ生きていると信じている」
「ふぅん。行方不明、ってぇわけだ」
「娘はもしや、何者かにかどわかされたのでは、と思うのだ」
高木の面持ちは、語るほどに悲痛さを帯びていくようだった。
娘の生死も分からぬ状況というならば、確かに気の毒なことだ、と土方も思う。
「それで? 行方を眩ます直前を知ってる奴ぁ、全くいねえってんですか」
土方はそう問うと同時に、若い娘が失踪する理由など、大方惚れた男と駆落ちした程度だろう、と高を括る。
だが、高木は土方の問いに一言も答えることなく目を伏せ、黙り込んでしまった。
「……ああ、いや、申し訳ない。別に詮索しようとか、そういうわけじゃあねえんだ。そりゃ言いたくねえこともあらぁな」
これは何か言い難いことがありそうだ、と土方は睨む。
いよいよ駆落ちの線が濃い。
武家の娘がそこらの男と駆落ちなど、いかにも外聞が悪い。
その後も暫時押し黙っていた高木だが、ようよう顔を上げると、意を決したかのように口を開いた。
「どうやら娘は――」
(……どうせ駆落ちだろ、勿体振んなよ)
おざなりに耳を傾けつつ、土方は冷めかけた茶を一口啜る。
「娘は、清水の舞台から転落したらしい」
「ブフォッ」
飲み込む直前、土方は盛大に茶を吹き出した。
緑茶は見事に正面の高木を直撃し、綺麗に整えられた月代を滑って、雫が額からぽたぽたと滴る。
当然と言えば当然だが、高木のその顔は別な意味で深刻そうである。
「清水の舞台から飛び降りたァ!?」
「飛び降りたのではなく、転落だ!」
「似たようなもんじゃねえか! なんだそりゃ、自害か?」
「ちょっと土方さん、言い方が露骨ですよ」
あまりに直球な質問を口走る土方を、沖田が慌てて宥める。
実際に娘を失ったかもしれない人間の前で言うには、自害という言葉は少々躊躇うべき物言いだ。
「自害ではないと思っている」
「んじゃ何でえ、誰かに突き落とされたか」
「いや、娘は誰かに恨みを買うような人間ではない」
「……にしても、随分衝撃的じゃねえか」
土方の予想を遥かに超えた証言であった。
未だ驚愕の最中にある土方を尻目に、高木は更に続ける。
「落ちたはずの娘が、今も見つかっていないのだ。死んでいるなら遺体があるはず……、しかし、草の根を分けても、音羽の滝まで調べてみても、遺体はどこにもなかったそうだ」
それを最後に、貞に関する情報は何一つ伝わってこないという。
土方も沖田も、言葉すらなく渋面を作ってい聞いていた。
「新選組の隊士に、貞によく似た者がいると聞き、万に一つの可能性を求めてもいたが……。よく考えてみれば、ここは女人に務まるような生易しい場所ではなかったな」
高木は力なく、息混じりに自嘲する。
確かに、女人の入隊は認めていない。
たとえどんな女傑であろうと、入隊させたところで実際の隊務について来れるものではないと、土方も考えている。
だが。
だがしかし、である。
(いるんだよな。女人ってぇか、童女みてえなのが、一人)
その上、いつか似たような話を聞いたことがあった気がする。
(あいつも確か、清水の舞台から……だったよな)
自ら儚くなろうとするか、誰かに突き落とされるかでもしなければ、そう簡単には転落したりしないだろう。
尤も、土方の心中に描く人物の場合は、何者かに突き落とされたというものだが。
「ねぇ土方さん」
沖田が真正面の高木に釘付けになったまま、曖昧な声を出した。
「私、何だか貞さんに似てる人を知ってるような気がしてきたんですけど……気のせいですかね」
「奇遇だな、総司。俺もちょうどそんな気がしていたところだ」
「知っている!? 本当かっ! やはり貞は新選組にいるのか!?」
こっそり囁き合っただけだというのに、高木は耳聡く聞き取ったらしい。途端に目を輝かせた。
「いやいやちょっと待て。いるとは言ってないだろ!」
「だが確かに今、知っていると……!」
「高木さん、貞さんがうちにいないのは確実ですよ。ただね、その貞さんに似てるって人が……」
沖田の掻い摘んだ説明が終わらぬうちに、門前に見張りとして立たせていた先刻の隊士が再び姿を現した。
「副長、失礼します」
「あん? なんだ、また厄介な客でも来たか?」
客人の高木を前にして、清々しいまでの嫌味な言い方である。
「いえ、厄介な客ではなく新入隊士です」
「ああ、そうか。来たか」
「待たせておきましょうか?」
「いや、行こう。そういうわけだ、高木さんよ。残念だが人探しなら他を当たってくんな」
来客に気遣って申し出た隊士を制止し、土方は素っ気無く高木に言う。
「待ってくれ。今沖田殿が言いかけたことだけでも聞かせてはもらえまいか。この通りだ」
