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第1部
第十二章 有為転変
しおりを挟む柴の切腹は、本当に必要なことなのか。
彼は、忠実に隊務を全うしただけだ。
明くる朝、憤ったままの伊織の足取りは、殊更荒々しく床を踏み鳴らした。
(容保様に目通りを――)
屯所の廊下を歩く伊織の目には、壁の色さえ灰に曇り、鮮明ではなかった。
「行ってどうするつもりだ」
不意に廊下を横合いから覗いた土方が、一言。
けれど、伊織はそれをも突っ撥ねた。
「冷たいですよね、土方さんて。罪もないのに、柴さん一人が責任を負わされても良いって言うんですか?」
「そうは言ってねえ。おめぇが行って、何になるってんだ。少しは周りのことも考えやがれ」
だが、それが制止の意味を持った問い掛けだと、この時の伊織には察する余裕などなかった。
――切腹。
その言葉で念頭に浮かぶのは、あの日初めて目の当たりにした、覚悟の自刃。
宮部鼎蔵と名乗った男の最期は、一閃した銀鼠の刀身によって繰り広げられた。
鮮やか過ぎるほどに、彼はその身に刀身を貫いた。
時が経てば経つほど、その光景は縫い付けられたように脳裏に張り付いて離れなくなってゆく。
自らがあの場を切り抜けたのは、奇跡。
今は、そうとしか思えない。
志士たちを自らの刀で切り裂いた感覚が、未だ掌から消えようともしない。
返り血の、あの生温かさ。
生きた血の、その躍動。
たった一度、言葉を交わしたきりの柴を庇うことに、何の理由が要るというのか。
同じ会津の血をその身に湛える者の冤罪を雪ぐのに、理由など要るはずもない。
己の見た、事件の一部始終を容保公に申し立てれば、きっと公とて違う方法をお考えになるはずであろう。
(どうか、ご再考を……)
土佐藩の理不尽な要求に屈するのは、我慢もならない。
栗毛の馬を一頭借り出し、伊織は習い立ての乗馬で屯所を出発した。
***
会津藩本陣、金戒光明寺。
その門前に立ち、伊織は一つ細い息を吸い込んだ。
「柴司の一件において、容保公にお目通りをお願いしたく参じました。どうかお取次ぎを!」
そのまま、新選組諸士取調役兼監察を名乗る。
門脇に対で立つ二人の会津藩士が、やおら顔を見合わせた。
「お前のような者が今日訪ねて来るとは、我らには知らされておらぬぞ」
「左様。新選組の一隊士が、そう易々と殿にお目通り叶うと思うのか」
明らかに、こちらを見下した態度と受け取れる。
新選組内部で起こした不始末だけに、あまり歓迎はされていないらしい。
だが、伊織もそれは承知の上だ。
「私は、柴さんが麻田を刺した現場で、共に行動していた。その委細、是非とも容保公のお耳にお入れ申し上げたいのです」
眉一つ動かさずに、出来る限りの厳格な声で尚取次ぎを願う。
しかし、それでも門兵の顔色は曇ったままだ。
否、一層虫の好かない表情になったかもしれない。
「なんだ、どうかしたのか?」
ふと、本陣の奥から姿を見せた男が声をかけた。
「あ、これは……」
「この者が急に訪ねて来て、殿にお目通りを、などとふざけたことを申すもので……」
男が声をかけた途端に、これまで横柄とも呼べる二人の態度が改まった。
かたことと歯切れの良い下駄の音と共に近付く男。
まだ二十も前半だろう。
若い男である。
身なりも綺麗に整い、月代もまた丁寧な剃り跡だ。
伊織は小首を傾げた。
(――誰だ?)
