2 / 7
二.雨に逸る
しおりを挟む後日、胸に立ち込める靄を払い切れぬままに、泰四郎らに出陣の命が下った。
ついに二本松の国境間近にまで北進してきた官軍の攻撃に備えての、国境警護のための派兵である。
泰四郎は樽井弥五左衛門率いる第三番組に配され、奇しくも同じ部隊へ配属となっていた悦蔵と共に同日出陣と相成る。
小雨のぱらつく、早朝のことであった。
互いに見慣れた顔を突き合わせる事に何の感慨もあろうはずもない。
「よう、泰四郎」
千人溜と呼ばれる二本松城の兵士溜りに集う幾多の武士たちに混じり、悦蔵も戦仕度を整えて現れた。
いつもと何ら変わらぬ悦蔵の微笑は、この日ばかりはどこか余裕と自信に満ちた雰囲気を感じさせる。それも己が心の迷いの成せるものかと思い、泰四郎の気分は晴れなかった。
集結した藩士たちが思い思いの装備に身を固める中、悦蔵は義経袴に草鞋履き、木綿の小袖を襷にかけただけの、いとも身軽な出で立ちをしていた。
そして、腰に手挟んだ太刀は赤い鞘。
泰四郎もまた、それに似た仕度である。具足を身に着ければ銃刀を扱いにくく、当然動作も鈍くなる。そんな古色蒼然とした装備は足手纏いになるだけなのだ。
年嵩の藩士などは戦国の世でも彷彿とさせるような甲冑姿だが、若手の者は大抵が軽装のようである。
唯一全員に共通する物といえば、丹羽直違紋の入った肩印のみ。
それにしても、赤い鞘の刀を佩く者は泰四郎と悦蔵くらいなものだった。
腰に差した赤は、同色の陣羽織を着用するよりも際立って、一層に華やいで見える。
「間に合ったのか」
「そうなんだよ、一昨日になってやっと届いたんだ。どう? 俺も泰四郎ぐらいの偉丈夫に見えるかな」
にんまりと笑って胸を仰け反ってみせる悦蔵の声は、朗々として弾んでいた。
元々色白で細身の悦蔵は、偉丈夫と形容するにはあまりに優しい容姿である。
「おまえな、遊びに行くんじゃないんだぞ。はしゃぐ奴があるか」
「ええー、そんな硬いこと言うなよ。俺たちで官賊どもを討ち払ってやるんだからさ。泰四郎こそもっと息巻いて登場するかと思ったよ」
くるくると目まぐるしく表情を変えて話す悦蔵は、好奇心に満ちた子供のようであった。
これから命を賭して戦いに行くというのに、緊張感は全くない。
そんな悦蔵の様子には、泰四郎もすっかり呆れ果てた。
(こいつを羨むなんて、俺はどうかしていたのかもしれない)
揃いの大刀にはしゃぐ様は無邪気そのもので、ともすると何故自らが戦場に赴くのかさえ意に介していないような印象を与える。
「な、泰四郎! 俺と泰四郎とどっちが多く敵を斬れるか、競ってみないか?」
「っは……?」
半分は上の空で聞いた悦蔵の言葉に、泰四郎は耳を疑った。
競うという言葉が、まさか悦蔵の口から飛び出すとは思っても見なかったのだ。
意表を突いた誘いに目を丸くすれば、悦蔵は小首を傾げながらくすくすと偲び笑う。
「泰四郎の後から追いかけるのは、もうやめだ。今度は追い抜いてやる」
悦蔵の笑顔には、いつだって嫌味の欠片もない。
だが、今の悦蔵の一言は、泰四郎を顰蹙させるに充分な挑発であった。
「何だよ、引っ付いて回るなって、泰四郎が言ったんだろ? そんなに驚くことないじゃないか」
「あ、ああ……そういえば、そうだったな」
刀を誂えるためにと連れて行かれた日、確かにそんなことを言った。
半ば売り言葉に買い言葉で言ったことだけに、悦蔵がそれほど真正面から受け取っていたとは考えもしなかったのだ。
今度は追い抜く。
あの悦蔵が? と、泰四郎はまたしても不意に焦燥に駆られる思いがした。
これまで一度だって泰四郎に抜きん出ていた試しなどなかったのに。いや、これまで通りの悦蔵ならば、泰四郎とて無闇に焦りは感じなかっただろう。今の悦蔵は充分、泰四郎に匹敵する雄偉さを兼ね備えているのだ。
出来るものならやってみろと返すはずが、それはどうにも声にはならなかった。
自ら挑発しておいて、いざ悦蔵がその気になればこの慌て様。表面ではいくらでも平静を取り繕う事は出来ても、胸の内に己を急き立てるものを禁じ得ない。
(俺は一体、どれだけこいつを侮っていたんだか)
つまりはそれだけ悦蔵を見縊っていたのだ。
泰四郎が人知れず、戦へ出て敵を斬り斃すことに苦悩していたというのに、悦蔵を見る限りではそんな類の気迷いは一切ないようである。
長引く梅雨の曇天と同じに、泰四郎の心中には未だ厚い靄がかかっているようだった。
***
樽井弥五左衛門を陣頭に、泰四郎らは一旦二本松領南方の本宮宿へ布陣することになる。
だが、七月七日になって急遽、領内西端の糠沢村への急行が命ぜられ、一行は西側の守備にあたることとなった。
深い木々に埋もれるようにひっそりと佇む小さな村落。それが糠沢村である。
ちょうど二本松藩と三春藩の境界となる土地だった。奥羽北越の諸藩が挙って調印した官軍に対する攻守同盟に参加していながら、いざ脅威が迫るといとも簡単に掌を返してしまった藩と隣り合っているのだ。
二本松藩の別動隊によれば、三春藩は薩長へ帰順するよりも早くに、奥羽越列藩同盟軍への背盟行為を取っていた。
三春藩の部隊が、戦場で味方を攻撃したという。
直後に誤射と称しての弁明も、あるにはあった。
だが同盟軍の内部では、今や不戦のうちに帰順してしまった三春は、端から官軍へ寝返るつもりであったのだろうという見方が暗黙のうちに定着していた。