深刻に食い下がる高木は、更にその額を畳に伏した。
ただでも矜持の高い会津武士が土下座をしたのを、土方は初めて目の当たりにした。
「お、おいおい。そう頭を下げられても……」
一時狼狽しかけたが、土方は一つ息をついて沖田に目配せた。
「しょうがねえな。じゃあ、俺は先に失礼するが、後はこいつから適当に聞いてくれ」
土方はそう言い放ち、隊士を伴って部屋を出て行った。
***
部屋を出た土方の、去り行く足音が聞こえなくなった頃。
高木は沖田を凝視したまま、ごくりと生唾を飲み下した。
「お主は、何か知っておるのだな」
「ええっ!? いや、特に何か知っているというほどじゃ……」
「何でもよい! 貞に関係のありそうなことならば是非聞きたい!」
「うーん、それじゃ言いますけどね……」
これから話すことは、高木の娘であるという貞に、直接何らかの関係があるわけではない。と、沖田は予め強く念を押した。
「わかった。何か手がかりになりそうな話ならば何でもありがたい! 貞に似ているという隊士は確かに新選組にいるのか?」
「容姿が似てるかどうかは分かりませんよ。私も土方さんも、貞さんにお会いしたことはありませんからね」
「貞の容姿はだな、こう、女子のくせに髪を髻に結っただけでな、髷らしい髷を結っていないのだ。いつもいつも髷を結うように言い聞かせていたのだが……全く我が娘ながら何ともお恥ずかしい限りで……」
高木は尋ねてもいない貞の容姿について、捲し立てるように話し出す。
「あの、高木さん、容姿はこの際さて置いて。先ほどの話にあった、清水の舞台から転落っていうあれなんですが、ええーと」
そこまで言って、沖田は少々言葉を濁した。
「やはり清水寺に何かがあるのか!?」
「いえ。実は、新選組にも清水から転落したと言う者がいるんですよ」
「…………」
高木は、あんぐりと口を開けたまま沖田を凝視した。
「まあそれも本人がそう言っているだけで、私が実際に転落の瞬間を見たわけではないんですけど」
「…………」
「あの、高木さん? 聞いてます?」
「……それだ」
「え?」
「それだ!!」
「いや、でも、話はそれだけで、貞さんに似ているかどうかまでは分かりかねますよ?」
この程度の情報で、一体何の確信を抱けるというのか、と沖田は少々疑問に感じる。
とは言え、高木にとっては余程に切実な問題なのだろう。そもそも新選組の屯所に来た経緯も、恐らくは藁にも縋る思いで噂を確かめに来たものと思える。
「清水の舞台から転落するなど、そう滅多にあるものではない!」
「そりゃあ、そうでしょうけどねぇ」
「沖田殿。頼む、その者に会わせては貰えまいか? でなければ、姿を見るだけでも良い!」
「えぇっ。そう言われても……」
どうしよう、と沖田は項を掻いた。
会わせる会わせない以前に、件の人物は今この新選組屯所にはいないのだ。
「顔を見るだけだったら、多分黒谷に行けば見られるんじゃないのかな。彼は今、公用方にご厄介になってるはずですから」
「黒谷? 公用方?」
飄々と言ってのける沖田を不可解な眼差しで眺め、高木は眉を顰めた。
だが、そんな不審の眼差しを向けられても、沖田にはそれ以外に答えようもなく、少々困り顔で苦笑する。
「それはまことか。その者は今、会津に仕えていると?」
「ええ。ま、黒谷に居ようと屯所に居ようと、私たち新選組隊士はみんな、会津に仕えているようなものだと思いますけどね」
「本当に、黒谷にいるのだな?」
「そのはずですよ。会いに行くんなら、私もお供しますけど」
***
黒谷、会津藩本陣。
「ぶふぉっくしょぉーい!」
容保の居室から下がり、伊織は外廊下を行く。
豪快なくしゃみをしたのは、その途中のことであった。
ひとつ鼻を啜り、伊織はふるりと肩を震わせる。
「うう、風邪かな」
ちらりと庭の景色を眺めれば、秋も盛り。
季節は移ろって暫く経つというのに、自らが少々滑稽なように思えた。
季節の変化よりも、急激な環境の変化のほうに、身体が付いていかないのかもしれない。
平成から幕末に来た直後には何ともなかったのだが。
あの時の変化に比べれば、新選組から会津藩本陣に身を移すぐらい、何でもないはず。
だが、きっと今回のような環境の変化のほうが身体に変調を来たし易いのかもしれない。
(早めに休もう、今日は)
伊織はそう考え、部屋に向かう足を早めた。
が。
「!」
伊織は弾かれるように周囲を見渡し、咄嗟に身構えた。
人の気配がする。
いや、それだけではない。
視線だ。
迷い無くこちらに注がれる視線を感じる。
だが、見回した伊織の目には、何者の姿も映らなかった。
(曲者……!?)