この門兵二人の態度の変化を見れば、少なくとも少々身分役職の位の高い人物なのだろう。
中へ通されるまで、そこを一歩も退く気のなかった伊織の前にまで来ると、男は不思議そうに伊織の目を見詰め下ろす。
「新選組の人かい?」
「……ええ、まあ」
「以前にお会いした事は、なかったかな?」
「は? ……いいえ、ないと思いますが」
突然に何を寝惚けたことを言い出すのか。
伊織にとって初めて見る顔であったし、先日の池田屋での騒動でも、会津藩兵が到着する前に撤退したのだから。
顔を合わせているはずがない。
なかなかに顔立ちの凛々しい男で、こう上から見下ろされると僅かに怯む。
「そうかな……。何処かで見かけたような顔だと思ったんだけどな……」
いやに気にする男は、繁々と伊織の面立ちを探るように見詰めた。
その執拗さには伊織もさすがに辟易し、挑むように眦をきつく吊り上げた。
「……って、あなたに会おうが会うまいが、今は関係ありませんから。私は柴さんの件で、容保公へお知らせしたいことがあるんですッ!!」
わざと男の耳元に大声で聞かせてやると、ほんの少し身を引き、目を数回瞬く。
「わかったわかった!」
「じゃあ、お通し願えますね!?」
賺さず詰め寄る伊織に気圧されたように、男はやや身を仰け反らせた。
「か、梶原様! しかし……!」
伊織を通すと約束した男に対し、門兵は慌てて止めにかかる。
「まあ良かろうよ。新選組の人なんだろう?」
梶原、と、それがこの男の名であるようだ。
だが、それは今特に気にかけることでもなく、兎に角急ぎ容保公に目通らねば。
「お早くお願いします」
「ああ、わかったよ。しつこい人だな、主も」
むくれた顔で渋々身を翻す梶原の後につき、伊織は漸く門を潜る事が出来たのであった。
***
「そのほう、以前どこかで余と会わなかったか?」
許可を得て伊織が粛々と面を上げると、再び覚えのない問い掛けを受けた。
今度は梶原ではない。
会津藩主、松平容保公直々に、である。
余りの唐突さに、伊織は暫し目を白黒させた。
(どうやったら過去の私が容保様に面識を持てるんだよ……)
心中で突っ込む伊織だが、表向きには口が裂けてもそんな無礼な物言いは出来ない。
「……いえ。これが初めてにございますが……?」
それ以外に答えようもなく、正直に返すと、容保公の表情が不可解そうに歪められた。
何か、会津には自分と似たような人間がいるということだろうか。
不可解なのは寧ろこちらのほうである。
「そうか。いや、何処かで見た顔なのだが……思い出せぬ。可笑しなことを訊いて悪かったな」
「いえ……」
「でも、確かにどこかで見た顔なのだがなー……」
思い違いだと言っているのに、この執拗さ。
加えて、先から隅に控えている梶原までもが、話題に参加し始めた。
「左様でございましょう、殿! 私も先に一目見て、何かに似ていると思ったのですが……何に似ているのか、さっぱり思い出せぬので……」
「何か……って、誰か、の間違いですよね……?」
まるで動物か物かに似ていると言われているような気がするのは、気のせいだろうか。
そう言う間にも、真正面の容保公からは、じっと食い入るような視線が注がれてくる。
余程、似ているらしい。
その、何か、に。
「公、大変申し上げ難いのですが、穴が開くほど見ないで頂けますか」
「あ! すまぬ! おっと、だがしかし、随分としどけない容姿で、見ているこちらも胸がときめくぞ? なあ、梶原」
「ええ、全く。……って、殿。しどけない、ではなく、あどけない、若しくは稚いの言い間違いですか?」
「おお、そうか、そうだな! 間違ってしまったぞ! あっちゃあー、殿シッパイ!」
てへ、とご丁寧に照れ笑いまで付ける容保公。
梶原も特にその様子に驚愕しないところを見ると、どうやら常からがこうであると見て間違いなさそうだ。
(どうしよう。会津藩も、ちょっとおかしい……)
大丈夫だろうか。
急激にいろいろと心配になってきた伊織だが、まさか会津藩主に手厳しく突っ込むことなど出来る道理もない。
(何か……容保様って、もっとこう、賢そうな人だと思ってたのに)
がっかり、と言うか、非常に夢を壊された気分。
「ええと、高宮、とか申したな? 別に余は好き者ではないので心配しないでもらいたい」
(誰もそんなこと聞いてねえよ……!)