「泰四郎、ちょっといいか」
糠沢村内の上ノ内界隈に着陣してすぐ、番頭の樽井が声をかけてきた。
さすがに番頭を務める者だけあって、樽井は落ち着き払った様子だった。だが、如何せん配属の藩士たちの殆どはこれが初陣である。
すぐ傍にまで敵が迫っているという情報は入ってきても、敵の姿を目にすることは愚か、敵味方の遣り合う銃撃戦の音さえも耳に聞くことは一度もない。そんな中で幾日も待機を命ぜられた後、今度は陣替え。
未だに臆病風に吹かれている者もあったが、だれて緊迫感に欠ける者もちらほらと見られ始めていた。
だが悦蔵の様子を窺うと、こちらは漸く緊張の面持ちが浮かぶようになったようだ。
「どうかされましたか、隊長」
その中で独り泰然としている樽井に視線を戻せば、泰四郎にもどこか敢然たる気骨が蘇るようだった。
「胸壁を築くぞ。三春城の官賊どもも、恐らく俺たちの糠沢布陣に気付いているはずだ。奴等がこのまま二本松を攻めるつもりだとしたら、ここも戦渦に巻き込まれる」
干戈を交える前に、陣営の守備を整えておかねばならないと言う。
「奴らは七連の銃さえ駆使してくるらしいからな。まず身を守るにはある程度の胸壁を廻らせねばならん。だが、この辺りの農民に手伝わせるわけにも行かぬのでな。俺の部隊の全員で作業に当たってもらおうと思うのだ」
「我々だけの作業で、敵軍の攻撃開始までに間に合いますか」
「百三十の人員がいるんだ、何とかなる」
樽井としては、農作業に勤しむ農民の手を煩わせる事を躊躇っているのだろう。
この時期、農民にしてみれば確かに農作業の忙しい時であり、戦を手伝わせるのは酷なことだ。
ただでさえ、弾薬や兵糧の運搬に農民の手を借りている様だ。農民の側からしてもこれ以上戦の手伝いなど出来る余裕はないものだろう。
「分かりました、では急ぎ――」
「ああ、そこでおまえには特別頼みたいことがあるのだが」
泰四郎が了承の意を述べると、言葉途中で樽井が遮った。
胸壁の話とはまだ別件のことであるのか、樽井はそこで一旦声を区切ると、やや声音を下げた。
「おまえには胸壁築造ではなく、斥候に出て貰いたい」
「私が、ですか」
「おまえと、他にもう一人付けようと思う。悦蔵と二人で頼まれてくれるか? それとも、別な人選が良ければおまえに任せようと思うが……」
敵軍の動きを探るための偵察役に任ずるという樽井に、泰四郎は自らの責任の重さを感じた。
部隊から離れ、恐らくはもう目と鼻の先であろう敵陣の視察に行くのだ。それなりに有能な者でなければ果たせぬ役目であった。
ちらりと視線だけを横に移ろわせれば、その先には他の隊員たちと談笑する悦蔵がいた。
雨でぬかるんだ山道を徒歩で移動してきたせいか、悦蔵を囲む皆の顔も若干疲労の色が浮かんでいる。だが、悦蔵だけは疲労も物ともしない様子で朗らかに笑っており、冗談を飛ばす余裕さえあるらしい。
泰四郎が悦蔵を見ていることを悟って、樽井もまたつられるように悦蔵を見遣った。
「なあなあ、その太鼓、俺にもちょっと触らせて」
「ええ? 別にいいですけど……、壊さないで下さい、よ?」
「馬っ鹿だなあ、泰四郎と違って俺はそんなことしないよー! ちょっと鼓手の気分を味わいたいんだって」
「んもう、しょうがないなぁ」
ほんの目と鼻の先で、悦蔵は鼓手として従軍している少年隊士を相手におどけてみせる。
番入前の幼年者でも、鼓手としてならば従軍を許されているのだ。そんな十五、六歳の少年から太鼓を借りてはしゃぐ様子は、出陣の朝と全く変わらない。
四つも五つも年下の太鼓手の少年のほうが、若干大人びて見えるくらいだ。
そうして首から太鼓を下げた悦蔵が、得意顔で鼓手さながらに行進の真似事をしてみせると、少年は勿論、その他の隊員たちもどっと笑声を上げる。
さらには泰四郎と話し込んでいた樽井までもが、呵呵と笑った。
「元気だなー、悦蔵は。おい泰四郎、あいつで決まりだな。元気そうだし、おまえもあいつとは仲が良いじゃないか」
「……腐れ縁とも申しますが」
「わはは、腐っても縁、だろ」
「隊長、それを申しますれば腐っても鯛、にございます」
結局、隊長の樽井も悦蔵と泰四郎を無二の朋友同士とでも見ているのだ。
それは何故か、悦蔵という全くの別人と己自身とを一括りにされているようで、気分が悪かった。
悦蔵という人が泰四郎の背後について来ても、右に並ぶ事はないと思っていた。
並び立つだけの度胸も、悦蔵にはないだろうと踏んでいた。
それが今では、泰四郎と言えば悦蔵の名が、悦蔵と言えば泰四郎の名が続いて出される。
もう既に、並び立つほどにまでなっているのだ。後ろを遅れてついてくると思っていた悦蔵が。
焦燥に加えて、憤りにも似た感情が泰四郎の中に芽生えていた。
「おおい、悦蔵! ちょっと来てくれ」
樽井が声を張り上げると、ふざけてみせていた悦蔵もはっとしたようにその手を止めた。
陣中で騒いだことを咎められるとでも思ったのだろう。樽井の顔を見るなり、悦蔵は苦笑して申し訳なさそうにすごすごと太鼓を少年の手に返した。
「すいません、隊長。ちょっと羽目外し過ぎました?」
「いや構わんさ。今ので皆も元気が出ただろうからな」
樽井はにっと無骨な微笑を浮かべ、悦蔵を手招く。
「おまえ、それだけの元気があるなら泰四郎と共に近辺の斥候に出てくれ」