此処は黒谷金戒光明寺。会津藩本陣である。
そこに易々と忍び込む者があろうとは。伊織の背に緊張が走った。
視線の出所を探して、ごくりと固唾を飲む。
と、次の瞬間、伊織は外廊下から庭の玉砂利の上へと飛び降りた。
「そこだ!」
くるりと身を翻して見据えた先は―――
先まで伊織が立っていた、外廊下の縁の下。
曲者が潜むと思しき、縁の下の暗がりへ、伊織は人差し指をびしりと突きつけた。
「此処が京都守護職会津中将松平肥後守様御本陣と知っての所業かっ!?」
間者ならば、見逃すわけにはいかない。
腕に自信はないながら、伊織は出せる限りの大音声で威嚇した。までは、良かった。
縁下に潜む影を目の当たりにした瞬間、伊織は喫驚した。
「お、っ……!?」
「あはははは。見つけましたよ高宮さーん」
朗らかな調子で笑声を上げつつ、縁下から這い出てきたのは、伊織もよく知る人物。
「おっ、おき……沖田さん!?」
何故此処に沖田がいるのか。あまりに唐突な出現に、伊織は狼狽した。
縁の下から完全に姿を現すと、沖田は袴の埃をぱたぱたと両手で払う。
「高宮さんに是非会いたいという人が、屯所に訪ねてきましてね。どうしてもと言うので此処まで案内してきたんです」
沖田は簡潔に説明すると、縁の下の暗がりを振り返り、未だ姿の見えぬ誰かを呼んだ。
伊織はつられて沖田の後方を覗き込む。
すると壮年の武士らしき男が、暗い縁下の影からぬっと這い出て来るのが見えた。
「?」
伊織は首を傾げた。
ようやく這い出てきた人物は、壮年の武士。
しかし、初めて見る顔だった。
全く見覚えもないその侍は、伊織の顔を見るなり双眸をかっ開いた。
「? な、何か私に御用ですか」
男の予期せぬ反応に、思わずぎょっとした伊織だが、そこはあくまで冷静に振る舞う。
「私が高宮ですが……。ええと、初めてお目にかかります。……です、よね?」
初対面と確信していながら、つい男にも同意を求めてしまった。
男の瞠目振りが、さながら意外な知人と偶然再会したかのような雰囲気だったからである。
だが、伊織の戸惑いとは裏腹に、男が同意を示すことはなかった。
男の口は何か言いたげに何度も開閉を繰り返していたが、手足をもつれさせながらやっと立ち上がるまで、ついぞ言葉らしい言葉は発せられなかったのだ。
「あの、沖田さん、この人一体何なんで……」
「貞ぁぁあああ!!」
「えっ、……はぁ!?」
「貞おまえっ、やっぱり生きてたかバカぁああ!! おかえりおかえり黄泉がえりっ!」
男は息継ぎも無しに歓声のようなものを上げ、賺さず伊織に抱きつかんと突進してきた。
それを寸でのところでかわすと、男は勢いをつけたまま、玉砂利の上に豪快な滑り込みをする。
「なっ何なんだ急にあんた…!」
「うわー。高宮さん、今のかわしはお見事ですねぇ」
と、傍観中の沖田はパチパチと手を叩く。
「沖田さん、何なんですかこの人。貞って誰ですか、なんで突進してくるんですか…!」
「あはは、すみません。貞さんて娘さんなんだそうですよ。もしかして高宮さんなら、何か心当たりあるかなぁと思いまして」
飄々と言ってのける沖田に、伊織はげんなりと肩を落とした。
「何言ってるんですか。私に知り合いが少ないことは沖田さんもご存じですよね? 私がこの人の娘さんを知っているわけがないじゃないですか」
「そうですか、残念ですねぇ。高宮さんも知りませんか」
残念ですねと言いながら、その物言いはあまり残念そうには聞こえない。
すると、伊織に抱き付き損ねた件の男が、沖田との間に割って入り、やおら伊織の腕を掴んで絞り上げた。
「貞ァーーー!」
「いだだだだだっ!?」
ぎりぎりと捻りを加えられ、皮膚と神経の引き攣る痛みに耐え切れず、伊織は思わず大声を上げた。