激しく反応するのは、自らの心の声ばかり。
思い切り大声で言ってやりたいのだが、そこはぐっと押し堪えた。
気を紛らわせ、また話の方向を変えるために、伊織は一つ小さく咳払いする。
「本日お目通りを願いましたは、先日の明保野亭での一件に付きましてのことで……」
「おお、そのことでは余も頭を悩ませていたところだ」
漸く口火を切れば、容保公もすぐに表情を改めた。
側に控える梶原もまた、同様。
「柴さんに否はございません。私は一部始終をこの目に致しましたが、あれは土佐藩士麻田の不審なる行動が引き起こした偶然の事故! 切腹のお申し付けは、余りにございます!」
臆せず申し立てた伊織に、容保公も梶原も、目を丸くした。
「どうか、ご命令をお取り下げ下さい。土佐藩の言い掛かりへのご対処にも、どうかご再考を!」
二人の様子に構わず進言すれば、漸く目前の容保公の表情にも変化が表れた。
「――そちが申す事も、分からぬ余ではない。だが、この事は柴が自ら申し出たことなのだ」
控えめに紡がれた言葉に、伊織は我が耳を疑った。
柴が自ら、切腹を申し出た。
新選組に伝わった話とは、違うではないか。
容保公が命じたのだ、と、そう聞いていたのに。
「……それは、本当なんですか」
「余は嘘など申さぬ。あの者の決意は固い。会津の体裁を思えば、自分が腹を切らねば後々まで響く問題になる、とな」
言って、容保公は一つ儚く吐息する。
やや声を沈めた容保公を見ては、伊織もそれまでの勢いを削がずにはいられなかった。
柴の切腹をやめさせるようにと、容保公に目通ったのは、些か門違いだと言わざるを得ない。
「……ッ」
そのまま、暫時押し黙る伊織に気付き、梶原が控え目ながらに話しかける。
「そういうことだ。どうやら何か情報の行き違いがあった様子だが、腹を切らせずに済むものなら、我々も彼を止めたいのは山々なのだ」
ふと梶原へ視線を泳がせれば、それまでとは顔色を変え、ひどく苦渋に満ちた面差しを向けている。
「ですが……っ!」
柴が切腹などしなくとも、解決の方法は幾らもあるはずだ、と言いかけ、伊織は唇を噛む。
前方と、横合いから注がれる視線に、奥歯を噛み締めて双眸を伏した。
では、他のどんな方法なら土佐を黙らせることが出来るのか。
そう問われたところで、答えに詰まるのは明白である。
土佐は、その国柄か、一度出した文句は突き通す帰来があるのも周知の事実。
何より、血気盛んな印象が強い。
月並みの弁明に、聞き古したような謝罪のみでは、凡そ納得などしないだろう。
「今、土佐との間に亀裂が入るのは、避けたいのだ。余とて、咎無き者に腹を切らせたいとは毛頭思わぬ」
「もし……柴さんが、切腹を思い留まったとしたら」
言って一拍、言葉を選ぶ。
「公は如何なさいますか」
伊織が再び顔を上げると、容保公の表情にも、僅かに面食らったような色が見え隠れした。
とどのつまりが、柴が責任を感じて自ら切腹を申し出たのを良い事に、それで済まそうとはしていないか。
恐れ多いながらも、伊織は正面切って容保公に疑問の目を投げ掛けたのだ。
するとまた、容保公もその真意を読み取ってか、口元を引き結ぶ。
「……では他に、どうすれば良いと申すのだ」
互いに歯噛みし合うような、視線の交錯。
そうと訊かれては、伊織もまた答えようがないことであった。
「申し訳ございません。詮無いことをお聞き申し上げました」
***
謁見は、日暮れまで続き、しかしそれでも答えの出ぬまま、場は閉じられた。
屯所への帰路を、馬の手綱を力なく曳いて行く。
たとえ己に咎が無くとも、藩の体裁のために切腹を決意した柴は、立派だと思う。
思うのだが。
まだ納得のいかない自身に、胸中が疼いた。
細い三日月の照らす往来は、既に閑散とし、やたらと馬の蹄の音が周囲に響く。
折角出向いて、幸いにも容保公への目通り叶い、なのに、良案は一つも出ぬまま。
今頃、柴の心中はどれほどだろうか。
土佐に伝手など一切無い自分には、何も出来る事はないに等しかった。
蟠る苦さに、伊織は一つ目を細めた。
刹那。
横から、すらりと鼻先に差し伸べられた、白銀色に月光を照り返した鋭利な切っ先が見えた。