「! た、樽井隊長っ、俺はまだこいつを供に連れて行くとは一言も……!」
泰四郎の是非も聞かぬ間に、樽井は既に斥候に出す一員を決めてしまった風である。それも隊長命令と言うなら致し方もないことだが、人選は泰四郎に任せると言った舌の根も乾かぬうちに、さっさと決められてしまうとは。
慌てて樽井の話を遮ったものの、当の樽井は心外そうに眉を跳ね上げて泰四郎を見た。
「なんだ、不満か?」
「……不満です」
すると、呼ばれるままに立ち会う悦蔵がほんの一瞬、不快そうな顔をしたのが分かった。
実際、悦蔵以外の誰かを指名しろと言われても、一体誰が適任であるか、咄嗟の判断は難しい。
この陣営に屯する者の中で一番に泰四郎が認める人といえば隊長の樽井であったが、まさか隊長を陣から切り離すわけにもいかない。
口惜しくも、樽井の他で実力の秀でた者といえば悦蔵くらいなものだろうとも思った。
「……斥候には私が一人で出ます」
「一人で大丈夫か」
「出来ます」
そう言う他に選択肢はなかった。
悦蔵と二人、同じ任務には就きたくないと思ったのだから仕方ない。単なる嫉視からなのか、それともこういうものを意地と呼ぶのかは判然としない。ただ確実に自覚していることは、悦蔵に越されて溜まるかと気が急いて、兎に角面白くないのだ。
「そういうことなら、まあ泰四郎一人でも良いが……抜かるなよ」
「無論」
「よし、じゃあ泰四郎はすぐに三春との境にまで出てきてくれ。悦蔵は、すまないが胸壁を築く作業に加わってくれるか」
樽井は首を傾げる素振りを見せたが、泰四郎の持てる裁量を認容に値すると判断してくれたらしい。手短に話を終えると、樽井は隊員の指示に当たるべく二人の許を離れた。
樽井も認める力量を備える己に僅かばかりの自信を取り戻し、泰四郎は丹羽直違紋の入った肩印を外した。
***
土は梅雨で湿り、掘り起こし易かった。
土嚢を用いるにも余計な手間がかかり、時間を無駄に費やすと見た樽井の指示により、胸壁は掘り返した土を盛って叩き固めるものを築くこととなった。
兵は手に手に借出した農具を持ち、掘っては積み上げる。
隊長の樽井も自らその作業に加わり、悦蔵も指示に従った。
「樽井隊長」
手は休めずに、悦蔵はふと声をかけた。
「なんだ?」
「俺も泰四郎と一緒に斥候に出たいんですが、駄目ですか?」
「しかし、泰四郎は一人で良いと……」
「でも、行きたいんです」
「そんなに泰四郎と離れたくないのか? 可笑しな奴だな」
「可笑しくないですよ。今の泰四郎、なんだか焦っているように見えます」
思いがけず悦蔵の生真面目な声を聞き、樽井は顔を上げた。
だが、悦蔵のほうは相変わらず作業をやめる気配はなく、石の混じる土をざっくりと掘り起こしては、積み始めたばかりのまだ低い胸壁に盛り固めていく。
「焦っている、だと? そうか?」
樽井にしてみれば、泰四郎が一人で行くと申し出た顔は実に頼もしく思えたものだが。
悦蔵は何か気がかりなものを感じ取っていたらしかった。
その証拠に、どんな時でも絶えることのなかった微笑が、悦蔵の顔から消え去っていた。
「俺も行かせてください」
手を止め、改めて樽井に向き直る悦蔵の声は悠揚としたものだったが、真っ直ぐに許可を請う目は気迫に満ちていた。
***
二本松藩丹羽家の兵と分かる装備は一切外し脚絆を巻き直すと、泰四郎はすぐに陣営を離れて泥土でぬかるむ間道に分け入った。
敵の側でも幾多の間諜を出しているはずで、今日中には三春に滞在する敵陣営まで、糠沢上ノ内二本松兵着陣の報が伝えられることだろう。
三春には今、土佐の板垣退助の軍が駐屯している。
板垣の決断が早ければ、即日上ノ内への派兵が為される恐れもあった。もしも板垣軍の兵と泰四郎が行き違うような事態になっては斥候に出た意味がそもそもなくなるのだ。
鬱然とした細い山道を行く泰四郎の足元は頗る悪く、しっかりと踏み締めるように歩いても時折水を含んだ土に足を取られそうになった。
悦蔵の同行を断ったのは正解だったかもしれない。急を要する任務の上に、身動きさえ思うに任せない道行きでは、かえって単独のほうが身軽なものだ。
それでなくても、梅雨独特の蒸し暑さのせいで、体力は必要以上に消耗する。
(日が暮れる前に三春との境に出られれば良いが……)
針葉樹や竹笹の森々たる中では、低く垂れ込めているであろう空の灰色雲さえ見上げる事は叶わない。昼日中だというのに尚暗い陰に覆われていた。
本来ならば、もう少し道幅の或る街道もあるにはある。だが、敵の目を盗み様子を探るとなれば、堂々と明るみの道を行けるはずも無い。頭上からしな垂れかかる枝葉を潜り、草の根を掻き分けて進むのは、我が身が敗残の兵に成り果てた気さえ起こさせた。
己の任務の心配をしつつ、胸中にはそれとは全く別の思いもまだ根強く残っている。
悦蔵ならば、絶対に自分も連れて行けと駄々を捏ねると思っていたのだが、どういうわけか今日の悦蔵はいやに物分りの良い反応をした。
快く泰四郎の決断を了承したとは言い難いが、それでも一応は黙認したのだから、悦蔵にしては珍しくあっさり引き下がった。
逆に、あまりに反応が薄すぎて拍子抜けである。
これから敵陣を探ろうという時に、不思議と緊張は和いでいる。つい先刻まで気構えていた妙な力が、陣営を離れるごとにすぅっと吹き消されるように抜けていくのだ。