「おおおおまえという娘はっ! 父に向かって何だその態度は!?」
「ヒーーー、おっさん痛いって! 人違い人違い!!」
「おっさんじゃない、父上だ!」
「いいから放せって、もう!!」
大人の男の握力たるや、今にも腕を引き千切られそうなほどである。
うっかり目尻に涙も浮かぶ。
「まあまあ高木さん、落ち着いて下さいよ。この人は本当に貞さんじゃないんです」
「な、なんと……! それは真か」
漸く仲裁に入ってくれた沖田に宥められ、男の注意が沖田に移る。と、同時に雑巾のように絞られていた伊織の腕もやっと解放された。
「んもう、やだなあ高木さん。最初に断っておいたはずですよ。貞さんは隊士の中にはいない、って」
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高木は悄然と項垂れたかと思うと、そのまま地べたに崩れ落ち、魂でも抜けてしまったかのような呆け顔で伊織を見詰め直している。
「これほど貞に似た容姿で、本当に貞ではないのか……」
「残念ながら、この人は高宮伊織といって、貞さんとは全くの別人です」
「記憶でも失っているだけで、本当は貞だったりしないか」
「記憶は失っていませんし、貞さんじゃありませんよ」
「だが、清水から転落したなら、一時的に貞としての記憶を失っていてもおかしくは……」
「しつこいようですが、この人は高宮伊織といって、更に付け加えると歴とした男ですよ」
「いや、しかしこの顔は貞そのもの……!」
「高木さんもしつこいですねぇ」
沖田の呆れた口調を最後に、高木はぐっと眉間に皺を寄せる。
そして、まるでねめつけるように伊織を一瞥した。
「…………」
「な、何ですか。私は男ですよ。あなたの娘さんではありえませんよ」
またも突進されては堪らない、と身構えたが、意外にも高木はただ伊織の顔を見るのみ。
「……そうか、あい分かった。不躾な真似を致した」
「あ、……いえ」
拍子抜けなほど、高木の様子は一転していた。
高木は打ち沈んだ面持ちのまま踵を返すと、力ない足取りでその場を去り始める。
「えっ、あの、ちょっと?」
特に引き止めなければならない理由もないのに、伊織は思わず声をかけてしまった。
「高木さん、もういいんですか? もうちょっと他に尋ねる事とか相談とか、ないんですか」
立て続けに沖田が言うと、高木もほんの少しばかり立ち返り、明らかに気落ちした声で返す。
「すまんが、日を改めようと思う。今日はこれで失礼する」
ぼそりと呟くと、高木は目も合わせずに踵を返した。
(……嵐のような人だな)
唐突な展開に多少動揺した余韻もあってか、伊織は呆然とそれを見送った。
***
「あーあ、行っちゃいましたね」
「仕方ないじゃないですか、私はあの人の娘じゃないんですから」
まるで自分が高木を苛めて追い払ったような後味の悪さを感じたが、あの場面ではとっさに他の返答は浮かばなかったのだから仕方がない。
もし仮に何か高木を気遣う言葉をかけたとしても、下手な慰めにしかならなかったかもしれない。
「随分気落ちしちゃったみたいですねぇ、高木さん」
沖田の口調は何か含みがあるとは思いがたいものだったが、伊織はそれに相槌を打つことが出来なかった。
行方不明の娘を捜す親。
それだけで自分の身の上を改めて思い知らされた気分だった。
ここに元気で暮らしていることを、どうやっても知らせることが出来ない。
恐らくは、平成の現代に住む自らの両親も、きっと今の高木と同じなのだろう。
そう気付けば、今からでも高木の後を追い、何か言葉をかけたい衝動に駆られた。
だが、伊織の足は何故かぴたりと地面に貼りついたまま、高木の去っていくほうへ踏み出すことが出来なかった。