何と疑うまでも無い。
刀。
つと目を滑らせたその刃渡りから、大刀と察した。
目を剥き、刃紋を凝視する。
「新選組だな」
口元を何かで覆っているのか、やけにくぐもった声音が問うた。
まずい事に出くわした。
つつ、とこめかみに凍る汗が一筋。
身じろぎもせず、声も出せずにいると、突き出された刀のふくらが、伊織の喉元へと移された。
右腕は、動かせぬ事はないだろう。
けれど、この至近距離。
鯉口を切る瞬間に、隙が出来はしないだろうか。
そもそも、この体勢から刀を抜いて応戦出来るほど早い動きなど、きっと出来ない。
ちらりと横目に刺客を見遣れば、ご大層に顔を黒の覆面で隠している。
その目元だけが異様にぎらついているから、尚焦燥が走った。
「人違いじゃないか? 幸い私はあなたの顔も見ていない。立ち去るなら今しかないぞ」
多少声音が揺れはしたが、この状況下にしては驚くほど冷静に言い返せた気がする。
だが、当然ながらこの程度の一言で切っ先が引っ込む事は無い。
目に映る刺客は一人だが、他に潜んでいないとも限らない。
万全でもまだ腕の怪しい伊織が、まともに戦って敵うとも思えなかった。
まさかとは思うが、長州側に顔が割れているのではないか。
「同志の仇!」
「!」
低い声が呼ぶと同時に、切っ先がゆらりと勢い付けるように傾斜をつけて下へ振られた。
(首を刎ね上げる気か――!?)
止まった息が咽喉に圧をかけた。
その須臾にして。
馬の嘶きが谺し、次の瞬間には、胴から抛られた首級から、夥しい血潮が飛散した。
「――――」
声も無く、その無残な様を目の当たりにする伊織。
闇に閃いた血曇の刀身が、きらりと月光に映えた。
飛んだのは、どうやら自分の首ではなかったらしい。
自らの鼓動が、今も耳元に聞こえる。
次いで二人目と思しき刺客の切っ先が頭上に降り掛かった。
咄嗟に自ら引き抜いた脇差が、その刃を防ぎ弾き返す。
「何者だ! 名を名乗れ!!」
伊織が恫喝の如く誰何したと同時に、ひどく口惜しげな舌打ちが聞こえた。
刺客の正体を明かさんと凶刃の振るい主を見眇めるも、さすが相手もすばしこいもの。
太刀を返した途端に、夜陰に紛れて駆け去っていく足音が響いた。
「やはり、まだ他にもいたようだな。六条の方に逃げたようだが。どうする、追って仕留めようか?」
抜き身の刀を下げ、地に転がった首を呆然と凝視する伊織に話しかけた、その凛とした声。
気のせいか、それとも動揺が成し上げた錯覚か。
その声は伊織のそれに酷似していた。
「油断するな。あなたに死なれると、もう代わりはいないんだから」
続けざまに紡がれた声に、伊織ははっとした。
気のせいなものか。
事実、自身で発して己で聴く、伊織本人の声音と、ほぼ同じ響きである。
「……誰ですか、あなた」
刀の血痕を振り払い、その思いがけない助人はにこりと笑んだ。
女だ。
それも、容姿格好まで自分に瓜二つの。
「私があなたを呼んだんだよ。上手い事この世に来ていてくれたものだから、少しほっとしてたんだが……まだ馴染みきってないようじゃないか」
「……何?」
こちらの質問などまるで気にかけてはいない様子で、その上にも可笑しなことを口走る。
女の言う意味が解せない。
呼んだ、とは。
伊織が顰蹙するのも構わずに、女はさらに話を続けた。
「まさか新選組に入隊するとは思わなかったが……。まあ、どこであれ、あなたには生き抜いてもらわないと困るんだ」
「ちょっと、さっきから何を……」
「生き抜け。臆するな。生きるためなら、斬れ。私がこの世にいない今、あなたに死なれちゃ困るんだ」
伊織はさらに眉根を顰めた。
どうやら先方はこちらを見知っているような口振りだが、どうにもその話の根幹が明確に見えない。
(何、この人……)
怖い。
と、そう感じた。
今一度、聞いた話を顧みようと、女から目を逸らした瞬間。
ふと伊織の周囲から女の気配が消えたことに気付いた。
「!? ちょ……ッ!」
当然身を翻して去り行く姿があるかと思い、呼び止める声を出した。
だが。
辺りには人影など一切も見当たらなかった。