(馬鹿だな、悦蔵が怖いとでもいうのか俺は)
人も寄せ付けぬほどの厳格さに満ちる顔立ちと、大柄な体躯。人から怖がられて避けられることはあっても、自ら誰かを怖いと思った例は過去に一度としてなかったというのに。
まして、手強いと噂される薩長の敵兵よりも、味方の、それも朋輩が怖いとは笑い種だ。
(それでは俺は、悦蔵から逃げるために斥候に出たようなものではないか)
ますます自分という人間が愚かなものに思え、泰四郎はふと自嘲の笑みを浮かべた。
***
三春城には既に敵軍が占拠しており、その概が土佐兵であるようだった。
物々しい警備は二本松藩との国境ぎりぎりにまで蔓延している。だが、警戒にあたる敵兵の姿はちらほらと見受けられても、すぐにも出兵の動きがあるような気配はまだ感じられず、既に三春から派兵が為された風もなかった。
三春藩領内でも最も二本松との国境に近いとされる仁偉田舘にも、配置される兵はごく僅かで、とても三春から進軍してくるとは考えられないほどである。
振り返って考えてみると、樽井隊が本陣と定めた上ノ内の陣営からこの仁偉田舘までは然程の距離があるでもなく、足場の悪い間道を通ってきた泰四郎でさえも、その足を持って歩き続ければ半日とかけず着いてしまったくらいだ。
これが本道で行軍となれば、恐らく敵軍は今日中にも樽井の陣を急襲出来ることだろう。
上ノ内の陣から一番近距離にある敵兵の砦といえば、この仁偉田舘。真っ向北上してくる敵軍本隊は此処よりもっと西側を縦断する奥州街道を攻めてくるだろう。
だが、敵が二本松城を攻略するつもりならば、恐らく三春藩と国境を隔てる東側からも攻撃を加えるはず。
仁偉田舘付近の様子を報告しに陣営へ一旦戻るか、或いは今少し変化を待って近辺に潜伏するべきか。
間道と本道の合流地直前で立ち止まり、泰四郎は茫々と生い繁る山陰に身を潜めていた。
息を潜めるまでもない充分な距離はあるが、地形の起伏も激しく、屹立とした崖も多い。
さすがは戦国の世から国境の館として用いられた場所である。そこに加えて今時分、降り続く長雨のせいで山の斜面は頗る崩れやすくもなっているはずだ。
日暮れの時は迫り、辺りは漂い始めた薄闇のせいで、一段と陰を濃くしていく。
そういえば腹も減ってきた。
身なりばかりは簡略に整えてきたが、せめて上ノ内の農家から握り飯くらいは貰って来れば良かったと、些か後悔した。
腹の虫が鳴いても敵に聞こえることはないだろうが、如何せんどんな猛者も空腹には敵わない。
「腹、減ったな……」
やはり一旦陣へ戻ろうかと考えた、その時。
泰四郎の目の前に、握り飯を素手に掴んだ手が横合いからぬっと現れた。
「! うわっ!?」
「腹が減っては戦は出来ぬ。だろ?」
驚き飛び上がる勢いで振り返れば、手を差し出していたその人がにんまりと笑っていた。
一瞬、周囲の探索に出ていた敵兵にでも見つかったかと焦ったが、その姿は泰四郎に似た身なりをした悦蔵だったのだ。
敵兵でなかったことに胸を撫で下ろしたのも束の間。やはり後を追って来ていたのかと、今度は辟易した気分さえ込み上げた。
「自分の飯くらい、持って出ろよー。泰四郎らしくないな」
そう言って苦笑する悦蔵の顔は、今も疲弊など微塵も感じさせない。
だが、差し出された握り飯から悦蔵の足元に視線を落とせば、その脚絆と野袴は夥しく泥が跳ねて付着していた。
涼しい顔こそしているが、悦蔵も急ぎの道行きであったらしい。
「食えよ。腹減っただろ? 俺も自分の分は持ってきたから、これ、やるよ」
ずいと押し付けるように手渡され、泰四郎は押されるままに握り飯を受け取った。
「おまえ……樽井隊長には何て言って来たんだ。胸壁だって一人でも多く手が欲しいだろうに」
「あはは。隊長の許可はちゃんと貰ってきたから怒られやしないよ、そう心配するなってー! 泰四郎はほんと昔から変わらないよなぁ」
「何がだ」
「そういう心配性なとこ。ま、俺も泰四郎が心配で追いかけてきたクチなんだけどさ」
「別におまえの心配をして言ってるわけじゃない。俺はただ、陣営の守備が気になっただけだ」
「まーたまたぁ。んじゃあ、御飯にしようか?」
「人の話を聞けよ、おまえ」
泰四郎の本心などすべて見通しているとでも言うようなかわし方である。
悦蔵は泰四郎が少しも変わらないと笑うが、そこには昔の悦蔵が持っていた弱々しい影は全くない。だが、これまでの泰四郎が無意識に漂わせていたであろう、人を見縊るような響きもなかった。
「おまえに心配されるほど、俺は零落れちゃいない」
「わあ、そんな言い方酷くないか? だって泰四郎、絶対俺も一緒に連れてってくれると思ってたのに、一人で行くとか言うんだもん。そりゃ俺だって心配になるよ」
確かに、悦蔵は一回りも二回りも大きく変わった。
だが、その礎にある悦蔵その人も、昔と何一つ変わってはいないのだ。
泰四郎を案じて追いかけてきたなどと、昔では考えられないほどの大きな口を叩くようになったが。
「悦蔵、おまえなぁ……」
敵陣の目と鼻の先だというのに、何とも気の抜ける調子でぽんぽん言い返してくる悦蔵に呆れ、泰四郎ははっと短く吐息した。
幼い時分から見慣れたその目は、今もどこかあどけなさを残している。その目で、ただひたすらに泰四郎の背中を追いかけてきたのだろう。