脳裏を、現代の光景が駆け抜けていく。
通い慣れたはずの校舎、制服姿の友人、住み慣れた町、住み慣れた家―――。
無駄が出るほどに明るかった両親の顔が瞼に浮かんだ。
伊織は徐に自らの纏う小袖の袖口を引き延ばし、ぼんやりと眺める。
現代にいる頃は憧れて止まなかったこの時代に、放り込まれて早幾月。
もはや現代で暮らしていた頃の記憶が遠い昔のことのように感じられた。
無性に懐かしく、寂寞の念に駆られた。
「……元気にしてるのかな」
「はい? 何です?」
沖田に問い返され、伊織は漸く現実に引き戻された。
はっと顔を上げれば、沖田が怪訝そうな面持ちでこちらを見ている。
家族の顔を思い描くうちに、ついぽつりと脈絡のないことを呟いてしまったらしい。
「あっ、何でもないです。こっちの話です」
首と両手を慌てて左右に振るが、沖田は腑に落ちないといった表情で見返すばかり。
「ちょっといろいろ思い出してしまって。すみません、今の独り言ですから聞き流し……」
早口にそこまで言い、いつものように笑おうとした矢先だった。
ほろりと一滴、伊織の頬を伝った。
「うわ!? すっ、すみません、ほんと何だろう。ちょっと目にゴミでも入ったかも…!」
無意識の落涙に、寧ろ伊織自身が狼狽してしまった。
咄嗟に拭い去ろうと強く頬を擦れば、袖の木綿生地がヒリヒリと肌を焼く。
沖田も僅かに驚いたようだったが、やがて小さく笑うと、伊織の頭上に軽く手を乗せた。
「ああ、そうでしたね。あなたも父上や母上と会うことが出来ないんでしたね」
「あああ、そういうんじゃないですから」
十七にもなって、父母に会えないことを理由に人前で泣くことに羞恥を覚え、伊織は殊更強く頬を擦る。
「別にいいじゃないですか。肉親の情とは、そういうもんですよ。会えもしない、声も届かない、ましてや自分の安否も知らせてやれないのでは、切なくなるのも当然です」
「……いやだなぁ沖田さん。そんなんじゃありませんよ、もう私だっていい年の大人なんですから」
「まったくもう。高宮さんも頑固なんだからなぁー……。だったらなんで私の目を見ようとしないんですか?」
「………」
伊織はぎくりと硬直した。
どこまでも心の中を見透かしているような沖田の目を、今直視することは出来なかったのだ。
まるで自分が父母を恋しがってべそをかく幼子のように思えて、正直なところ気恥ずかしい。
そして、沖田が優しげな言葉をかけてくれればくれるほど、どうしようもなく現代が恋しくなって歯止めが利かなくなりそうな気がした。
俯いたまま一向に顔を上げようとしない伊織に、沖田はついに根負けした。
「ま、会津様に出仕中ですからね。私も今日はこのまま戻りますが、またそのうち遊びに来ますよ。高木さんのこともありますし」
「ああ、はい。今日はお力になれなくてすみませんでした」
沖田の様子が漸く普段の飄々としたものに変わったことを察し、伊織もここで久し振りに視線を上げた。
「あはは、あなたが謝る事はないでしょう?」
沖田は軽く声を上げて笑い、けれどまたすぐ笑声を抑える。
「もし貞さんのことで何か分かったら、教えて下さい。些少の事でも高木さんにとっては有り難いでしょうから」
宜しくお願いしますね、と穏やかな調子で言い、沖田は最後にぱしぱしと伊織の肩を叩く。
それが、伊織の心中を見抜いているであろう沖田の、せめてもの励ましであるらしかった。
伊織が何かを答えるよりも早く、沖田は「それじゃあ」と片手を軽く挙げ、伊織の傍を離れた。
伊織は暫く、松風が寂しげに鳴るのを、遠くに近くにと聞きながら、そこに立ち尽くしていた。
【第二十一章へ続く】
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