馬と、伊織の二人だけが、その場に取り残されていた。
後は、二つに斬り離された、刺客の死体が転がるのみ。
(何なんだ、今の――)
***
「ひひひひひ土方さん!!!」
逃げるように屯所に帰り着いた伊織は、真っ直ぐに副長室へと突進した。
既に布団まで敷いてぐったりとうつ伏せに突っ伏していた土方の背に、伊織は真上から飛び乗った。
「いてえ!! 馬鹿、背骨が折れる!!」
「ででで出た! 出た! 出たかもしれない!!!」
慌てていて言葉もなかなかままならない伊織を、土方は下からぎろりと睨み上げる。
「出たって何がだ。佐々木か」
「違いますよ! わ、私にそっくりな女の人ですよ!! 声もそっくり! でも私より強かったんです!!」
「あああー? てめぇみてえなのが二人もいて堪るかってんだよ。どうせ狐狸の類に化かされでもしたんじゃねえのか」
端から取り合う気のない土方だが、よく見るとその顔はどこか普段の色艶の良さに欠けている。
「あれ、どうしたんですか。どこか具合でも悪いんですか?」
「……あー。まあ、何だ、俺はいい。おめえの首尾はどうだったんだよ」
「容保公、ですか?」
土方の尋ねた意味を汲み取って、伊織はそろそろと土方の背から降りる。
柴自らが切腹を申し出た。
だから、どうにもならない。
そう報告するのは、気が進まなかった。
「………」
暫時黙した伊織に、土方の問いかけるような視線が注がれる。
「あんだよ、何黙ってやがんだ」
「容保様が命じたわけではないそうです」
「は?」
「お会いして、初めて聞かされました。柴さんが、自分で、腹を切ると……言ったそうです」
区切りながら言い、伊織はまた黒谷での話し合いを振り返る。
「……藩としての立場があるのは分かるつもりです。それが今、いかに重要かも。でも……」
土佐に文句を言われたから、はいそうですか、と自刃するのは、その場凌ぎにしかならないのではないか。
どの道、土佐とは敵同士になる運命。
それを口にしようとして、伊織はまた慌てて口を噤んだ。
「伊織。おめえ、余計な真似をすんじゃねえぞ。これは俺たちだけの問題じゃねえ。会津藩の問題だ」
「――――」
「柴がその覚悟を決めてるんだったら、口出しは出来ねえ。する必要もねえ。それが奴の士道なんだろうよ」
下手に引き留めて迷いを与え、柴の名誉に傷を付けてくれるな、と。
いつになく、土方の声が暗く沈みがちなのは、きっと伊織の気のせいではない。
己の身に降り掛かる冤罪如何よりも、藩の体裁のために尽くそうとする、その忠義心。
「見上げたもんじゃねえか」
穏やかに言った土方の表情が、微かに歪められたような気がした。
柴を賞賛しながらも、どこか悲哀の籠もる眼差しは、小さな明り取りの灯に注がれる。
傍らに見詰める伊織もまた、無性に悔しかった。
膝に乗せた両の拳を、強く握り直すと、喉元まで嗚咽が込み上げる。
「……っく」
堪えようと止めた息が、殊更に目頭を熱くした。
止めずにいてやること。
それが、柴のためだというのか。
「……ま、葬式にはおめえも出てやれ」
そっぽを向いたまま、土方が静かに言う。
それは決して慰めになる言葉ではなく、どちらかと言えば遣り切れない思いを増長させるものだった。
けれど。
言った土方もまた、僅かに声を震わせていたことを思えば、己ばかりが涙を堪えずにいることに、些かの忸怩を感ずる伊織であった。
***
その後、柴司自刃の報は、程も無く新選組へも伝わることとなった。
葬儀に参列する人員も取り決め、土方、武田をはじめ、井上源三郎、浅野藤太郎、河合耆三郎が出席する運びとなったのである。
無論、伊織も参列を望んだ。
高く晴れ渡る碧空の下、葬儀は粛々と執り行われる。
遠く横たえられた棺を眺め、伊織はぼんやりと空を仰いだ。
「……土方さん」
と、隣に小さく声をかけ、また少し声を途切れさす。
「武士って、こういうものなんですか?」
一本調子な声音で問うも、土方からの返答はなかった。
暫く待っても土方が答える様子のないことに気付き、そちらを振り仰ごうとした、その時。
逆隣から肩を叩かれた。
「高宮君。今は駄目だ。そっとしておいて差し上げなさい」