まだほんの子供の頃から秀でていた剣術における天賦の才と、泰四郎自身が持って生まれた剛毅な気質に、悦蔵はただ純粋に憧憬の念を抱いていたのかもしれない。
それは二人の実力の差が縮まった今でも、なんら変わりなく存在している。悦蔵にとって、泰四郎とはそういう存在なのかもしれない。
平たく言うなら、身近な目標なのだろう。いつかこの人のようになりたい、という。
斥候として陣を離れた時に感じていたはずの焦燥感は、悦蔵の間の抜けた笑顔を見た途端に消し飛んでいた。
「向こうに岩場になってるとこがあるからさ、そこで一緒にメシにしようよ」
くるりと今来た方向を指し示す悦蔵をよそに、泰四郎は受け取った握り飯をぱくりと頬張ると、一気にそれを平らげた。
「ああああっ!! ちょ、ちょっとちょっと泰四郎! 何一人で先に食ってるんだよー!?」
「喧しい。飯なんぞ、立ったままでも食える」
「行儀悪ぅ」
「うるさいっ! 遊びに来てるんじゃないんだぞ!? 大体おまえ、俺を越えるとか何とか抜かしていなかったか、んん? 飯を食うことですら先を越せんでどうするんだ」
指についた飯粒の一つ一つを舌で舐め取り、泰四郎はちらりと悦蔵を流し見た。
ついさっきまで焦りを感じていた自分が更に悦蔵を挑発するようなことを言えるとは、我ながら奇妙なものだった。
先を越されそうになれば慌て、それでも悦蔵が後から追いかけてくることに言い知れぬ安堵を覚える。
そんな己の矛盾に対する答えは出せる気配もなかったが、それでも今、泰四郎は自分が苦笑を浮かべながらも、気を緩めていることだけは分かった。
「なんだよもう、折角一緒にメシ食えると思って来たのに」
「おまえは俺と飯を食うためだけにここまで来たのかっ!? 曲がりなりにも尖兵としての気概はないのかっ、おい!?」
「だってぇ」
「だっても糞もないわ、馬鹿!」
「あっ、泰四郎、あんまり近寄るなって! 汗臭い!」
「煩いっ! おまえだって汗臭いっ!」
無論、飯を持って追い掛けて来た悦蔵が即刻引き返していくことはなく、結局は泰四郎と悦蔵の二人で斥候を担ったようなものだ。
その後、最寄の村落に身を寄せて一夜を過ごしたが、それでも三春との国境から兵が出される気配は一向に無く、泰四郎は一旦陣へ戻ることとした。
***
泰四郎が帰陣したその夕刻から、雨は降り出していた。
ただでも蒸し暑いというのに、雨が降れば尚更過ごし難くなり、更に日が暮れると雨脚も一層強まった。
雨風を凌ぐために村の民家に分宿することと決まり、泰四郎は隊長の樽井と共に名主宅へと身を寄せたのだった。
とはいえ、狭い農村に二百人が止宿するのだ。この名主の家屋敷内も寝転がったり壁にもたれて休息を取る兵で溢れ、ごたごたしている。
囲炉裏端に顔を付き合わせた樽井の顔は、やや渋い。
「三春の板垣は動かぬか……。背盟した三春が今更我等を庇い立てするとは思えぬし」
「奴等、このまま二本松を攻めずに真っ直ぐ会津へと攻め込む気なのかもしれません」
「それはどうかな。会津へ攻め込む峠は幾つもある。その気であれば白河や郡山を制した時点で何れかの峠を越えて会津へ向かっているだろう」
「……二本松を落とし、母成峠から会津を攻めるつもりでしょうか」
「俺はそうと考えるな。或いは奴らめ、既に我が藩東隣の三春を降伏させたことで、二本松もすぐに白旗を揚げると高を括っているのかもしれん」
舐められたものだと、樽井は嘲るように鼻を鳴らした。
たかが十万石の、東北の小国、二本松藩。
白河城を手に収め、これまで不敗の戦況を誇って進軍してきた官軍を前にしては、奥羽越の諸藩が組んだ同盟軍の力も既に限界まで来ている。
徳川の泰平の世に慣れきった各藩の兵たちは、盟主たる仙台藩の者も同じであった。辛うじて戦の経験のある藩といえば、京都守護職を務めた会津ただ一藩のみ。
兵力の差も、軍備の差も歴然である。
同盟軍側には新式の銃砲もごく僅か、その上敗北続きで士気も頗る下がっていることだろう。
「殿様が、あくまでも抗戦すると仰せなんだ。そう簡単に降参する二本松じゃねえ。な、泰四郎」
にんやりと笑って泰四郎を見た樽井も無論、藩の立場や置かれた状況を解している。それでもまだ、官軍に勝てる気がしているのだろうか。
白河から奥州街道を北へと転戦してきた本隊からの情報によれば、新式銃や大砲を駆使する敵軍の前には、同盟軍が如何に束になってかかろうとも赤子同然に捻り倒されている有様だというのに。
「兎も角、どちらにしろこの界隈も奴等の進軍経路だ。この上ノ内本陣から各方面に何組か尖兵を出しておこう」
そう結論を出し、樽井は短く息を吐いた。
「樽井隊長」
「うん? なんだ」
「この戦、我々には――」
勝機など欠片もないのではないか。
いくら奥羽越諸藩の攻守同盟に殉じるためといえ、いくら隣藩会津を守護せんがためといえ。軍備、士気、更にその軍組織統制力においても、敵軍が圧倒的に勝っているのだ。
――我々は、犬死するだけなのではないか。
そう抗議しようとした口を、泰四郎は固唾を呑むことで思い止まった。
そんなことは誰もが承知いていることなのだ。無論、ここにいる樽井も。
泰四郎の言葉が途切れたことに、樽井は若干眉宇を顰めた様子だったが、やがて膝元に置いた椀を手に取ると、冷め切った白湯をぐいと煽った。
「泰四郎、俺たちは戦うしかない」
「! 隊長……?」
まるで、泰四郎がたった今何を言わんとしたかを全て見透かしているような口振りだった。
泰四郎はぎくりと身構えたが、樽井の目はほんの小さく燻る囲炉裏火に注がれたままである。
「総裁や他の部隊長たちが、本当のところどう考えているかは知らんが――、俺はおまえらを率いて戦い抜くつもりだ。考えても見ろ、今帰順するのは容易いが、以後俺たちは三春同様に奥羽全土に恨まれ続ける。俺は、二本松をそんな嫌われ者の土地にしたいとは思わん」
実際に背盟行為に及んだ三春藩は、同盟軍本部でも即刻制裁を与えるべきと話し合われた。だが、それは話し合われたのみで、現に実行される様子は窺えない。
薩長という強敵に抗うほかに、小藩の裏切りを裁いている余裕がないだけである。
「こういう怨恨というのは、後々まで尾を引くもんだ。今俺たちが命を惜しんで、故郷が裏切り者の汚名を蒙り、腰抜け呼ばわりされるのは腹が立たんか」
樽井の言には、深い憂いが籠もっていた。
主君があくまでも同盟軍側として戦い、城を枕に討ち死にすべしと触れを出している以上、仕える身である者たちは従わざるを得ない。
出陣せよとの下知があったから、泰四郎もその命に従って戦に出てきたのだ。
だが、樽井の意識は、そういう泰四郎とは少し角度が違う。
主君への忠義や、同盟軍の掲げる正義を貫かんがための敵愾心ではなく、真に己の生まれ育った故郷の後世を憂いての決意。
それはある種ごく身近な概念であり、しかし同時に藩や同盟という枠を越えた、遠大な意志のように感じた。
確かに、かかずらっている余裕が無いとは言え、いち早く恭順してしまった三春藩に対する同盟諸藩からの視線は厳しい。
(だが……もしも落城などという事態に陥ったなら、俺たちはそれでも悔やまずに済むのか――?)
現に三春以外の同盟諸藩も、南奥州の小さな藩から順々に官軍へ降り、同盟軍から欠け始めている。守山、棚倉、平、三春。そして次は二本松藩が降伏する番なのだろうか。
あくまでも戦わねばならぬなら、後のことなど気に留めないほうが気を楽に保てるものなのかもしれない。
今目の前にあるもの、目に映る生きた同士のために戦うのならば、敵を倒すことだけを考えていたほうが、何憂うことなく銃刀を振るえる。
樽井の意見には、首を縦にも横にも振れなかった。
「俺は、樽井隊長の指示に従うまでです」
「そうか」
樽井は泰四郎の逡巡に憤ることもなく、莞爾として微笑んでみせた。
「和田さぁんっ! それ俺のですよ! 返してくださいっ」
「だって、この太鼓ちょっと気に入っちゃってさぁ。な、ちょっとだけ貸してよー」
「皆さんお疲れで休んでるんですよ!? 太鼓なんか叩かないで下さいよ!」
泰四郎と樽井との間のやや沈んだ空気を吹き飛ばすかのように、悦蔵と少年鼓手の戯れ合う声が割って入った。
とっくに日も暮れているというのに、元気なものである。
狭い板間の上で縺れ合って太鼓の奪い合いをする様子を見るなり、泰四郎はどっと溜息をついた。
きっと悦蔵は、自分が何のために命を賭けて戦おうとしているのか、考えてもいないのだろう。無邪気なその様子からは、そんな印象しか受け取れない。
名主宅へ分宿する中には、まだ年端の行かぬ少年兵も四人ほど割り振られていた。
そのうちの一人が、今悦蔵に太鼓を取られて騒いでいる少年である。
「返してください、和田さんっ!」
「定助のケチ! あ、じゃあ俺に鼓法教えて? それなら良いだろ?」
「駄目ですってば!」
「えー、なんでー?」
「ですから、皆さん休んでるじゃないですかっ! んもう!」
しっかり成人しているはずの悦蔵と、まだ十五歳そこそこの定助。
寧ろ悦蔵のほうが頑是無い子供のように見えて仕方がない。
泰四郎は呆れたが、樽井のほうはどうやら面白げに眺めているようだった。
「まったく、一体どちらが童なんだか……」
「良いじゃないか。元気なのは有難い。わはは、おい定助! 悦蔵に鼓法教授してやれ」
悦蔵のはしゃぎ振りに渋面を作る泰四郎を窘めてから、樽井は愉快げに囃し立てる。
「隊長、あまり騒がせていては皆も休息を取れません! 面白がるのもほどほどに……」
「まあ少しくらい良いだろ。和やかになって良いじゃないか」
「…………」
「おまえもそうやって力んでばかりじゃ、いざ戦闘って時にすぐに息が上がっちまうぞ。少しは悦蔵みたいに気を楽にしてみたらどうだ」
「あれは気を抜きすぎです」
てこてこと出鱈目な調子を刻む悦蔵の太鼓の音と、それに逐一指南を付ける定助の声で屋内は賑わった。樽井を始め、雑魚寝で休んでいた者達も、一人、また一人と起き出しては笑声を上げ、樽井隊の兵に束の間の気保養となったのだった。
「ほらほら泰四郎もやってみなよ~! 定助が教えてくれるって!」
「わわわ和田さんー! 俺さすがに泰四郎さんにモノ教えるなんて……!」
「えー、大丈夫だよ。泰四郎はああ見えて結構人懐っこいんだから」
「おい悦蔵っ! 勝手なことを吹き込むんじゃないっ!! 定助、おまえも悦蔵なんぞ適当に往なしておけ!」
樽井の寛大さは大いに結構なのだが、まるで子供のはしゃぐような光景は士気を挫く気もしないではない。他はどうあれ、泰四郎には。
喧しく騒ぎ続ける悦蔵と定助の両名を叱り付ければ、案の定、定助の泰四郎を見る目が怯え出す。
泰四郎の目が節穴でない以上、定助が涙目になっていることは確実であった。
「ほらぁ、和田さんの嘘吐き!」