口元に人差し指を宛がい、柔和ながらも真剣な面持ちで制止するのは、井上であった。
何故、と問うより先に、そっと土方を見上げた伊織は、そこでまた言葉を失った。
懸命に眉を顰めて口の端を引き結ぶ、その頬に。
滂沱と溢るる、幾筋もの涙。
かつて見たことのない土方が、そこにいた。
感銘を受けての涙か。
ただ只管に、その死を悼む涙か。
血も涙もないと噂に聞こえる、土方歳三の見せたその横顔。
それを見て、今やっと、実感が沸き起こる。
流れ落ちる涙を拭おうともせず、ただ真っ直ぐに柴を見送るその人が、尚切なかった。
知らずと浮かんだ熱涙に、土方の横顔も霞んでしまう。
「はい、どうぞお使いなさい」
小声で懐紙を差し出してくれる井上に振り向けば、哀しみを湛えた笑顔が目に映る。
「……ッすみません。私、ちょっと、向こうへ出ています」
耐え切れずに、声を上げて泣き喚いてしまいそうだった。
土方をそっとしておいてやりたいのと、自分自身も心置きなく泣いてしまいたいのと。
静かに井上の前を通り過ぎ、伊織は葬儀会場から抜け出して行った。
あんな風に泣ける人だとは、思ってもみなかった。
屯所を飛び出して容保公へ直接嘆願しに出向いた自分などよりも、土方のほうがずっと柴を尊んでいるではないか。
柴の死が悲しくて泣くのか、それとも、己の浅はかさを恥じて泣くのか。
或いは、そのどちらも入り混じった涕涙なのか。
自身でも判別がつかなかった。
人目を憚るように咄嗟に入った木陰で、伊織は一人蹲って泣いた。
死ぬ事は、怖いじゃないか。
人が死ぬ事は、怖いことじゃないか。
そう思うのと同時に、既に人を殺めたその手が、今更何を嘆くのか、と、己に問いかける。
何かのために自ら死ぬ事は、賞賛されるべきことなのか。
では、咎人を殺める事も、また一方では褒められるべきことなのか。
それがこの時代の常だと言うのなら、もう刀を持つ事も恐ろしい。
生き抜く自信も、揺らいでしまう。
「おい」
と、背後から投げやりに呼びかける声がし、伊織はぎくりと肩を震わせた。
土方の声だ。
そっと抜けてきたつもりだが、やはり土方も気が付いていたらしい。
「何ですかッ」
木陰にしゃがみ込んだまま、慌てて涙を拭おうとすると、突如その手を掴み上げられる。
「! いった……!何するんで……」
「あいつの死んだ意味が分かるか」
今はもう涙の痕もない土方の怜悧な表情が、そう尋ねる。
余りに唐突な詰問に、伊織が戸惑っていると、土方は尚も続けた。
「あれが本物の武士道ってもんだ。少なくとも、俺はそう思っている。おめえはどうだ」
「……どう、って」
つい今し方、疑問を抱いたことへ、ここでどう答えれば良いのか。
あんな最期はおかしい、と、そう言えば、きっと土方とは対立した所見となるは明白。
ついて来れぬようなら、途端に切り捨てられそうな気配さえあった。
だが、だからと言って己に嘘も吐けない。
結果、伊織は暫時沈黙を余儀なくされた。
「新選組の掲げる士道も、ああいうもんだ。おめえもそうやって泣くぐれえなら、よっく理解してるんだろ」
掴まれたままの腕が、やや軋むほどの力強さ。
「池田屋で人斬ったぐれえで腰が引けてちゃあ話にもならねえ」
「……やっぱり気付いて……?」
こちらが塞ぎ込んでいても、何も語りかけようとしなかった土方。
だが、伊織の予想は大方で当たっていたらしい。
気付いていながら、土方は敢えて放っておいたのだ。
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池田屋討ち入りの日、伊織が口走った言葉を、土方は今、もう一度問う。
「今抜けるんだったら、考えてやらねえこともねぇんだぞ」
暖かくもなく、冷たくもない声音だからこそ、伊織はその一言に窮する。
他に行く当てなどないと、知っているはずなのに。
「斬った斬られた、死ぬの生きるのと、んなこたァ茶飯だ。今のおめえを見る限り、ついて来れそうにゃとても見えねえな」
珍しく口数が多い土方を前にしながら、黒谷からの帰途での出来事がふと蘇る。
「――生き抜け、と。臆するな、と言われました」