「泰四郎ってば、照れんなよー。定助泣いてるじゃないかー」
「照れていないっ! だいたいこの程度で泣く奴があるか馬鹿者!」
泣かせたことに若干動揺を覚えたことは意地でも悟られまいと、更に声を荒げたのだが、やはり内心では良心が疼く泰四郎だった。
***
陣中にあっては、皆が寝静まることはない。
装備も解かぬままの、かりそめの就寝である。
雨は夜半になってもまだ降り続き、屋敷の門前に掲げた篝火も高い軒の下にあるとはいえ、不規則に火の粉をあげながら風に煽られ揺れていた。
この雨では火を絶やさぬのにも一苦労だろう。
薪が湿って燃え難くなっているのか、小振りな炎を懸命に保とうとする番兵がいる。
「止みそうにないな、この雨は」
落ち縁でぼんやりとしていた泰四郎の背後から、低く力のある声がかかった。
声がかかるまで、人が背後に近付いていた事にも気付かなかった。泰四郎には珍しく、随分と気を抜いてしまっていたらしい。
「樽井隊長。少し仮眠をとられたほうが良いのでは? まだ敵が近付く気配はありませんし……」
「雨音が耳に障って眠れんのだ。そういうおまえこそ、休んだらどうだ?」
泰四郎が漸く背後の存在に気付いたと知るや、樽井はのそりと落ち縁に降りた。
強かに地面を打つ雨は大粒で、時折大地を穿つように激しく降る。
そのうちに、閉めた雨戸も、がたがたと何者かに抉じ開けられようとしているかのように震えだした。
風も出て来たらしい。
こうまで激しい風雨だと胸騒ぎがしてならなず、樽井が雨を耳障りだと言うのも頷ける。
「私も、この雨ではとても眠れません」
「おまえも俺と同じか」
「はい」
静かな会話は雨音に掻き消されるほどだった。
泰四郎よりも一回り以上も年長である樽井だが、心に急くものがあるのは泰四郎と変わらぬらしい。
そして今更如何に焦っても、どうなることでもないと知っている。
そうと知っている以上は、焦りを行動や努力に変えることも出来ず、ただ心に煩わしいものにしかならない。
些かの沈黙が、雨音を一層大きく響かせた。闇に白く鋭い直線を描いて降る雨の様子を、互いに目も合わせぬままじっと眺める。
それが暫時続いて、樽井は思い出したように問うた。
「そういえば、おまえ……」
「? 何でしょう」
ふと声を途切れさせた樽井に先を促せば、 樽井は俄かに顔を曇らせ、言い難そうに声の調子を落とした。
「あ、いや。斥候に出る前なんだが、悦蔵と仲違いでもしていたのか?」
泰四郎は咄嗟に眉を顰めた。
悦蔵の同行を拒んだことが気になっていたらしい。
泰四郎が陣を出た後に、悦蔵が樽井に何と言ったかは知らない。だが、後を追いかけてきた悦蔵も同行を強く願い出たのに違いないだろう。
僅かに思考を廻らせてから、泰四郎は静かに首を横に振った。
「いえ、そういうわけではありませんが……」
こちらが勝手に悦蔵を避けていただけだ、とは言えなかった。それ以上詮索されるのも面倒だったし、ましてその理由を尋ねられて正直に話せるはずも無い。
今に先を越されてしまいそうなことに焦りを感じていたなどと言えば、樽井の自分への評価が下がる気もした。
「何でもないなら良いが、あんまり突き放すなよ。おまえの身を案じて、珍しく鋭い顔付きしていやがったからな」
「悦蔵が、ですか」
「ああ。悦蔵も心配していたようだが……泰四郎、おまえ何か気がかりでもあるのか」
何かあるなら相談に乗るぞ、と申し出た樽井は、決して茶化す様子ではなかった。
(悦蔵は、気付いているのか?)
いや、同行を断ったことで疑念を抱かせたのは確実だろうが、胸中の焦りにまでは気付いてはいまい、と泰四郎は頭を振った。
泰四郎は一息吐き、慮るような視線を寄越す樽井に視線を戻す。
「隊長にご心配頂くようなことは何もありません。悦蔵は昔から俺の傍にくっ付いていましたから、俺と離れての任務に不安でもあったのでしょう」
「ああ、そうか? そういやぁ、確かに悦蔵はいっつもおまえにべったりだったなぁ」
続けざまに、樽井はぷっと吹き出した。
「まるで金魚の何某だな、悦蔵は!」
「じゃあ俺は金魚ですか」
「そうだなぁ」
(そうなのか……)
一頻り笑い終えると、樽井は急に深刻な顔に戻る。すると樽井は顎を擦りながら、感慨深げに幾度も頷いた。
「才に華やぐ金魚のおまえにくっつき続けて、今じゃ悦蔵も金魚に転身したようだがな」
てっきりからかわれているとばかり思っていた泰四郎は、樽井のその一言ではっと口を引き結んだ。
他者の目にも明らかに、悦蔵は泰四郎と並び立っている。
既に追い付かれているのだ。
落ち着きかけていた焦燥が、またじわりと込み上げた瞬間だった。
「但し。同じ金魚でも、おまえと悦蔵では一つ決定的に違うところがある」
泰四郎の表情など顧みる事もなく、樽井は語気を強めた。
決定的に違うところ。樽井が何を言わんとしているのか、またその違いというものが何のことなのか、泰四郎には分かりかねた。
学か、或いは互いの人となりか。
決定的な違いは、一つに留まらないように思える。
考えあぐねる泰四郎に、樽井はあっさりとその答えをくれた。
「絶対的存在だ。悦蔵にはそれがあるが、おまえにはない」
「――は?」
絶対的存在、もう一度そう言って、樽井はニィと歯を見せて笑った。
その意味が分からず、泰四郎は首を捻った。