虚ろに思い出すまま呟くと、土方の手の力が微かに弛んだ。
「誰に」
「だから、話したじゃないですか。私にそっくりな女の人ですよ……」
確かこの話は、途中でおざなりになっていたか、と思い起こすが、こちらにしてみれば結構気になる重要な出来事だ。
はじめ、不思議そうに伊織を見下ろしていた土方だが、やがて短く吐息混じりに笑うのが聞こえた。
僅かな嘲りも含んだような、その声。
「新選組にいて、臆することなく生き抜いていけんのかよ」
「…………」
じろりとねめつける土方を、思わず伊織も睨み返す。
急に険悪さを帯びた空気の中で、一つ、伊織は息を詰まらせた。
「……もう、私は人を殺めています。普通に戻る事なんて、今更ですよ」
「だったら、これからも刀は握れるんだろうな?」
「それは――」
「即答出来ねえのは覚悟が足りてなかった証拠じゃねえのか。怯懦は即ち士道不覚悟。今日これを機に、腹決めて貰おう」
土方の声がいやに冷たく感じられた。
いつまでも、甘やかしているわけにはいかない。
そう、突き放すような声が耳に響いた。
先まで暗涙にむせんだ、直情径行な土方の姿は、とうに消え去っていた。
「新選組はおめえが思うほど、甘えところじゃねえ。ここで生きるつもりなら、とっとと腹括っちまえ。それが出来なきゃ会津にでもどこでも帰りゃいい」
最後に言い捨て、土方は背を向けた。
再び葬儀会場へと去り行く、土方の背中を見詰め、伊織はじっと立ち尽くした。
元々、その人は武士ではない。
豪農の子として育ち、武士になりたいと願った人なのだ。
だから、だろうか。
武士としての忠義や信念に、誰よりも過敏であるように感じた。
同じ農民の子である、局長の近藤以上に。
同時にそれは彼の優しさであり、伊織への配慮かも知れない。
「――私は」
人を斬る事は怖い。
生と死の狭間に生きることに、背筋だって寒くもなる。
こんな自分でも、武士になれるのだろうか。
彼らと共にあることは。
自らもまた武士として生きる。
そういう事だ。
胸中に、土方の見せた涙が、染み入るようであった。
「会津に行ったって、どこにも身寄りなんかありはしませんよ――」
生き抜く。
それは何故か名も知らぬ女に課せられた、もう一つの己の試練。
いざ窮地に立てば、刀を抜いて戦おうとする。
池田屋の時も、ついこの程刺客に襲われた時も。
自分の中の無意識に、怯えているだけなのだ。
涙の痕の残る頬を、ぐっと拭い、伊織は勢いを付けて立ち上がる。
「……ついて行きますよ、ちゃんと」
その為に、もっと強くならなければいけない。
腕も無論、刀を携えるだけの度量を、自ら持たねばならない。
蒼穹を一仰ぎし、伊織はきりりと目元を引き締めた。
幕末の世に、呼ばれた。
それが本当なら、自分は少なくとも必要とされてこの時代にいることになる。
そして、生き抜く事を求められるなら、何が何でも生き延びて行かなければならないのだろう。
何のために、誰のために呼ばれたのかは、未だ判然としない。
だが、それがこの土方のためであれば良いと思う。
この人と共にあるために呼ばれたのならば、生きるために斬る事も、生かすために斬る事も、躊躇う必要などない気がする。
きっと、仮にいつか己が柴のような立場に置かれたとしても。
自分に酷似したあの女に、もう一度逢えることを願うと同時に、伊織は一人静かに双眸を閉じた。
忠義に篤く、真の士道を貫いた彼の死を、今はただ只管に悼むために。
【第一部・完】【第十三章へ続く】
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まだほんの14歳の少年たちの日常を変えたのは、戊辰の戦火であった。
後に二本松少年隊と呼ばれた二本松藩の幼年兵、堀良輔と成田才次郎、木村丈太郎の三人の終着点。
※本作品は昭和16年発行の「二本松少年隊秘話」を主な参考にした史実ベースの創作作品です。
赤い鞘
紫乃森統子
歴史・時代
時は幕末。奥州二本松藩に朱鞘を佩いた青年がいた。名を青山泰四郎。小野派一刀流免許皆伝の、自他共に認める厳格者。
そんな泰四郎を幼少から慕う同門の和田悦蔵は柔和で人当たりも良く、泰四郎とは真逆の性格。泰四郎を自らの目標と定め、何かとひっついてくる悦蔵を、泰四郎は疎ましく思いつつも突き放せずにいた。
やがて二本松藩の領土は戊辰戦争の一舞台となり、泰四郎と悦蔵は戦乱の中へと身を投じることとなる…。
沖田氏縁者異聞
春羅
歴史・時代
わたしは、狡い。
土方さまと居るときは総司さんを想い、総司さんと居るときは土方さまに会いたくなる。
この優しい手に触れる今でさえ、潤む瞳の奥では・・・・・・。
僕の想いなんか蓋をして、錠を掛けて捨ててしまおう。
この胸に蔓延る、嫉妬と焦燥と、独占を夢みる欲望を。
どうして俺は必死なんだ。
弟のように大切な総司が、惹かれているであろう最初で最後の女を取り上げようと。
置屋で育てられた少女・月野が初めて芸妓としてお座敷に出る日の二つの出逢い。
不思議な縁を感じる青年・総司と、客として訪れた新選組副長・土方歳三。
それぞれに惹かれ、揺れる心。
新選組史に三様の想いが絡むオリジナル小説です。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
夜に咲く花
増黒 豊
歴史・時代
2017年に書いたものの改稿版を掲載します。
幕末を駆け抜けた新撰組。
その十一番目の隊長、綾瀬久二郎の凄絶な人生を描く。
よく知られる新撰組の物語の中に、架空の設定を織り込み、彼らの生きた跡をより強く浮かび上がらせたい。
北武の寅 <幕末さいたま志士伝>
海野 次朗
歴史・時代
タイトルは『北武の寅』(ほくぶのとら)と読みます。
幕末の埼玉人にスポットをあてた作品です。主人公は熊谷北郊出身の吉田寅之助という青年です。他に渋沢栄一(尾高兄弟含む)、根岸友山、清水卯三郎、斎藤健次郎などが登場します。さらにベルギー系フランス人のモンブランやフランスお政、五代才助(友厚)、松木弘安(寺島宗則)、伊藤俊輔(博文)なども登場します。
根岸友山が出る関係から新選組や清河八郎の話もあります。また、渋沢栄一やモンブランが出る関係からパリ万博などパリを舞台とした場面が何回かあります。
前作の『伊藤とサトウ』と違って今作は史実重視というよりも、より「小説」に近い形になっているはずです。ただしキャラクターや時代背景はかなり重複しております。『伊藤とサトウ』でやれなかった事件を深掘りしているつもりですので、その点はご了承ください。
(※この作品は「NOVEL DAYS」「小説家になろう」「カクヨム」にも転載してます)
土方歳三ら、西南戦争に参戦す
山家
歴史・時代
榎本艦隊北上せず。
それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。
生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。
また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。
そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。
土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。
そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。
(「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です)
朝敵、まかり通る
伊賀谷
歴史・時代
これが令和の忍法帖!
時は幕末。
薩摩藩が江戸に総攻撃をするべく進軍を開始した。
江戸が焦土と化すまであと十日。
江戸を救うために、徳川慶喜の名代として山岡鉄太郎が駿府へと向かう。
守るは、清水次郎長の子分たち。
迎え撃つは、薩摩藩が放った鬼の裔と呼ばれる八瀬鬼童衆。
ここに五対五の時代伝奇バトルが開幕する。
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