武士にとって絶対的な存在といえば、それは主君に他ならない。そういう意味で言うならば、悦蔵にも泰四郎にも主君はある。二本松藩士のすべてにとって、丹羽家の殿様が絶対の存在なのではないのか。
「おかしなことを申される。家中の誰にとっても、主君は丹羽様ではございませんか」
腑に落ちないままに言い返すと、樽井はそれをも一蹴した。
「そりゃあ勿論だ。だが、俺の言うのはそういう意味じゃない」
「どういう意味ですか」
「憧憬の対象だ。こいつに着いていきたい、こんな奴になりたい――、悦蔵にとってはおまえがそれなんだろうよ」
泰四郎は唖然とした。何を言うかと思えば、 そんなこと。
そんなこと、だ。
これまでそうあるのが当然で、この先も決して覆る事はないと高を括っていた事実だ。
実力で両者が並び立った今は、長年疑うこともなかったその事実が、脆くも崩れ去ってしまったのだが。
「隊長、それは昔の事です。今では……」
「今も変わらんだろ、あれは」
「…………」
昔の事です、と繰り返そうとしたと同時、樽井は畳み掛けるように続けた。
「憧憬の力は案外すごいぞ。夢中で追いかけるうちに、無自覚のまま急成長していることがあるからな」
「今の悦蔵のように、ですか」
思わず、泰四郎の声が険阻なものになった。
だが、樽井はそれに気付いてか否か、軽快に笑い飛ばす。
「はははっ、誰かの憧れの対象になんて、なろうと思ってなれるもんじゃない。おまえが何に焦っているかは知らんが、悦蔵には当たらんでくれよ。悦蔵もおまえと同様、俺の隊の主要戦力だ。おまえが崩れりゃ、あいつも崩れるに違いないからな」
凝然と見詰める泰四郎を尻目に、樽井は最後に一区切り付けたように膝を打つと、屋内へと引き返して行った。
後に残された泰四郎の耳に触れるのは、まだ勢いの衰えぬ雨音だけであった。
【三.払暁の戦】へ続く
0
お気に入りに追加
10
あなたにおすすめの小説
晩夏の蝉
紫乃森統子
歴史・時代
当たり前の日々が崩れた、その日があった──。
まだほんの14歳の少年たちの日常を変えたのは、戊辰の戦火であった。
後に二本松少年隊と呼ばれた二本松藩の幼年兵、堀良輔と成田才次郎、木村丈太郎の三人の終着点。
※本作品は昭和16年発行の「二本松少年隊秘話」を主な参考にした史実ベースの創作作品です。
空蝉
横山美香
歴史・時代
薩摩藩島津家の分家の娘として生まれながら、将軍家御台所となった天璋院篤姫。孝明天皇の妹という高貴な生まれから、第十四代将軍・徳川家定の妻となった和宮親子内親王。
二人の女性と二組の夫婦の恋と人生の物語です。
秦宜禄の妻のこと
N2
歴史・時代
秦宜禄(しんぎろく)という人物をしっていますか?
三国志演義(ものがたりの三国志)にはいっさい登場しません。
正史(歴史の三国志)関羽伝、明帝紀にのみちょろっと顔を出して、どうも場違いのようなエピソードを提供してくれる、あの秦宜禄です。
はなばなしい逸話ではありません。けれど初めて読んだとき「これは三国志の暗い良心だ」と直感しました。いまでも認識は変わりません。
たいへん短いお話しです。三国志のかんたんな流れをご存じだと楽しみやすいでしょう。
関羽、張飛に思い入れのある方にとっては心にざらざらした砂の残るような内容ではありましょうが、こういう夾雑物が歴史のなかに置かれているのを見て、とても穏やかな気持ちになります。
それゆえ大きく弄ることをせず、虚心坦懐に書くべきことを書いたつもりです。むやみに書き替える必要もないほどに、ある意味清冽な出来事だからです。
来し方、行く末
紫乃森統子
歴史・時代
月尾藩家中島崎与十郎は、身内の不義から気を病んだ父を抱えて、二十八の歳まで嫁の来手もなく梲(うだつ)の上がらない暮らしを送っていた。
年の瀬を迎えたある日、道場主から隔年行事の御前試合に出るよう乞われ、致し方なく引き受けることになるが……
【第9回歴史・時代小説大賞で奨励賞を頂きました。ありがとうございます!】
朝敵、まかり通る
伊賀谷
歴史・時代
これが令和の忍法帖!
時は幕末。
薩摩藩が江戸に総攻撃をするべく進軍を開始した。
江戸が焦土と化すまであと十日。
江戸を救うために、徳川慶喜の名代として山岡鉄太郎が駿府へと向かう。
守るは、清水次郎長の子分たち。
迎え撃つは、薩摩藩が放った鬼の裔と呼ばれる八瀬鬼童衆。
ここに五対五の時代伝奇バトルが開幕する。
愛を伝えたいんだ
el1981
歴史・時代
戦国のIloveyou #1
愛を伝えたいんだ
12,297文字24分
愛を伝えたいんだは戦国のl loveyouのプロローグ作品です。本編の主人公は石田三成と茶々様ですが、この作品の主人公は於次丸秀勝こと信長の四男で秀吉の養子になった人です。秀勝の母はここでは織田信長の正室濃姫ということになっています。織田信長と濃姫も回想で登場するので二人が好きな方もおすすめです。秀勝の青春と自立の物語です。
平治の乱が初陣だった落武者
竜造寺ネイン
歴史・時代
平治の乱。それは朝廷で台頭していた平氏と源氏が武力衝突した戦いだった。朝廷に謀反を起こした源氏側には、あわよくば立身出世を狙った農民『十郎』が与していた。
なお、散々に打ち破られてしまい行く当てがない模様。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる